◾️『シンプル・アクシデント/偶然』

いやー、も~、気安くひと気のない夜道に車を走らせるなよ~、それだけで身構えるじゃないか~、人の気も知らないで…💦 幕開けとともにボヤキで始まった「シンプル・アクシデント/偶然」(2025年)。並みの監督ならともかく、イランの巨匠、ジャファル・パナヒの新作となれば、車中に夫婦と幼い娘の家族3人が乗車する光景だとわかっても、全く気が抜けない。案の定、不意に何かとぶつかり、パパが車を降りて確認に出たりして…ひぇー、こっわ。そのうえ野犬をひき殺したパパを真っ直ぐなじる娘と、事故も神さまの思し召しだとフォローするママの態度が強烈で、いったいどうなることやらとソワソワしていたら、ここでタイトルを差し挟み一旦外す―何とも見事な滑り出しである。

ただし、ホッと息をつく暇なく、今度はとある工場の前で車が故障。たまたま工場に立寄った男の好意で応急処置をし、なんとか無事に帰宅できるが、密かに一家は尾行されていた。店の二階で電話をしていた整備士のワヒドが、足を引きずるパパの足音を耳にした途端、血相を変えて一家を追跡していたのだ。一体何が起きたかは、眺めていれば瞬く間にわかる。それよりここは、わかるまでの引っ張り方をじっくり堪能すべきところだろう。

翌朝。一晩中見張り続けたワヒドが→例のパパと故障した車が修理工場へ運ばれるのをワゴン車で追跡。街の喧騒や、道を横切る野良犬のショットでLIVE感たっぷりの中→ワヒドがワゴン車内の道具を点検するシーンへ繋ぎ→いきなりパパをスコップで一撃。しかも目隠し&捕縛状態にしたパパを、砂漠に掘った穴の中へ突き落とし、今まさに生き埋めにしようとするからシビれた。目にも止まらぬ早業で、マフィア映画ノリの残酷展開へなだれ込み、アドレナリンが出まくりだ。

実はワヒドには、不当な投獄によって人生を破壊された過去があった。穴の中に突き落としたパパこそ、あのときの残虐な看守“義足のエグバル”で、その復讐を果たそうと燃えたぎっているのだ。ところが相手は、足のケガは最近のものだし、人違いだと言い張り、命乞いをする。正直言って、目隠しをされて監禁されていたワヒドには引きずって歩く足音の記憶しかなく、義足を確認してみても確証が持てない…どうする、ワヒド?

怒り心頭だったワヒドが、いったん頭を整理しようと、タバコを吸い始めるシーンは、愛煙家あるあるでサイコーだ。マフィア映画なら生き埋めにした後に一服するところだが、だだっ広い砂漠で暴力を寸止めにし、独り紫煙をくゆらせながら考え込む絵の可笑しさったらない。穴の中で命乞いをしている男はかつてのオレじゃないか?自分が受けた同じ暴力で復讐を果たしてそれでいいのか?―と、ここで映画が逆に暴走のハシゴを外しにかかるわけだ、ウマイ!

あんなに性急だったワヒドは、わからなくなったことで一旦クールダウン。“義足のエグバル(仮)”を木箱に押し込み、再びワゴン車を走らせる…自分と同じようにエグバルに苦しめられた者たちを訪ね、本人かどうかを確かめるためにだ。へっ?コメディじゃん、もう笑うしかない!

最初に接触したのはカメラマンの女性シヴァだ。よりにもよって、親友のウェディング撮影の最中に、エグバルの確認を迫られ渋々承諾。ところが彼女も目隠しをされていたから判断できないという。さらには花嫁のゴリもエグバルの犠牲者で、車の中に憎き男が捕縛されていると知り思わず卒倒。そのドタバタ模様は、スクリューボール・コメディの伝統的タッチに仕立てられ、つい声を出して笑ってしまった。その一方で、ゴリは花婿のアリがなだめるのを聞き入れず、逃げ出すどころが、男の正体をハッキリさせたいと怒りを爆発させる。自尊心を傷つけられた女たちの力強い叫びは、暴力で支配されたイラン社会の現実を想像させて余りある。笑いと戦慄の緩急のリズムもカンペキで、忙しいことこの上なしだ。

そこで、4人でワゴン車に乗り込み、復讐相手を唯一断定できるシヴァの元カレ・ハミドの元へGO。ただしコイツが、常時血管切れまくりの直情男すぎて、エグバルに違いないと殺しにかかり、大騒動に。全員が自分の手で片をつけたいと言い出し、収集がつかない。はい、またもや不条理コメディへ旋回。そして再び喫煙タイムだ♬シヴァとワヒドは一服しながら、とりあえずここは睡眠薬で眠らせたエグバルが目を覚ますまで待ち、自白させようと意見がまとまった。

流れ流れて復讐チーム御一行がたどり着いたのは、ワヒドが穴を掘っていたあのだだっ広い砂漠の真ん中である。そう、巡り巡って振り出しに戻ったわけだ。そこで芋づる式につながった男女5人が、1本の枯れ木を背景にぼんやりと時間をつぶす光景は、まさに不条理劇『ゴドーを待ちながら』。何が正義なのか?…本当に裁かれるべき相手は誰なのか?…人生を台無しにされた恨みで、激情にまかせて復讐にこだわったものの、空白の時間が彼らの意識に変化をもたらし始める。―と、そのとき、箱の中から携帯電話の鳴る音が―。

電話から聞こえてきたのは、泣きながらママを助けてと叫ぶ娘の声だった。御一行は咄嗟に助けに走り、破水した妊婦のママを親類と偽って病院へ運び入れ、無事に男の子が誕生するではないか!意表を突く展開。でもって、イランでは子どもが生まれると、菓子と花を周囲に配る風習があるらしく、金を出し合い、両親に成り代わって祝いの儀式までするハメに。なるほど、生まれた子に恨みはないからな。その流れで御一行はここで自然解散。とはいえこのままハートウォーミングな展開で終わるはずはなく、決着はワヒドとシヴァが担う最終コーナーへ。

そこは、黒澤の『羅生門』(1950)を連想させる藪の中だった。ふたりは目が覚めたエグバルに自白を迫る。特に、暴力に否定的だったはずのシヴァが執拗に尋問するシーンは、あえて観客に居心地の悪さを味わわせ、パナヒ監督らしい演出だ。ところが頑として口を割らなかったエグバルの態度が、息子の誕生を知った途端、一変する。妻を助けてもらったお礼にと、すべてを認めて自白し、現政権と最高指導者以上に大切なものはないと言い放つ。と同時に、殉教者という役回りを降り、生まれた息子に会いたいと許しを請うのだった。

復讐をとげるどころか、憑き物が落ちたように、憎き相手を置き去りにして立ち去るワヒド。同じ相手から2度命乞いをされ、彼には2度とも飲み込むしか術がなかった。そのうえでさらに、背筋も凍るような、現政権の支配から逃れられない日常を暗喩しての幕切れである。カタルシスを軽々とうっちゃり、射程距離を長く保って攻めに徹するパナヒ監督の姿勢に恐れ入った。

また本作では金と女性にも要注目だ。良くも悪くも金銭が面子の維持のために使われるやりとりは興味深かったし、登場する女たち(幼女から老母まで!)の誰もが自分の言葉と強固な意志を持って描かれ、見惚れた。カッケー!
第78回カンヌ国際映画祭パルムドール受賞作。

2025年/103分/仏・イラン・ルクセンブルグ
監督・脚本/ジャファル・パナヒ
撮影/アミン・ジャファリ
編集/アミル・エトミナーン
出演/ワヒド・モバシェリ、マルヤム・アフシャリ、エブラヒム・アジジ、ハディス・パクバテン、マジッド・パナヒ

◾️『自然は君に何を語るのか』

「自然は君に何を語るのか」は、 ホン・サンスが2025年に発表した最新作。なんだか堅苦しいような…青臭いような…意味深なタイトルだ。一方で、哲学的命題をうっちゃり、茶化しているようなニュアンスも漂ってこないか?―何せデビュー30周年のこの作家は、映画界においてまごうことなき巨匠のポジションを築きながら、キャリアを積めば積むほど制作所帯はミニマムになり、今では監督・脚本・製作・撮影・編集・音楽までスルスルと一人でこなし、ハイペースで作品を発表し続けている。重鎮とは真逆の構え。自主映画を作る学生みたいだ(笑)。

付き合って3年になるドンファとジュニは、傍目には落ち着いた雰囲気の恋人同士。ある日ドンファは、ジュニを郊外にある実家まで送り届けたときに、高台に建つ彼女の家を初めて目にする。その立派さにマジか!とばかり驚くが、カメラが捉え続けるのは、ドンファと彼の背後をたまたま走り過ぎる通行車ばかりで、我々の眼に屋敷の映像は一向に届かない。親孝行なパパが祖母のために自らデザインした大邸宅とやらを、どうにかして覗きたいのだが…うーん、じれったい。早くもホン・サンスのはぐらかし劇場の幕開けだ。

ママも仕事に出掛けて不在だし、ジュニのその場の思いつきで、お茶でも飲んで行く?という流れになったふたり。ナイス!これでようやく我々も大邸宅が見られるぞ~♪とワクワクしたのはいいが、坂を登って車を駐車場に入れる瞬間、ジュニのパパがひょっこり現れるではないか!見たいのは彼女んちのファザードなのに、我々の思惑を飛び越し、いきなり交際相手の父親をぶっこんできた。も~タマラン。笑うしかない。だって3年も付き合っているのに、ドンファが彼女の家族と会うのは今日が初めて。心の準備ゼロのまま、自己紹介タイムに入ってしまう気まずさに、苦笑いと同情心が沸き起こる。

微妙な空気が流れる中、話題はドンファ愛用の古めかしい中古車に移るが、パパの褒めそやしぶりは単なる物珍しさだけで、いくら?運転していい?と、本当に乗り込んで走らせるのにはまたもや爆笑だ。娘の彼氏を中古車ディーラー扱いか?試乗サービスに来たわけじゃないんだから~。そう、見たかったはずのものが、素知らぬ顔ですり替わって進み、化け続けるから油断ならない。しかもホン・サンスのはぐらかし劇場が恐ろしいのは、何がどれだけズレて行くのか、皆目見当がつかない点なのだ。おそらくあの意味深で曖昧なタイトル付けも、映画の行方を見えなくするための仕掛けに違いない。ちなみにここまでで第一章。道のりは八章まで続くが、果たしてドンファがもつか…先が思いやられる。

さて、居間に通されたドンファが次に遭遇するのは、人ではなく(笑)ジュニの姉が奏でる調子はずれの琴の音である。すでにジュニから、メンタルに問題があって実家で静養中の姉ちゃんの存在は聞かされていたが、広い屋敷内で鳴り響く奇妙な演奏は、姿が見えない分、かえってネガティブ想像が膨らみ、不気味で可笑しい。

ここでパパが、煙草を吸おうとドンファを自慢の庭へ連れ出す。さながら男同士水入らずでのマウント取りタイムである。庭と言っても山を開拓した敷地は広大で、獰猛な番犬に鶏小屋、パパの実母を弔った樹木まであり、山道を案内されながら恋人一家のファミリー・ヒストリー情報が、様々な角度から更新されて行く。パパのやたら身内贔屓な発言は引っかかるし、臆面もなく自称”詩人”を気取り、ジュニへの愛情を口にするドンファの軽さにも呆れるものの、見晴し抜群な頂上に着けば、自然を背景にマッコリと煙草ですっかり距離は縮まり、初対面にしてはまずまずの滑り出しだ。「ママが戻ったら、夕飯を一緒にどう?」と誘われるのもごもっとも。

続きまして、夕飯までのつなぎに登場するのが、先ほどの琴の妖精、ジュニの姉ちゃんだ。姉を交えた3人は、息抜きがてらにランチ&プチ名所観光へ繰り出し、ざっくばらんな若者タイムへシフトする。ところがこの姉ちゃん、おっとりした印象とは異なり、なかなかのツワモノ。なぜ髭?なぜ時代遅れの車?なぜフリーター?妹のどこがいいの?と、要所要所で突っ込みまくる。ドンファはパパとの対話同様、青臭いこだわりを曲げずに親の援助ナシで清貧に自立しているじぶんの哲学を説くが、どうも姉ちゃんにその貧乏臭いご高説はササらない。メンタル療養中という前情報が、かえってドンファの脇を甘くしたように思うが、本人はいたってのんきで、姉ちゃんの値踏みや皮肉にまるで気づいていなさそう…。こうして映画は、一同が介する晩餐のフィナーレへ。

満を持しての大団円。最後にドンファと対峙するのは、詩をライフワークとするママだ。まずはドンファに、じぶんちの鶏(!)で作った凝った料理をふるまい、「お婿さんみたい~」などと持ち上げ、終始朗らかなホスト役になり切って場を和ませる。ドンファからも、ママの書く詩に敬意が示され、親密度は高まる一方だ。さらにパパが秘蔵の酒をどんどん持ち込めば、宴の席は絶好調♪まるであらかじめ予定されていた初顔合わせの日のごとく、食卓には適度な配慮とはにかみが漂って見える。

ところが日が沈み、夜も更ける頃になると、宴のトーンが徐々に変化するから気が気でない。やっぱり中古車より新車の方が安全だ、お金や豊かさも大切、著名な弁護士の父親に支援してもらえば?…などと、ドンファに対するパパ・ママ・姉の本音が見境なく噴出し、食卓に不穏な空気が立ちのぼり始めるではないか。ドンファも、よせばいいのにミニマリストのプライドに固執し、徹底抗戦。挙句の果てには、じぶんの詩を暗唱して実力を見せつけるつもりが、むしろ独りよがりポエマーを決定づける結果となり…ああ無情だ。見かねたジェニが泥酔したドンファを連れ出し、ようようお開きとなるものの、覆水盆に返らず―。

これは、やっちまった話を笑うだけの映画ではない。偶然の訪問から、自然鑑賞&平和外交を経て、悪魔のいけにえ並みの恐怖体験へ、我々をはぐらかしながら一瞬たりとも止まることなく刻々と変化し続けるホン・サンスの緻密な設計に唖然とする。だって、それこそが自然を含めた我々の生の一回性の現実そのものなのだから―。もはや映画という虚構でないと、たまさかゆえの生のリアリティを感じる機会は持てないのかもしれない。

鳥のさえずりが聞こえる早朝、酔いが覚めたドンファは恋人に「あとはよろしく…」と告げ、ほうほうの体で独り帰路につく。ところが途中で愛車が故障し、我らが主人公はひとり呟く―「この車、売ろうかな…」と。最後の最後まで転げ落ちるエンディングが、ヒッチコックの「鳥」以上に恐ろしい💦 傑作。

2025年/108分/韓国

監督・脚本・製作・撮影・編集・音楽/ホン・サンス

出演/ハ・ソングク クォン・ヘヒョ チョ・ユニ カン・ソイ パク・ミソ

▪️『センチメンタル・バリュー』

2025年のカンヌでのグランプリを皮切りに、賞取レースで何かと話題の「センチメンタル・バリュ―」。ヨアキム・トリアー監督が、活動拠点のオスロを舞台に描いた、父と娘の愛憎ドラマである。もしあなたが、自身の来し方を振り返る際に、母より父の影響下にあったと思う女の人で、”父の娘”を自覚するタイプなら、より興味深くながめることになるだろう。家族観や生活環境の違いも含め、鑑賞後誰かと話したくなる一本でもある。

映画は、豊かな自然と歴史に縁どられた美しいオスロの景観を、スルスルと一筆書きにスケッチして始まり、嫌みなくらい”ザ・北欧映画”している。マクロなまなざしの次には、赤い窓枠が印象的な一軒の古い屋敷へイッキににじり寄り、ヒロインの高祖父が建てたという家の横顔が手際よくつづられる。そう、登場人物より前に、家の履歴書を通じて一族を物語って見せる仕立て。そのうえ、うっすらとホラーの香りさえまとわせながら、歪んだ負の家族史を―だ。

いよいよヒロイン登場。ノーラは、舞台俳優として躍進中の30代独身女性。夫と息子と穏やかに暮らす歴史学者の妹アグネスとは、何かと対照的だが、成人した今も絆は深く、日常的に行き来し合う間柄である。喧嘩の絶えない両親のもとで、身を堅くして暮らした体験が、姉妹の関係性を強めたのかもしれない。

ある日、離婚後も屋敷を住居兼診療所にしていたセラピストの母が亡くなった。姉妹主催の下、思い出深い実家で、親しかった人々が集まり、亡き人を偲ぶ時間が穏やかに繰り広げられるのだが…そこへ突然珍客来場。姉妹が幼い頃に家を出て以来、20年以上も音信不通だった父親のグスタフが、しれーっと弔問にやって来たのだ。

はい、屋敷の履歴から始まり、一族にまつわる因縁、両親の離婚に、弔いの儀式、そして親子の再会と、幕開けから家族ドラマで起こりうるあらゆる情報が圧縮して提示され、早くもお腹一杯。いや、数世代に渡る回想シーンのコラージュなど、センスも手際もテンポもよくて、映画的振る舞いには感心させられるのだが、単身で生きている人間には、家族の時間の総和そのものが重くて―💦特に、家族を捨てて逃げた父に向い、屈託を封じ込めながら「ハーイ、パパ!」と声をかけるノーラの仮面ぶりがやたら気になり、思わず手汗をかいた。へっ?いくら形式とはいえ、ハグいっぱつで20年をショートカットしてしまっていいのか?…と。どうでもいいけど、我々は、身体接触なしに、沈黙とお辞儀を儀礼とする文化に生まれて、ホント助かったかも💦

そんなお騒がせな父は世界的な映画監督。どうやら、ノーラを主演に宛て書きした脚本で、15年ぶりの新作を撮ろうと出演依頼に現れたらしい。ところが娘は、脚本を見ようともしない。お義理でハグはしても、父親としても同じ表現者としても、断固として受け入れ拒否姿勢を崩さない。映画人VS演劇人の形を取りつつ、激しくバトる親子の構図は、似た者同士の子どもじみたオレさま合戦に過ぎないようにも映るのだが―。

映画はここで変化球を投じる。大胆にもグスタフをハリウッドの若手人気スター、レイチェルと意気投合させ、娘の代役に抜擢させるのだ。またもや、オイオイと突っ込みたくなる急展開なのだが💦、フランスの映画祭で回顧上映が催されるレベルの映画作家に、今を時めく女優が「憧れの監督です!」と接近してくるケースはあるあるだろう。それに、いくら長く新作が撮れないかつての巨匠でも、夢物語を創る業界ならではの博打めいた流れになるのは、少なからずリアリティがある。そしてとどめは、夜明けの海辺(やっぱカンヌか?)で繰り広げられる、映画人たちのゴージャスな酔談スケッチ!ここだけ別の映画になってて、笑ったけどね。

さて、スター女優とめぐりあい、Netflixが製作に乗り出すことになったグスタフの新作は、イッキに動き始める。幼い頃に自殺した監督の母親をめぐる物語を、実際に一族が暮らした屋敷を使って撮るため、チームを率いてオスロに舞い戻った。だが、そう聞いて面白くないのはノーラだ。思い出の詰まった実家が、母の遺品を片付ける端から、父によって我が物顔で占拠されるわけで、そりゃあ怒りも再燃するだろう。しかも自分が断った作品に、米国人スターがあっさり起用されたと知って、モヤモヤが抑えられない。

話は前後するが、映画の冒頭で、ノーラの役者としてのキャリアを見せる、印象的なシーンが登場する。大舞台の初日。主役のノーラが幕開け直前の極度の緊張に耐えられず、その場から逃げ出そうとするのを、スタッフが総出で引き留め、何とか舞台に押し戻すという壮絶なシーンだ。結果的には、ひとたび舞台に上がれば先の壮絶な攻防を役に昇華し、聴衆の喝采を浴びるわけだが、なぜだかキラキラの余韻がたなびかない。素朴に「この人、役者の仕事に向いてないのでは?」と思ってしまう。

そう、ノーラは何かと自己肯定感が低く、ダメ人間だと思い込んでいる。人付き合いが苦手で家庭を作れず、父親に捨てられたダメージが今も尾を引いているのだ。バランスの悪い自分を持て余しながら、それでも何とか、踏みとどまって生きてこられたのは、妹一家の支えが大きい。とはいえ、役者としても人間としても、そろそろ正念場。卑下するばかりでは自身を生きられない。それは、肉体的にも精神的にも老いが忍び込み始めた父も同じだ。自分のトラウマと逃げてきた家族がテーマの新作を撮り切らないと、自由に拘泥した末に、絶望で幕を閉じる人生になりかねないからね。要はふたりとも崖っぷちを自覚しているのだ。

正直言って昔から、ベルイマン映画の流れを汲む家族ガチンコドラマが、面倒臭くて苦手。人生なんてもんは、1回だけで充分。トラウマを掘り起し、追い詰めあったところで、疲労しか残らない。それよりは、1回きりの時間にいかに動くかじゃないのか。本作はラストにそれぞれが動いた軌跡を想像させ、後味がイイ。

父はレイチェルに降板を願い出て、屋敷を売った自己資金を元手に、改めて常連スタッフと新作の製作に入った。そしてノーラは、妹の勧めで父の脚本を読み、正式に主演を承諾。撮影場所は、実家を模したセットになったけど、家の呪縛から解放されたとも受け取れる。愛着ってヤツは盛りすぎると動けなくなるから。

さあ、これで念願通り、グスタフ・ボルグ監督の復帰作が公開される日も近いだろう。作品の出来栄えは知らんけど―。

2025年/133分/ノルウェー

監督・脚本/ヨアキム・トリアー

脚本/エスキル・フォクト

撮影/キャスパー・トゥクセン

出演/レナーテ・レインスヴェ ステラン・スカルスガルド エル・ファニングイ

◾️『小さなロバ、ビム』

1951年製作「小さなロバ、ビム」は、映像詩人と称される伝説のフランス人監督アルベール・ラモリス(1922-1970)の日本未公開作品。

東の国の、或る島の昔ばなしを、モノクロで描いた55分の短編だ。ここには私が映画で見たいもの、味わいたいことのすべてがあった―。

うわっ、ロバがいっぱいいる!子どもたちに連れられて、楽しそうに海岸線を走って行く。この国では、子どもたちがじぶんのロバを持ち、ロバと一緒に遊んだり労働したりして暮らしているみたいだ。ロバはペットというより大切な相棒。だから、海辺に連れ出して洗ってやったり、おやつに蜂蜜ケーキを買って仲良く食べたりして、とても大切にしている。彼らが島内をあちこち移動するたびに、ピンと張ったロバの長い耳と、ポンチョを着ている子どもたちのとんがりシルエットが響きあい、その愛らしさと言ったら…ついホホが緩む。監督のデザインセンスに早くも目を見張った。

物語の主人公は、ビムという名のロバと、飼い主のアブダラである。周囲の子どもたちよりさらに貧しいこの少年は、相棒におやつを買ってやれないと哀しむが、内心ではビムこそ最も美しいロバだと誇りに思っている。そもそもボロボロの布をまとっていてもフォトジェニックなアブダラと、どこから眺めても可憐なビムの組合せには、神話的な雰囲気が漂い、ついパゾリーニの映画を連想してしまったほどだ。…ということは、もしかして映画は悲劇へ向かうのか?それとも…。

はい、お察しの通り、突如ヴィランが現れ、風雲急を告げる!意地悪領主の息子メサウドが、ビムを見初めご執心。アブダラから強引に略奪を謀り、宮殿へ連れ去ってしまうのだ。そう、いつの世も、貧乏人は権力者に屈するしかないというお約束通りの展開である。ただし、定石とはいえ、白い壁とドーム型の屋根が特徴的な込み入った集落の中を、ビムを抱きかかえて走るアブダラの懸命の逃走アクションは、構図といい、明暗のコントラストといい、イチイチ絵としてキマり、作品の厚みにつながっているから大したもの。子供映画だと侮るなかれ!だ。

そんな中、広大な宮殿にビムを閉じ込めたメサウドは、支配欲に燃えるが、ビムからは一向に相手にされず、意地悪をエスカレート。ガキの悪戯とはいえ、ロバに靴下をはかせたりペンキを塗るって、なかなかの変態ぶりじゃあないか。やるなぁ。一方アブダラは、仲間の子どもたちと連係し、ビム救出作戦に乗り出す。イスラムと欧州文化が融合した、エキゾチックな建築様式の宮殿内へ、屋根伝いに忍び込み、スパイ映画さながらに高低差を活かした潜入活劇をお披露目だ。楽しいったらない♪(余談だが、映画を眺めながらなぜかマティスがモロッコ滞在時に描いた名作絵画の数々を思い出したので、鑑賞後にロケ地を調べたら、北アフリカのチュニジア ジェルバ島だと判明。やっぱりそうか、同じ文化圏の匂いがしたんだよね。)

ところが作戦はあえなく失敗。アブダラは護衛に見つかり屋敷牢へ閉じ込められ、ビムは翌朝肉屋に売られる運命に!試練は多いほど観客のカタルシスにつながるものだが、そろそろこの辺りで物語を転調させ、視点を変えたいタイミングでもある。

そこで映画は、ヴィランをあっさり改心させる。ビムとアブダラの強い結びつきを目撃させ、メサウドに友情の尊さを気づかせるのだ…仲良きことは美しきかなと。と同時に、映画を動かすためには、いかにノンストップで波乱を連鎖させるかが肝なので、すかさず次の仇役を用意した。ビムを宮殿の外へ連れ出すために、謎の泥棒コンビを新たに投入し、終盤に向かって舞台を大きく動かすのだ。

いよいよ最終コーナー。メサウドはアブダラを牢屋から脱出させ、連れ去られたビムを追う同志となる。そして夜明けとともに、ロバを連れた子どもたちがふたりの援軍になろうと続々と集まり、ビム奪回作戦の狼煙を上げる。いざ出陣!いやー、鳥の声が響き渡る中で繰り広げられる、友情の連鎖がタマラン。不覚にも涙ぐんだりして…。しかも、ビム救出軍団が馬車やロバに乗り合わせ、砂地や海岸線を猛スピードで追撃する移動撮影では、まるで「駅馬車」並みのLIVE感が堪能でき、超カッケーのよ、マジに。でもって、それだけじゃない!最後の最後に、なんと舞台を大海原へ移すのだ!

海辺にたどり着いた泥棒コンビは、嫌がるビムを船に乗せ、帆を上げる。子どもたちもひるまず大急ぎで別の船に乗り込み、海上大決戦が始まる。小さなロバたちが心細そうに岸辺で見守る中、敵に勇敢に食らいつく子どもたちが、次から次へと海へ投げ落とされ、想像以上にエグイ。ヒヤヒヤドキドキ。それでもめげることなく、子どもたちが一丸となり、どこまでもタフに立ち回る雄姿の眩しいこと!これぞ正統派冒険活劇。ビム奪回の勝利に沸きながらの閉幕に、ヤンヤの拍手喝采だ。

「小さなロバ、ビム」は、とても55分の短編とは思えない濃密さ。そのうえ鑑賞後の多幸感が、いつまでも続く奇跡的な仕上がりの映画である。セリフを極端に少なくし、物語の補足となるようなナレーションを時折挟むだけの、絵本のような構成も、大きな勝因となっていた。

「バルタザールどこへ行く」(1966)「ライフ・イズ・ミラクル」(2004) 「EO」(2022) 「イニシェリン島の精霊」(2022)…これまでにも、ロバの存在が記憶に残る外国映画とたびたびめぐり会ってきた。ヨーロッパの文献に最も多く登場する動物はロバだと読んだことがあるが、確かにどれも、ロバをありふれた存在として位置付けたうえで、あえて象徴的に描く映画だった。それに対して日本では、ロバが家畜化されなかったせいか、どこかファンタジー的存在に捉えている節がある。首をうなだれてひっそりたたずむ姿に憂いがあり、個人的にはスクリーンにちらっと映るだけで、ツイ胸を締め付けられてしまうのだ。

ロバと子どもが一心同体で暮らすおとぎ話「小さなロバ、ビム」、新たなロバ映画として忘れられない1本となった。

「小さなロバ、ビム」

1951年/55分/フランス

監督・脚本/アルベール・ラモリス

語り/ジャック・プレヴェール

◾️『旅と日々』

ロカルノ映画祭の最高賞に輝いた、三宅唱監督作品『旅と日々』が楽しい。タイトル通り、描かれるのは「旅」、と、「日々」だ。並列助詞の「と」を真ん中に置き、等価に並べた点がミソ。

「旅」と言ってもここでは、観光や仕事目的とは異なり、日常から自分を引きはがすために移動するイメージ。無理して目的を置かないことが目的みたいな…。そして生活圏から離れ、数日同じ場所に滞在する形で語り、「日々」とした。非日常は移動とともに始まるわけだが、滞在となると晴れがましさは徐々に消える。そこで、旅に出たからこそ知り得た胸騒ぎと、旅に出ても尚つきまとう自我との間で、あっちに行ったり、こっちに来たりが繰り返される…。映画は、そんな様子を「絵(映像)」と「文字(言葉)」の2方向からのアプローチで “絵日記”仕立てに綴り、乙な味わいがある。そう、「日々」だから、絵巻物のうねりではなく、日めくり感覚で眺める絵日記の形式こそがふさわしい。ここから何が飛び出すのか―。

東京で脚本家をしている主人公の李は、創作に行き詰まりを感じつつも、夏の離島を舞台に新作を書き始めた。原稿用紙に鉛筆を使い、ハングル文字(!)で。すると、物語が書き進められて行く端から滑らかに映像に置き換わり、映画は劇中劇の様相を見せる。ただ映像が動き出しても、日本語からハングルに書き直して執筆する記憶に引きずられ、どこの国の話か特定できず、日本語が聞こえてようやく、目の前に広がっているのは日本の夏の情景らしいとあたりがついた。そっか、文字を捉えたショットが入り込むだけで、国レベルのものさしが起動し、該当国の文化を意識して見ようとするものなのか…脚本家は韓国人女性?類推する要素が多くなると、とっ散らかって嫌な人もいるかもしれないが、私は歓迎。物語の行く先は簡単に見えない方がいい。この後も、見通せない動きがずっとずーっと続く。

指先に絆創膏を貼った若い女が登場。人影まばらな海辺の町を訪れ、ひとり気ままにあちこちぶらつく。郷土の歴史を展示する小さな資料館に入ったり、進入禁
止の山の中へ分け入ったり、岩壁を通り抜けたら海が全開になったり…。真っ青な夏空と時折吹き付ける強風を背中合わせの絵にして、不穏な気配は濃厚だ。そしてもちろん、訳アリ風な女が動けば男と出会う。母親の故郷に滞在中の青年を見かけ、雑談がスタート。退屈まぎれに交わす言葉は、跳ねもしなけりゃ途切れるでもなく、夕暮れから夜のとばりが下りるまで、いい塩梅のトーンでゆるゆる漂い、やけに心地イイ。風のような…波のような…。旅の途中ならではの3割増し効果か―。

ふたりは翌日も海で再会。台風が迫りくる暴風雨の中、青年はアロハ姿でみつ豆を差し入れし、訳あり女はいきなりビキニ姿をお披露目だ。しかも何の躊躇もなく、ふたり揃って大荒れの海で泳ぎ始めるのには目を疑った。「この悪天候に及んで夏本番アクションかよ!」と、へなちょこ風味のエロスとタナトスを笑っていたら、突然劇中劇は幕を降ろし、現実時間に着地するではないか。そうだった、そうだった!忘れていたが、今目にしていた奇妙でオチのない白日夢のような光景は、脚本内の世界だった。どうやら、書き上がった脚本が映画化され、大学のゼミで上映されていたようだ。

ここで時系列を整理すれば、脚本家の李の創作現場(現実時間)→脚本世界の映像化(脚本内時間)→完成した映画が大学で上映(現実時間)→ゲストとして教授や学生と交流(現実時間)という流れになる。それなりに起伏はあるが、ドラマが向かう先はまだまだ不透明。だけど、映画自体が立ち止まる気配のない日めくり絵日記仕様なので、観客の思考も同期し、静かにずっと回り続ける。

さて後半戦。映画はいよいよヒロイン李の身辺に接近する。完成した映画を見て、じぶんには才能がないと凹んだ李は、ひょんな経緯で手に入れた古い一眼レフカメラを携え、旅へ向かう。言葉から逃れ、代わりにカメラで世界と対峙しようというわけか。そんな、真夏の物語を書いた脚本家がたどり着いた先は、真冬の雪に閉ざされた山奥だ。そのうえ自身の旅も、彼女が書いた脚本同様、「この悪天候に及んで冬本番アクションかよ!」と突っ込まずにはいられない命からがらの行程となり、可笑しいやら恐ろしいやら―。

“遭難”の2文字がよぎる吹雪の中、ようよう見つけた宿は、風流狙いのわび住まいではなく、今にも崩れ落ちそうなただのオンボロ小屋だった。そもそも客間すらなく、宿主のオヤジと囲炉裏を囲んで着の身着のまま寝るハメに…マジか。だが、旅先のトホホ体験が、韓国人女性をヒロインに配したことで、外国人旅行者の異文化好奇心へとごく自然に展開するのには恐れ入った。何より偶然出くわしたこの二人、絵的にも言葉的にもおっそろしくかけ離れているのに、浮世離れ感が同質のため、バディとしてやけにスクリーン映えするのだ。あの訳アリ女と青年の雑談のように―。

というわけで、主人公はほうほうの体で宿を立ち去るどころか、旅先で執筆道具を広げたり、仕事に行き詰まっている胸の内をこぼしたりと、宿主を前にスッカ
リ打ち解け出す。宿主は宿主で、突如現れた話し相手に気持ちが緩み、俗物臭を大っぴらに出し始めたりして、もはや客と宿の間柄ではない。そのうえ、共に人生のスランプ期に突入中のこのバディは、観客の想像を大きく超え、深夜に降り積もった雪道をエンエンと歩き、泥棒に入ろうというまさかの展開!宿主の元ヨメの実家から錦鯉を盗み、養殖で一儲けしようと企むのだが…。

夏と冬、海と山、台風と吹雪、昼と夜…見知らぬ男女の出会いがあり、謎と倦怠と冒険に縁どられた絵日記をめくるうち、いつしか犯罪現場にも遭遇できてしまった「旅」と「日々」。李さん、もう大丈夫。こんなに盛りだくさんな体験をしたのだから、すでにスランプは遠い日の想い出。掃除して、昼寝して、非日常が日常に置き換わった。そろそろ書き始めますか―。

追伸/恥ずかしながら、つげ義春の原作も、女優シム・ウンギョンの存在も全く知らずに鑑賞。むしろ自分にとっては、知らないことが幸いした一本となった。

2025年/89分/日本

監督・脚本/三宅 唱

撮影/月永雄太

編集/大川恵子

原作/つげ義春

出演 シム・ウンギョン 河合優実 髙田万作 堤真一

◾️『ハード・トゥルース 母の日に願うこと』

前作から6年を経て、ようよう公開となった英国人監督マイク・リーの新作『ハード・トゥルース 母の日に願うこと』。ご贔屓監督作品との久々の対面が心底うれしい。何せ彼の巨匠も80歳を超えたご高齢の身だ。新作をリアルタイムで追っ駆けられること自体、貴重だからね。はやる気持ちをなだめつつ、公開2日目に劇場へ直行した。

映画は、ロンドンの閑静な住宅街の角地に立つ、真っ白な壁が目を引く二階建ての家屋を捉えて、幕を開ける。住人らしき作業着姿の黒人男性が、玄関から出てきて助手と合流し、バン車に乗り込み、仕事現場へ出発。平和な朝の出勤の一コマ…今日も穏やかな一日が始まろうとしている。ところがすぐさま映画のトーンは暗転。中流な暮らしぶりが伺われるその家の中では、黒人女性が夢にうなされ、ホラー映画のごとく奇声をあげて、飛び起きるではないか。彼女が忌々し気に家事を始めれば、物音や屋外に向ける警戒心が異様で、度を越したキレイ好きも明らかに病的レベル。いったい何が始まるのか…。予測のつかない滑り出しに、早くも前のめった。

50代の主婦パンジーは、配管工の夫カートリーと22歳でニートの息子モーゼスとの3人暮らし。どうやら目覚めが悪くて不機嫌なのは、この日に限った話ではないようだ。何せ起床した息子の気配を察知しただけで、一方的に攻撃的な小言を投げつけ、口をはさむ余地さえ与えない。頭から湯気が出るほどのガミガミ戦闘モード。図体のデカいモーゼスが、表情を変えずに黙ってやりすごすから、余計にパンジーのキレキャラが際立つという演出の妙も見どころだ。家族揃って食事するときでも、独りエンエンと悪態をつきまくるパンジーの前で、黙食を続ける男2人の仕草がやたら可笑しい。おそらくパンジーとはまともに向き合わないという対処法が、夫と息子が長年かけて導き出した結論なのだろう。

ちなみに、髪の毛が逆立つほどすごい剣幕で怒る様子を、「怒髪天を衝く(どはつてんをつく)」と言うが、パンジーの顔を見たとき、これぞまさしく怒髪天だ!と興奮した。眉間の皺の深さといい、鼻孔の迫力といい、新薬師寺の伐折羅(バサラ)大将像そっくりなのだ💦それならば、本尊を守るために仏敵を寄せ付けまいとにらみをきかせるバサラに対し、パンジーの怒りは一体何に起因するのか?何を守るために、どこに向かって、怒りちらしているのだろうか?

次に映画は、黒人女性たちのおしゃべりで華やぐ美容室へ場面転換。客のボヤキから噂話まで、すべてを軽やかに受け止め、ユーモアたっぷりにリアクションする女主人のシャンテルは、何を隠そうパンジーの妹である。シングルマザーの彼女は、成人したふたりの娘ケイラとアレイシャと暮らしているが、こっちは姉一家と真逆で、何でも語り合う三姉妹のような関係性だ。笑い声が絶えないオープンマインドな妹一家と、閉鎖的で緊張感が支配する姉一家…あまりに対照的過ぎる構図ゆえ、先が思いやられたのは私だけではないだろう。もちろんその狙い通り、映画は両家族の日常風景を交互に映し出しながら、我々の目線を黒人社会へ接近させる。さながら彼らの親類縁者の一人になるように―。

にしても、パンジーの悪態のつきっぷりは想像以上に凄まじかった。身内以外でも、行く先々で誰彼かまわず標的にして罵詈雑言を吐きまくり、迷惑千万な振る舞いを炸裂。理由があるならまだしも、憎まれ口をたたくことが目的化してしまっているようで始末が悪い。スーパーのレジ店員に「なに幽霊みたいな顔してんだよ!」と言い放ったときには、さすがに私も白旗を挙げた…口が悪いレベルをはるかに超えたホンキの罵りだから。世間が嫌ならシャットアウトする道もあるのに、そうはしない。むしろ突っ掛かる相手を探し求めて生きているように映る。そりゃあこれだけ自分の刃で自分を常に痛め続けていたら、心身ともに不調になるのも当然だろう。いやはや、彼女を理解するためのハードルは、とてつもなく高い。

そこを何かとフォローしてきたのが包容力満点のシャンテルである。ある日、次の日曜の母の日に、一緒に墓参りに行って、その後みんなで食事をしようとパンジーに持ち掛ける。案の定、誘う端から即座にNO!と突っぱねられるが、それでも妹は粘り強く姉を導き、何とかふたりで肩を並べて墓地を訪問。すると5年前に孤独死した母の墓前で、パンジーの複雑な感情が涙とともにどっと溢れ出るではないか…これはひょっとして信田さよ子氏案件?ただし映画は、彼女の不可解な言動の要因を、あえて観客の望むわかりやすい形で展開しない。亡き母との確執を匂わせはしても、分析も和解も開放も遠ざけ、ひたすら疲れ切った一人の人間の断片を描写するだけ…これがやけにリアルで染みた。

パンジーの陰に隠れがちだが、周辺の登場人物たちのさりげないスケッチを、要所要所で差し挟むのも、作品の厚みにつながった。カ―トリーと無駄口ばかりの助手との間延びした関係をはじめ、モーゼスが日課の散歩を通じて味わう世間との関係や、実はキャリア面では弱みを見せあえないケイラとアレイシャ姉妹の関係など、誰の横顔にも言葉にしづらい孤独の断片が浮かび上がり、見過ごせなかった。

そして本日のメインイベント―シャンテル家へ移動して手作りの料理を囲み、娘二人が陽気にもてなす、2家族揃っての食事会が始まる。
ところがこの頃になると、国も人種も異なる人々の遠いドラマだったはずが、親類の法事の集まりにでも居合わせた気分で眺めるようになっていて、あらまあ不思議。知らぬ間に、親しみと同時にいたたまれなさを感じる距離にまで近づいていたみたい。我ながらびっくりだ。しかも頭の中では、小津の『東京物語』から類推し、家族の在り様はいずこも同じか…などと思い巡らせているではないか。そう、一堂に会した誰もが、“家族だからこそ”と“家族といえども”の間で揺れ動く。そこに幻想はあっても正解はない。大団円と見せかけて梯子を外し、最後の最後までカタルシスをうっちゃる見事な設計、なんて大きな映画だ!巨匠は健在だった。

そうそう、パンジーを、映画史に残る傍迷惑なキレキャラだと認定してしまっていたが、見終わって時間が経つほどに印象は変わった。色物として扱うことに違和感をおぼえ、あれが彼女の噓偽りのない振る舞いであり、パンジーは自分を全うして生きているのではないかと―。そしてシャンテルの献身も自己犠牲からではなく、同じようにひたすら自分を全うして生きているだけだと思うようになった。私がスクリーンで目撃していたのは、私が安堵できるものとは異なるにせよ、宿命を受け入れて生きる姉妹の姿だったのだ。

2024年/97分/イギリス
監督・脚本/マイク・リー
撮影/ディック・ポープ
美術/スージー・デイビス
音楽/ゲイリー・ヤーション
出演 マリアンヌ・ジャン=バプティスト

◾️『スターレット』

ショーン・ベイカー作品を最初に目撃したのは、2017年のこと。全編iPhoneで撮影した「タンジェリン」(2015)が話題になり、劇場へ。あれからまだ10年も経っていないのか…。

正直言って映画鑑賞の方法論として、個人の電話(iPhone)で撮影した日常的な内輪の騒動を、わざわざ映画館の大きなスクリーンで有料で見せることに、当初は「いかがなものか?」と訝しく思ったものだ。だが、製作費用を抑えるための苦肉の策とはいえ、「タンジェリン」に素人臭さは微塵もなく、むしろジョン・ウォーターズ映画を圧縮したような語り口に、得も言われぬ郷愁が漂い愛らしかった。以降、常に次回作を待ち望む監督の一人となった。そのうえ新作「アノーラ」(2024)が、去年のカンヌでパルムドール受賞の快挙だ。こんなに短期間で世界を席巻するとは…ぶっちゃけ、本人が一番驚いていないか?

そんなショーンの「タンジェリン」以前の初期の作品が、この夏初公開された。「テイクアウト」(2004)「プリンス・オブ・ブロードウェイ」(2008)「スターレット」(2012)と、3本立て続けにチェックしたが、いやー、私が悪うございました。譲れない確固としたテーマを持ち、テーマに対して毎回新しい切り口で挑み、着実に腕を上げている。パルムドールに至るまでの軌跡を遡ってたどってみたら、驚きでもなんでもなく、非常に腑に落ちた。獲るべくして獲ったのだ。取り急ぎここでは、3本中最も気に入った「スターレット」について書いておく。

女優志願のジェーンは21歳。親友メリッサとヒモのマイキーの馬鹿ップルとルームシェアをしながら、ロサンゼルスで暮らしている。差し当たり、3人が何で生計を立てているのかは不明だが、好きな時間に起き、ドラッグをやりながら昼間から対戦ゲームに夢中になっている様子からすると、いわゆるサラリーマン的金銭思考で生きていないことだけは確かだ。あと、見た目の印象=トレンドの取り入れ具合が同質なので、3人ともわかりやすく一旗揚げたい人種に違いない。

引越して来て間もないジェーンは、ある日殺風景な自室を模様替えしようと、愛犬を連れてガレージセールへ出かける。雄のチワワのスターレットとは、何をするのも一緒。ペットというより、相方扱い。痩せっぽちで持て余すくらいなが~いおみ足のジェーンと、ちびっこいスターレットの組合せは絵的にも絶妙で、スクリーンがおとぎ話の世界に早変わり。うーん、なかなか楽しいじゃないの~♪

さて、戦利品を抱え帰宅したジェーンが、ある老婦人から買った魔法瓶を花瓶にしようと洗っていると、中から丸めて束ねた札束がゴロゴロ出てくるではないか!丁寧に乾かして数えてみたら、何と1万ドル以上もある。ジェーンは、逸る気持ちを相方につぶやきながら、ちゃっかり大金を魔法瓶からじぶんのブーツの中へ配置換え。そりゃあ、現ナマのオーラを浴びたら最後、誰しも抵抗できないものだ。彼女のユルく飢えているかんじがリアルに伝わるいいシーンだった。

早速ジェーンは、意気揚々とショッピングセンターに出かけ、美容サロンに立ち寄り、棚ぼた小金持ちをエンジョイしようとするが、イマイチ心が晴れない。魔法瓶の売り主の家はわかっているし、そのうえ相手はお年寄りだ。良心の呵責ってヤツが付きまとう…意外にもまっとう。迷った挙句、思い切って返しに行ってみた。ところが、なぜか頑なに返品を断られ、玄関先で追い払われる始末…。うーん、どうしたものか。とりあえずお金のことは秘密にしたまま、ジェーンはこの人嫌いな老婦人と打ち解けあう方法を探ることにした。

まずは、偶然を装い、車を持たない老婦人の送迎を勝手に始めた。なるほど、罪の相殺にちょうどイイ思い付きではないか。荷物の運搬にかこつけてしれーっと自宅に上がり込み、暮らしぶりをきょろきょろチェックしたりして…ジェーンの大胆さに大笑いだ。相方のスターレットも一緒ってところがさらにウケる。老婦人の名はセイディ。高齢の単身暮らしに送迎はありがたくても、若い女+一匹の勝手な振る舞いに振り回され、当然ながら警戒心は増すばかり。

次にジェーンは、セイディの週一回の楽しみのビンゴゲーム会場へ、またまた偶然を装って襲撃。虚無の吹き溜まりのビンゴ大会と、露出度の高い若いねーちゃんの組み合わせは相当に奇異で可笑しいのだが、ジェーンの一方的な付きまといに怒り心頭のセイディが、催涙スプレーを持ち出して反撃に転じ大騒ぎに!魔法瓶を縁に接点の始まったふたりが、ごく短期間に、警察が出動するほどホンキでぶつかり合う。痛快。と同時に、ここは本作のキモにもなるシーンだ。

ユルユルに生きてるジェーンと偏屈なセイディ。映画は、異質な者同士をガチンコ勝負させた後、今度はセイディの方から謝罪のために近づかせ、ふたりをイッキにときほぐしてみせるのだ。世間からハミ出しているふたりだが、ここでは実社会のルールにのっとって軌道修正し合い、美しい。送迎も再開。ただし、それはジェーンの目論見通りでもある。セイディの身の上話を聞けば、家族は誰もおらず、ギャンブラーだった亡き夫の遺産があり、お金には困っていない様子。何より魔法瓶のことなど、すっかり忘れているのには助かった。

家へ出入りし、お茶してくつろぎ、おしゃべりを重ねるふたりと一匹。

やがて、運転免許を返納して遠出ができないセイディを、夫の墓参りに連れ出してあげる間柄にまでなる。まるで帰省した孫と祖母だ。とはいえ、ショーンの映画が孝行ドラマで終わるわけがない!遅ればせながら、ここからジェーンのリアルお仕事現場に横展開する。我々は、彼女が主演の新作の撮影現場に同行する形で、ハードなからみシーンを前振りもなく目撃する。そこで初めて、ポルノ女優が生業だとわかる仕立て。何食わぬ顔で、我々の偏見を炙り出そうとする演出が油断ならない。

とはいえ、ジェーンの振る舞いはどんな場でも同じトーンに映し出される。同居人と接するときも、高齢のセイディの前でも、裸一貫稼業の現場でも、ちょっと呆れるくらい素直で濁りがない。いつも他者を想像して接し、優しさに厚みがある。そう、ジェーンには、”共同体の中で生きる”という感覚が、ごく自然に備わっている。それは、我々が職業に貴賎なし状態で映画に留まっていられる理由にもなっているのだ。

そして忘れちゃならないのが、例の大金の落としどころだ。ジェーンは、PARISに憧れるセイディのために、あのお金で一緒に旅する計画を思いつく。ところが出発までに様々なアクシデントが起こり、本当に旅立つことができるのか、最後の最後までまったくヨメない。秘密を持つジェーンは明らかに分が悪く、見守る我々もツイあの手この手とお節介妄想に走る。果たして一発逆転はあるのか。

ラストは年の功が光った。旅立ちの朝、セイディは、どうしても墓参りに立ち寄りたいと言い出す。実は彼女にも打ち明けられずにいた秘密があり、それを信頼の証として先回りして開示し、ジェーンの重荷をほどいてあげたのだ。年齢も出自も大きく異なるふたりの心が、さらに強く結びつくための慈悲深きサプライズ…。無言のアイコンタクトが胸に染みる幕切れとなった。

長編デビュー作から今年で25年。ショーン・ベイカーは、毎回、観客を閉幕ギリギリまで映画内世界に引き止めて離さない作家である。そして必ずや最後に予想外の角度から、我々に今日を生き延びるためのささやかな安息を与えてくれる。彼の映画は、すべての労働者のためにある。

2012年/103分/米国

監督・脚本/ショーン・ベイカー

撮影/ラディウム・チャン

出演 ドリー・ヘミングウェイ ベセドカ・ジョンソン ジェームズ・ランソン 

◾️『フォーチュン クッキー』

映画館通いを続けて半世紀以上になるが、入場の際にお菓子を手渡されたのは、今回が初めてだ。何だかわからぬまま、映画が始まる前に食べてしまおうと開封したら、餃子の皮をねじったような奇妙な形状の煎餅で、ガリッと噛むと中からおみくじが出てきた。「あなたはもう、原石ではなく、宝石。」と書かれている。口の中に広がる煎餅の懐かしく素朴な味と、どう解釈するべきか一瞬戸惑う不思議なメッセージをかみしめるうち、映画はゆるりと始まった―。

幕開けの舞台となるのは、女性ばかりが働く小さな食品工場。もっとも、労働現場の割には流れている時間はユルく、モノクロ&スタンダード画面のせいか、寓話の趣すら漂って見える。次に、できあがった商品を袋詰めにしている作業がスクリーンに映し出されたとき、「もしかして、さっき食べた煎餅では?」と、遅まきながら気づいた。どうやらあれが、映画の邦題にもなっているフォーチュンクッキーらしい。図らずも私は、現物配付によって、すでに映画内世界とリアルに結びついていたってわけだ。おそるべし宣材力!

さて、袋詰め作業員の1人、ドニアが本作のヒロインである。顔つきがイイ。自分の頭で考えようとしている印象。何より、若さという無限の可能性に生きる人間の眩しさがある。―が、おしゃべりな同僚ジョアンナにムダ話を振られても、リアクションが乏しく、ちょっと気になる。無視する気も皮肉るつもりもなく、むしろ丁寧に耳を傾けている様子だが、話は弾まず、表情も変わらない。大学出にこの仕事は単調?有り余る若さの渦中にいながら、本人がその恩恵に最も無自覚というのはありがちな話でもあるが―。

しかし心配は続く。ドニアは慢性的な不眠症らしい。夜中に星を見上げながら、不眠症つながりの隣人に精神科に通いたいと打ち明けるのには軽く驚いた。確かに、若くても健康的に見えても、背負いきれないものを抱えていることは少なくない。ドニアは幸運にも、隣人が譲ってくれた予約を使い、精神科のカウンセリングを受診できるようになった。なるほど、医者との対話によって、我々は彼女の背景を徐々に知ることになるわけか。うまい運びだ。

祖国アフガニスタンの米軍基地で通訳をしていたが、軍の完全撤退&タリバンの復権によって、アメリカへ単身で逃れ着いたこと。故郷に残した家族は裏切り者のレッテルを貼られ、苦境に立たされていること。友人たちが殺される中、なんとか生き延び、特別移民ビザが下りて8カ月前からフリーモントに住んでいることなど…衝撃の事実が次々と明かされる。

ただ本人は医者を前にしても、饒舌になるでも、苦痛で言葉を詰まらせるでもなく、表情を変えず、聞かれたことに落ち着いて淡々と答えるだけ。穏やかな語りのリズムと内容のあまりの落差にツイ笑ってしまうが、そりゃあこれほど過酷な体験をしたなら、感情が追いつけなくもなるだろう。ドニアは、自分の過去にも未来にも焦点が合わせられず、宙吊りになったままのようだ。

映画の舞台 “フリーモント”は、カリフォルニア州のベイエリアにある街で映画の原題にもなっている。人種も国籍も多様な人々が住んでいて、北米最大のアフガン人のコミュニティもある。ドニアはここへたどり着いた。ただし、移民居住区での彼女の暮らしは正直言ってビミョー💦同胞たちも皆、それぞれに重い現実を背負って生きているようだが、連帯ムードはなく、閉塞感が漂っている。まあ、それだけ祖国への絶望が深く、拠り所が持てないのだろう。ドニアの行動範囲も、勤務先のクッキー工場と、行きつけのアフガン食堂と、精神科の3か所を行き来するだけだし…。このままでは歌を忘れた籠の中のカナリアだ。

ある日ドニアは、工場のオーナーからクッキーの中に入れるおみくじ用のフォーチュンメッセージを書く仕事を任される。いきなりコピーライターに配置換えだ(笑)。あらゆる人を対象に、さりげなく前向きなメッセージを紡ぎ出すのは、自身の人生を想像できないと難しい。自分独りが生き残ったことに罪悪感を感じ、幸福を遠ざけてきたドニアにはある種の試練だが、これを機に彼女の意識はゆっくり変化する。

オーナーは執筆への心構えを説き、医者は治療に役立つと背中を押し、ジョアンナはカラオケで美声を贈り、食堂のオヤジは「最後に胸がときめいたのはいつだ?」とハッパをかける…。そう、みんなが遠巻きに彼女を応援している。何よりドニア自身が他者からの声援に気づいたことで、自分も幸せになりたい!と目覚め始めるのだった。

そんな中、ドニアはフトした思いつきから、自分の名前と電話番号をメッセージに書き込み、こっそりクッキーに忍び込ませてみた。やるなあ、なかなか大胆じゃないか!すると早々に、メッセージを読んだ相手から連絡が届き、迷いながらも会いに行くことを決意する。貯金を切り崩して旅の計画を立て、着て行くものを選び、鏡の前で笑顔の練習♬ジョアンナのお母さんから借りた車に乗って、初めてフリーモントの外へ旅立つ…可能性の大海へ一歩踏み出すスケッチの、武者震い感がたまらない。

映画は最後の最後に至って、それまでと全く違うテイストの顔つきに変わり、我々を驚かせる。向かった先には運命の人は現れず、オーナーの妻が謀った“鹿の置物”があるだけ💦 ところが目的地の手前に、とびっきり美しいサプライズをサラリと用意するではないか。

旅の途中、ドニアはたまたまオイルチェックに立ち寄った自動車工場で整備士の青年に対応してもらい、隣接するダイナーでも再び顔を合わせる。ブラインド越しに光が差し込む窓際の、一つ離れた席に向かい合い、不器用に言葉を交わす見知らぬ男女。長い沈黙に私の方が照れたりなんかして…。これぞ本当の意味での“ブラインドデート”だと、思わずツッコんだ(笑)。しかも整備士を演じるのは、今を時めくジェレミー・アレン・ホワイト。最短最速で恋愛映画に豹変しても何の問題もなしだ。

「あとでコーヒー飲みに来ない?」と誘われ、事務所の扉を開けるドニアは、すでに8カ月前の彼女とは別人である。いつもどこか遠い目をしていた彼女の瞳の先に、今は自分から近づいて言葉を交わしたい対象が存在するのだ。凄惨な記憶や贖罪の思いはこの先も消せはしないが、世界は広い。自由に生きて幸福を追い求めたいと願う気持ちに、もうウソは付けない。自動車工場の裏庭に佇み、列車の音を聴きながら吹き抜ける風を感じるドニアを、引きで捉えた幕切れの抒情性が素晴らしい。今夜から彼女に睡眠薬は不要だろう。命短し恋せよ乙女。

2023年/91分/米

監督・脚本/ ババク・ジャラリ

脚本/カロリーナ・カヴァリ

出演 アナイタ・ワリ・ザダ グレッグ・ターキントン ジェレミー・アレン・ホワイト

◾️『年少日記』

香港映画『年少日記』は、ニック・チェク監督のデビュー作にして、いきなり数々の賞に輝いたという注目の一本。ここのところずっと、2時間越えの映画が続いていたから、95分という上映時間にも好感が持てて、公開直後に速攻で劇場へ向かった。

ところが、日記➡回顧モノと安直に構えていたら、幕開けから構成が複雑で、ボケボケしていられない。けして難しくはないのだが、注意深く追いかけていないと、物語の背骨が捉えられなくなりそう…。予想外に集中力を要す作品なのだ。舐めたらアカンね💦

映画の冒頭、可愛らしい顔をした小学生の男の子がビルの屋上に駆け上がり、スッと姿を消す。飛び降りか?と肝を冷やしていると、逆に大声を出しながら自身を叱咤激励し始めるではないか…なんだか奇妙な光景。続いて、高校生男子たちのいじめの現場と、成人男性が浮かない表情で通勤するスケッチが同時進行する。どうやら男性は高校で教鞭をとるチェン先生で、いじめられていた男子生徒の担任らしい。私生活でも結婚が破綻したばかりで、お疲れの様子。さらに放課後、チェン先生の教室のゴミ箱の中から自殺をほのめかす遺書が見つかり、これが職員会議で問題に―。

そう、始まってすぐに緊張を強いられる大きな要因は、4つもの異なるエピソードがパタパタと綴られるのに、映画の主人公が一体誰なのか、一向につかめない点にある。

小学生の男の子なのか、いじめの渦中にいる高校生男子なのか、チェン先生なのか、遺書の書き手か…。そもそも時間軸は1本なのか、それとも複数なのか…見通せない。ただ、どのエピソードも学校や学生生活が背景になっているので、観客が映画につなぎ止められるのは間違いない。取り急ぎ参照可能な共通体験があると、想像力は発動するものだからー。

次に映画はチェン先生にフォーカス。先生は、遺書に書かれた「私はどうでもいい存在だ」というフレーズが頭から離れなくなっていて、遺書の筆跡をもとに、書き手の手がかりをつかもうと捜索に乗り出す。と同時に、そのフレーズから自身の幼い頃の記憶が蘇った先生は、押入れから一冊の日記帳を探し出し、読み始める―。

さて4つのエピソードが、ここで一旦、遺書の書き手とチェン先生の記憶に絞られた。そして早くもタイトル通り、日記が登場。チェン先生の子供時代の回想シーンへ移行する。日記の書き手であり回想の中の主人公は、何と冒頭に登場した愛らしい少年ヤウギツではないか。なるほど、映画は冒頭から回想を織り込んだ仕立てになっていたわけだ。

ヤウギツは、両親と弟の4人家族。運転手や家政婦が常駐し、学校に多額な寄付もする富裕層のお坊ちゃまくんである。が、弁護士の父は家父長制の権化のような暴君で、勉強もピアノも優秀な弟のヤウジョンと比べては兄のヤウギツを罵倒し、体罰を繰り返す。服従を強いられている母は、ヤウギツをフォローするどころか保身に走り、弟は要領の悪い兄から距離を置く。家族の一員でありながら、ヤウギツは完全アウェイ状態だ。

いやアウェイどころか、安心であるはずの家庭内で、いじめの構図ができあがっているのには言葉を失くす。しかも切ないことに、そんな理不尽な目にあってもヤウギツは、まっすぐ過ぎて怖いほど日記の中で絶えず努力不足を反省し、家族みんなに認めてもらえ、理想の大人になれるようにと頑張り宣言を繰り返す…。いやいや、本当に小学生?家族の中でキミが一番大人では?と思わずにいられない。

そんな健気なヤウギツの心の友は、お気に入りの漫画の主人公と、話し相手のマペット人形と、ピアノの家庭教師だけ。いつも優しく寄り添ってくれる彼女に「弟と同じじゃなくてもいいんだよ」と慰められると、ボクもいつかこんな先生になりたい!と感化され、日記の中でささやかな希望を見出すことも…。なんだかイチイチ涙ぐましくて、嫌な予感が渦巻くばかり。

このあたりになると、映画の主人公は、概ねチェン先生なのだろうなあ…、幼い頃に深く傷ついた経験があったのね…と、見守るようになる。やがて遺書の発覚をきっかけに、チェン先生の中で変化が起きる。教え子たちに自分から歩み寄り、破綻した結婚生活の記憶とも再び向き合うようになる。特に本作が巧みなのは、チェン先生の現在進行形の問題を語る際に、彼の回想シーンを因果に直結させず差し挟む点だ。そのうえ絶えず新しい登場人物を過去の記憶から送り込み、あえて遠回りしながら描き進める。当然複雑にはなるが、現在と複数の人々と紡いだ過去の時間とを抱き合わせて語るがゆえに、単なる一人の人間の回想録に閉じず、映画に社会的な視座が加わって映るのだ。

ところが、ヤウギツの背負う運命は想像以上に惨酷で、回想シーンであってもなぜか「すでに終わったこと」扱いし切れない緊張感が続く。進級試験に失敗し、大好きな宝物を没収され、父からはもちろん、助け舟を求めた弟にも見放されて、追い詰められ方がハンパない。終には絶望の果て、みんなの期待に沿えない自分を自らの意思で葬り去ってしまうのだ―。

思わず「えっ!」と声を上げた。ヤウギツ=幼い頃のチェン先生ではなかったのか!先生が弟の方だったなんて!どこで見誤り、思い込み違いをしてしまったのだろう…。オープニングの飛び降りもどきがまさか本当に起こるとは…。ここには、不意に梯子を外され、宙づりにされるという映画鑑賞の醍醐味がしかと設計されている。だが、鮮やかなギミックはあくまで呼び水で、秘密の解明が映画の狙いではない。終盤では、兄が消え去った後に贖罪に苦悩する弟が、今度こそ閉じずに世界とどう向き合い生きて行くのかが描かれ、さながらチェン先生が綴る弟日記のような仕立てになっているのだ。

そこには、後悔に苛まれながら死期の迫る父や、自己開示する勇気が持てず傷つけてしまった妻、そして教え子たちも登場し、彼らとの双方向の対話が積み重ねられ、チェン先生は自身の手で過去の痛みから解き放たれてゆく…。そしてもちろん最後は兄との対面だ。屋上にあがり、兄の幻影に花を手向けた弟の人生は、ここからもう一度動き出すのだ―。

2023年/95分/香港

監督/ ニック・チェク

出演 ロー・ジャンイップ ロナルド・チェン ショーン・ウォン

▪️『ケナは韓国が嫌いで』

2015年に刊行され、韓国でベストセラーになった小説の映画化「ケナは韓国が嫌いで」(24)は、28歳のヒロイン・ケナが、家族と恋人のジミョンに見送られ、大きなスーツケースを引っ提げ、飛行場から旅立つシーンで幕を開ける。本人は、家族、恋人、そして韓国に、キッパリおさらばして海外へ渡るつもりらしいが、見送りの一行は金魚のフンのように付き添い、未練タラタラ。当のケナだって、いかにも旅慣れていない様子で何とも心許ない。そんな彼女が、なぜ祖国から抜け出す決意をしたのか―。映画は、ケナのモノローグを基調音に、過去と現在、韓国と留学先のニュージーランドを往復しながら、彼女の決意の中味を探る。

ソウル郊外で両親と妹と暮らすケナは、まだ夜が明けきらないうちからバスと電車を乗り継ぎ、片道2時間かけて金融会社に通勤している。大学は出たものの、不正や忖度がはびこる仕事環境には何の興味も持てず、心身共に疲弊させられるだけの毎日。そもそも競争力のない自分には、韓国社会の荒波の中で生き抜ける気がしないのだ。

恋人のジミョンとは学生時代から7年も付き合ってきた仲。穏やかで誠実そうな人柄だが、「就職したら自分が支える」と慰められると、上から目線のズレた同情心にケナの憤りは収まらない。結婚を持ちかけられるのは素直に嬉しいが、結婚すれば自分の人生は万事快調!などと、安易にすり替えられない性分だから、ついイラついてしまうのだ。

もともと裕福な家庭で育ったジミョンとは、明らかに格差がある。ケナは、隙間風が寒くてコートも脱げないような古ぼけた団地に暮らしながら、予定されている新居購入資金に、自分の稼ぎがあてにされているような境遇だ。さかのぼれば大学進学時も、本当は名門校を目指して頑張りたかったのに、家には塾に通える余裕はなく断念した。そう、彼女が「競争力がない」とボヤくのは、本人の努力の問題ではなく、生い立ちで将来が決まってしまう自国の社会構造に理不尽さを感じるからだ。ケナは自分の人生を自分で描いて生きて行きたいだけなのだが、この国にいる限り、現在も未来も息苦しさしか想像できない。

じゃあ、海を渡ればすべてHAPPYになるのか―。もちろんそんな単純な話ではない。オークランドに到着はしたが、永住権を得るためのハードルは想像以上に高い。まずは語学、そして資格取得に学費稼ぎのアルバイトもマストだ。それでもヨチヨチ歩きからベテラン留学生へ、ケナの顔つきや身のこなしが少しずつ変わり始める。年下ボーイたちにモテたり、ワイルドな女ともだちと出会ったり、政治問題をディスカッションできるほど英語も上達した。留学同期の同胞ジェインとは、男女の垣根を超え、何でも打ち明けられる親友になった。そして何よりニュージーランドは暖かい!凍てつく母国でのうつむきがちな生活とは正反対。ケナは寒い韓国が心底嫌いだったのだ。

その一方で、ケナを送り出した韓国側の人々を捉えるスケッチがさりげなく豊かで、本作を一層侮れないものにしている。結婚をせっつく母には母なりの人生哲学があるとわかるし、家長ヅラできない父は「ウチの子は美人だ!好きに生きろ」と、ケナのすべてを受け止めてくれる存在だ。ヤンチャだった妹が、バンドマンの恋人ができたら、姉とまともに話せるようになるエピソードもエエ逸話。

つまりケナは、家族を呪って新天地へ向かったわけじゃない。家族仲が良くても、恋人が優しくても、大手企業に就職できても、そこで得られる日常に、生の歓びが見出せないから去るしかなかったのだ。自分の中に棚上げにできない不満分子を見つけてしまった以上、博打を打つのが我らがヒロイン。他責にせず、進む先を自ら決め、自らを変えるために留学を決意したってわけだ。

そして本作は、自己実現に目覚めたヒロインの冒険譚だけに終わらせなかった。ケナ以上に、苦しんでいる大学時代の友人ギョンユンを登場させた。公務員試験に落ち続け、崖っぷちに立たされているこの青年とケナはコインの裏表。貧困から抜け出し、自分の人生を生きたいと願う点においては同士だが、国を離れて博打を打ったケナとは反対に、ギョンユンは自国の構造にとどまり一発逆転を夢みている。ところが、ある日ふたりに悲痛極まりない別れが訪れる―。

ドン詰まりな状況下でも、いつもおどけてみせてたギョンユンが、道化の仮面を脱ぎ、自ら死を選択してしまったのだ。留学後の初めての帰国が、まさか葬儀になるとは…。深夜のハンバーガーショップでケナはギョンユンの夢を見る。ハンバーガーを食べながら、いつものようにざっくばらんに心境を吐露しあう2人の姿が、店内の鏡に幾重にも反射する。「不安な人ばかり見ているから旅に出るよ」と話すギョンユンの横顔に、もう悲壮感はない。突如現れたこの幻影に、ケナ同様、我々もまた奇妙な安らぎを覚えるのだった。

国へ帰り、家族とも元恋人とも、久しぶりに顔を合わせたケナは、一旦、振り出しに戻った形。そのうえで今一度我が身を振り返り、寒さよ、さらば!と、出国を決意する。そこには、大きなスーツケースでアタフタしていたかつての姿とは異なり、すっかり旅慣れたバックパッカーのケナが屹立していた。どこへ向かおうが、幸福が約束されているわけではない。ただ、今の彼女に自分探しはもう不要。30歳を目前に、再び機上の人となる幕切れが、実に爽快だった。

監督は、韓国出身で1977年生まれのチャン・ゴンジェ。本作は、リアルな社会問題と真正面から向き合い、しかもかなり入り組んだ構成で仕上げられているのに、まったく気負いがない。編集のリズムは絶えずなめらかで心地良く、夢と現実の境界線が不意に消える瞬間でさえ、やけに落ち着いてながめていられるほどだ。映画の虚構性が、こんなに慎ましい姿で表出する作り手が存在するとは…。アクがないのにいつまでも記憶に残る不思議な魅力の作家。レトロスペクティブ企画で過去の4作品すべてを鑑賞し、その実力に確信を持った。次作が今から待ち遠しい。

2024年/107分/韓国

監督・脚本/ チャン・ゴンジェ

原作/ チャン・ガンミョン

撮影/ ナ・ヒソク

出演 コ・アソン チュ・ジョンヒョク キム・ウギョム