■『みんなのヴァカンス』

なんて心地よい映画なんだろう!

ギョーム・ブラック監督作品『みんなのヴァカンス』は多幸感にあふれ、どこにもケチのつけようがない仕上がり。心から感心した。ゴダールを哀悼するシネフィルにも、トップガン・マーベリックのリピーター観客にも、自信を持っておススメできる映画なのだ。何ならアナ雪好きに声をかけてみるのもアリだろう。全方位に対応可能とは…スゴくないか?

ところが見終わってしばらく寝かせ、映画評に書こうと脳内で振り返ってみたら、ハタと困った、いったいどこがよかったんだっけ?と(笑)。「この場面に酔った!」「あのショットがただならない!」などと、勢い込んで語りたくなる要素がなぜだかすぐに思いつかない…もしかしてバランス良すぎ? その一方で、すぐにでも見返したいほど、未だ映画の余韻に浸ってもいる。トータルで惚れたということなのか…。書きながら整理してみたいので、しばしお付き合いください。

まず、「乗り込め」という意味の原題「À l’abordage」を、『みんなのヴァカンス』という日本語タイトルにして正解。不思議なことに我々は、長期有休休暇への憧れからか、実際のヴァカンスについて何の経験もないのにヴァカンスと耳にしただけで、夏の甘美な解放感イメージに速攻で同機する。タイトル一発で、ちょっとアバンチュール寄りのご陽気モードにスイッチオンしてしまえるのだ。

そして、あなたのでもわたしのでもなく、”みんなの”と風呂敷を広げている点も座布団一枚だ。 “みんな”には我々観客も含まれている。そのうえ、映画はロードムービー仕立てにすることで観客を非日常空間に招き入れ、登場人物たちと共に解き放つ仕立てなのである。なるほど、もはやみんなで乗り込むしかない作品らしい(笑)。

夏の夕暮れ。どこからか聴こえてくる音楽に酔いしれながら、独り鼻歌交じりにセーヌ川のほとりを漂い歩く黒人青年フェリックス。しばらくすると赤いタンクトップ姿の美女アルマと出会い、一緒に踊っているうち、なんだかいいムードに…。が、そう見えた矢先、いともあっさりと翌朝シーンへ切り替わり、アルマは慌ててヴァカンスへ旅立ってしまうではないか。おいおい、寸止めかよ~💦

そこで甘美な一夜を忘れられないフェリックスは、シンデレラにはナイショでサプライズ再会を画策しようと動く。宿代わりのテントを無料調達したと思ったら、親友のシェリフを強引に誘い出し、相乗りアプリで知り合った世間知らずの青年エドゥアールの車にちゃっかり乗り込み、彼女を追い駆けて南仏の田舎町ディーへ旅立つのだ。はっや!恐るべし恋の情熱!

しかもこの間に事前情報として、野郎3人の個々の社会的背景やキャラ設定が超手際よくかつカジュアルに提示されるので、観客側が受け取る道づれ感はハンパない。特に車中のスケッチは、目的は一緒でも偶然出来上がったチーム編成ゆえ、不協和音も込みのLIVE中継になってて可笑しいのなんの!奴らへの親しみを募らせつつ我々は、4人目のヴァカンス・メンバーとしてすでに車中に居合わせているのだ。

やがて車窓から、緑濃い田舎町の景色や川遊びに興じる人々の賑わいが見えてくると、足並みが揃わなかった凹凸トリオ+我々全員のホホは自然と緩み、テンション上昇~♬未知の土地から薫る空気や、流れている時間の違いに全身で反応し、生きる歓びを再確認する瞬間がここには描かれている。旅が、休暇が始まる前の、あの至福の瞬間が!

ヴァカンスを始終引っ張るキーマンとなるのは、上昇志向があり、自分本位で場を乱しがちなフェリックスだ。果たしてシンデレラに接見して靴を差し出せるか。未だ母親の監視下に置かれているエドゥアールは、裕福な家のお坊ちゃまくん。世知に疎くドン臭いが、手垢がついていない分、ヴァカンスでの伸びしろは大きい。そんな水と油の2人の仲を取りもつのが、ホスピタリティの異様に高いシェリフ。 “邪魔にならない男”の役割からどう飛躍するかが今後の課題だ。

とはいえ、目の覚めるようなリッチな体験や、トンデモ事件は一切出てこない。テントで寝起きし、サイクリングに燃え、水辺ではしゃぎ、アイスクリームを舐めながら散歩し、ハッパにダンスにカラオケで盛り上がる若者たちの夏の日々である。

例えば旅先で偶然遭遇した若者たちの間で交わされる会話の中身は、人種や社会階層の違いから進路や支持政党に至るまで多岐にわたり、かつ恋バナと等価に扱って成熟度の違いを見せつけるが、めんどくさい話になる前でさらっとフェイドアウト。何かと引っ張り過ぎないのだ。また、自然光撮影や編集、フランス国旗を意識した色彩設計もカンペキなのに気負いはゼロで、なぜここまで間がもってしまうのか…本当に不思議

実は本作は、フランス国立高等演劇学校の学生とのワークショップを元に制作された作品で、メインの3人をはじめ登場人物のほとんどが、映画出演経験のない学生とのこと。何が素晴らしいって、彼らの手つかずの輝きをそのマンマ真空パックし、映画に活かし切っている点だ。演技の上手い下手問題というより、役柄と素の本人との狭間に生じる揺らぎみたいなものに耳を澄ませ、その不安定さを映画に撮り込むことによって、劇映画らしさから巧妙にすり抜け続けている。

その一方で映画のフォーマットには、恋愛、青春、冒険、コメディ、アクション、サスペンスetc…と、控えめながらあらゆるジャンル映画のエッセンスを散りばめ、劇映画らしく構成していて、なかなかの手練れなのだ。アクの強いフェリックスを早々と撃沈させ、映画のエネルギーをニューカマーたちに分散し、勝ち組と負け組の役回りを絶えず塗り替えるあたりなど、非常に上手い。

そもそも監督は、ハレよりケのスケッチに対する臭覚が鋭敏な作家である。ヴァカンスといえども、一人一人が備え持つ習慣化された日常の流儀はついて回るわけで、本作でも若者たちのケの時間に接近して行く。それも、どうだっていいレベルの事柄をきっかけにすれ違いを生じさせ、モメごとを勃発させるシーンのなんと多いことか!ハッキリ言って、「みんなのモメごと」とタイトルを変えてもいいくらい絶えずモメているのである(笑)。

冒頭、介護訪問先の老婆に、「リスクは犯すべきよ!」と背中を押されて急遽始まったフェリックスのシンデレラ探しが、あれよあれよという間にみんなのヴァカンスへ拡大展開した。振返ってみてわかった。そう、「モメ」こそが多幸感につながるアクションだったのだと!他者は大いなるストレスだが、他者の存在で人は変化し、世界が開かれる。もつれたときは、謝罪とハグで折り合える道だって見つかるしね。

劇映画らしさと、劇映画らしからぬ瞬間を共振させながら、仕上がった『みんなのヴァカンス』。スクリーンを吹き抜ける風を彼らと共に感じた至福の100分が忘れ難く、思わず2回、劇場へ乗り込んだ。わぉー💦

2020年/100分/仏

監督/脚本/ ギョーム・ブラック

脚本/ カトリーヌ・パイエ

撮影/ アラン・ギシャウア

録音/ エマニュエル・ボナ

出演 エリック・ナンチュアング サリフ・シセ エドゥアール・シュルピス

■『あなたの顔の前に』

すれ違いざまに胸騒ぎするものが視界に入り、「えっ?今のなに?」と、振り返ってもう一度見直すことってあるよね?しかも、確実に目の端で気になるものを捉えたのに、すでに辺りに姿形はなく、何やらキツネにつままれた心持になった経験も一度ならずあるだろう。

わかりにくい例えで恐縮だが、ホン・サンス監督の新作『あなたの顔の前に』は、そんな感覚を思い起こさせる映画である。上映中にマンマと梯子を外され、未だに映画の時間の中に宙吊りにされている気がしてしょうがない。細い輪郭線で描かれたその幻影と戯れるのは、艶めかしくてなかなかオツな体験となった。

―と、神妙に書き始めたが、実際はしっとり気分で鑑賞しながら、一方でその同じ熱量を使い、銀幕に向かってひとりツッコミを繰り返していたのである。面白いでしょ(笑)。だって、タイトルからしてジャンル分けもドラマの展開もさっぱりヨメず、意味不明だしね。

ただ、幕開け早々にヒロインのモノローグで「私の顔の前にある全ては神の恵みです」「過去もなく、明日もなく、今この瞬間だけが天国なのです」と聴こえてくると、そのあまりの目線の高さに意表を突かれ、神の恵みかどうかはともかく(笑)、「この瞬間=天国」イメージに一発でノセられてしまったのだ。

教会でなく高層マンションの一室の寛いだ空間でこのつぶやきである。さらにヒロイン・サンオクが、江波杏子(1942-2018)を思わせる苦み走ったイイ女で、真っ赤なノースリーブ姿には年増女の色香が漂い、訳ありの過去を踏まえた言葉のように聴こえてくるからたまらない。もしかして職業は女賭博師か?(笑)

いやいや、賭場でもN・Yでもなく、ここはソウル市内にある羽振りのイイ妹の家らしい。とはいえ、サンオクが妹の寝顔をじっと見つめるのはなぜ?起床した妹との会話がぎごちないのは気のせいか?…と、一般的な姉妹ドラマの素振りには程遠いため、またもや奇妙な感触がついて回る。

その後も、サンオクがトランクから着替えを出すシーンや、二人で朝食を食べに外出しつつ金や不動産の話になるところとか、ここで盛り込むネタかよ?やけに感謝のつぶやきも多いし…とツッコミ続けていたが、長年交流のなかった姉が突然アメリカから帰国したら、とりとめのない会話で距離を測り合うのが自然な姿にも見えてくるのだ。

さらに姉妹の間に他者も絡ませる。公園を散歩中の二人が、通りすがりの女性に写真撮影をお願いしたら、かつて俳優をしていたサンオクの顔に見覚えがあり、もう一度出演作を見たいと声を掛けてくるではないか。偶然✕偶然みたいな、ありえない情景。TVに出たのは1回だけなのに…と、サンオク自身もその奇遇に驚くが、すでに監督のズラしのリズムにノッてしまっているわたしは気負わない。映画が個々のエピソードをどう回収するのか?と、先読みすること自体がもはやケチくさい気がして―。

例えば橋の下でサンオクが喫煙するシーン。なぜこんな所で?と疑問に思っても、せせらぎの音とかがめた身体のラインと天上界へのつぶやきが混然一体となり、瞼に焼き付いて離れない。あたりなどつけずともへっちゃら。謎は多いが、なぜかハシゴを外されても向かう先には恵みが待っている予感がしてならないのが本作なのだ。

散歩の後にふたりは、妹の息子が経営する飲食店へ立ち寄る。お目当ての甥は不在。その代りここでも、スープトッポギを食べたら、ブラウスに汁を飛ばして慌てるといったどーでもいい(?)エピソードをクローズUPし、あえて意味を遠ざけ、のらりくらりとやり過ごすホン・サンス。

しかし、なんやかんやと絶えずアクションでつなぎ、映画内運動は決して止めずに回し続けるわけで、ユルそうでいて緊張感は途切れない。遂にはフレーム外からプレゼントを持った甥っ子が追いかけてきて、大好きな叔母さんと再会&抱擁である。なによ、このスペシャル感!もはやブラウスのシミさえ、かけがえのない人生の瞬間に変換しているわ!

さてここからが本番。映画はサンオクを独り、久しぶりの故郷に放牧してみせた。すると彼女は意表を突き、幼い頃に住んでいた懐かしき場所を訪れ、かつて遊んだ庭の茂みにうずくまる。しかも今は店舗になっている空間で、サンオクの記憶が身体の隅々まで緩やかに蘇るとき、スクリーンを前にした我々の個人的記憶をも呼び起こす…。そう、縁もゆかりもないソウル市内の空間が、鑑賞者ひとりひとりの記憶の空間と響きあうのである。映画がもたらしてくれたギフトに、束の間酔いしれた。

さらに放牧の最終コーナーには密会が待っていた。女優時代のサンオクの熱烈なファンを自認する映画監督との対面である。貸し切りの居酒屋で、昼間っから中華をつまみつつホロ酔い気分の中年男女。永遠のマドンナを前に涙ぐんで喜ぶ監督と、手放しの礼賛に悪い気はしない元女優の、愚かしも憎めないやりとりが、可笑しくもありまばゆくもあり。

サンオクが、昔習ったギターをたどたどしく爪弾けば、突如居酒屋店内が風流なお座敷に化けたりして、まるで都々逸的世界(笑)。ベテラン芸妓のサンオク姐さん、時折りのぞくブラの肩ひもさえも艶っぽい。青春スイッチの入った監督が、彼女主役の映画を作りたいとラブコールするのも当然だろう。

ところがサンオク姐は頬を紅潮させ、時折笑みさえ浮かべながら―私には時間がない、病気で長く生きられない―と、丁寧に詫びるではないか!衝撃的な余命告白。「まいったな…」とつぶやく監督と我々の戸惑いは見事に一致。様々な謎や、彼女が絶えず神に向かって語り掛けていた理由がここでイッキに判明する。と同時に、今となっては物語の中心線をズラされ続けたあの歯がゆい時間に戻りたいとも思うのだ。

降り出した雨の中、店をあとにするふたり。1本の傘に身を寄せタバコに火をつける後ろ姿…。雨音をBGMに繰り広げられるドラマチックなシークエンスはここだけ別撮りされた短編映画のように映るが、ホン・サンスは並みの作り手ではない。このまま映画を終わらせない。幕切れ前になお、ここぞとばかりに見事にうっちゃる。

翌朝、なんと冒頭の設定を再び繰り返す。高層マンションの一室に舞い戻り、眠っているサンオクの夢を解くかのように、監督のヘタレ録音メッセージを高らかに響かせるではないか。おいおい、いざとなったら腰が引けたのかよぉー!真摯に詫びる男の声を聴きながら、声を上げて笑うサンオク姐。彼女は”観客の顔の前” で、本作中最も生命力にあふれた姿を披露する。世界中の誰よりも今この瞬間を濃密に生きて笑う、身体をのけぞらして大笑いするのだ。死を前にしてもままならない人生の皮肉を!

『あなたの顔の前に』は、どこへたどり着くともわからない不意打ちの連続だ。赤いタンクトップで始まり赤いタンクトップで終わって一巡する1日だけの物語だが、常にフレームの外へ外へと拡張しながら綴られているため、印象が固定化されない。それでも、映画内時間をヒロインと共に慈しんで生きたという残り香だけは間違いなく身体に刻印される。はぐらかされているうちに、いつしか生の一回性を痛感してしまう傑作、必見です。

2021年/85分/韓国

監督/製作/脚本/撮影/音楽/編集 ホン・サンス

出演 イ・ヘヨン チョ・ユニ クォン・ヘヒョ

■『アネット』

映画という虚構の中に、さらに別の虚構を組み入れ、入れ子細工の形でお披露目する『アネット』は、140分の長尺であり、かつミュージカル仕立てである(汗)。おそらくこう聞いただけで、戸惑う観客も多いだろう。どこを映画の現実ラインとして見るべきか…なんとなくめんどっこくて嫌だなあと。でもだいじょうぶ。1ミリも身構える必要はない

オープニングを飾るのは、とある音楽スタジオでの録音風景。監督のレオス・カラックスご本人が、コントロール・ルームの真ん中に鎮座し、演奏者たちにプレイ開始を告げると、アメリカのベテランロックバンド・スパークスが演奏を始め、何とそのまま歌いながらご陽気にスタジオを出て行く。

おっと~、楽屋ネタかと思っていたら、曲といっしょにすでに始まっているではないか―。途中、本編の登場人物たちも合流し、みんなでSo May We Startを歌いながら夜の路上へ繰り出すシーンのカッコイイこと!さあ、夢の世界のはじまりだといわんばかりの、高揚感溢れる長廻しがたまらない。そう、音楽スタジオがミュージカルへの導入口として機能し、瞬く間に虚構の中へワープできるダンドリだ。そして主演ふたりが役の衣装を軽やかに羽織れば、目の前で物語の扉がすーっと開きはじめる―。

バイクに跨り走り去った男の名はヘンリー。ストイックに過激な笑いを追求する人気スタンダップ・コメディアンだ。緑色のガウン姿で独り舞台に立ち、客との丁々発止が見世物の際どい芸で名を馳せている。一方、お抱え運転手付きの車に乗り込んだのは、世界的ソプラノ歌手のアン。映画は、美女にリンゴをかじらせたりして、早くも不吉な予感を漂わせつつ、人気セレブ・カップルの恋愛ピーク時を幕開けに置いた。

美女と野獣のカップリング。しかも、それぞれの舞台を終えたふたりが、取り巻きたちから逃れ、太ももを露わにしながらバイクの二人乗りで人里離れた森へ逃げ込んだりして、何だか私の方が照れくさくなるくらいキッラキラなロマンチックLOVEシーンの連投である。まるで一条ゆかり先生が描く華麗な少女漫画の一コマのよう…思わず目を細めた。

“私たちは愛し合う~ 心から あまりに深く~♪”とかなんとか、歌いながら&じゃれながら山道を歩くふたり。めまいがする。いや、それどころか、絡みシーンまで歌いながらの睦まじさ…。いやー、地球はふたりのために回っているこのかんじ、ディズニー・アニメを軽々と越えてしまっていて、アッパレとしか言いようがない。言葉とメロディの共振によって、空間が色鮮やかに塗り替えられて見えるのだ。

一方で、誰にも邪魔されずに蜜月を過ごす森の中の邸の佇まいとか、インテリアの隅々やら、身につけている着衣の色彩&素材感が、リアルに計算されていて、ファンタジーワールドに回収されない点がミソだ。ありえない設定ではなく、趣味のいいセレブのありそうな隠家蜜月を創造しているから、観客はじぶんたちのリアルと地続きで眺められ、好奇心が持続するというわけだ。

要はリアリティの扱い。例えば映画では、度々ふたりの仲をゴシップ記事的体裁でウォッチし、大衆が欲望するセレブ・カップルの通俗的なイメージを、観客に投げ掛けてくる。スターを崇めながらも、下世話なネタに引きずり降ろさずにはいられない我々の日頃の好奇心とやらが、いかにありきたりで貧相なものかを生々しく皮肉るのだ。キッラキラマジックと世俗の垢のブレンド配合が絶妙で…楽しくって笑った。

やがて結婚そして妊娠。案の定、出産シーンまで大賑わいなミュージカル仕立てで綴られ、物珍しさMAXである。ところが驚くのはまだ早い。映画は、アネットと名付けられた女の赤ん坊を、しれーっと人形の姿で登場させるから腰を抜かす。

へっ?ご冗談でしょ?もしかしてギャグ映画だった?…と、どこまでホンキで見るべきか、一瞬腰が引けるが、それさえすぐにメタファーとして受け入れ可能になる。日本には人形浄瑠璃という語りもあるし、シラケるどころかむしろ赤ん坊を人形にしたことでセレブ枠は取っ払われ、現代を生きる我々の話として不気味に迫ってくるのだ。

さて、アネット誕生がきっかけとなり、徐々に崩壊し始めるセレブ・カップル。アンは産後ウツなのかヘンリーの人間性に疑いを持ち始め、ヘンリーもイクメンしている間に芸人として落ち目になってゆく。意外な取り合わせが旬だったふたりだが、成功格差が広がるにつれ、溝は深まるばかり。さらにはやり直しを賭けて出た船旅の途中、なんとアンが荒れ狂う海に飲み込まれ、帰らぬ人になるではないか!

このサスペンスフルな嵐のシーンをはじめ、邸内のプールや、オペラの舞台など、名作絵画を連想させるような撮影が繰り広げられ、それはそれは見事な出来栄えで、鳥肌が立った。しかも歌とアクションの連続技で進行するので、映画内の現実ラインが絶えず曖昧になり、身体ごと映画に浸かってしまうからたまったものじゃない。まさにこれぞ映画!

結局、事故か事件かわからぬまま、アンは映画から退場し、怨念だけが燻ぶり続けるからコワイコワイ。そこへママと入れ替わるようにアネットが表舞台に押し上げられ、物語はスキャンダラス方面へまっしぐら。というのも、妻も名声も失くしたヘンリーが、アネットにアンを超える歌の才能を発見し、マネージャーとなってイッパツ逆転を図るからだ。娘をベイビー・アネットの愛称で強引にSNS上のアイドルに仕立て、世界制覇を目論む女衒なパパは、どこまでも腐り続け、地の底まで転げ堕ちる―。

パパとママは演じられても、親にはなれなかったセレブ・カップル。一方娘は、最後に毅然とした態度で彼らの身勝手さに唾を吐く。そして、じぶんの意思で家族ごっこに終止符を打ったそのとき、なんと人形だったアネットが生身の少女の姿に移り変わるのだ!見得を切り、独り我が道を歩いて行く娘と真っ赤な囚人服で取り残される父の絵…大向こうから声がかかりそうな鮮やかな幕切れである。

こんな荒唐無稽な展開なのに?と疑問を持つかもしれないが、『アネット』は極めてシンプルで美しい作品である。喜劇の要素と悲劇の要素を併せ持ち、重心の低い古典的な作りの映画だと思う。映画(虚構)の中に舞台(虚構)があり、舞台では生死が演じられ、幕が下りれば夢物語も消えてなくなり、「あー、映画を味わいつくしたなぁ」という充実感に身体が満たされる。現実社会とはかけ離れた物語であっても、ここには観客の胸を打つデタラメが実っている。繰り返し言おう、これぞ映画だと―。

ちなみに、悪い父親の転落劇なのに、ツイ魅せられてしまうのは、ヘンリー役のアダム・ドライバーの存在感に寄るところが大きかった。アクが少なく、体温低めで、かつどこまでも闇の広がるキャラクター作り…歌舞伎でいうところの色悪を、サラリと演じていて付け入るスキなし。

『アネット』

2021年/140分/仏・独・ベルギー・日

監督/脚本 レオス・カラックス

原案/音楽 スパークス

撮影/ キャロリーヌ・シャンプティエ

美術/ フロリアン・サンソン

出演 アダム・ドライバー マリオン・コティアール

■『クライ・マッチョ』

穏やかな日の光を浴び、古めかしいトラックが広大な大地をゆったり走って行く。カントリー・ソングが響き渡る中、運転席に鎮座するのは、監督デビュー50周年を迎えたクリント・イーストウッド91歳。監督業40本目にして主演も務め、マイク・マイロ役に扮してみせる。

時は1979年テキサス。マイクが余裕綽々と牧場へ乗りつけ、カウボーイハット姿で降車するオープニングを目撃すれば、映画ファン(特に男子)の目頭は早々に熱くなり、思わず「待ってました!」と声をあげたくなるだろう。クリントがマイクなのか、マイクがクリントなのか…もはや本人と役柄の境界線も、現実とスクリーンの境界線も溶解し、何だかよくわかんないけどありがたい光を拝もうと手を合わせたりなんかして…ね(笑)。

考えてみたら、米国へ行ったことのない私だって、カウボーイ文化や西部劇の様式美は、すべて映画からの刷り込みでイメージしているに過ぎない。どこまでもどこまでも続く荒野の景色なんて、生涯ナマで体感することさえないわけで、わたしにとっては絵空事。なのにこの非日常のロケーションこそ、映画の日常だと承知し、郷愁さえ感じてしまうのだから、脳ミソはじぶん都合でできている。

そして、スクリーンを通じて、米国のヒーロー像を体現し続けてきたと言われるクリントもまたしかり。これだけ長い役者人生を、ある意味、思わせぶりだけで歩き通してきた事実があるのだから、映画館では彼が現実なのだ。

ところが『クライ・マッチョ』は、一瞬にして信望者たちの夢を打ち砕く。マイクはヒーローどころか牧場主でもなく、一介の雇われ調教師に過ぎなくて、しかもやる気なしの遅刻の常習者(汗)。開口一番、オーナーのハワードから解雇通達をくらい、問答無用で追い出される始末。もちろん、反省するどころか軽口叩いてどこ吹く風で立ち去るあたりも、クリント映画らしい定石ではあるが…。

とりあえず映画は、クリントの現人神化を早々と避け、”祭りの後”から始まるドラマに舵を切る。ロデオのチャンピオンだった栄光の時代をひとなめし、その後の落馬事故ですべてを失い、辛うじて住処だけはあるが今や落ちぶれ切った老いぼれだとアピール。そして、そんな孤独な老人の前に、先のハワードを再登場させ、別れた妻に引き取られてメキシコにいる13歳の息子ラフォを連れ戻してくれと依頼させるのだ。

なるほど。誘拐まがいの厄介な事案でも、恩義のある人間から頼まれたら、国境越えも辞さないのがロンサムカウボーイの美意識か。だってマイクの家は、手狭ながらじぶんの趣味が全開でさー、ぜんぜん不憫に見えないわけ。むしろ独居老人の天国みたいな理想空間だったから、彼の、”家を去り、仁義を切ろう”決断には思わず苦笑いした。そうそう、ヒーローとは不合理を直進する生き物でしたね(笑)。

先を急ごう、国境越えだ。ところが我らがヒーローは、マニュアル車をヨボヨボ転がし、野宿をしながら気負いゼロで向かう。ラフォの母親の豪邸へもゆるゆると潜入し、案の定捕まってもどこ吹く風。逆に母親の養育放棄に釘を刺したりして、まるで町内会の会長ノリだ。ご都合主義のその上を行くオレサマ展開に、笑いが止まらない。

そのうえ息子探しだってあっさり成功。ラフォは自堕落な母親の元を離れ、独り路上で生き抜いてきたらしい。両親に振り回され、大人を信じられなくなっている少年の唯一の相棒は、闘鶏用のニワトリ”マッチョ”だけ。そこでもマイクは、父親を拒むラフォに対して強い説得を試みない。爺さんとひ孫ほどの年の差があっても、孤独に向き合っている点では同じ地平に立つ身だからだ。知恵は授けても支配者ヅラしない大人との接触で、やがて少年からは屈託のない笑顔がこぼれるようになる。

というわけで、後期高齢者と未成年者とニワトリのオレサマ軍団は、父親の待つテキサスへ向かう。ここからは荒野を舞台にロードムービーのはじまりだ。

ところで、お察しの通りここが映画の一番のメインディッシュとなるはずなのだが…およそチャージがかからない。サボテンをかじったり…リオグランデ柄のジャケットを買い込んだり…車を盗まれたり&盗んだり…と、終始のんきな旅日記調。いちおう、母親が放った追手の気配はあるものの、ほぼ開店休業状態。鼻っ柱の強い2人と1匹が揃っていながら、如何せん「圧」が一個もなくて、荒野が銭湯の書割りに見えてしまうほどだ。

挙句の果てには流れ着いた田舎町で、小さな食堂を営む未亡人と懇ろになり、オレサマ軍団一同、しれーっと居ついてしまうではないか!へっ?ミッションはどうした?こだわりのやせ我慢道はどこへ行った?ファイティングポーズを忘れたのか?…いやいや、何せ今回ばかりは90歳越えでの主役である(汗)。そのうえ役どころは、実年齢のひと回り以上年下の設定と推察できるので、確かに絵的に決めたくても限界がある(汗)。そこで、不自然な若作りを避けつつもそれなりの現役感を匂わせるには、男稼業で培ったテクのお披露目が最適解となるのだろう。

少年にはカウボーイキャリアを伝授し、女こどもには小マメなフォローを欠かさず、村人たちの困りごとのために親切なドクトル先生にも扮してみせるマイク。…おいおい、すっかり善人の代表か?何より目尻が下がり、昼間っから窓辺で無防備にうたた寝をしたりして、世界で一番しあわせな好々爺に鞍替えですわ。

それでもいちおう、じぶんたちが居つくと村人たちがキケンだからと竜宮城を後にし、本来のミッションへ軌道修正。取って付けたように、ゆっる~いカーチェイスをファンに用意するものの、今回のクリント=ヒーローがお披露目するのは、イキがっていたかつてのオレサマ至上主義を、前面撤回する反省の弁だ。そう、オレの二の舞にはなるなと少年ラフォを諭すくだりが見せ場となるのだ。

ラスト。国境で「困ったら来い」と愛弟子を送り出し、じぶんは踵を返し、マッチョと共にベンツでメキシコへUターン。最後までバイオレンスは封印し、一点の翳りも迷いもなく、朗らかに奏でられた91歳のクリント映画。もはや仮想敵は不要らしい。オレサマ指標は減らず口とモテと運転に集約させ、目指せ100歳!という魂胆なのね。よろしいんじゃないでしょうか。

映画という虚構の世界で実学実践者として振る舞ってきたクリントにとって、生身のじぶんを括弧で括り、ヴァーチャルな英雄像に差し替えることはできないのだろう。その代り、ニワトリに決着をつかせて大団円とは!…意表を突かれたな。唯一、筋肉の落ちた好々爺に肩パットの入った衣装だけは、見てて切なくなったが―

『クライ・マッチョ』

2021年/104分/アメリカ

監督/製作/出演 クリント・イーストウッド

脚本/ ニック・シェンク

撮影/ ベン・デイヴィス

音楽/ マーク・マンシーナ

出演 ドワイト・ヨーカム エドゥアルド・ミネット

■『主婦の学校』

な、な、なんなんだこれは…。予告をチラ見しただけで、心身ともに寛いでしまった。しかも隅々までスキっと美しいではないか!

『〈主婦〉の学校』は、アイスランドの首都レイキャビックにある家政学校「Húsmæðraskólinn」を密着取材したドキュメンタリー。1942年に創立した生活全般の家事を実践的に教える伝統校らしいが、いやはや、想像以上に様々なことを考えさせられる映画だった。

何せ疑い深いタチなので、まずはキレイキレイな印象を受けたじぶんを、一旦括弧に入れて座席に着いた。北欧マジックに騙されないぞーと(笑)。ところが開口一番、淡いピンクのセーターをお召しになり、静かに執務にあたっている校長先生を目撃したら…もうダメですね。

金八先生by赤木春恵ではなく、苦み走った草笛光子似のマルグレート校長が、超かっけーのだ。日本とはビジュアルだけでもこうも違うのか~。そしてひとたびそのハスキーボイスで穏やかに語り始めたら、英国諜報部MI6のボスにしか見えません。もちろん007は出てこない、ここは家政学校ですから―(笑)。

次の”こうも違う”事例は、建てられて100年になる真っ白な学び舎だ。少人数制の学校だから、ちょっと大きなお屋敷を校舎に利用しているようだが、どこもかしこも小ざっぱりと気持ちよく整えられ、さりげなく飾られた絵画がイチイチ決まっている。簡単に真似ができないレベル。それでいて誰もが親しみを抱くインテリアで心落ち着く。

さらに屋根裏には寄宿生のための寮が用意され、まるで絵本の世界ではないか。ここで暮らしながら学べるってマジに天国じゃね?恐るべし北欧マジック。少なくともわたしが知る学校環境とはまるで異なり、機能的かつ温もりのある空間作りに早くも脱帽するしかない。

学生側に目をやれば、アイスランド全土からごくフツーの若いお嬢さんたちが集まってきている。「主婦になるためじゃない」「手仕事に興味があって」…と、目的は様々だが、誰もがここで学ぶことに意欲的。そう、生活全般の知恵や技術を身につけることは、じぶんの人生をよりよきものにすると考えているのだ。「就職」に紐づいた学びにしか価値がないと思い込んでいる日本人とは、”決定的に違う”のだ。

授業シーンがこれまた楽しそう!秋に入学した学生たちは、バスに乗って遠出し、ベリー摘みの実習から始まる。ケーキやジャムを作るため、収穫から体験させるというダンドリだ。すんばらしいロケーション、ベリーってこんなゴツゴツした岩肌に実るのか!日本でこんなプログラムを実現するなら、授業というより、旅行会社のツアー商品だろう。

授業シーンの中で、登場頻度が高かったのは、やっぱり調理実習。目の保養にもってこいだからね。ただこの学校では、じぶんたちのその日の食事作りから始まっているので、授業と生活の区分けがなく、とても理想的な基礎実習方法に思えた。完成した夕飯を校長先生も交えて大家族のように食べ、食事を終えたら手をつないで「ごちそうさま」とねぎらいあうシーンなんて、美しすぎてめまいすら覚えたわ…(汗)。

その一方で、伝統料理や凝ったおもてなし料理も丁寧に学べるわけで、生活文化はこんな風に自然体で伝承されるのがベストだと感じた。母から娘とか、母から嫁へみたいな形骸化した家族幻想に未だに縛られていたり、食事作りの価値を無償奉仕としてしかみなしてこなかった我々とは “こうも違う”のだ。

他にもテーブルセッティングにマナー、洗濯&アイロンかけ授業もあれば、洋裁や手芸ワークと、盛りだくさんな内容。家事を基礎の基礎から学べるなんて、なんて贅沢!何よりすべての学びを、じぶんの生活技能を高めるための実学とおいているところにグッときた。

映画の構成は、卒業生たちのインタビューを交えて進行する。1997年に学校初の男子学生となった彼は「卒業するとき、校長に『あなたは幸運な男性になるわ』と言われた。人生でうまくいかないことがあるたびに、その言葉を思い出し乗り越えてきた」と語る。さらに、卒業後に環境大臣になった男性まで登場し、母校の取り組みを「いまこそ意義がある」と賞賛する。かんじ良すぎてケチのつけようがない。本当にここでの体験が、じぶんの人生に実をなしているのだろう。

今回初めて知ったのだが、良き主婦になることを目的としたいわゆる”花嫁学校”は、かつて世界中に作られていたらしい。でもって今ではどこも衰退。同様の目的で創立しながら本校は、時流に目配せしつつ「主婦」から「家政」へ学校名を変えたり、男女共学にしたりと教育内容はそのままに、アピールポイントを刷新して、現在も存続する数少ない例とか。それでも、学校継続の許可が下りるのは、毎回新学期が始まる1ヵ月前(!)だと言うから、マルグレート校長も、気が休まる暇はないだろう。

運営母体の大小にかかわらず、どんな学びの場を継続的に整えて行くかは、その国に生きている人々の在りたい姿が反映される。気負うことなく生活を大切に営み、自立した人生を楽しもうと考えるアイスランドの人々に、俄然興味がわいた。

生活全般を回せるようになることは、自らと社会の関係について認識することであり、それは共同体を維持するための規範を考えることにつながる。これぞまさに教養だ!”ジェンダー平等”先進国は、国の旗振りだけでなしえたものではない。よりよき市民になるための意識が、長い時間をかけて日常的に育まれているのだ。

映画は卒業式後の歓談シーンで幕を閉じる。小さな学校の小さなセレモニーのそのまた小さな階段前の通路が舞台だ。何もこんな窮屈なところでカメラを回さなくても…と呆れるような一角である(笑)。でも、ここに入れ代わり立ち代わり現れ、感謝と歓びをそっと噛み締め合い、別れを惜しむ学生たちの姿がたまらなくイイ。静かにねぎらいあう姿が胸に染みた…。寝食を共にしながら学んだ校内の道辻に、よき市民たちが集う絵として、特に忘れ難いものとなった。

ところで日本の家庭科教育は現在どうなっているのだろう。50年前のわたしの体験とは様変わりしているはず。本作を見て急に気になり始めた。ちょっと調べてみよう―。

『主婦の学校』

2020年/78分/アイスランド

監督/脚本/編集 ステファニア・トルス

製作/音楽/音響 ヘルギ・スババル・ヘルガソン

出演 マルグレート・ドローセア・シグフスドッティル

■『東京自転車節』

地元の山梨で、代行運転の仕事をしながら映像制作をしていた青年、青柳拓(あおやぎたく)26歳。2020年春、新型コロナウイルス感染拡大の影響で仕事がなくなり、収入が途絶えた彼はホトホト困った…奨学金の支払いは待ってくれないからだ。東京の大学で映画を学ぶために必要だったその額、何と550万円也。彼の住む市川三郷町は、コンビニ・バイトもない地域らしく、収入の見通しが立たない中、身動きが取れずに焦りまくるのはもっともな話だ。

青柳拓監督の『東京自転車節』はこんなふうに始まる。去年の春、我々全員が経験したあの新型コロナ感染第一波の状況下で、身辺に起こったあれこれを、ほぼ自撮り撮影で綴るというわけだ。

ったく、映画監督ってヤツは油断もスキもない。自己表現で生きている人間なら当然の流れとはいえ、まったく先行きが見えないあの頃に、自身が駆けずり回った事実を刻印し、その一回きりの博打をお披露目しちゃおうという魂胆か~!観客はじぶんたちのあの頃を回想しながらの目撃となり、リアル度は自動的に増幅。そりゃあ、面白くないわけがない。

そもそも本作は、崖っぷちに立たされていた青柳監督が、「ウーバーで働きながら撮ってみない?」と大学の先輩に誘われ、二つ返事で始まったらしい。コロナ禍で俄然注目されるようになった自転車配達員をやりつつ、緊急事態宣言下の東京をじぶんの眼で目撃できるチャンスに乗らない手はないと―。

ただ情報の少なかった当時、地元から想像する東京は恐れMAXで、家族も出稼ぎには猛反対。そこをカンだけで押し切り、向こう見ずに飛び出して行ったのだから、筋がイイ。やっぱ映画作りを志すなら、あの”B級映画の帝王”ロジャー・コーマンの血筋を引いてこそナンボでしょう(笑)。とりあえずカメラを止めるな!だ。

さて2020年4月21日。颯爽と自転車に跨りたどり着いた東京は、異様な静けさに包まれていた。早くも若干の後悔を口にする監督。いやいや、スマホと小型の高性能アクションカメラGoPro(ゴープロ)だけで綴る単独記録映像は、泣きごととは相性がいいので要注意だ。それでなくても青柳監督は、童顔&おっとり口調で闘争臭の欠片もないキャラ。弱音を吐いても、その純朴さで逆に親密感が2割増しになりそうな青年だから、ここは冷静に見届けなくては―。

早々にお仕事がスタート。履歴書も面接もなく、スマホと自転車があればすぐに稼げる仕組みを、我々は監督と一緒に体感することになる。と同時に、口座残高313円(!)をスクリーンに提示し、現時点の窮状を数字で共有するあたりも抜け目がない。残高を見せられたところで間に受けはしないが、インパクトだけは受け手の身体に残る。金の話に飛びつかせると、映画はグッと野性味を帯びてくるのだ。

ウーバー戦国時代に参戦した初日、”我々”の収益は7,686円也。えっ?時給換算にするとマズくない?…イマイチ相場観がつかめないが、その夜はTくん宅へ転がり込む。この友人は、監督と対照的にふてぶてしい見た目の割には几帳面かつ繊細で、コロナが怖くてずっと引きこもり中。筑前煮を作りながらネガティブモードでもてなしてくれる様子が、帰省した息子を見守る母親目線になってて可笑しい。母性の成熟は家にいる時間の長さに比例するのか―。

そして映画はドンドン具体的になる。店とも客ともほとんど交流のない自転車配達の仕事では、想像以上にモチベーションの維持がキツそうだ。監督が雨に濡れながら、ハンバーガー1個とかタピオカドリンク1個を必死で届けるときに、フト虚無感に襲われるシーンの生々しいこと。稼ぐ必要性があり、目新しいスタイルの働き方を選んだとはいえ、簡単にマシンになり切れないのが生身の人間。結局労働には、金銭とは別の確かな動機づけがないと踏みとどまれない。さて監督は、どうやりくりするか。

ただ、労働体験と映画作りの2本柱が前提の監督は幸運だ。先輩配達員に効率のイイ稼ぎ方を伝授してもらったり、同郷の友人たちと励まし合ったり、ザンネンな独り誕生日ごっこに興じたり、ナマケ癖がたたって遂には路上生活者になったり…と、どこまで仕上がりを意識して仕掛けたアクションかは定かではないが、多くの国民が息を潜めて過ごしていた非常時に、身体を路上へ投げ出して拾い上げる悲喜こもごもは、それだけで映画を彩る旬の食材になるからだ。

その反面、監督の呆れるまでの素直さは、どんな苦労話にも柔軟仕上げ剤効果を与えてしまい、ムダにひとりウットリ方面にも、批評の域にも届きそうで届かない。何より550万円もの借金に無自覚すぎてちょっとイラついた。映画がふんわり漂っている状態じゃ、我々の思考は回らないんだよな。そんな頃合いで非常事態宣言が解除される―。

国家の長が、新たな日常をおくるための新しい生活様式を指し示したとき、監督は突如スイッチが入る。行きずりの老婆から70年前の記憶を聞かされたことで、焦土と化した戦後の東京と、コロナに振り回される今の東京を重ね合わせ、じぶんなりの突破口を模索し始めるのだ。

ここから目を引くのは、監督の始める”新しい日常”が、もう一度ウーバーでの労働に立ち返る点だった。彼は、当初の目的=出稼ぎを最大化するため、事業側が仕掛けるキャンペーンに手を上げる。3日間で70件のノルマを達成させると、特別なインセンティブが入る企画に、自らを追い込もうというのだ。

今更ながらカメラは恐ろしい。被写体のホンキの負荷をきっちり記録する。それも、監督の内面が変容するというより、監督の身体によって行く先々の空気が塗り替えられてしまう様子を映し出し、ホラー映画のレイヤーにシフトするではないか!異様な緊張感。生理現象としての髭面もわかりやすく効果大だ。そう、いつしか監督自身が走る非常事態宣言になったのだ。意表を突かれた…一瞬にせよ、あなたが一番おっかなくなるとは…ね。

ラスト。最大クエストとやらを達成した監督の頭上を何食わぬ顔でブルーインパルスが飛ぶ。なるほど、70年後のコロナ禍の東京には、360万円の税金爆弾が投下されたと皮肉ってみせたわけか。はい、労働者のささやかな抵抗は、しかと受け止めましたよ。でも、監督の借金はブルーインパルスを飛ばすより多額だという自覚も忘れずに。奨学金完全返済までの道のりと、その仕組みの問題点こそ、ぜひ映画化してほしい。

『東京自転車節』

2021年/93分/日本

監督 青柳 拓

構成/プロデューサー 大澤一生

音楽 秋山 周

編集 辻井 潔

出演 青柳 拓

■『クリスト ウォーキング・オン・ウォーター』

おもしろい。おもしろすぎる。26歳の年の差などまったくもってノープロブレム。細身で白髪の老人に、もうメロメロだ。

老人の名はクリスト(CHRISTO)。言わずと知れた20世紀を代表する芸術家だが、ここで彼の経歴には触れない。各自ネットで調べて。わたしだって、実際の大規模プロジェクト体験は一度もなく、正直言ってどう評価していいのかわからない。だから純粋に、ドキュメンタリー映画の被写体として見た!そして恋した!

見知らぬ年寄りの記録映像は、薄暗がりのアトリエから始まる。我がヒーローは、お茶の水博士ヘアスタイル+防毒マスク姿でぼんやり立ち現れて…オイオイここはどこの惑星か?それとももしかしてゴースト?いや、立ち居振る舞いにスキはなく、独り黙々と作業に集中する様子が、早くも高齢者であることをカンペキに忘れさせる。描きかけの作品に繊細に手を加えていると思ったら、躊躇なくでっかいキャンバスを動かしたりもして、仕立ての良さそうなストライプのシャツに汚れがつきやしないかと、そっちにハラハラ(汗)。

しかもハラハラはどんどん加速する。階下でPC作業に勤しむアシスタントを襲撃し、おっそろしくせっかちにまくしたてて大騒動。「違う!これじゃない!」「早く送れ!」。デジタルを知ろうとしない輩にありがちな煽り指示で詰め寄り、めんどっこいジジイ全開である。万事心得てる風なアシスタントくんとはいえ、ツイ同情。そのうえプロジェクトメンバーとスカイプで打ち合わせを始めれば、当初の企画案をひっくり返し、罵詈雑言が止まらない…。いやはや我がヒーローは、眺めるだけでも脇汗をかく。

しかーし、クリストが世間に姿を見せれば、どこもかしこも人だかり。盛んに声を掛けられ、サインや写真撮影にも気軽に応じる人気者。つい、政治家並みの軍資金集めか?と邪推したくなるが、実は彼は制作費のすべてを自腹でまかなっているという。それはそれで驚くべき事実だが、だとすればなぜわざわざ世界中に出向き、権力者から子どもまで、誰に対しても真剣にじぶんのビジョンを語る必要があるのかという新たな疑問が浮上する。勝手に自己実現すればいいだけの話じゃないかと―。

こんな作品を作ってきた…こんなことを実現したいと思っている…ただし、純粋な芸術作品を発表するだけで他に役目はないと言い切るクリストの正直プレゼン。地元N.Yの小学生に「なんで芸術のために我慢ができるの?」と尋ねられたクリストは半ばムキになって即座にこう答える―「我慢じゃない、情熱なんだ!」と。子どもたちに向かって、芸術家は職業じゃない、オレサマは24時間ずーっと芸術家だと、真顔で言えるクリストが眩しくてしょうがなかった。

やがて、金の無心をするわけでもないのに、直接出向いて広報活動に勤しむ理由が飲み込めるようになる。彼の活動に最も重要なのは、じぶんが実現したい芸術の理解者を増やすこと。クリストが手掛けてきたプロジェクトは、コロラドの渓谷にオレンジの布を張ったり、ベルリンの旧ドイツ国会議事堂を銀色の布で包んだりと、地球をキャンバスにした壮大なもので、とにかくアイデアがあっても設置許可が得られないことには実現できない。交渉に云十年かかるなんてザラらしく、あらゆる方面から理解者を増やすことが、実現へ向けての布石となるのだ。

そしていよいよ本作のメインイベント。2016年に北イタリアのイゼオ湖で実現した『The Floating Piers(浮かぶ桟橋)』の現地映像が始まる。全長3キロの布の道を湖上に浮かべ、来場者に水の上を歩いてもらおうという大規模プロジェクトの舞台裏が、砂かぶり席で鑑賞できるのだ。しかも彼のプロジェクトでは、どれほど困難を極めた企画でも、発表期間は限定され、終了後の資材はリサイクルに回されて跡形もなくなるので、この砂かぶり席がどれほど貴重か!

さて、実現前から十二分にハラハラだったが、現地に行ってからもすべてが予測不能。あーそうか、生きるとはそもそも予期せぬことばかりなんだと、二回り以上も年長の爺様に教えられることになる。

例えばこんなシーン。はじめてクリストが、湖面に連結させた樹脂製のキューブの上を、恐る恐る歩いてみせるところ!その無邪気な歓びっぷりに、目頭が熱くなってしまう。これで水の上を歩いたキリストと肩を並べたわね(笑)。クリストの右腕であり、現場の最高指揮官として支えるヴラディミアとのやりとりも、毎回シビレた。互いに譲らずエンエンと論争を続け、それでも「やっぱりイヤだ…」といつまでも駄々をこねるクリストの横顔をカメラは逃さない。絶対君主制では、叶えたい夢は実現できないという決定的瞬間である(笑)。

それでも一番悩ましいのは天候だ。自然には逆らえず、ダンドリは狂い、せっかちクリストには待ち時間こそ拷問。しかし止まない雨はない。握力の強い我がヒーローのオープニングは見事な快晴。窓からは、ゴッホの麦畑のような黄金色の道が現れるではないか~ わぉー!

さて、これにてめでたしめでたしと収めたいところだが、生きるとはそもそも予期せぬことばかりだから、これで終わらないのが本作。むしろここからが本番。来場者が多すぎて、いつ事故が起きてもおかしくない非常事態になってしまうのだ。一般的に、安心・安全を配慮するあまり、何かと規制をかけるのが行政側の出方だが、ここではその逆。私費を投じて、しかも入場無料で提供するクリストのプロジェクトに便乗し、はしたなくも観光で一儲けしようと行政側が鞭を打つから厄介。

そうそう、金銭絡みの俗臭たっぷりな爆笑エピソードが他にも登場する。冒頭のアトリエシーンで制作していた今プロジェクトのためのドローイングやコラージュが、会期中、ホテルの一室で販売されるのだが、意気揚々と乗り込んだコレクターが、あまりの高騰ぶりにひるみ、思わず女房にTELで相談するから笑った。ぼったくり男爵たちをぼったくる構図の痛快なこと!公的資金も寄付も使わず、作品販売が資金源になるクリスト国財政のしくみ、いやはや実に興味深い。

その後プロジェクトは行政と話し合いの場を持ち、人数規制をして再開。来場者120万人で16日間の展示を無事に閉幕する。最終日、ヴラディミアの計らいでヘリに乗り込み、我が創造物を望み見るクリストは何を思っただろうか。きっと上空で、2009年に亡くなった共同制作者であり妻のジャンヌ=クロードと語り合ったに違いない―「今回も感動したね。また美しい作品ができたね」と。

会期中に発表された英国のEU離脱に驚いたり、転んで顔に擦り傷を作ったり、差し入れの生卵をちゅーちゅー吸い尽くしたり…24時間芸術家はどんな瞬間も「真剣(マジ)」だった。そして「現実のものが好きだ」と公言するこのリアリストは、やれやれと寛ぐ素振りなど一切見せず、いつも立っていた。幕切れまで心身ともに同じトーンで。

宿を引き払う朝、手慣れた荷造りの様子が冒頭のアトリエシーンと響き合い、何とも心地いい。我がヒーローは感慨にふけることなく古ぼけた旅行ケース一つを転がし、サラリと立ち去る。うーん、なんてカッコイイのよ~。

7か月後、今度はラクダと沙漠のアブダビに降臨。1977年から構想を始めた41万個のドラム缶で作る巨大彫刻プロジェクトの予定地だ。―が、2020年5月31日急逝。享年84歳。本作は、クリストの生前最後に実現したプロジェクトの記録映像となった。ナレーションの代わりに、オリジナル楽曲で伴走する構成も素晴らしい。傑作。

『クリスト ウォーキング・オン・ウォーター』

2018年/104分/アメリカ・イタリア

監督 アンドレイ・M・パウノフ

製作 イザベラ・ツェンコワ ヴァレリア・ジャンピエトロ

音楽 ソーンダー・ジュリアーンズ ダニー・ベンジー

出演 クリスト ヴラディミア・ヤヴァチェフ ウォルフガング・フォルツ

■『わたしの叔父さん』

目を凝らさないと判別できないような、薄暗い物置部屋を映し出して、映画は始まる。とりあえず、動くものはない様子。音楽も流れないし……とっかかりゼロの、何ともお地味なファーストショット。情報がなさ過ぎて、逆にどんな意図があるのだろう?と、身を固くしたほどだ。

そんな静かな空気を、フイに目覚まし時計のアラーム音が打ち破る。これを合図に一転、本作の骨組みと情報のほとんどを、一筆書きでスーっと開示してくるから、身を乗り出さずにはいられない。舞台となるのは、デンマーク、南ユトランド地方の農場である――。

起床した瞬間にキビキビと動き回る金髪のヒロインは、クリスという名で27歳。手短に身繕いをして、体の不自由な叔父さんの身支度に手を貸し、ふたりで朝食のテーブルに着く。パンとシリアル、ヌテラ(ピーナッツチョコ)と紙パックドリンク、ワールド・ニュースと数独(ナンプレ)本…じぶん好みの食事のお供を各自用意し、眼を合わせることなく黙々と過ごす早朝のひととき。

やがて隣接する牛舎で酪農作業が始まる。メインに動くのはクリスだが、叔父さんも歩行器を使いながら巧みにアシスト。作業後の手洗いにさえ阿吽の呼吸が流れ、「なにも足さない…なにも引かないbyサントリー山崎」並みの安定感に脱帽するばかり。

驚くのはまだ早い。この後もふたりのよどみない動きが、我々にある種の快楽をもたらすよう映画は進む。洗濯物を畳み、買い出しに行き、食事の用意&後片付けも常にいっしょ。夜になればふたりでゆったりゲームを楽しみ、眠る直前までリビングでTVを見ながらお茶をして寛ぐ……。叔父と姪のニコイチプレイが一日中止まらないのだ。

でもなぜ我々は、何の変哲もないふたりの日常を、退屈するどころか面白がって眺めていられるのだろうか――。まずこの時点でわかるのは、クリスにやらされ感がゼロだということ。叔父さんへの素晴らしく行き届いたケアが、若さ眩しい未婚の女性の”意思”で行われていることに、確信が持てるからだ。喜んで世話をしているんだな……叔父さんを心から大切に思っているから目配せが丁寧なんだな……と。

さらに、クリスの繊細な配慮は、あらゆる場面で顔を出す。夜更けに牛の異変に気付いて死産を回避させたり、子牛の病を見逃さなかったりと、出入りしている獣医のハンセンから助手になってほしいと懇願されるほど筋がイイ。もともとクリスは獣医志望の学生だったらしい。だから、叔父さんが倒れ、農場を守るために進学を断念した経緯を知るハンセンは、研鑽が積めるための応援を惜しまない。彼女の能力を将来につなげてもらいたい一心なのだ。

一方で我々は、クリスの気難しくて頑な一面も頻繁に目撃し、その理由を遠巻きに知ることになる。14歳で父と兄を相次いで亡くし、以来叔父さんの農場で同居するようになったが、未だ父の自殺を受け入れられないあたりに、息苦しさの根っこがありそうだ。確かに幼くしてそんな喪失感を味わってしまったら、TVから流れる世界情勢は無論、身近な世間にも背を向け、ひとり数独本に没頭するのも無理はないだろう。しかしそれも時間の問題か――。

ある日クリスは教会で、見知らぬ青年・マイクと出くわす。偶然が2度続けば必然である。さわやかな彼からすかさずデートの誘いもあり、恋愛感情の芽生えにこれ以上ないほどの好条件が揃う。スクリーンを前にすれば、誰もが大手を振って恋愛至上主義者になれるのが映画の醍醐味。すでにクリスに関して訳知り顔となっている我々が、身内気分で胸をなでおろすのも自然な成り行きだ。

いつも静かに寄り添い続けてきた叔父さん。そこに新規参入するキャリア支援役のハンセンと、人生伴走候補のマイク。

そのうえ、エミール・ノルデの水彩画を思わせる美しき故郷の風景がヒロインをゆったりと抱きとめ、遠回りしながらも、今の彼女は世界にもてなされている。

ところが、案の定というか、やっぱりというか……。将来への期待が膨らめば膨らむほど、クリスは心の整理がつかない。獣医学に集中すれば叔父さんへの後ろめたさであたふたし、ロマンチックラブも、叔父さんを隠れ蓑にして溺れないよう絶えず後ずさってばかり……。挙句の果てには、選択肢が増える混乱で、善意のもてなしをバッサリ切り捨て、ちゃぶ台をひっくり返すから手に負えない。

観客という奴は勝手なもので、予定調和な未来図よりはリアルな日常を欲するものの、ここまで主人公が安心&安全のルーティンにしがみつくと、むず痒くていたたまれなくなる。しかも新規参入者たちは恨むことなく撤退し、叔父と姪のニコイチプレイが、何食わぬ顔で再演されて膝カックン。えっ?結局この人生すごろくは振り出しに戻るってわけ?

意表を突く”振り出し戻りシーン”に、わたしはどっと力が抜けた。知らぬ間にクリスの頑なさが私にも伝染していたようで、思わず苦笑い。我らのヒロインが、来るべき未来の時間を想像し、博打が打てないことはよーくわかった。差し当たっていまいま必要なのは、叔父さんという名の古い杖なのだろう。そうと気づけば、冒頭の何も動かない物置小屋のシーンは、彼女の心中のようにも思えてくる。まだ潮目は変らないようだが、動かぬ生活だって一つの幸福の形だ。ただ映画は、最後に一滴の雫を落とし、寸止めで幕を下ろしてみせた――。

いつもの朝、いつもの食卓、そこに流れるいつものワールドニュース。叔父と姪のニコイチ朝食プレイは判で押したように今日も繰り返される。――が、突然音声がプツリと途絶え、何とTVが故障。そう、映画は幕切れに、世界のノイズを遮断したのだ。するとクリスは数独本から頭をもたげ、今はじめて見るかのように叔父さんの顔をマジマジと眺めるではないか!

じぶんの意思をもってしても、予期せぬことが起こり続けるのが世の常。なるほど、モノが壊れて潮目が変わることは十二分にあるだろう。音声が消えた食卓で、クリスは一体何に反応したのだろう……。2人がいつも無言だった事実にハッとしたのか。それとも、本当はじぶんが叔父さんに依存していることに気づいたのか……。いずれにせよ、諸行無常。一滴の雫の波紋はスクリーンの外へ外へと広がり、閉幕後も我々の想像力を刺激して止まない。

男性目線の成長神話にも、女性目線の変容神話にも安易に乗らないクリス。外からもたらされたものでなく、内なるじぶんが何かを掴んだとしたら、『わたしの叔父さん』は新しいヒロイン像の誕生に立ち会う映画かもしれない――。

『わたしの叔父さん』

2019年/110分/デンマーク

監督・脚本・撮影・編集 フラレ・ピーダセン

プロデューサー マーコ・ロランセン

音楽 フレミング・ベルグ

出演 イェデ・スナゴー ペーダ・ハンセン・テューセン

■『淀川アジール~さどヤンの生活と意見』

琵琶湖から大阪湾に流れ込む一級河川・淀川。その河川敷に手作りの小屋を設え、20 年ほど前から暮らし続けている男がいる。70歳を過ぎたその人物は、“さどヤン”と いう愛称で呼ばれている。田中幸夫監督による本作は、そんな彼のライフスタイルに 長期密着したドキュメンタリーである。 

川を眺めながらの一軒家暮し、しかも拾い集めた素材で作ったマイホームを構えてい るさどヤンだが、地面を所有していないとなると、わが国での扱いは不法占拠の輩で あり、世間の目もズバリ“ホームレス”。皮肉なことに、ホームを持っているのに ホームレスである。

そしてホームレスの人々を映像で扱う場合は、わたしの知る限り、「ホームレスの身 だけど、こんなに知恵者」「ホームレスなのに毅然と生きている」というふうに、意外性を賛美し、座布団を敷いて見守るフォーマットがほとんどだ。劇映画でもドキュメンタリーでも...。そこでいつも気になるのは、世間的価値を正解としたうえで、彼らが比較検討される点である。ホームレスは事実だが、それを一般的なものさしの下 から評価し、「なのにスゴイ」と持ち上げるのは、どこか違和感をおぼえるのだが...。

私自身、ホームレスに限らず、じぶんの中で対象を弱者として認識するときに、個人的なクセで勝手に判断してしまうところはあって、しばしばマズイなあと省みることが多い。だから、じぶんに揺さぶりをかけるためにも、絶えず異なる視座を備えた映画を探し求めているような気がする。前置きが長くなったが、そこでさどヤンである。

正直言って、ここでのぞき見するさどヤンの生活、ビジュアル、発言のすべては、自由で活力ある老人の模範図のようで、ホームレスという座布団など意味をなさない。 地に足がつき過ぎてて、むしろ驚きに乏しいほどだ。

彼は革命家ではない。リアリストである。アルミ缶拾いで1日500~1000円、週1回の 清掃の仕事で5300円を稼ぎ、カレンダーには仕事スケジュールが書き込まれ、自己管理もバッチリ。一級河川を台所にして、シジミを採ったりハゼを釣ったり...。バーベキュー後の捨てられた炭を煮炊きに再利用するのはもちろん、太陽光発電システムまで手作りし、東急ハンズの店員にだってスカウトされそうだ。

マイホームの隣には、誰でも立ち寄れる休憩所を設け、公共性を担保。社会意識が高く、ひとりでSDGsミッションを回しているようにすら見えてくる。「ぜんぜん無理がない。不自然さの欠片もない。だからなのか、様々な人々がここを訪れ寛いで行くが、それが群像劇の顔ぶれに酷似して映り、かえって印象に残らなかったりする。言葉使いとイイ風格とイイ、やけにホンモノ感たっぷりな元西成の手配師でさえ、なぜかさらっと見流してしまうのだ。だって、落語に出てくる人情長屋フォーマットから、一向にハミ出さないのだもの...。

貨幣経済と折り合いをつけ、人情ユートピアも実現させ、技術を武器に、かつ自然をも味方につけ、持続可能な生活を維持するさどヤン。そのバランスのイイ暮らしぶり は、じぶんの頭と身体で考えて試行錯誤を繰り返した証しだろう。だから、驚きがないこと=安心安定なわけで、それを物足りなく感じるとしたら、わたしの側に問題がある。

元々田中監督は、問題定義を引っ提げて被写体を狙う作家ではない。異端扱いされがちな人々を、ごく普通に承認される場所へ送り出すための、きっかけ作りに一役買って出るのが持ち味だ。だけど今回の被写体は、揺るぎない個で立ちつつも、世間との親和性が高く、そもそも心も身体も全開放的な環境下に置かれているわけで、もてなす必要がまるでない。さて監督の出る幕はどこにあるのか―-。

そういえばあったなあ...と、記憶を呼び覚ますシーンが最後に登場する。関西方面を 直撃し、多くの被害をもたらした台風上陸中の映像だ。確かこの日、じぶんも早帰りしたっけ...と振り返りつつ、スクリーンに意識を戻して...ハッ、とした。被災地域は、まさにさどヤンのテリトリーではないか!

我ながらイヤな人間である。安心安定に退屈しておきながら、いざ波乱の気配を察知すると途端に身を乗り出したりして、単なるのぞき屋ですわ(汗)。そして田中監督は、そんな俗人好奇心に応じるかのように、台風一過のさどヤンを訪問する。はい、 満を持してここでもてなしを繰り出すわけだが、いやー、このくだりが実にイイのだ。

すでに淀川は、何事もなかったように胸襟を開いて流れていたが、さどヤンのマイホームは、あの強風でひとたまりもない状態に陥った。建物の半分は辛うじて残ったが、生活必需品は全部飛ばされ「みんなパア」。それでもカメラを前に苦笑しながら こうつぶやく―-「何もかもなくて気分ええわ。ホームレスらしくなったやろ?」と ―-。

どこ吹く風を装い、自嘲気味にサラっと言葉を紡ぐさどヤン。しかし私の耳には、 「なーんにもなくなって、これで世間が望むホームレス像になっただろう?」と、挑発するかのように聴こえたのも事実。そう、「ホームレス」という在り様に対して絶えず意識を尖らせ、誰よりも自覚して生きてきたのは、他ならぬさどヤン自身なのだ。だから、わたしや世間がどう捉えようとも彼の中では端から想定内だし、いかようにも振る舞えるとの余裕がある。なるほど、矜持とはこういうことか―-。

さらに一転、幕切れでは、さどヤンの恐ろしく無防備な横顔が差し挟まれる。殺されかけた愛犬を必死の看病で救い、リハビリに寄り添う姿は一服の宗教画...まるで聖家 族の絵のようなシーンが登場する。災害と病気に対し、いつだって彼らが抱えるリスクは大きい。しかしその一方で、これほどあらゆる生命と向き合う日常はないかもし れない。しかもその営みをさどヤンは、ごくシンプルに「人間の仕事は生きること や」と説くのだ―-なんて痛快。

『淀川アジール~さどヤンの生活と意見』
2020年/73分/日本
監督・撮影・編集    田中幸夫
企画    大黒堂ミロ
朗読    ナオユキ
出演     さどヤン




■『のぼる小寺さん』

内容はもちろん、タイトルもろくすっぽ見ないまま劇場に駆け付けた『のぼる小寺さん』。それでも幕が開いた瞬間、「へぇー、小寺さんって子が、本当にのぼる映画なんだあ~」と、最短であたりがついた。だって笑っちゃうくらいタイトルのマンマなのだから―。 

開口一番、小寺さんと呼ばれる白目のきれいな女の子が、ボルダリング競技に挑んでいる。傍らには、彼女の背中を見上げて、声援を送る仲間たちの横顔が並ぶ。ボルダリングに多少の現代性はあるものの、正直言って眼にタコができるほど見慣れた競技中継フォーマットだ(汗)。そんな小寺さんに、ひときわ熱い視線を送るのっぽの男子を、カメラがスッと抜くあたりもお約束。この後のカップリング予測までつきまくりだが…それで大丈夫?

そして何と驚くべきことに、これが映画のすべてだからかえって潔い。だったら10分で終わるって?そう、『のぼる小寺さん』は、映画の骨組みを10分で開示し、残り90分で観客を“小寺マジック”にかけようという狙いなのだ。しかもマンマとその通りにのせられるから困った。まさか還暦前のババアが、学園ものにスンナリ溶け込めるとは…苦笑するしかない。

さてそんな、“小寺マジック”とはなんぞや―。高校のクライミング部に所属している小寺さんは、クライマーに憧れ、ボルタリングに熱中する毎日。当然のことながら我々は、好きなことにひたむきに取り組む彼女を映画の主人公にして眺めるのだが、すぐに勝手が違うことに気づく。

意外にも小寺さんは主人公ではない。常に物語の中心に存在はするが、あえて例えるならその役目は「背景」なのだと気づく。そして、アイドルの放つ天然の輝きを、ダイレクトに映画の「背景」に使った点が本作の新しさなのである。

実は『のぼる小寺さん』の主人公は、冒頭に登場した応援団の側であり、何と4人もいる。まずは、あののっぽの男子近藤。クライミング部の隣でチンタラ卓球の練習をする彼は、小寺さんの一生懸命な姿が気になってしょうがない。暇さえあれば彼女を眼で追い、「なぜ登るのか…」と、じっと見守る。はい、古今東西を通じて、それを恋と呼びますね。

もっとわかりやすく小寺さんに近づく男子も登場する。いかにも運動が苦手で場違いな印象の四条は、小寺さんを追い駆けてクライミング部に入部。憧れのキミに並べるよう健気にコツコツ練習に励む。気弱BOYは体当たりで思いを伝える作戦に出るようだ。

小寺さんに夢中になるのは男子ばかりではない。カメラマン志望のありかは、こっそり小寺さんを被写体にしているうち、撮影の楽しさに目覚め始める。誰にも打ち明けられず、独りで紡いできた趣味の世界が、徐々に形を変えて行くから面白い。

まともに登校せず、チャラチャラ遊び歩いてる梨乃も、小寺さんのふんわりとしたリアクションには、なぜか自然に打ち解けられる。マメだらけの小寺さんの手に、得意のネイルをしてあげたりして、カッタるい彼女の毎日に、ちょっぴり彩りが蘇る不思議さ―。

…とまあ、ある日偶然小寺さんを見つめるようになったクラスメイトたちが、あれよあれよという間に小寺さんに魅せられ、勝手に自己変革を遂げて行くのである。ある意味恐ろしい。神がかり的と言ってもイイ。だから“小寺マジック”。

ところがそのメソッドは、まったくもって小寺さんの意図せぬものだから、再現性はなく、「なんでやねん?」の連続である。美貌、知性、リーダーシップ力etc…小寺さんはおよそ何も発揮しない。カリスマ性ゼロ。ただ、無垢な塊と化し、来る日も来る日もひたすらその先に向かってのぼり続けるだけだ。何よりじぶんが嬉しいから―。

一方で、なぜ小寺さんはスクールカーストの枠外にいられるのだろう…そんな難問も浮かぶ。クライマーになりたいという夢が拠りどころになっているのは一つの要因。でも、個に執着してやり過ごせるほど学生生活は甘くない。じぶんを盛るのも消すのも、匙加減ひとつで状況が激変する狭い世界だ。

なのに小寺さんはそんな悶着とも縁遠い人として映る。独りてっぺんに上がっても、地上に降りて他者とまみれても、どんなシーンでも彼女はものさしを持たずに挑み、出し惜しみなしの全力投球。そもそもじぶんの着くべき座を意識していないため、彼女から発せられるものすべてに濁りがないのである。

小寺さんの輝きに引き寄せられた人々が、体内化学変化を起し、じぶんの知らないじぶんを発見してゆく下りは、映画ならではの贈りもの。そのために、“小寺マジック”をいかにあってほしいウソに仕立てるかは、作り手の腕の見せ所だろう。

放課後の解放感、学祭の共同性、校内を吹き抜ける風、試合前の張りつめた空気…学び舎の記憶を醸成させるスケッチの数々が素晴らしくみずみずしい。行き届いたディティールのパッチワークがあってこそ、観客の望むウソでもてなしができるのだ。あっ、そこで忘れちゃならない!工藤遥がボルダリングを、伊藤健太郎が卓球の猛特訓を受け、本人の実演で撮影に挑んだアクションの厚みが、一番の勝因だということを―。

そのうえ、最後に用意されたエピソードがいいじゃないの!無自覚にキラキラしてる小寺さん、みんなに見られるばかりだった彼女が、「僕を見てくれ!」とお願いされる夏の放課後。近藤に直球で告げられた小寺さんは、長い沈黙と共に、そこで初めて映画の主役の1人になるのだった―。

古厩智之作品との付き合いは長い。すでに四半世紀になる。タイトルも覚えずに劇場に足を向けるほど、監督への信頼度は高い。劇中、「がんばれ!」が何度もこだまするのに、まったく胃もたれがしないのは、この監督が勝ち負けや英雄譚を気に留めない作り手だからだ。それでいて、登場人物全員のきらめきだけは脳内にいつまでもリフレイン…。

腕のいい群像劇の職人監督、引き続き、定点観測させていただきます!

『のぼる小寺さん』

2020年/101分/日本

監督    古厩智之

脚本    吉田玲子

撮影   下垣外純

音楽   上田禎

出演工藤遥  伊藤健太郎