■『海は燃えている~イタリア最南端の小さな島~』

『海は燃えている~イタリア最南端の小さな島~』は、第66回ベルリン国際映画祭の金熊賞受賞作。ドキュメンタリー映画で初の最高賞に輝いた注目の作品である。

“世界一位の絶景”と謳われる美しい海に囲まれたイタリア最南端の島、ランペドゥーサ。監督のジャンフランコ・ロージはこの小さな漁師町に1年半移り住み、住民たちと暮らしを共にしながら本作を撮ったという。ところが幕開け早々不思議な心持になる―「あれ?ドキュメンタリーじゃなかったっけ?…」と―。島の少年サムエレくんが、何やら木の枝ぶりを熱心に眺めまわし、ついにはナイフで切り落とすシーンから始まるが、その様子に劇映画(フィクション)の萌芽を感じさせるからだ。サムエレくんが、カメラの存在をまったく意識していないせいもあるが、かといって演技にも見えないので、「何これ?」と思う。子供の無邪気な遊び時間にしては、切り取り方に陰影が漂い、何だろうこの固いしこりみたいなものの正体は…、いったい何が内包されているのだろう…と、複雑な手触りにひとり気を揉んだ。

続いて映し出されるのが夜の海と無線の交信。救助を懇願する叫び声の主が、避難民たちを乗せたボートからだとすぐに察せられる。しかし、危険を顧みず母国から避難する話は、ニュースとしては伝わっていても、リアルな救助要請の交信をまともに耳にしたのは初めてだ。声だけなのに、いや声だけだからこそ、命がけの世界が突如目の前に出現するようで、じぶんでも意外なほど動揺した。ランペドゥーサは、北アフリカから最も近い欧州に位置するため、アフリカや中東からの難民や移民が、最初にたどり着く“希望”の玄関口にあたるらしい。それゆえ、20年間で40万人の難民がすし詰め状態で海を渡り、1万5000人もの溺死者が出ている海難事故現場の最前線でもある。もちろん、そんな詳細情報は鑑賞後に目にした資料から得たもの。わたしは丸腰で、緊迫した状況をひたすら追いかけるだけだった―。

こんなふうに映画は、同じ島の2つの動向―「漁師町の平穏な日常」と、「難民たちが背負う過酷な運命」―を交互に映し出し、終始落ち着いたトーンで進行する。例えば、どちらか1つの設定なら、ある意味、定型化された方法だ。陽光まばゆい南仏の漁師町に暮らす少年の成長ドラマで1本、避難民たちの現状告発ルポで1本というように。同一舞台を対照的なフォーマットで描いても、どちらも飲み込みやすい。いや、2つの内容を抱き合わせ、ちょっと見せ場の多い社会派ドラマにだって、容易くイメージできる。島育ちの少年と異なる世界との交流には、柔軟性も持たせられるしね。ところが映画は、そんな推測を軽々と越えたところでさざ波を立たせる。

まず2つの動向には接点が一切ない。それが現実だからだ。サムエレくんは、自然豊かな漁師町ですくすく育つヤンチャ盛りの12歳。おじいちゃんやお父さん同様、海の男として生きることを素直に夢見ている。そんな穏やかな家庭のラジオからは、毎日のように難民救助に関する報道が流れるが、対岸の火事扱いでおしまい。命辛々たどり着いた難民たちも、島は一時避難と手続きのための窓口にすぎなくて、その後は個々の希望地へ向かう仕組み。ではなぜ映画は、接点のない2つの顔を、あえて平行線のまま提示し続けるのか―。

ある日、いつも元気なサムエレくんの左目が、弱視だと医者から診断される。本人も気づかぬうちに、世界の半分を見えないものとして過ごしていたらしい。そこで、サボっていた左目もしっかり使うよう矯正が始まる。サムエルくん、手作りのパチンコでいつも遊んでいるからなあ、片目を閉じて的を狙うクセが日常化していたのかな…などと、ボンヤリ見守る。

一方、避難民側のスケッチは、次第に惨劇の内側へ足を踏み入れ始める。生存できることが奇跡にしか思えない劣悪な船内、脱水症状で身動きが取れず死の淵に漂う人々、志半ばで袋に入れられた遺体の数々、そして黙々と処理に徹する施設関係者たちの横顔…。言葉を失う光景の連続。この世界で一体何が起きているのか、映画は対象との距離を絶えず一定に保ち、事実を事実として見せ続ける。しかし、カメラを回す監督が平穏なはずはなく、深いところで受けとめるために、ひとり堪えているのは察するに余りある。…とその時、あの見ようとしていなかったサムエレくんの左目が、時折り頭をもたげていた複雑な手触りが、フイにつながり始める…、我々も無関心の果てに世界を閉ざし、見えないものはないものと編集して生きているのではないかと―。そう、自己欺瞞の常態化に、はたと気がついてしまうのだ。

実は、接点のない同じ島の2つの動向に唯一立ち会う人間がいる。初老の医師である。彼だけが、サムエレくんの治療に当たる一方で、極限状態の避難民たちを保護し、夥しい数の亡骸を見届けてもいる存在だ。いわば映画は、作品の背骨となるキーマンを平行線の真ん中に配置し、正攻法で構える。ただし、医師の横顔をとてもさり気なく慎ましやかに捉えているため、リアルな現場の報告というより、悲喜こもごもな物語を口承する語り部のような印象を湛え、私はすっかり魅せられた。この映画、予測できないもの同士を結びつける知性もさることながら、観客の想像力を呼び覚ますための余白の取り方が素晴らしいのだ。すぐには見えないことも、どうつながり始め、何が紐解かれるかわからない魅力が本作では際立つ。だから、この世界の過酷な現実に対して、たじろぐだけでなく、わずかながらでも自らの思考を回して近づけた気がするのだ。

 最後にもう一つ忘れられない光景を書いておこう。それは料理上手で家庭的なサムエレくんのお祖母ちゃんが、ひとり寝室の片づけに勤しむシーンだ。大袈裟でなく、私は未だかってこんなに行き届いたベッドメイク術を見たことがない。家族のために何度も優しくシーツをなで、布のたるみを取り除き、新しい空気をまとわせるその手作業の美しいこと!ゆったりした時間に心が洗われて、全身がトロトロになった。ロージ監督は、こんな小さな営みこそ見逃さない。カメラを回し続ける。平凡な母性の振る舞いを通し、平和な漁師町の尊い日常を見事に表現している。そしてこの時、私の頭の中に、性も根も尽き果て茫然自失な表情でうずくまる、たくさんの難民女性たちの横顔が浮かび始めた…。地獄を見てきた彼女たちが、せめて1晩あの清らかなベッドで横たわれたら…。心ひとつだけ持って裸足で逃げてきた彼女たちが、肌触りのいいシーツに包まれて深い眠りに落ちる姿を、夢想せずにはいられなかった―。

『海は燃えている~イタリア最南端の小さな島』
2016年/伊・仏/カラー/114分
監督/撮影   ジャンフランコ・ロージ
編集 ヤコポ・クワドリ

■『ヒッチコック/トリュフォー』

年の瀬に、まさかこ~んなにとっておきの贈り物が届くとは!

映画に魅せられた人々が通過儀礼のように読みふけり、愛してやまない本がある―『映画術 ヒッチコック/トリュフォー』だ。1962年、新進気鋭のフランス人映画監督フランソワ・トリュフォーが、30歳以上も年の離れたサスペンス映画の巨匠アルフレッド・ヒッチコックに熱烈なラブコールを送り、50時間に及ぶインタビューを実現させ、4年後、映画史に残る伝説の一冊を世に送り出した。そして、“あなたが世界中で最も偉大な監督であると、誰もが認めることになるでしょう―”と、トリュフォーが宣言した通り、完成したインタビュー本は各国で翻訳され、ヒッチコックを唯一無二の映画作家であり、真の芸術家だと世界中に知らしめすこととなったのだ。  

はい、もちろんわたしの本棚にもデーンと鎮座している。1988年頃かな…上前津の古本屋で購入して以来、何度紐といたかわからない。デカくて場所をとるのに(汗)、未だに手放す気にはなれませんね。シネフィル(映画狂)でなくても、ヒッチコック作品を未見の人でも、誰が読んでも文句なく楽しめる1冊である。そんな至宝が、出版されて50年経た今、なんとドキュメンタリー作品に衣替えし、再び我々の元に届けられることに―。実際の動画記録は残っていないものの、貴重なインタビュー音源や対話時の写真が公開される一方で、名だたる現役映画監督10人が登場し、本から受けた影響や、作り手側からのヒッチコック礼賛が事細かに語られるという贅沢な構成である。監督はケント・ジョーンズ。まったく君はエライよ!

さてここからは映画の具体的な感想を記しておこう―。まず本では、対談と写真で構成された一作品ごとの解説(制作秘話)が、映画では実際の映像を見ながら目と耳で確認できるわけで、インパクトはやはりデカかった。当時の本としては写真資料が画期的に多く、それゆえ映画の教科書として重宝されただろうが、そりゃあホンモノの動くシーンを例題で用いた方が手っ取り早いにきまってる。ただし、本の忠実な映像化だけでは、すぐに見飽きてしまっただろう。受け手の想像力が喚起されないまま流されてゆくだけの、単なる映画鑑賞ガイドでお役目終了だから。つまり本は、動くメディアを静止させ、映画作品を原初の姿(連続撮影)で並べたからこそ、ヒッチコックの大胆な手法が明らかになった―と、映画化によって逆に教えられる結果となったのだ。
また一方で、本の構成を新たに組み替えて、映画向きのUPテンポのリズムに編曲してお披露目している演出が、実に楽しかった。本には出てこない2人の個人史を組み入れたり、本の一節にマーカーを引っぱったり、撮影現場の様子や販促写真の活用など、めくるめく多彩なコラージュで敷居を下げ、専門性より好奇心に薪をくべて進行する。観客心理に絶えず目配せしたヒッチコックを紹介するにふさわしい仕立てだ。意外な作品がバッサリ割愛されていたりもするが(汗)、それもまた一興。むしろどんなにランダムにつなぎ直しても、一つずつのパーツの磁力が強くて求心力はまったく揺るがない。何を見てもちょっと怖いくらい、ヒッチコック・タッチが漂い出てくるのには心底驚いた。それでも監督冥利に尽きただろうなあ…。師の本で学んだテクを、師の胸を借りて駆使できたのだから―。それに、インタビューに応じた現役監督の豪華な顔ぶれから察するに、これほどの人選が可能で、映画史に踏み込める仕事が許されるのだから、きっと映画からも愛されている人に違いない。トリュフォーは映画を1本撮る構えで準備し、インタビューに臨んだというが、そんな50年前のパッションが今こうしてK・ジョーンズ監督に継承され、再燃している事実に胸を打つのである。でもって、現役監督たちが、夢中になってイイ話をするの!映画の中に、本の形式を入れ子細工的に挿入させているのだが、誰もみな映画少年魂を全開にするとともに、 “映画とは何だ?”という命題と向き合う同業者ならでは思考が垣間見られて、目が離せなかった。私が一番ハッとしたのは、黒沢清のコメント―作家性でいうと極端にはじっこにいる人―だ。“映画は観客のもの”が大前提で、観客にいかにウケるかを目的に映画技術をフル活用した作家が、誰よりも異端なクリエイターだという一見矛盾するような話…、でも確かにそれこそが、ヒッチコックなのだと共感したのだ。

ここで私個人のエピソードも書き加えておこう。私がティーンエイジャーだった70年代後半は、映画はテレビで見るものだった。映画と言っても、オリジナル作品からは程遠い、ザクザクに短縮された吹替版だ。ヒッチコック作品も、かつてヒットした映画がお茶の間に流れる形で頻繁に目にしていた。その後、本格的に映画に興味を持ち始め、80年にイギリス時代の秀作2本立て―『バルカン超特急』(38)と『逃走迷路』(42)を、ようやく劇場で目撃したときは興奮したなあ…。娯楽映画だし…などと悠長に構えていられるスキ間は一ミリもなく、映画そのものが迷路と化し、身体ごと映画内に引っ張りこまれる感覚を味わったものだ。しかも亡き父とふたりで見た最初で最後の映画なのよね―。やがて『映画術』との出会いである。タイミングよく、レンタルビデオ店の大盛況時代だったから、入手できるソフトを片っ端から借り、読んでは見て&見ては読んでを繰り返したっけ(笑)。特に『めまい』(58)に関しては、いつもの素早い展開が姿を潜め、なぜこれがミステリアスなのか、いまいちピンとこなくて、本を読んでようやく男性心理とファム・ファタールを結びつける映像マジックが理解できた記憶がある。本作でも厚みを持たせて追跡しているが、ジェームズ・スチュアート演じる主人公の落胆と歓喜が交差する表情を、スクリーンいっぱいで再見するのはかなりの特典!男性客は文句なく感情移入してしまうだろう(笑)。

そして最後に、本も映画も触れていない注目ポイントを追記しておこう。ヒッチコック映画が今も艶っぽく輝いている理由は、ヒロインのビジュアル設計にある。特に忘れちゃならないのが衣装だ。先の『めまい』をはじめ、『汚名』『裏窓』『泥棒成金』『北北西に進路を取れ』『鳥』etc…ヒッチコックがハリウッドへ渡ってから手掛けた多くの傑作で、あの“ドレス・ドクター”イディス・ヘッドが衣装を担当しているのだ。彼女は、ヒッチコックが理想とする女性のイメージ“昼間は上流階級の洗練された淑女でありながら、寝室に入ったとたんに娼婦に変貌する女”を、カンペキに具現化!衣装によって、セリフ以上に雄弁にヒロインの状況を物語り、映画のマジックを補強する役割を見事にこなしていたのだ。そんなイディス女史の仕事ぶりに感嘆したわたしは、かつてイラストと文章で備忘録にまとめた経験がある(汗)。20数年前に作ったそのファイルは、いま見返すとかなりこっ恥ずかしい代物だが、目の付け所だけは今もさして変わらず(進化していない証拠でもあるが)…。そう、ヒッチコックの映画作りの極意は、わたしのような一映画愛好家の視座にも多大な影響を与えた。さらに言えば、本作を眺めながら、脈々とつながる映画史の末端に、じぶんも机を置いて在籍しているような、そんな幸福感に包まれたのだった。あー、しんぼうたまらん(汗)。レンタル屋に足を向けなくなってずいぶん経つが、DVDでいいから、あのとんでもなく優美なハッタリ世界の数々を、今すぐ見直したい!

「めまい」

『ヒッチコック/トリュフォー』

2015年/仏・米/カラー/80分

監督/脚本    ケント・ジョーンズ
ナレーション マチュー・アマルリック
音楽     ジェレマイア・ボーンフィールド

キャスト  マーティン・スコセッシ
       デビッド・フィンチャー
       黒沢 清

■エブリバディ・ウォンツ・サム!! 世界はボクらの手の中に

本作は、ビルボード5週連続1位を記録し、1979年を駆け抜けたあの大ヒット曲、ザ・ナックの『マイ・シャローナ』で幕を開けるが、お笑い番組「アメトーーク!」とは何の関係もない。しかしこの映画を「アメトーーク!」以上に笑えるとしたら、あなたは間違いなく50歳以上の男子だろう(笑)。いや、もしかしたら、笑いながら鼻の奥をツーンとさせてしまうかもしれない…。いずれにせよ、“定年からの逆算”なーんていうチマチマしたことを考えているヒマがあったら、今すぐ劇場へ。さあ、愛すべきバカ野郎どもがとぐろを巻く世界へLet’s GO!だ。

『エブリバディ・ウォンツ・サム!! 世界はボクらの手の中に』(なっが!)は、1960年生まれの監督、リチャード・リンクレイターの自伝めいたドラマになっているという。いちおうそういう触れ込みだが、そんな背景などどうだっていい。極めて単純なお話だ(苦笑)。冒頭、カー・ステレオから流れるマイ・シャローナをBGMに、錦織 圭似(!)の主人公ジェイクが愛車に乗って登場する。もちろん彼の視線は車窓越しに花開く女子たちのBODYに一直線だ。我らがジェイクは天国へ降り立った!地元を離れ、今から大人のとば口=大学生活が始まろうとしているのだ。ここで監督は、さらに映画を一筆で単純に記そうと、テロップを出して時間軸を見える化する―1980年8月28日 新学期まで3日と15時間―とカウントダウン表示。これは、時間の流れの中に「生の感触」を散りばめて差し出す、リンクレイターの十八番と呼びたいダンドリだ。さて、この勢いで期間限定のショータイムが始まるのか、それともその先の新学期に焦点を当てるのか…。判然としないまま、我々も太陽がやけに眩しく輝く南東テキサス州立大学に釘付けとなる―。

野球推薦で入学したジェイク。まずはお気に入りのレコードを抱えて野球部の寮に意気揚々と到着だ。ところが名門野球部の先輩たちはクセ者揃い。シャレにならないようなイジワル歓待を浴びせるが(汗)、受けるジェイクもキョトンとするだけの鈍感ぶりで、ノープロブレム。そうだった、舞台は1980年のアメリカだった。何せ、映画俳優が第40代大統領になってしまう鷹揚(?)な時代のお話なのだ。よく見れば、新人を茶化す絵には身に覚えがある親和性を湛え、逆に「なぜあの頃はあんなじゃれ合いが成立してたのかなあ…」と、ツイ釣られて我が身を振り返ってしまった。茶化す方も茶化される方も役割をわきまえ、「ごっこ」で場を温め合うコミュニケーションがまだ通じていたのだ。でもって、野郎どもは早々に新人を引き連れ、女子寮を冷やかしに車を走らせる。シュガーヒル・ギャングの「ラッパーズ・ディライト」を大合唱しながら、車窓から女子のケツ…いや、お尻等を品定めするシーンの感動的なバカっぷりに、私は早くも涙が出そうになった。いやー、映画でさえ、もはやこんな見事なナンパ絵、拝見できるものじゃございません。一体あの手の男たちはどこへ行ったのか?対する女の子側も手慣れたもので、ヒマなら相手してあげてもいいわよ風にあしらいスイッチのON&OFFが明快。やるなあ~。男女ともに、後腐れないナンパの極意(?)が初期設定されていた時代だったということか。そして、ここからどんな展開が待ち受けるのかというと…実はこれだけなのである(汗)。昼間は野郎同士でグダグダに戯れ、夜はナンパに全力投球するだけ。見事に何もない。ではいったい勝因はどこにあるのか―。

一言でいうと、これといった目的が何もないままの状態で、映画をずっと動かし続けたということ―これに尽きると私は思う。例えば野球部の主なバカ野郎メンツは12人。ギャンブル狂、口説き屋、精神世界好き、田舎者、妄想癖、ピッチャー嫌いetc…と、どいつもこいつも与太話とそれに付随するアクションによって濃厚な痕跡を残すキャラなのだが、それだけで収まってもいない。顔と名前を覚えようにも全然追いつかないほど、奴らを画面に出たり入ったりさせるところがミソなのだ。とにかくジェイクの入寮日から、たかだか3日半のスケッチなのに、一体どんだけ盛ったら気が済むんだあ~と、半ば呆れるくらい取り留めのないエピソードを小刻みにつなぎ、ある種のグルーブ感をもたらしている。しかも悪乗りには節度があり、むしろカラっとした無常観をもったいぶることなくスクリーンに立ち上らせ、ちょっと意外なほど奥行きがあるではないか!そう映画は、体育会系の瞬発力と文学的な趣きの両刀使いによって、すべての生の瞬間を、観客と分かちがたく結びつけるのである。一見ラフに映るが、なかなか緻密な演出なのだ。

そして新学期を明日に控えた3日目。待ちに待った本作の“結びの一番”が顔を出す―野球部の自主トレである。すっかり忘れかけていたが、奴らは選ばれし野球エリートだった(笑)。オシャレしてディスコへ繰り出し、カントリー・バーではラインダンスに興じてみせ、場違いのパンクLIVEへももぐりこんだりしていたが、最後にようようじぶん十分になれる場所=グランドへたどり着いたというわけだ。まあ、このくだりのカッコいいこと!自主トレとはいえ、互いの手の内を初めてオープンにするお手並み拝見の場で、先輩どもが風格の違いをまざまざと見せつけて、新人たちをノックダウン。実力がモノを言う世界の洗礼を浴びせつつ、また同時に、チームのことを考えないプレイヤーはさらに最低との烙印も押す。散々奴らを分け隔てなく笑ってきたからこそ、プライドのぶつかり合いを目撃したときの感慨はひとしおだったなあ~。改めて、野球の輝きが何によってもたらされるのかを垣間見るようで、私には忘れられないシーンとなった。

しかして最後はまたまたドンチャン騒ぎ♫ スポーツ雑誌『Number』みたいな美談余韻でシミジミさせるのではなく(笑)、野球部みんなで水遊びに呆けて夏休みが終わる。ただし、先に与太話とナンパ以外は何もないと書いたが、大切なものがありましたよ!バカ野郎どもの頭の上には、いつも極上の“青空”があったのだ。どこまでも広がる青空の下での記憶…。なるほど、これが過ぎ去った後でしかわからない、青春っていうやつの正体かもしれない―。

『エブリバディ・ウォンツ・サム!! 世界はボクらの手の中に』
2016年/米国/カラー/117分

監督/脚本 リチャード・リンクレイター
撮影   シェーン・F・ケリー
音楽監修 ランドール・ポスター
     メーガン・カリアー
キャスト ブレイク・ジェナー
     ゾーイ・ドゥイッチ 

■彷徨える河

アマゾンの密林が舞台のモノクロ映画『彷徨える河』。とりあえずアマゾンと聞いて、私のお粗末な想像力ですぐに浮かぶ設定は、<先住民族VS侵略者の攻防史パターン>と、<科学で解明できない自然神への崇拝パターン>の2つだけ。だから「結局はそのどちらかに収まるだけで、さして目新しくもないんじゃねーの?」と期待は薄かった。ところがフタを開けたら、想定内に関わらずベラ棒に面白い!2つのパターンを両方盛り込んでなおかつ、娯楽映画の胸騒ぎをキープ。ずーっとワクワクし通しだった。

ではその勝因は何か―。まずは肉体の説得力だ。先住民族唯一の生き残りとして、開口一番に登場する青年カラマカテ。カメラは彼を足元から舐め、ふてぶてしくて剛毅な面構えを捉え、ほぼ全裸に近しい後ろ姿までイッキに撮り切る。たかだか数分のファーストショット、だが速攻、我々の意識はアマゾンへ持っていかれる!ツイさっき食べたランチのことも、急ぎで返信しなきゃならないメールのことも、すべて抹消。呆けたようにスクリーンに注視するだけの状態になるのだ。カラマカテ、お前は一体何者だ?大ぶりな首飾りと腕に巻き付けた羽、股間のみ覆う紐パンに、手には長~い棒を持つ男。自前の筋肉そのものが衣服のように映え、それも“隆とした身なり”ってヤツにまで昇華しているではないか。素人目ながら、ゴールドジム+プロテインの筋肉とは違うのよ…もっと粋筋なのよ!と思わず口走りそうになった。そう、すっかり映画のマジックにノせられ、梯子を外されたわけだ。

で、ビジュアルの次に吸い寄せられたのが対話である。これまた勝手な思い込みなのだが、未開の地への探検ドラマとなれば、コミュニケーションが図れないのが前提となるはずだが、ここでは冒頭から対話が花盛り。意表を突かれた!ある日、不治の病に侵されたドイツ人の民族学者テオドールと、先住民族出身の案内人マンドゥカが、カラマカテの呪術を頼りに来訪。白人侵略者たちへの恨みが根深いカラマカテは、一度は拒絶するが、唯一の治療薬となる植物“ヤクルナ”探しの旅へ同行することになる―。はい、そうです、奇妙な組合わせの3人がカヌーに同乗し、大アマゾンを移動するロード・ムービーの体裁となるのだ。民俗学者だから言葉の壁がないのだろうけど…話が早いね(笑)。しかも先住民族の言語(一体何語?)が、コロコロと鳴り響く魅力的なイントネーションで、イチイチ耳に心地よい。音声素材を表現に取り込めるのも映画のマジックを強める一手だと痛感した。もちろん旅の途中の会話の中身がこれまた上等!モノに執着するテオドールを「正気じゃない」と諫めたり、「雨の前に魚を食べてはダメだ」など禁忌を連発してハッとさせたリ、妻への愛を手紙に綴るテオドールを可笑しがったりと、映画はカラマカテを通じてカルチャーギャップを提示し、科学的進歩に疑問を投じるくだりとするわけだが、カラマカテの知恵者ぶりが心技体を熟成した果ての簡素な美しさで迫ってくるため、くすぐりにもったいぶった匂いが感じられない。やがて警戒心をほどき合い、会話を重ね、互いの意見と人格を整理しながら静かに信頼関係を育んで行くプロセスに、私はメロメロになった。

そして映画には、もう一つ大きな仕掛けが用意されている。20世紀初頭の3人の旅と並行して、それから数十年後の老いたカラマカテの現在が挿入される。そのお姿は、枯れてなお鳶の頭のような風貌で、藍染の半纏でも羽織らせたらとびっきり似合いそうだが、時を経て記憶を失くし、孤独の淵にいるらしい。そこへ欲深く不眠症のアメリカ人植物学者が現れ、全てを忘れて無(チュジャチャキ)になったカラマカテを誘い出し、再びヤクルナ探しの旅に出掛けるシークエンスが描かれるのだ。

ネタバレになるのでここには記さないが、過去の3人旅がこの先どういう末路を辿るのか?…河べりに舟を乗り着ける度に遭遇する悪夢の連続に終わりは来るのか?…ヤクルナは見つかるのか?…テオドールたちとの交流は?…等々、その後の2人旅からも同時に過去の出来事の行方を推察することになり、我々は聖なる植物を巡って突き進む2つの時間に絡めとられる。そこには、河の流れと呼応した出口が見えない欲望深き横の展開と、ジャングルから天空に向かって縦へ縦へと伸びるシャーマンの精神世界が出現し、やがて驚くべき結末へとジャンプする。ケレン味たっぷりに描かれる、聖と俗がせめぎ合うスケッチの数々…そのどれもが夢見るようであり、繰り返される弱者の悲劇を予感させるようにも映る。

交錯する2つの旅は、共に病に苦しむ知識人が一方的にカラマカテに接近して始まるものだった。なんやかんやと理屈を並べても、行き詰まった合理主義の果てに尚、使えるものは出涸らしになるまで使い切ろうとの魂胆が透けて見える残酷な設定である。しかし、映画はラストで安直な二項対立劇をうっちゃり、命さえない世界を覗かせた。カラマカテから何と刃を向けた相手へバトンをつなぎ、スクリーンをカラーに一変させ、我々をコイワノ族の末裔に化けさせる幕切れの鮮やかなこと!お~っ、こんな大風呂敷ならどこまでも広げていただきましょう。私は未だに梯子を外されたまま、宙吊りの中にいる―。

彷徨える河 (2015) コロンビア・ベネズエラ・アルゼンチン合作 モノクロ124分
監督:シーラ・ゲーロ
撮影監督:ダビ・ガジェゴ
脚本:シーロ・ゲーラ
ジャック・トゥールモンド
キャスト:ヤン・ベイブート 
ブリオン・デイビス

■ラサへの歩き方 ~祈りの2400Km

 チベットの小さな村、カム地方マルカム県プラ村に暮らす村人たちのお話である。現地に赴き、監督が意図した物語に近しい村人を探し、本人役で演じてもらおうという設定だ。脚本はないがこれもフィクション。しかもこの地で、この人たちでしか成立しない豪快なフィクションに仕立て上げ、大いにウケた!

 チベットのことだってよく知らないのに、プラ村って言われても…何のことやらである。名前は可愛いらしいけどね(笑)。しかし、映画に関する私の持論の一つに、知らないことが多ければ多いほど、むしろ“ラッキー!”という考えがある。未知の世界を垣間見せてくれて、しかもそれが想像をはるかに超えたトンデモない代物だったら、これ以上の喜びはない。そう私は、映画(虚構)と承知しつつ、それでもなお「世の中は宝の山だよ、ビバ人生!」と、思わず膝を打つような企みを、スクリーンの前で絶えず待ち望んでいるのである。

 そこで改めてプラ村のみなさんですが…、期待以上のチームワークを見せてくれて素敵すぎる! まず冒頭で綴られる、彼らの日々の暮らしの充実ぶりに、早くもヤラれましたね。チベットの生活スタイルは、これまでに何度も映像等で目にはしているが、手仕事の豊かさが全方位に展開されていて、じっとしていられなくなる。「一緒にやらせて!」と願い出たくなるのだ。そもそも自然の分量が圧倒的に多い地で、その恩恵を利用しながら地域性の高い営みが継続している光景を目にすると、高度に都市化した我が生活がクリーンかつ便利であってもひどく脆弱に思えるのは、今に始まったことではない。そのうえ、そうやってちょっと立ち止まって経済優先の現代社会を憂いてみせる自己浄化のそぶりすら(なんと特権的な!)、もはや賞味期限切れになって久しいわけです、はい(苦笑)。そんな中、本作にすぐさまノレたのは、プラ村のスケッチにまどろっこしさがないからだ。テクノロジーの進化を後ろめたく思うこともなければ、人類学者を気取って観察に終始する必要もない。食事、家畜の世話、ご近所づきあい、お茶と談話、冬支度、夜なべ、買い出し、そして祈りの時間…と、映画は村人たちの様々な生活の断片を普段通りに映し出す。でもって、意外にも呆れるほどサクサク掻い摘んで進み、抒情性に傾かない。賛美目線をあえて避けている節さえある。またその一方、同じ村に住む複数の家族をクローズUPし、相互の関係性を浮かび上がらせながら綴るため、私とプラ村との距離は瞬く間に縮まり、親密感が高まるという心憎いダンドリなのだ。さてそんなスケッチを見せた後、映画はいよいよメインイベントへ舵を切る。彼らはチーム・プラ村(!)として結束し、大掛かりな巡礼の旅へ向かう―。

死ぬ前にどうしても聖地ラサを訪れたいと願う老人が発端となり、若者に、幼い少女に、さらには妊婦までもが名乗りを上げ、4家族総勢11名の巡礼の旅が始まる。その行程は、まず村から1200km離れたラサへ赴き、さらにそこから1200km先の聖山カイラスを目指そうというものだ。ただしここが肝心なのだが、歩くだけでも過酷な道のりを、何と 両手・両膝・額の五か所を地面に投げ伏して祈る“五体投地”で敢行しようというのである。その厳粛な礼拝方法は、話には聞いていたが…途中でチラっとやるだけじゃないのね。全行程だったのね(汗)。いやー、あの動きを連続して行うには、腕・腹・背中の筋力が相当ないとポシャるわけで、想像しただけでも気が遠くなった。一応対策グッズらしきものを手作りで用意するのだが、両手のクッション板と、革製の長いエプロンを装着するだけでおしまい。そのいでたちは、なんだか『13日の金曜日』のジェイソンみたいでイカつい(笑)。ただ、マスクを被るジェイソンと違い、彼らは額を直に地面につけて祈り、生傷を物ともしない。いやはや、ホラー映画を越えるスゴ技だ。とにかくいちいち「マジかよ?」の連続だから、見ようによっては、すべてが合理的だったり科学的であろうとする現代社会への反骨とも取れたりするのだが…これまた意外にもそんな路線へ向かわない。では何に魅せられるのかというと、彼らの心の根っこがずーっと安定したままで、何ら揺らがない部分なのだった。

移動とハプニングは、映画に最もふさわしい仕掛け。1年あまりかけて成し遂げる異色の巡礼ロード・ムービーだから、ある意味、何を盛り込んでもとびっきりの絵になる。絶景シーンの連続はもちろん、旅の途中で出産はあるわ、落石に水害に大雪に交通事故と、チーム・プラ村は大忙しだ。だけど面白いのは、ハプニングによる変化感ではなく、何が起ころうと慌てず騒がず、鷹揚に構える彼らの身の処し方だった。スペシャルな旅プランであっても、冒頭で映し出された普段の生活のリズムを、そのまま行く先々で繰り返すチーム・プラ村。極めつけは、目と鼻の先までたどり着きながらお金が足りなくなり、2カ月間みんなで和気藹々とバイトしてから、再び出発するくだりだろう。なんとも贅沢な寸止めの時間に羨望の念を禁じ得なかった。そう、私は大きな勘違いをしていた。我々にとっては破格の行為でも、彼らにとってはあくまで日常の延長なのだ。家財道具持参で移動してるしね(笑)。だからちゃんと彼らの理には適っていて、むしろ実用性と合理性の兼ね備わったアクションだと考えるべきなのだ。そして何より、彼らは遥か上空の世界と祈りを通じて堅く結びついている!日々の生活とは真摯に向き合い、かつ、人間世界から遠く離れた地平ともつながって戯れるなんて…。これ以上シンプルで力強い動機づけなど他に思いつかないではないか―。

 五色の祈祷旗タルチョが舞うカイラス山に到着した一行は、最後の最後にまたも思わぬ事件に遭遇する。しかし、それさえ穏やかに丸ごと受け止めて自然に返す村人たち。その姿は、天空の下、すべてが一つの輪につながったように映り、実に雄大だった。私は思わず「シブイ!」とつぶやいた―。

ラサへの歩き方 ~祈りの2400Km
2015年/中国/カラー/118分
監督   チャン・ヤン
撮影   グオ・ダーミン
脚本   チャン・ヤン
キャスト チベット巡礼をする11人の村人

 

■FAKE

 森達也の 15年ぶりの新作ドキュメンタリーが公開中だ。タイトルが『FAKE』だって!やるなあ~。でも、私の中の森監督に対する“満を持して”という気分は、とうに蒸発してしまっているので、今さら嘘をつきに映画に舞い戻ってもらってもなあ…ではあった。劇場関係者に訝りながら聞いたわよ、「本当に面白いの?」と(笑)。よく知らない疑惑の作曲家より、なが~いブランクを経た森監督の方が、私には疑わしかったのだ。

 聴覚障害、現代のベートーヴェン、NHKのガッツリ後押し、ゴーストライター騒動…と、派手な見出しと共に突如出現した佐村河内守氏のことは、一連の騒動時に初めて知った。ちょうど2年前、「1日1枚お習字」という一人遊びをしていて、その日の備忘録を半紙に墨汁で描き綴っていたから、モノとしてもしっかり残っている。2月6日「疑惑の交響曲」、2月17日「ゴッチ&ガッキー」などと、一応ウケで書いたが、あの手の音楽の感性を私はまったく持ち合わせていないので(汗)、「持ち上げられたり落とされたりする類のビジュアルだよなあ」で終わっていた。でも、世間の関心だってその程度だったのではないか。同じ時期の理科研の騒動と比べたら、内輪揉めも小粒で気がラク(苦笑)。マスコミは胡散臭さを暴こうと躍起になっていたようだが、メシのタネにするための仕掛けが露骨すぎて、すぐにゲンナリしたな。何より、本当のことなんていったい誰が知りたいのだろう…と眺めていた記憶がある。

―で今回、謝罪会見以来、音沙汰なしだった佐村河内氏を、森達也がドキュメンタリー映画にして再び世間にお披露目するという。本業から離れ、ご無沙汰な2人の博打とも受け取れる異色コラボ。作品の出来より、これで世間にスルーされたら相当キツイだろうと思っていたら…何と劇場は満席。しかも場内爆笑の連続で、意表を突く展開となった!
 
 線路沿いに建つとあるマンションの一室。佐村河内氏と妻のかおるさんが、世間の目から逃れるように暮らす自宅に、監督自ら出向いて取材するスタイルが、本作の基本制作姿勢だ。カーテンが引かれた居間で、監督は早々に映画の狙いを2人に説く―「怒りは後ろから撮ります。僕が撮りたいのはあなたの哀しみです」と。いやー、笑った!森さん、冒頭から飛ばしてる。おまえは涙の再会司会者・桂小金治か!と突っ込みたいくらい、いつになく演歌モードでデバってくる。そこに神妙な顔で居合わせる佐村河内氏と、手話で伴走するかおる夫人の3人の取り合わせがあまりにてんでバラバラなため、イメージが集約できず、この先一体何が紡ぎ出されるのか、いい意味で見当がつかない。まんまとノセられましたね。

ほら、そもそも私、佐村河内氏の音楽性にも履歴にも興味がないので、本作を通じて私の目に映るもの―つまり映画として面白いかどうかだけを判断基準にしてのぞんだわけ。それに対して監督の配球はサエまくっていた。何といっても、夫婦を前に緊張させるべきところと、タイミングを外して泳がせるところの緩急の使い分けが絶妙で、終始アクロバティックな揺さぶり質問をぶっこんでくれるのだ(笑)。なるほど、監督はフェアな傍観者ではなく、自らを演出家として映画にキャスティングしているわけね。長いブランクなどまったく杞憂だったかも。「僕がタバコを吸いたくなったらどうすればいいですか?」などと、他人の家に上がり込んでどこまでも強気なオレ様振る舞いをするかと思えば、佐村河内家の食事情にフォーカスし、観客の覗き見心をグリグリくすぐる。食事の前に豆乳をガブ飲みする佐村河内氏、…この絵イッパツで疑惑のイメージを脱力させ、さらに土足で踏み込む自分(監督)との対照性で、「ゴッチ、意外とカワイイ奴かも…」と親密度を高める演出設計に抜かりがない。

また、佐村河内自身による涙声の言い訳タイムを一通りは撮り込むものの、真意はあえて問題にせず、「心中だからね」と覚悟を告げて、チームFAKEの結束を固めてみせる。実に恐ろしい!そしてここに、バラエティ番組出演依頼で来訪するフジテレビ取材陣は、まさに、“飛んで火にいる夏の虫”。マスコミ=どこまでもインチキ&低俗のパッケージが、お手本のようにスルスル出来上がっちゃって、それはそれで短絡過ぎる気はしたが、実は彼らさえ前座にすぎなかったというオチまで用意される。

真打は映画の後半に顔を出すアメリカの取材チームだ。観客ウケ用のいじられキャラを求めるわけでも、笑いが欲しいわけでもないこの外国人組は、容赦なく本質をガシガシ攻める―「どうして作り話をしたのか?」「本当に創作に関わったなら音源を見せてくれ!」と。なるほど、疑惑を晴らしたかったら証拠を出せと、ひどくまともな説得をしつこく繰り返したのだ。楽器も持っていない佐村河内氏はさすがに大ピンチ。しかし、身を強張らせ、苦渋の沈黙しか打ち手がないこの緊迫の場面で、なんとこの私が「お前ら一体何様のつもり?日本人はグレーで上等なんだよ!」と、いつしか佐村河内氏に成り代わって抵抗しているではないか!「おだてる」と「バッシング」を、交互に繰返して退屈をしのごうとする社会にはもちろん辟易するが、立証できなきゃ真実じゃないと切っ先を向ける社会も私はノー・サンキューなんだと、改めて気づかされた瞬間だった。どんなに引いて眺めていても、『FAKE』は当事者意識を炊き付けてくる。己のモノサシを試される映画なのだ。

一方、どんなに目を凝らしてもわからないこともあった。かおる夫人の心境である。なぜ彼女はこれほどの犠牲を引き受けているのか、そのモチベーションの源泉がサッパリつかめず、これまたいい意味で映画に陰影を与えていたような気がする。監督は佐村河内氏に、愛情と感謝の言葉を妻に捧げるよう誘導するが、うーん、ここは意見の分かれるところ。陰で支える妻というより、彼女には自分が生んだ子を見届ける「昭和の母」の面影がチラついたからだ。新幹線に乗って長旅に出るツーショットなんて、小学生の息子の手を引いて掛かり付けの病院へ向かう親子図そのものだったもの…。

映画は、佐村河内氏の本当のご両親や、ゴーストライター役だと名乗った新垣氏も撮影し、ある種の“ファミリー・ヒストリー”状態となってゆく。振り返れば守くんは、心優しき大人たちに守られ、それに甘え過ぎたお坊ちゃまくんだったのではないか。だから最後の最後に一発逆転!守くんは、シンセを買ってもらって、頑張ります宣言をするのだ。守くんのか弱そうなふくらはぎと、かおるさんのシンパイ顔は私に授業参観を連想させ…。そう、『FAKE』は尾木ママも腰を抜かす教育映画に着地した。おそらくこれ以上意表を突くFAKE=偽造はないだろう。

見た人全員が世間の視座を再定義する衝動に駆られ、しかも答えはみな微妙に異なるだろう映画『FAKE』。さて、あなたの見解は如何に―。今すぐ劇場へGO!

さらにもう一本! 長年にわたるドーピングにより、自転車競技から永久追放されたロードレース選手ランス・アームストロングの栄光と転落の人生を実話をもとに映画化した『疑惑のチャンピオン』(’15)と併せて見るとより面白い。役者が再現する劇映画(疑惑のチャンピオン)が本当のことのように見え、当人が出演するドキュメンタリー(FAKE)の方がむしろ虚実の境をあいまいにする―。映像とは…真相とは…人間とは…いったい何だろう?と考えずにはいられなくなる。

FAKE
2016年/日本/カラー/109分
監督   森 達也
撮影   森 達也/山崎 裕
編集   鈴尾啓太
キャスト 佐村河内守

 

 

■山猫

青い空に雲が流れ、ゆったり風が吹いている。生い茂る木々に沿って進むと鉄の門が現れる。その奥に構える古い屋敷―サリーナ公爵邸を目にしたとき、私は思わず武者震いがした…「あー、『山猫』が始まる!」。

『山猫』において、途方もなく広大な屋敷を正面で捉えるのが冒頭のこの僅かなショットだけだというのは意外なことかもしれない。但しこのショット、見逃すことはできない。なぜならここに薫るのは大邸宅の華々しいオーラではなく、威厳と一抹の侘しさだからだ。すでに『山猫』の基調音はここから認められている。

やがて我々は庭を抜け、ゆっくり屋敷に近づき、「サンタマリア…」と祈りを唱える声のする一角に辿り着く。するとまたここでも風が吹く…。開け放たれた扉を前にしてレースのカーテンが揺らめき、しばしテラスから中の気配を伺う間合いのエロティックなこと!10年振り3度目の対面となった今回もどうしようもなく胸は高鳴った。『山猫』において、頻繁に顔を出すこの“風”というモチーフは、実に誘惑的な伴奏曲になっているのだ。

そんな滞空時間の長い前フリを経て、公爵とその家族がお出ましになる。お抱え神父に従って祈祷する様子は、さながら西洋古典絵画のごとき趣。室内の佇まいと、人々の配置、それぞれの振舞いが完璧な構図を作り上げ、扉が開け放たれていなかったら窒息してしまうほど重厚な光景が広がる。そう、サリーナ公爵家及びその屋敷は、一つの“国家”として我々の前に立ち現れるのだ。そして今この“国家”は、土足で踏み込んできた新しい勢力に翻弄され、傷つき、決断を迫られている。その渦中に立ち、貴族社会に終止符を打とうとするのが、主人公ドン・ファブリツィオ公爵である。豊かな髭を蓄えたこの男は、一家の食事の時間まで取り仕切る生まれながらの権力者だ。

しかし一方で、時代の変化に無闇に抗することはなく、歴史的変革期にでさえ世の中を諦観する構えで居合わせている。特に、彼がすばしっこい目をした新時代を予感させる甥のタンクレディに目を掛けるとき、リーダーとしての計算は瞳から消え、ただただ眩しくて愛しい生き物と接するようで極めて印象深い。確かにタンクレディに扮する若かりし頃のA・ドロンの肉体は、軽さがある種の武器になっており(馬車に飛び乗る場面の華麗なステップを見よ!)、肉厚な公爵との対比は映画の中で重要な位置を占めているのだ。

そしてもう一つ、『山猫』の重要な鍵となるのが“対話”のシーンだ。映画の中で公爵は幾つもの対話の時間を持つ。お抱え神父との日常会話から始まって、狩猟先で気心の知れた相手から新政権に関する感想を聞く時間。タンクレディの縁組のために新興ブルジョアの村長と打ち合わせをする時間。新政府の上院議員になるよう説得に訪れた使者との会話…というように。3時間6分の大作とはいえ、これだけ対話に時間が割かれていてどうして退屈しないのか、私にはそのことがまず不思議だった。それも、対話をリアクションで繋ぐという映像が意識された方法ではなく、語りそのものがメイン・ディッシュなのにだ。小説との違い、演劇との違い…何かしら映画ならではの作為がないと地味過ぎて間が持たないはずなのに、もっともっと彼の話に耳を傾けたくなってしまう。

公爵の語りが、常に話しながら思索し、思索しながら決断してゆくもので、そうした重層的なプロセスに映画を感じるからなのか。いや、むしろもっと単純なこと。公爵の抱える人としての厚み ―肉体的にも精神的にも― が、それだけですでにドラマチックだからだ。しかも一国家のごとき名門貴族を代表するこの男でさえ、孤独と共に在り、死から逃れられないという点において我々と何ら変わりないことが対話の中で痛切に迫ってくるときのリアリティたるや…。こうした通俗的な力を侮ることなく、逆に戦力として取り込んでしまえるところにヴィスコンティ監督の凄味がある。公爵と我々を始終強く結びつけつつ、でも映画そのものは誰の心ともけして寄り添わない。この恐るべき冷酷さ!そしてそれを最も窺い知れるのが、あの伝説の大舞踏会の場面であろう。

ここではあらゆる“過剰”が提示される。紳士淑女の数はもちろん、夥しい数の宝石に扇におしゃべりが渦巻き、豪華さも醜悪さも老いも若さもどっと溢れて、その息苦しさに眩暈がする。しかしこの壮大な宴こそは、公爵の孤高を際立たせるために用意されたこれ以上考えられないほど残酷な仕掛けなのだ。

我々は、一人歩いて岐路に就く公爵の後姿を、もはや他人とは思えない。あのシチリアの乾いた大地に吹き抜けていた風さえ恋しく思うほど、公爵と同じ血潮を分かち合う身になっている。最大限の敬意と親密感を寄せる中での幕切れが、いかにも傑作の名に相応しい。

『山猫』(’63)
1963年/伊・仏/カラー/187分
監督:ルキノ・ヴィスコンティ
撮影:ジュゼッペ・ロトゥンノ
脚本:ルキノ・ビスコンティ
スーゾ・チェッキ・ダミーコ
キャスト:バート・ランカスター
     アラン・ドロン
     クラウディア・カルディナーレ

■オマールの壁

ちょっと言葉にならないくらい、切ない映画である。フィクションと頭でわかっていても、どうにもやり切れない。映画の背景となる現在進行形の政治情勢に、これほど反応してしまった理由は、若者にとっての黄金の切り札―「愛」と「友情」と「青春」―が、ことごとく踏みにじられてしまうからに他ならない。パレスチナ自治区は天空までも壁に阻まれていた―。

パレスチナ自治区に高々と聳える分離壁を背にし、ひとり立ち尽くす美青年の名はオマール。次の瞬間、イスラエル兵士の監視を潜り抜け、垂れ下がる綱を掴んでイッキによじ登り、壁の向こうへスルリと潜入する。威嚇の銃声が響き渡り、手のひらには鮮血の花が咲くが、これがルーティンワークと言わんばかりの慣れた振る舞いで、映画は幕を開ける。その深く静かに輝く瞳と、しなやかな身体性に早くもテンションMAXだ。

ただし、オマールは今から007やマッド・マックスになるわけではない。切れ味抜群のオープニングを演じた青年は、コツコツと愚直に働くパン職人なのだ。彼が向かったのは幼なじみタレクの家。身の危険を冒してまで訪問する先が、友人宅だという日常に、まずは驚かされる。そう、あのヨルダン川西岸地区を囲む分離壁は、イスラエルとパレスチナの線引きだけにとどまらず、自治区内を分断する形で建てられており、パレスチナ人同士を引き離す意図もあるらしいのだ。申し訳ない、まったく知らなかった(汗)。千種区に住む私が中川区の実家へ壁を乗り越えて行く図を想像したら、思わずめまいが…。

話を映画に戻そう。ではそんなタレクの家で一体何がおっぱじまるのかというと、幼なじみで集う茶話会(!)である。まるで放課後の高校生男子のように、リーダー役で堅物のタレクとお調子者のアムジャドと3人で和むユルいひととき。冒頭の分離壁とのギャップが激しくて妙に可笑しい。いや、正確に言えば、我々を拍子抜けさせるこのトボけたリズムこそリアリティの要。むしろ緊張感を途切れさせないポイントなのだ。

そして「友情」の次は「愛」の目撃である。オマールはタレクの妹ナディアと密かに愛を育んでいる。壁ドンよりはるかに難易度が高い“壁越え”に励むのは、愛のなせる技らしい。2人は誰にも気づかれぬよう、お茶と一緒に小さくたたんだ恋文をそっと手渡す仲だ。だが燃え上がる思いは、本人たちの気づかぬところで、閉ざされた世界の均衡を次第に崩し始める―。ここで目にする「友情」と「愛」は、一見、懐かしく控えめで純朴な青春の一コマに映るが、我々は冒頭の壁を目撃している。無邪気に酔えるはずはない。いつ終るとも知れぬ占領下の日常は、未来を宙づりにしたまま、息苦しく過ぎてゆく―。

ある日、オマールはいつものように壁を越え、恋人との束の間の逢瀬に胸を高鳴らせた帰り道で、イスラエル兵たちの嫌がらせにあう。その執拗なからかいと、息を殺して耐えるオマールの背中を一つ画面に収めるシーンの暴力的なこと!武力で制圧される側の屈辱感がスクリーンからにじみ出て、客席に座っている自分を後ろめたく感じてしまうほどだった。そしてこの事件を機に、若者たちの抑圧された感情が暴走を始める。積もり積もった苛立ちを晴らすべく、「待ってても切りがない!」と、3人はイスラエルの検問所を襲撃。すでにオマールの愛と友情に親しみ、彼の心情と堅く結びついている我々は、このGOサインに躊躇なく飛びつくが、それはオマールと共にさらなる非情な世界へ足を踏み入れることを意味する。イスラエル秘密警察の報復である―。

この映画で唯一プロの役者が演じる秘密警察の捜査官ラミ。この男の登場とともに、映画はまたも顔つきを変える。まるで金貸しシャイロックのごとく老獪なラミは、オマールを容疑者として逮捕し、協力者になって仲間を売るか、一生収容所で暮らすかの二者択一を迫る。いやー、ねっとりと赤子の手をひねる取引演出に興奮させられた!映画は、一本気な若者VS狡猾な大人というわかりやすい絵に作り込み、イッキに青春ジレンマ物語へとお色直しを図ってみせるのだ。そのうえ、レミの謀略に乗る振りをして、再び恋人と同胞たちの元に戻ったオマールが直面する様々な断片、その葛藤のバリエーションと緻密な構成があまりに見事で、私の意識は自治区内から外へ一歩も出ることなく集中し切った。

特に、問題の多いこの地を宗教や民族間の確執からアプローチするのではなく、恋人同士がフツーに夢見る未来や仲間との変わらぬ友情というささやかな心の拠り所に、大きく揺さぶりをかけてくるスケッチの連続だからいたたまれないのだ。嫉妬があり、裏切りがあり、訣別がある…。オマールは何度も壁を越えて、自分の未来を掴みに行くが、その積み重ねがむしろ彼を孤独に追い込むという皮肉。世界はなぜこれほどまでにオマールをいじめるのか―。と同時に、なぜオマールはここまで自己犠牲を貫くのか―。古典的な悲劇の形式を借りることで、かえって占領下パレスチナ自治区の今を強く想像せずにはいられなかった。
 
印象的なシーンを2つだけ書いておきたい。ラスト近く、恋人も幼なじみもなくし孤高な日々を過ごすオマールが、もう一度分離壁をよじ登ろうとする。しかし壁を越えることができずに途方に暮れていると、通りがかりの老人が「大丈夫、すべてうまくゆく」と手を貸すシーンが描かれる。衰弱して縮こまった心に染み入る一言と一陣の風…オマールの代わりに声をあげて泣き出したくなるほど、胸に突き刺さった。そして、アムジャドの妻になったナディアとの2年ぶりの再会場面。オマールは穏やかな笑みを浮かべて尋ねる「勉強は続けてる?」と―。家父長制が強く、男女間の壁も高く聳え立つ慣習の中で、教養は女の人たちの力になる!と励ますような一言に聞こえて、これも私には忘れ難いシーンとなった。…それにしてもせつない(涙)。

若者たちの黄金の切り札は、みんなが嘘を信じたことで崩壊した。云わば壁に取り囲まれた中での自壊によって消失したのだ。今見るべき映画、必見である。

『オマールの壁』
2013年/パレスチナ/カラー/97分
監督・脚本・製作 ハニ・アブ・アサド
撮影 エハブ・アッサル 
キャスト アダム・バクリ、ワリード・ズエイター、リーム・リューバニ

■母よ

 映画監督のマルゲリータは八方塞がりだ。クランクインした新作が思い通りに進まない。ハリウッドからスター役者を呼び寄せて、硬派の社会派作品に仕上げるつもりらしいが、主役が現場入りする以前に早くも苦戦中。「いやーダメでしょ、こんな古臭い労使紛争シーンを撮ってちゃ。一体誰が見るの?」と、私でさえ思わずツっ込みを入れたわよ(苦笑)。そのうえ彼女のイライラにスタッフは振り回され、撮影現場の空気は最悪―。

仕事を離れても、マルゲリータの気は休まらない。入院中の母の容態が気がかりで、何とか頑張って病院へ顔を出す。そこには籠の鳥となって不安そうな母親が横たわっているのだが、病床の身でありながら娘の仕事ぶりには上から目線で見定めたりして、なかなかの気丈ぶり。この親にしてこの子ありか(笑)。いや、もしかすると2人は、親子の関係を一度も逆転させぬまま今に至っているのかもしれない…。ここで一服の清涼剤となるのが、モレッティ監督自身が扮する兄のジョヴァンニだ。母に手作り惣菜を差し入れに来て、甲斐甲斐しく世話をする姿の微笑ましいこと!どうやらイタリアのマンマの愛情深さは、兄に継承されているらしい。ただ母を元気づけたい一心で自然に行動が伴う兄を見て、マルゲリータは内心焦っただろう。仕事で凹み、親孝行でも兄に出し抜かれ、じぶんの落としどころに迷う働く女の心理状態が、実にシビアに描かれる。それだけじゃない。一方でマルゲリータは恋人に強引に別れ話を切り出し、サクサク一人荷造りをして仕事に専念するという。どう説得されても聞く耳持たず、以上おしまい―だ。不調にあえいでいてなお、慰めの場所など不要だとツッパるヒロインの硬質さは、一体どこからくるものなのか。また、彼女には別れた夫との間に中学生の一人娘がいて、自分も一人の母親の立場から反抗期の娘に手を焼いている様子。要は、仕事もプライベートも問題山積みで、マルゲリータは始終ピリピリしているのだ。そんな中、追い打ちをかけるようにトラブルが降りかかる。現場入りした主役俳優のバリーが大物ヅラした俗物野郎で、彼女のカンに触ることばかりやらかし、撮影はますます難航。しかも、母の病が予想外に重く、余命わずかだとの宣告まで受けてしまう―。

ところで肝心なことを書き忘れた。マルゲリータは美しい。ボリューミーなイタリアのマンマのイメージとは異なり、スレンダーな体系の知的美人である。特に後ろ姿なんて本当に可憐で、まるで女子大生のよう!誤解を恐れずに言えば、神経を張りつめてピリピリする必要がどこにある?美人が独りで生真面目に何でも背負い込むと、周りがいたたまれない雰囲気になるのわかんない?と、ハラハラしてしまった。男が幅を利かせる映画業界にいて、しかもこの美貌で女優ではなく監督業に長年就いてるなんて、相当強い征服欲をお持ちなのだろうが、見た目とのギャップを絶えず感じてしまったのは私だけだろうか…無理してないか?と。もちろんそのあたりは監督の計算なのかもしれない。もともとこのお話は、母親を亡くしたモレッティ監督自身の体験談を下敷きにしたもので、自分が演じるにはあまりに辛くて、主役を女性に置き換えて制作した作品なのだ。だけど自分(監督)が解放された分、マルゲリータを追い詰めるエピソードがイチイチ手厳しくて、仕事と家庭の両立に懸命な女の人たちが見たらイタすぎて目を伏せるかも(笑)。それだけ男女の垣根なく、人間として対等に見ている証拠とも言えるのだが―。さらに驚いたことに、こんな風に全編ストレスが噴出する作りでありながら、なぜかやたら面白いから呆れてしまったのだ!

例えば劇中には、問題山積みのリアルな時間と並行して、ヒロインの内面の葛藤を幻想的な絵柄で差し挟み、彼女の八方塞がりな自意識をうっちゃるシーンがたびたび登場する。難しいアプローチだが、これがかなりイイのである。親しい人の最期と向き合うのも、切羽詰まった仕事への責任も、相当な重圧には違いないが、そんな時でも人は頭の中で自分を欺き、見当違いな妄想を繰り広げたりして、深刻ささえ無意識に自分仕様にアレンジするもの。そんな個の作業を、気取った抽象化ではなく、ひとりノリ突っ込みと呼びたい軽さと唐突さで演出していて、私にはとても魅力的に映った。映画の力を信じているなあーと。監督はこの美女を哀しみに暮れさせない、むしろより忙しくさせる。そしてバタバタさせながら、自分の判断を絶対視し、すべてを自己完結してきた彼女が、実際には何もわかっちゃいなかったことを遠巻きに気づかせる。母のこと、娘のこと、兄のこと、恋人のこと、そして自分自身のことも、わかっているつもりなだけだった…と。マルゲリータと我々は近しい。彼女を通してフと自分を振り返るとき、映画は苦笑いを誘う。

ラスト。遠い目をした母に向かいマルゲリータが「何を考えているの?」と尋ねると、母は一言「明日のことよ」とそっけなく応える。実際のやりとりなのか、ヒロインの幻想なのか曖昧なスケッチなのだが、死にゆく者が「未来」を見つめ、生き残る者が「思い出」を紡ごうとするその逆説的な構図がひどく印象に残った。わかったつもりになるな―と最後の最後まで予定調和を崩しにかかるモレッティ。涙と相互理解で我々を安心させて幕を降ろすような甘さなど、この作家にあるわけない(笑)。だが、映画のそこかしこに人生の手応えや歓びを小さく刺繍していて、何度そのテクにのせられたことか!特に落目の大物俳優バリー(暖かく狂い咲くジョン・タトゥーロの演技が素晴らしい★)の存在によって、ドラマが家族の話に閉じなかったのは大きな勝因。マルゲリータには、仕事で結ばれるもう一つの家族がある…そう、映画があるのだ!

『母よ』
2015年/イタリア・フランス/カラー/107分
監督   ナンニ・モレッティ
撮影   アルナルド・カティナーリ
脚本   ナンニ・モレッティ フランチェスコ・ピッコロ
キャスト マルゲリータ・ブイ ジョン・タトゥーロ

■徘徊~ママリン87歳の夏

この夏、うつ病を患う老いた母にカメラを向けた『抱擁』(14)というユニークなドキュメンタリー作品を見たばかり。そして今回遭遇したのは『徘徊』(15)だって。あまりに身もフタもないタイトルだが、たじろぐ必要は全くございません。そう、お年寄り密着記録は、今最も斬新な企みが試される荒野なのだ。何せ被写体内になみなみと湛えられている、“時間”が、ある種の衝撃吸収材となり、どこまで突っ込んだ実験をしようが、彼らはびくともしない。逆に老人たちの、“どこ吹く風”な一面を目にするたび、「恐れ入りました…」と平伏したくなる。腫れ物に触る扱いをしていては、かえって失礼だと気付かされてしまうのだ。『抱擁』の坂口香津美、『徘徊』の田中幸夫。おそらく2人の監督は、老人たちのポテンシャルの高さに瞠目しながら記録したのではないかと思われる。とにかくこの荒野が、我々の想像をはるかに超えていることだけは間違いない―。

田中幸夫監督作品『徘徊』は、タイトルとは無縁な素振りで、高層ビルが立ち並ぶ都会の景色からスタートする。やがてカメラは、とあるマンションのベランダを捉え、無造作にしつらえた空中庭園の瑞々しさを切り取り、開け放たれた窓から室内へ柔らかな風が吹き抜ける様子を丁寧に映し出す。何とも心地よい昼下がりの情景である…窓際にちょこんと座る白髪の老婆が口を開くまでは―。

大阪の北浜に住む酒井親子。母親のアサヨさん87歳は認知症で、娘の章子さんが自宅マンションでギャラリーを営みながら一緒に暮らし始めて6年になる。適度に力が抜け、適度に玄人好みなインテリアとこなれた娘の手料理が目を引く2人のマンション生活は、雑誌クロワッサン読者が喜びそうな趣味の良さだ。さすが、美術にかかわる仕事をされてきた人の審美眼は確かですね。バブル時代にいい意味での放蕩を経験し、それが今も血肉になっていると推察できる。ところがそこで飛び交う母娘の会話は、しっとり&優雅とは程遠く、見事なまでに噛み合わない。開始早々場内は笑い声に包まれるのだ。正直言って、ズルい構えである。つまり、強烈な関西弁の初期設定と、母娘のズレまくりの対話がエンエンと繰り広げられることで、酒井家の茶の間は舞台と化し、我々は映画内お笑い番組を眺めている気分になるわけだ。しかも認知症の母が突っ込みで、娘がボケ役に回り、プロのお笑い芸人がどうあがいても太刀打ちできない超過激でシュールな漫才コンビがスクリーンを占拠する。「ここは刑務所か?」と繰り返す母を、娘はビールと煙草を手にしながら、全部拾ってリアクション。オチを決めずにはいられない関西人の血が炸裂する瞬間を垣間見るだけでも、面白くないわけがない。さて、ここまでを寄席編とするなら、ここから先はショートコント編といった趣だ。タイトル通り、昼夜構わず徘徊する母と、それを見守る娘の脚本なきガチンコ勝負の幕が開く。娘は、ここではないどこかへ向かわずにいられない母の衝動を受け入れ、抑圧するのを止め、どこまでも寄り添い歩く。そこには、18歳で家を出て、ひとり自由を謳歌してきた55歳の彼女が、母に自由を与えることで自身はもう何年もある種の軟禁状態に置かれているという皮肉が窺い知れる。もちろんそれを全面的に重荷と捉える時期もあったらしい。章子さんは正直に打ち明ける。そしてその一方で、好きなことを思う存分してきた彼女だからこそ、今、母の意思を尊重できるポジションに立っていられるように映るのだ。認知の症状は刻々と変化するが、それでも彼女は母の中に確かに存在する人間性とそれを理解したいとまっすぐに願う気持ちを失っていない。いや、むしろ母という他者と対峙して、全面的に受け入れたところから、彼女の真の自由が始まったのではないか―そんな風にさえ思えるのだ。

当初、章子さんは自分で撮影するつもりでいたが、知り合いの田中監督が2人に興味を持ち、監督に名乗りを上げて、ひと夏の密着撮影に至ったらしい。これも大きな成功の要因だと思う。私は田中作品とは初めての遭遇となったが、この人はプロだなあと感じることが多々あった。何といっても、発症する方も、される方も、どちら側に立っても生きることの難儀さを深刻に受け止めざるを得ない重苦しいテーマである。だけど母娘ともに懸命に立ち向かっている…、ポテンシャルも高い…、この船は愉快である限り沈没しない…と、監督は確信しながら撮影していたのではないか。だから絶えず軽やか。風通しがいい。2人を取り囲む大都会の人間模様も清々しい風を送り込む。冒頭のシークエンスがそのまま映画の基調音となって、スクリーンいっぱいに響き渡る。そして何より田中監督のさりげないフェミニストぶりに感心させられた。監督の根底には2人に向けた賛辞が流れていて、最初から最後まで酒井親子をエレガントに見せることに徹していた。生々しい修羅場はあってもなるべく煙に巻き、章子さんの美意識や明朗さを十二分に尊重し、その背中を押している。作り手側のこうあって欲しいという願望も含め、あえてノンシャランに、劇映画を撮るような姿勢で制作しているようにさえ見えた。

アッコちゃんとママリンは、笑えてしかもカッコいい!…田中監督がここに着地させて正解である。

イラスト

徘徊~ママリン87歳の夏
2015年/日本/カラー/77分
監督 撮影 編集 田中幸夫
助監督       北川のん
照明        竹森潤二
音効        吉田一郎
出演        酒井アサヨ
酒井章子