■『のぼる小寺さん』

内容はもちろん、タイトルもろくすっぽ見ないまま劇場に駆け付けた『のぼる小寺さん』。それでも幕が開いた瞬間、「へぇー、小寺さんって子が、本当にのぼる映画なんだあ~」と、最短であたりがついた。だって笑っちゃうくらいタイトルのマンマなのだから―。 

開口一番、小寺さんと呼ばれる白目のきれいな女の子が、ボルダリング競技に挑んでいる。傍らには、彼女の背中を見上げて、声援を送る仲間たちの横顔が並ぶ。ボルダリングに多少の現代性はあるものの、正直言って眼にタコができるほど見慣れた競技中継フォーマットだ(汗)。そんな小寺さんに、ひときわ熱い視線を送るのっぽの男子を、カメラがスッと抜くあたりもお約束。この後のカップリング予測までつきまくりだが…それで大丈夫?

そして何と驚くべきことに、これが映画のすべてだからかえって潔い。だったら10分で終わるって?そう、『のぼる小寺さん』は、映画の骨組みを10分で開示し、残り90分で観客を“小寺マジック”にかけようという狙いなのだ。しかもマンマとその通りにのせられるから困った。まさか還暦前のババアが、学園ものにスンナリ溶け込めるとは…苦笑するしかない。

さてそんな、“小寺マジック”とはなんぞや―。高校のクライミング部に所属している小寺さんは、クライマーに憧れ、ボルタリングに熱中する毎日。当然のことながら我々は、好きなことにひたむきに取り組む彼女を映画の主人公にして眺めるのだが、すぐに勝手が違うことに気づく。

意外にも小寺さんは主人公ではない。常に物語の中心に存在はするが、あえて例えるならその役目は「背景」なのだと気づく。そして、アイドルの放つ天然の輝きを、ダイレクトに映画の「背景」に使った点が本作の新しさなのである。

実は『のぼる小寺さん』の主人公は、冒頭に登場した応援団の側であり、何と4人もいる。まずは、あののっぽの男子近藤。クライミング部の隣でチンタラ卓球の練習をする彼は、小寺さんの一生懸命な姿が気になってしょうがない。暇さえあれば彼女を眼で追い、「なぜ登るのか…」と、じっと見守る。はい、古今東西を通じて、それを恋と呼びますね。

もっとわかりやすく小寺さんに近づく男子も登場する。いかにも運動が苦手で場違いな印象の四条は、小寺さんを追い駆けてクライミング部に入部。憧れのキミに並べるよう健気にコツコツ練習に励む。気弱BOYは体当たりで思いを伝える作戦に出るようだ。

小寺さんに夢中になるのは男子ばかりではない。カメラマン志望のありかは、こっそり小寺さんを被写体にしているうち、撮影の楽しさに目覚め始める。誰にも打ち明けられず、独りで紡いできた趣味の世界が、徐々に形を変えて行くから面白い。

まともに登校せず、チャラチャラ遊び歩いてる梨乃も、小寺さんのふんわりとしたリアクションには、なぜか自然に打ち解けられる。マメだらけの小寺さんの手に、得意のネイルをしてあげたりして、カッタるい彼女の毎日に、ちょっぴり彩りが蘇る不思議さ―。

…とまあ、ある日偶然小寺さんを見つめるようになったクラスメイトたちが、あれよあれよという間に小寺さんに魅せられ、勝手に自己変革を遂げて行くのである。ある意味恐ろしい。神がかり的と言ってもイイ。だから“小寺マジック”。

ところがそのメソッドは、まったくもって小寺さんの意図せぬものだから、再現性はなく、「なんでやねん?」の連続である。美貌、知性、リーダーシップ力etc…小寺さんはおよそ何も発揮しない。カリスマ性ゼロ。ただ、無垢な塊と化し、来る日も来る日もひたすらその先に向かってのぼり続けるだけだ。何よりじぶんが嬉しいから―。

一方で、なぜ小寺さんはスクールカーストの枠外にいられるのだろう…そんな難問も浮かぶ。クライマーになりたいという夢が拠りどころになっているのは一つの要因。でも、個に執着してやり過ごせるほど学生生活は甘くない。じぶんを盛るのも消すのも、匙加減ひとつで状況が激変する狭い世界だ。

なのに小寺さんはそんな悶着とも縁遠い人として映る。独りてっぺんに上がっても、地上に降りて他者とまみれても、どんなシーンでも彼女はものさしを持たずに挑み、出し惜しみなしの全力投球。そもそもじぶんの着くべき座を意識していないため、彼女から発せられるものすべてに濁りがないのである。

小寺さんの輝きに引き寄せられた人々が、体内化学変化を起し、じぶんの知らないじぶんを発見してゆく下りは、映画ならではの贈りもの。そのために、“小寺マジック”をいかにあってほしいウソに仕立てるかは、作り手の腕の見せ所だろう。

放課後の解放感、学祭の共同性、校内を吹き抜ける風、試合前の張りつめた空気…学び舎の記憶を醸成させるスケッチの数々が素晴らしくみずみずしい。行き届いたディティールのパッチワークがあってこそ、観客の望むウソでもてなしができるのだ。あっ、そこで忘れちゃならない!工藤遥がボルダリングを、伊藤健太郎が卓球の猛特訓を受け、本人の実演で撮影に挑んだアクションの厚みが、一番の勝因だということを―。

そのうえ、最後に用意されたエピソードがいいじゃないの!無自覚にキラキラしてる小寺さん、みんなに見られるばかりだった彼女が、「僕を見てくれ!」とお願いされる夏の放課後。近藤に直球で告げられた小寺さんは、長い沈黙と共に、そこで初めて映画の主役の1人になるのだった―。

古厩智之作品との付き合いは長い。すでに四半世紀になる。タイトルも覚えずに劇場に足を向けるほど、監督への信頼度は高い。劇中、「がんばれ!」が何度もこだまするのに、まったく胃もたれがしないのは、この監督が勝ち負けや英雄譚を気に留めない作り手だからだ。それでいて、登場人物全員のきらめきだけは脳内にいつまでもリフレイン…。

腕のいい群像劇の職人監督、引き続き、定点観測させていただきます!

『のぼる小寺さん』

2020年/101分/日本

監督    古厩智之

脚本    吉田玲子

撮影   下垣外純

音楽   上田禎

出演工藤遥  伊藤健太郎


■『れいこいるか』

冬から春へ―。ちょうど年度末のセレモニーが重なる頃にざわつき始めた感染症の猛威も、気づけばすでに半年以上が経過している。未だ収束の気配が見えないせいで、コロナ時間なるものが起動し、その中をずっと堂々巡りし続けているように思いがちだが…違うよ、違う!当たり前だけど、人間都合で時間が止まるはずはない。確実に月日は過ぎ去り、季節はめぐっている―。

1995年1月17日の早朝に発生した阪神・淡路大震災から25年。いまおかしんじ監督は、神戸を舞台にした新作『れいこいるか』で、罹災した街や人の記憶を手繰り寄せ、震災後の23年間を“無常という名の物語”に描いてみせた。

制作は、日本を代表するピンク映画の老舗プロダクション国映株式会社。それにしても何でもありは国映のお家芸だが、このタイミングで、浮世をはかなみつつしかも笑える作品を世に送り届け、間延びしたコロナ時間に風穴を開けてくれるとは!長く映画に携わっている会社には、こういう臭覚が自然と働くものなのかもしれない。

物語は震災の前日から始まる。須磨海岸を眺めながらのんびり寛いでいるのは、小説家を夢見る太助と稼ぎ頭の妻の伊智子。傍らには一粒種の娘のれいこが戯れ、さながらささやかな幸福に浸る家族スケッチというヤツだ。そこに、不意に伊智子のポケベル(!)が鳴る。どうやら、不倫相手からのお誘いらしい(汗)。さすがは国映。開口一番、濡れ場でのおもてなしである。

昼間に、親子水入らずで楽しんだイルカショーの真似なんかしながらベッドインとは…やるな~伊智子♪ ママも女房も愛人も、カジュアルにこなしてサラサラさらりか。とはいえ我々は、どうにも落ち着かない心境で成り行きを見守る。もちろん不貞のシンパイではない。そう、我々観客だけが、この後の未曾有の大惨事を予知しているからだ―。

ところが映画は、固唾を飲んで見守るハシゴをあっさり外し、震災から5年後へイッキにジャンプ。まるで何事もなかったかのように、伊智子と太助が暮らす街を、再びクローズUPする。伊智子は実家の立ち飲み屋を手伝い、太助の生活圏も近所のようだが、震災でひとり娘を亡くした夫婦は、すでに離婚していた。

この間、ふたりに泣き暮れた日々があったかもしれないし、なかったかもしれない。ふたりが罪悪感で苦しんだかもしれないし、そうでなかったかもしれない…。どんな経緯があったのかは語られないまでも、この空白によって、ふたりが取り返しのつかない体験を経て今に至っていることだけは、十二分に察せられる仕立てだ。

しかも厄介なことに、この街は優しい。

立ち飲み屋を中心にした地元の人間関係と日常は、ユル暖かくのんきな調子で、ふたりの過去にツッコミを入れつつ、程よい距離から傍観してくれている。「これ、かえってしんどくないか?」とシンパイになるのは門外漢のわたしだけか…?そんな中、伊智子は再婚に踏み切る。

彼女は、新しいお相手を太助にも紹介したりして、どこまでも軽い。なんだか、過去をうっちゃるフリに興じようとの思惑にも見て取れる。それほどこの地で起きた悲劇は、あまりにも多くの犠牲者を出したため、個別の哀しみに浸る時間をずっと棚上げにさせてしまったのかもしれない。振り返るタイミングを失い、日々の流れに身を任せるという対処法が、精一杯だったのではないか―。

そんな想像をする端から、映画はさらにあっけなく時間を送る。再婚を機に、顔を合わせてもいなかったふたりが数年ぶりに偶然出くわすと、またもや伊智子のお相手が変わっている(汗)。生活自体は、顔ぶれの変わらぬ地元で落ち着きながらも、心の在り様は未だ漂泊者のままみたいだ。その一方で、取り立てて何か起こるわけでもないリズムに慣れた頃、映画はフイに揺さぶりをかけてくる。

ある日、温厚な太助が強い正義感に突き動かされ、傷害事件を起こして収監される。いやー、驚いた。仕事にも、妻の不貞にも、じぶんの未来にも、およそ前のめるというしぐさを見せず、子煩悩という札しか持たなかった男から、初めて生々しい感情が噴出する。邪魔にならない男をやり通してきた太助には、そうさせるべく重い過去があったのだ。

じゃあ、伊智子はどうなんだ。彼女も、身体の中心にある何をしても埋められない空洞を、放置したままなのではないか。だから、徐々に目の見えなくなる病に侵されつつあるのではないのか。…なんてことを、我々はツラツラ想像する。

100分尺の低予算作品であっても、「日々のちょっとした絵」に様々な映画的振る舞い(ロケーションと撮影が素晴らしい!)が盛り込まれているので、太助と伊智子のそれぞれの歩みが、想定以上に我々の内臓に沁みてくる。それは同時に、観客各々の四半世紀を自然に呼び起こす契機にもなり、映画内時間がスクリーンの外にまで拡張するのだった。

ラスト、2018年に再会したふたりのエピソードはあえてここに記さない。「夫婦だったからこそ」と、「夫婦といえども」の間で漂いながら娘の死を受け入れてゆく23年間に、オチなど不要だ。さらには、すべての登場人物の語られぬドラマも慈しみながら映画は幕を閉じる。責めたり、詫びたり、正したりするアクションがなくても、祈りは届く。ノンシャランな語りを貫くことで、むしろ厳しくも無常な生のドラマに到達している。

『れいこいるか』は、大阪出身のいまおか監督が、監督デビュー当時からずっとあたためていた企画だという。ちなみにこの奇妙なタイトルは、亡き娘への呼び掛け「れいこ、居るか?」だったり、立ち切れない思いを込めた「れいこが要るか(必要か)?」だったり、はたまた娘のれいこが抱いていたイルカのぬいぐるみとも解釈できる。

『れいこいるか』

2019年/100分/日本

監督    いまおかしんじ

脚本    佐藤稔

撮影      鈴木一博

音楽      下社敦郎

出演     武田暁  河屋秀俊


■『その手に触れるまで』

2019年カンヌ国際映画祭で監督賞を受賞した、ダルデンヌ兄弟の新作『その手に触れるまで』(’19)。主役となる13歳のメガネ少年アメッドは、いつも独りで急いでいる—-。

兄からの連絡を待つとき、アメッドは走って階段を駆け上がり、駆け降りる…息せき切ってだ。さらには、担任のイネス先生の制止も振り切り、放課後クラス(学童みたいなものか?)を勝手に切り上げて飛び出す… バタバタと慌ただしく—-。まるで銀行強盗でもしてきたかのように、兄が乗る車に滑り込むや否や、今度は寸暇を惜しんでコーランの暗記に必死。只事じゃない急ぎっぷりと緊張感、一体何がはじまるのか—-。

兄弟が向かった先は、街中のゲーセンでも、若者たちの溜まり場でもなく、自分たちが暮らす地区にあるイスラム教の礼拝所。へっ?因数分解から解放されて今からお遊びタイムじゃないの?むしろ厳粛なお祈りタイム?しかもアメッドは、さっきまでの荒っぽい態度とは打って変わり、丁寧に身を清め、イマーム(導師)の教えに絶対服従の姿勢ではないか。なんとまあ、驚くべき手のひら返し!

ベルギーの、北アフリカ系移民家庭に生まれ育ったアメッドは、近頃様子がおかしい。礼拝に熱中し過ぎで、見かねた母から「導師に洗脳されている!」と叱責される一幕も。兄と姉も手を焼いているが、アメッドはひとり徹底抗戦。反抗期と簡単に片付けられないほど頑なで、不穏な空気をまき散らしている。

とはいえ、もともとは年齢よりも幼く見えるアメッド。撫で肩で、背中からお尻のラインが丸みを帯び、絶えずうつむきがちで表情が読み取れない姿は、引っ込み思案のボーイッシュな女の子に映ったりする。処女性さえ漂って見えたのはわたしだけか?—-

だから余計、恩師のイネス先生をはじめ、母や姉らの女性性に対して激しく線引きをする様子が、教義以前になんとも不似合いで、ツイ動揺してしまうのだ。このおぼこいポッチャリ少年の、どこにそんな排他的な側面があるのかと—-。

葬式仏教しか馴染みのないわたしには、宗教心自体が縁遠いものだが、この家族にとっても、この地域の住人にとってもイスラムの教えが日常に根差しているのは想像に難くない。イネス先生が住人たちを集会に呼び寄せ、歌でアラビア語の学習を提案する場面では、活発な意見交換もあり、なんだか我々より開かれた環境では?と感じるほどだ。

そんな中、イネス先生を背教者と決めつける導師は、兄弟を焚きつけ、集会で横やりを入れるミッションを与える。ところが、サッカーの試合が気になる兄と、導師のメッセージを絶対化している弟とでは、明らかに温度が違って興味深い。さらには、アメッドを真ん中にして、2人の師が対決する構図となり、学ぶとは何か、師とは何か、主体性とは何かといった、教育に対する考えを、今一度整理したくなるような投げ掛けも浮かび上がる。

そして、ここからアメッドの狂信的な側面がイッキに表面化して行く。『タクシー・ドライバー』(’76)のトラヴィス並みに虎視眈々と自己改造に励み、我らが敵と教え込まれたイネス先生を抹殺しようと、またもやひとり階段をのぼる…今度は足を忍ばせてだ。えっウソでしょ?ホンキで恩師を排除するつもり?と、ちょっと呆気にとられるくらいの大胆な行動にツイあたふたしてしまう—-。

しかし、ここで注目してほしいのは、ナイフを握りしめて襲撃し、結局失敗に終って立ち去るときのアメッドの非力な身体だ。脳ミソ内で作られた過激な排外主義と、彼の丸みを帯びた身体の反応には大きな乖離がある。誤解を恐れずに言えば、アメッドは他者を殺めようとするような肉体に至っていない…。今ならまだ世界の声が届くかもしれない…。少年の弱い肉体に、逆に希望が持てたのだ。

アメッドは自主し、少年院に収監。そこは、管理一辺倒の施設ではなく、自己形成を目的とした更生プログラムが用意されていて、強張った考えを時間をかけて解きほぐそうとの体制が整っている。新たな師たちとの出会い、そして新たな環境に新たな生活を介して、果たしてアメッドはどう変化して行くのか—-。

映画は、母との面会と抱擁に始まり、動物飼育に農場実習、はたまた心理士の伴走や、初恋の兆し(!)さえも用意する。所詮13歳、いかに難攻不落のアメッド城だろうと、世俗の愉しみにホホを緩めるのも時間の問題だろうなどと、高を括るわけだが—-。はい、何せ相手はダルデンヌ兄弟ですからね(汗)。我々が抱く「願わくはこうなって欲しい…」絵で終わるはずはない。

アメッドは一見、我々と同じタイムラインに居合わせる振る舞いをするが、彼の精神はむしろ世界の声から急いで離れようと進んで行く。ここにいては汚れると—-。テロに命を捧げた従妹、逮捕された導師…我が英雄たちを拠りどころとした聖域にしがみつきたい思いは固く、純粋であるがゆえに、一貫性を求めずにはいられないのだ。

アメッドは、ダルデンヌ作品の中で、最も共感できない主人公だと言われている。じぶんの正義を貫くためには、他者を排除することも厭わない執拗さに、観客はほとほとお手上げになるのだろう。わからないでもない。ただ、ラストの長廻しのシークエンスに、わたしはやっぱり震えた—-。

あの弱っちかったアメッドの肉体は、心身ともに誰も止めることができない怪物になり果て、すべてを振り切って我が正義の証明へ突進する。もちろんそれは地獄の扉が開く予兆だ。でも映画は賭けに出る。上映終了間際ギリギリまでアメッドの一貫性だけをつぶさに狙い続け、なんの補助線も与えない。そして、なだれ込んだ最後の最後に暴走の梯子を一瞬にして外し、アメッドを丸ごと宙に放って見せたのだ—-。

『蜘蛛の糸』のカンダタは、血の池地獄へ真っ逆さまに転落したが、アメッドは放課後クラスの中庭に落下。身動きできず、泣きながら思わず「ママ…」とつぶやく…そう、今度は『杜子春』にもなる!

うつむき続けた少年が図らずも仰向けに倒れ、陽の光を浴びたとき、彼の何かが変わった。だから自ら手を伸ばし、世界へ助けを求める…他者を傷つけるはずだった凶器を打ち鳴らし、ゆるして!と—-。

アメッドは立ち戻る場所を思い出した… もう独りで急ぐ必要はない。『その手に触れるまで』は稀に見るアクション映画。劇場で体感することを強くお勧めしたい。

その手に触れるまで』

2019年/84分/ベルギー・フランス

監督・脚本 ジャン=ピエール・ダルデンヌ  リュック・ダルデンヌ

撮影       ブノワ・デルボー

編集       マリー=エレーヌ・ドゾ

出演       イディル・ベン・アディ ミリエム・アケディウ

■『つつんで、ひらいて』

やるなあ、広瀬奈々子。初めてのドキュメンタリー作品の被写体に、超手強そうなお相手を選ぶなんて!まだお若いのに大したもんだ。

広瀬監督が3年に渡り密着したのは、1943年生まれの装幀家・菊地信義。わたしも、お名前だけはウッスラ知ってはいたものの、本を買うときに、装幀家を意識したことなどありませんからね(汗)。逆に本作を見て初めて、我が本棚にも少なからず菊地氏の手掛けた本が並んでいることを知ったという体たらくです(…遅まきながら気づかせてもらえてよかった)。

本作『つつんで、ひらいて』では、そんな“縁はあっても認識の乏しかった”菊地氏の動く姿が、冒頭からいきなりつぶさに捉えられ、妙に興奮した。憧れや妄想がない分(!)、かえって「えっ、こんなに至近距離で、鶴の機織り場面をのぞいてイイの?…」と、ちょっとした後ろめたさも感じつつ前のめったのだ。

というのも、銀座にある菊地氏の事務所は、トップランナーのイメージとは裏腹なこじんまりした静かな空間で、ご自宅の茶室にでもおじゃましている感があったから—-。よく知らない年長者に前振りもなく急接近、だから余計にドキドキ。

そのうえ、いかにも使い勝手が良さそうなコックピット的作業机のすぐ横には、さりげない風情の坪庭がのぞいたりして…どんだけ趣味がイイねん!ですからね(笑)。菊地ワールドには野暮なものが一切見当たらない。菊地氏=手強そう&面白そうスイッチは、瞬く間にONになった。

そして、高い山に挑む広瀬監督の姿勢がこれまた上等なのだ。知性と度胸の両方が備わっている。カメラに四六時中つきまとわれるのを嫌う菊地氏が、舌打ちしながら「いやだねぇ…」とイラつくシーンを、あえて開始早々お披露目したりなんかして、なかなかツワモノですわ。

監督は、おっそろしく審美眼の肥えた被写体からこぼれ落ちる自意識を見逃さず、丁寧に織り上げる。尊敬するお相手とはいえ、じぶんの作品にするための批評性はけして手放したくないとの覚悟が、何ともあっぱれではないか!

さて長期密着記録は、7つの章に分けられ、本に見立てた構成になっている。これが、シンプルなアイデアながらも楽しさ倍増♪章立てにしたことで間口が広がり、日頃お目にかかることのない本作りに携わる現場を、砂被り席から見られて大満足だ(製本工程の映像が艶めかしくて、思わず工場萌え!)。何より、生業側のアクションを通じ、消えゆく運命にある紙の本のことを、今一度考えるきっかけになり、有難かった。

そんな風に周辺事情も充実させつつ、もちろん映画の本丸は菊地氏である。例えばメインとなる制作シーン。なんとなくアナログな作業をしているタイプかな?…と、想像はしていたが、シャレじゃなく本当に“鶴の機織り”だったとは!たまげましたね。

そもそも机の上に並ぶのは、PCではなく、はさみ、のり、カッター、定規などごくフツーの文房具。誰にも馴染みのある道具を使い、アイデア出しの段階からデザインを確定させるまで、そのすべてを自身ひとりの手作業だけで処理して行く…サクサクと手際よく滑らかに!菊池氏の手や目のちょっとした動きから、思考がどう展開するのかも窺い知れて、実にスリリングだった。

とはいえ、印刷業界がDTP化されて久しいわけで、入稿用データ作成のタイミングには、菊地イズムを熟知しているベテランの技術アシスタントさんが隣室から登場。そこからお2人で、並んでPCに向かうのではなく(!)、壁越しでミリ単位の修正を始めるのだが、息のあったやりとりに昔懐かしい銭湯での記憶が蘇ってしまったのはわたしだけ?男湯と女湯の壁を挟み、「もうすぐ出るよ」と声を掛け合う昭和の風景が連想されて…(笑)。お2人の信頼関係は、そのくらい強固なものに見えた。

他にも、印刷・出版関係の方々をはじめ、作家の古井由吉氏や、行きつけの喫茶店、庭に遊びに来る猫までも、菊地氏とつながりのあるものすべてに、長く深い交流の痕跡が感じられる。それも、東京生まれの美意識なのか、べたつかず、さらりと縁を結んでいる風情だったな…。なるほど、彼のたったふたつの手は、こうしてずーっとずーっと緊張と愛着の時間を行き来しながら本の身体を拵え、それが巡り巡ってわたしの本棚にもつながっているってことか—-。

唯一関係性の毛色が異なって見えたのが、かつてのお弟子さんで、いまは独り立ちして活躍されている水戸部功氏のインタビューシーンだ。映画の中で、何かと師と対照的に映るよう配置されるが、一方で師との間に横たわるもどかしく複雑な感情を、よくもこれだけ客観的に述べられるなあと感心してしまいましたよ。

反発するでも皮肉るでもなく、素直に「全部やられてる」と認識しながら、本の未来をどう担うかの岐路に立つ若手代表の声…。ここには、同じように映画界の先人たちを意識しているであろう広瀬監督自身の内なる声も重なって見えたなあ。好きなら溺愛すればいいし、イヤなら無視すればいいのに、どちらにも振り切れないのがツライところなのか…。若者たちは繊細だねぇ。

ぶっちゃけ菊地氏は、全方位にスゴすぎて、いささかめんどくさいおっさんにも映る。装幀哲学を語る言葉にスキはないわ、骨董市めぐりに、蕎麦屋に、蓄音機に、鎌倉在住…と、趣味方面でも筋が通った“美の壺”おやじだし、今までに「手」がけた装幀が1万5000冊以上って…もぉー、気絶しそうだ(汗)。

映画の中では仕事の「質」を間近に堪能させてもらったが、実際は世に送り出した膨大な仕事の「量」こそが、菊地氏の唯一無二の存在感に直結している気がしてならない。どんな球も拾いまくり、長年世の中に請われ続けてきて今に至る何よりの証だからね。 “受注仕事における創造性”—-ジャンルは異なるが、作曲家・筒美京平と近しいスタンスも感じたわ。

そんな御大は、映画の後半で「やればやるほど自分が空っぽになってゆく」「装幀家としての達成感がない」などとキャリアと裏腹な発言を漏らしたり、はたまたアイデアが浮かび「夜中の大発見!」と無邪気な笑顔を覗かせたり、重鎮に収まり切らない横顔も披露する。オレサマで突き抜けている人こそ、じぶんに固執せず、じぶんから最も自由でいたい人なんだろうな。じぶんをつつみ…じぶんをひらき…絶えず独りリニュアル。

それが映像で記録されて、ホントよかった。広瀬監督の粘り腰によって、ある種の絶景を見た気がする—-。

2019年/94分/日本

『つつんで、ひらいて』

監督・撮影・編集 広瀬奈々子

プロデューサー  北原栄治

出演          菊地信義 水戸部功 古井由吉

■『タレンタイム〜優しい歌』

へっ?いったい何ごと?聞いてないし…(汗)。チラシには「8年の時を経て“伝説の映画”がついに待望の劇場公開」とある。そう言われても、逆に引いてしまうが…(汗)。ただし、いかに宣材に無関心なあたしでも、予告を見れば自ずとカンは働く。取り急ぎ、こちらの動画をチェックしてみて。

結論から言うと、『タレンタイム~優しい歌』の予告は、早々に公開日を心待ちにさせる2分間である。データベースの乏しい人でも、「なんだかイイかんじ…これ見たい!」と、思わずホホを緩ませる道案内になっているのではないか。ついぞ触れたことのないマレーシアの映画だが、なるほどここには「伝説」と呼ばれるに値するテイストが網羅されている。ちなみに辞書によれば、「伝説」=ある時、特定の場所において起きたと信じられ語り伝えられてきた話―とある。

話は前後するが、本作は完成後8年間、観客の口コミを支えに日本各地でささやかに自主上映され続け、今回初めて劇場公開が実現した息の長い映画だという。つまり、映画そのものが描いているのも「伝説」なら、作家の手を離れた映画が、観客に息をつながれて「伝説」と化してもいるらしい。未だDVDになっていないことも、前のめりに拍車をかける大きな要因だろう。

驚くのはまだ早い!監督のヤスミン・アフマドは、本作完成後に51歳の若さで急逝。全編にわたり、生と死が非常に接近した形で描き進められたこの1本が遺作となるとは…。すべてがあまりに劇的すぎて茫然としてしまうが、『タレンタイム~優しい歌』は、この先も何度となく人々の口の端に上る傑作である。天界に召された彼女は、作品と共に永遠に語り継がれる―。

本音を言えば、「伝説」とは予備知識なく、バッタリ出くわしていただきたいので、いつものようにエンジン全開で映画評にまとめるのは、いささかためらわれるのだが―。そもそもあたし自身、マレーシアのことは、何一つ知らなかった(汗)。地図上で指し示すことさえできなかったし、宗教や言語の異なる人々が共生する他民族国家だという事実も、映画を見て初めて知った。何かにつけて、日本人には想像しにくい背景じゃないか―。

ところがヤスミンの映画には、あたしみたいなボンクラを最短最速で射止める決定打が随所に用意されている。その一つが「音楽」である。

ドラマは、学内の音楽コンクール“タレンタイム”に挑戦する高校生たちを描いた群像劇。当然ながら音楽は肝になるが、競技シーン以外でも音楽を活かした演出がことごとく素晴らしい。多様な楽曲のきらめきが、ときに雄弁に、ときに思慮深く我々の胸を打ち、見知らぬ国との距離をイッキに縮めてくれるのだ。選曲はもちろん、登場人物のキャラの違いを、扱う楽器で色分けしてみせるのも、わかりやすく楽しい試み♪

ここで競技に絡む高校生諸君を紹介すると…。しっとりとピアノの弾き語りで魅了するのが、リベラル&リッチなおウチ育ちのムルー嬢。ギター片手に陽気にオリジナル曲を歌う転校生のハフィズ君は、母親が末期の脳腫瘍で入院中。そんな転校生を何かにつけて敵視するのが中国系のカーホウ君で、見事な二胡の腕前をお披露目。ここに、ムルー嬢の送迎役に抜擢されたインド系のハンサムBOYマヘシュ君が加わり、キーマンの多さにたじろぐほどだ(汗)。

いや、まだまだ序の口。たじろいでいる場合じゃない。4人の他に、彼らの家族や親族や友人たちが出張るわ、キャラの濃い先生たちも黙っていないわ、さらにはメイドに天使に亡霊(!)までもガッツリ組み込まれた、多民族かつ大所帯のドラマなのである。

そのうえ誰一人欠かすことができない役どころを配されていて、登場人物全員が主役となって奏でるオーケストラ仕立て。「音楽」を網の目に張り巡らし、多様な人々がゆるやかにつながることで映画内相関図は豊かさを増し、やがてマレーシアという一国の枠を超え、目の前にすーっと「世界」が出現する! そう『タレンタイム』は、「音楽」を共通言語に「世界」が立ち上り、我々に「希望」の在りかを授ける映画なのだ。

例えば、耳の聞こえないマヘシュ君とムルー嬢の背中越しの初恋がある。残された時間を精一杯慈しみあうハフィズ親子の情愛があり、同僚を慕う片思い先生の一途さもある…。甘い触れ合い、清らかな願い、苦く切ない別れ…など、映画は人と人が織りなす様々な情景を捉え、ときに憎々しい感情にさえも「希望」を見い出し、ユーモアを交えながら切り捨てることなく、もてなして描く。とてつもない包容力で。

また「希望」は、各人の胸の内を伝える「告白」のアクションと、常に抱き合わせて紡がれるので、画面の強度は増し、我々と映画の親密度はより高まるというわけだ。だが、実際の社会はそうじゃない。そうじゃない状況を見据えているから、この太っ腹が胸を打つ!

ヤスミンは、人と人との距離が近づくほどに、民族、宗教、言語、文化のすれ違いをあえて露呈させ、むしろ世界のままならなさを容赦なく浮かび上がらせるが、黙って立ち去りはしない。まず他者との間に風を通す。そして困難さを引き受けたうえでなお、人が皆、こうありたいと願ってやまない理想の世界図を描き切る。“愛は月より古く”、相互理解はけして見果てぬ夢ではないと…。うーん、思わず武者震い。

映画は、念じていれば必ず見られるチャンスがやって来る娯楽。ヤスミンの作品はいずれDVDになるだろうし、回顧展も開催されるだろう。だから極力具体的なストーリーに触れないようにしてきたが、最後に1つだけシビレまくったエピソードを紹介すると―。

死期が迫るハフィズくんの母の枕元を訪れては、話し相手になる車椅子の男がいる。ずいぶん打ち解けあっているが、明らかに実在の人間ではない気配。亡霊?守護神?それとも死神?…やがて迎える最期の瞬間。男が、赤く光る木苺の束を口元にそっと差し出すと、母は静かにその実を受け入れ、天に召される―。

ヤスミンの映画では、生者間の隔たりだけじゃなく、生者と死者の隔たりもまた溶け出して消えて行く…。未だかつて見たことがないほど慎ましく美しい最期の晩餐。まるで神話のような一節を、サラっと簡素に綴るがゆえに忘れ難い。この世のすべての優しさを引き出すヤスミンのマジック…思い返しては今も背筋がゾクゾクする―。

『タレンタイム ~優しい歌』
2009年/115分/マレーシア
監督・脚本 ヤスミン・アフマド
撮影 キャン・ロウ
音楽 ピート・テオ
出演 パメラ・チョン マヘシュ・ジュガル・キショール

■『エセルとアーネスト ~ふたりの物語』

『ドッグマン』『ジョーカー』そして『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』…と、ここのところ、あたし好みの狂気をはらんだ映画に立て続けに出くわして、至極ご満悦。どの作品も、内なる境界線を踏み越えてしまった主人公が、危うい領域へ転がり落ちる瞬間を捉えていて、とてもスリリングだった。予想を超える見事なタガの外れっぷりに、思わずホレボレ(笑)。ユルく凡庸な毎日を生きてる人間側からすると、ちゃぶ台返しのアクションすべてに快哉を叫ぶってわけだ。

―が、今回取り上げるのは、これとはまったく真逆な一本。英国の絵本作家、レイモンド・ブリッグズが、今は亡き両親の想い出を綴った『エセルとアーネスト~ふたりの物語』(’16)である。

恥ずかしながら、この著名な作家に関する予備知識はゼロ。作品も読んでいない。そのうえ原作のアニメ化だという…(汗)。チラシを見れば、写実的な画風や真面目な人物タッチ、「ささやかな幸せを大切に生きたふたりの日々に温かな涙があふれる―」との惹句も照れくさくて、むしろ腰が引けるばかりだった。…が、なぜか劇場へ出掛けた(汗)。そして悪態ついてるヒマがないほど面白く見てしまったのだ!

映画は、原作者レイモンドが慣れた手つきでミルクティーを入れる、なんと“実写”シーンで幕を開ける。自宅と思わしき台所や仕事部屋を背景に、ご本人が本編の前フリをする仕立てだ。特に、ゆっくりハニかみながら両親の想い出を紐解く老画家の語り口は、レイモンドを知らない&ファミリーヒストリー好きなあたしに願ってもない導入となり、苦手意識は早々に吹き飛んだ―。
さてアニメ本編は、1928年のロンドンを舞台に、若かりし頃のレイモンドのご両親の馴れ初めから始まる。陽気な牛乳配達員のアーネストが、5歳年上のメイドのエセルと偶然目が合い、手を振りあって、デートに誘ったと思ったら、あれよあれよという間にご結婚!

古今東西の映画を愛好してきたあたしでも、ここまで高速ゴールイン・ドラマは記憶にないかも…マジで(汗)。しかも、ほころびを想像する気も失せるような、安心、安全、誠実、純粋なほのぼのカップルの誕生に、「おい、おい、開始早々ハッピーエンドか~!」と、意表を突かれて苦笑い。まるで、半年分の朝の連ドラを5分で早送りしたみたいなノリではないか(笑)。

そして、若い夫婦が新居の購入にチャレンジするくだりも見物。ここでは一転、人生すごろくのスピードはスローダウン。学のない牛乳配達員が、労働者としての誇りを胸に夢のマイホームを手に入れ、夫婦で知恵と力を合わせ、丁寧に暮らして行く様子を事細かにお披露目する。

25年のローンを組み、入り口には鉄の門。小さいながらも庭があり、トイレは水洗、お風呂だって付いている…。エセルが思わず涙ぐむほど、それは当時の憧れの文化的生活だったのだろう。さらに言えば、少し背伸びしての人生設計が、立ち上げたばかりの若い共同体の絆をより強固にしていて、90年前の英国庶民の“暮らしの社会史”として眺めても、興味深いスケッチになっていた。

1934年。ふたりに待望の子どもが授かる。雪の日の朝、難産を乗り切ってレイモンド誕生。そして同じ頃、世界はキナ臭い匂いに包まれるようになる。新しい歓びと、忍び寄る戦争の影を、映画は相互に組み入れながら、再び流麗に飛ばす。

「外」にどんなに荒波が立とうが、「内」は絶えず穏やかで、生活者目線を崩さないブリッグス家のエピソードの数々…。ささやかな日常の一コマが、緩急使い分けた編集のリズムによって、イチイチ粋な小話に豹変するのには驚いた。もちろん、夫婦の素顔には夫々の個性がくっきりと浮かび上がり、日本人のフツーとは異なる側面も伺われる。ラジオから流れる政治情勢に、敏感に反応するふたりが、互いの見解を自由に語る姿は、我が国のホームドラマではついぞお目にかかれない代物だろう。

また、エセルとアーネストにとって共に身内を亡くした前回の大戦の傷は深く、あの絶望を乗り越えることで、彼らの質実剛健な生活者スタイルが確立されたことにも気づかされる。生きている限り人生の時間は、絶えず後ろへも前へも伸び続けているのである。

世界は再び悲劇を繰り返す。ふたりは泣く泣く幼いレイモンドを田舎へ疎開させる。同時代を生きた人々なら、誰もが味わったであろう戦時下の不自由な暮らし…。だが、ブリッグズ家の体験談は、ここでも個別的であり普遍的でもあるように映る。それはなぜか。小さな幸福を積み重ねてひたむきに生きる一家の在り方に、我々自身が信じたい生のドラマを重ねて見ているからではないか。我々の営みには意味があると―。

やがて終戦。再び一つ屋根の下に家族が揃い、平和な日々が戻って来るが、政治は絶えず揺れ動き、科学の進歩は生活スタイルを一変させる。何より愛する一人息子の成長が、一番予期せぬ“未知との遭遇”になろうとは!(笑)

エセルとアーネストに信じたい生のドラマを重ねて見てきたのは我々観客だが、劇中のふたりも同じように、息子にこうなってほしい理想を思い描いていたのである。が、それは見果てぬ夢。握りしめていた親心をゆっくり手離すと、今度は自然にじぶんたちの老いが目の前に広がるようになる―。

人類が月への一歩を遂げた2年後、エセルはこの世を去り、追いかけるようにアーネストも旅立つ。ふたりの最期は、唖然とするほど即物的に描かれ、極めて残酷に映る。40年以上に渡り、ふたりの日々を丹念につむぎながら、映画は最後まで観客の思惑をいい意味で外し続け、ただただ激動の時代を駆け抜けた。

そう、すべては無常。誰にも等しく終わりはやってくる。しかし、はかない生の一回性に賭け、生涯を全うしたふたりの軌跡は、虚無に飲み込まれない。自身の両親を描きながら、真摯に生きたすべての人々の生をも照射したレイモンド、その仕事は大きい―。

『エセルとアーネスト ~ふたりの物語』

2016年/94分/英国 ルクセンブルク

原作    レイモンド・ブリッグズ
監督    ロジャー・メインウッド
音楽    カール・デイヴィス
声の出演  ブレンダ・ブレッシン ジム・ブロードベント

■『よあけの焚き火』

今回は、内容もタイトルもほとんど知られていない映画の紹介です。残念ながら観客動員は伸びず、すでに名古屋の公開は終わってしまいました(涙)。プロの役者が使われていないし、宣伝も控えめな小品だから、致し方ないんだけど…もったいない話です。かくいうあたしも、劇場の方に薦められなきゃスルーでした(汗)。映画愛好家たるもの、これじゃあマズいだろうと反省し、ブログにまとめることにしました。映画って、念じているといつか見られることがあったりします(確率高い!)。記憶の片隅にぜひ入れておいてください。

土井康一監督による『よあけの焚き火』(’18)は、72分という短い作品ながら、わたしには“初めて尽くし”な映画で、かなり意表を突かれました。もちろんホメです。ご存知の通り、映画に関しちゃ相当すれっからしになってますから、脇腹をフイに刺される体験=ブラボー!なんです(笑)。

晴れた冬の朝、閑静な住宅街から映画は始まります。帽子にマフラーでしっかり防寒して車に乗り込む親子。サッカーの試合に出る息子の送迎でしょうか?…カジュアルウエアが板についた、今どきのシャレオツなパパと息子の絵ですわ。それにしてもニッポン、変わりましたね~(笑)。50年前の我が親子像とは全くの別物(汗)。しかもどことなくお品も良くて―。

いや、出で立ちは軽快だけど、息子は助手席ではしゃぐ様子もなく、遠い目をして後部座席に口数少なく座っています。凛々しくもあり、心細くも映る複雑な横顔。休日の親子の遠出にしては、場違いな緊張感が…一体なぜ?はい、実はこの親子、650年以上もの伝統がある大藏流狂言方の血筋を受け継ぐふたりで、山奥の稽古場へ向かうところなのです。

映画初主演かつ、じぶん役に挑むことになった親子―父は大藏基誠(おおくらもとなり)、10歳の息子は康誠(やすなり)と言います。車窓からの眺めは、雪の残る大自然へと見る見るうちに様変わりし、ふたりがたどり着いた先は、ひっそり佇む一軒の古民家です。

到着早々、親子は手分けをし、キビキビとおウチ作業を始めます。雨戸を開け放ち、隅々まで掃除をし、台所周りを整えて柱時計のねじを巻き、手作りのカレンダーまで貼り出します。どうやらしばらく滞在する模様。「おいおい、『男の隠家』by三栄書房っスか」とツッコミを入れてみましたが(笑)、昭和初期の匂いがする小ざっぱりと美しい空間の磁力にはあらがえません。なんと照明以外、家電製品が見当たらないのよ~、清々しいはずです。

そして驚くべきことに、一連の作業の間、父から教育的指導が入っても、息子はことごとく「はい」としか返さない…。ちょっと信じられないほど素直に振る舞い、聞き入れます(汗)。かといって、特殊な家業の躾に閉じるスケッチでもなく、家の中の「はい」の連発が、家の外の雄大な蓼科の山並みに抱かれるように描かれ、とても寓話的。一目で「これはノレそう!」と直感が働きました。

男2人の合宿生活には、小さな彩りも添えられます。自宅から持ち込まれたのは、人形の姿をした陶製のベルと一匹の金魚。ゲームとアニメではなく(汗)、留守番の母をイメージさせる小道具を登場させるとは…付け入るスキがございません。ここまで俗臭ゼロだと、これはこれで、変わりもの見たさ欲が募り、かえって新鮮。何せ稽古が始まれば、初めて尽くしにさらに血が騒ぎ、身体が勝手にヒートUPするのですから。

実際は、父から息子へ伝統の技が伝授されるシーンに奇をてらうような手触りはなく、カメラは絶えずクールダウンしていて、記録の構え。だからなのか、口伝え&身体伝えの繰り返しに、素描集を眺めるようなそぎ落とした美しさが立ち上がり、強い輝きを感じます。

稽古場のしつらえがこれまた素晴らしい。コーナー2面が共にガラス窓になっている畳敷きの和室は、ちょっと手狭にも感じる暮らしと地続きの一室ですが、黙々と稽古を続けるうちに、普段使いの空間の“気”が、徐々に上昇してくるから目が離せません。日常と非日常な営みが溶け合い、なんともイイ塩梅に…。そしてここでも、屋外の凍てつく空気が親子稽古の書割りとなって、静謐な情景を生み出していました。

とはいえ、親子であり子弟である関係は、向き合いすぎて煮詰まることも。寝食を共にし、逃げ場のない閉ざされた場所でのトライだからなおさらです。映画はそこに風穴を開けるように、親子じゃれ合い狂言合戦を差し挟み、なんとアクション映画にも仕立ててくれちゃうんです。

父が作った具だくさんのお味噌汁を食べながら、はたまた人っ子一人いない広大な草原ではしゃぎながら、興にまかせて狂言のフレーズを繰り出し、親子で丁々発止する様子が楽しいったらない!そう、ラップの掛け合いノリなんですよ。狂言のことなどまるっきし知らないあたしも思わずつられてしまいました。相棒がいるっていいなあ…。大自然を舞台にいっしょのアクションで共振しあうのって愉快だなあ…と。

そんな親子に映画は、近所に住む宮下老人の孫の咲子を巡り合わせます。両親を震災で亡くし、この地へ移り住むようになった物静かな少女と、伝統という名のレールが敷かれた運命を生きる康誠。いわば対照的な境遇の2人が出会い、ほんの一欠けらの未来の兆しを、共に探り当てるまでが描かれて行きます。詳しくは書きませんが、少女を絡ませることで、映画が世界へ向けるまなざしはさらに遠くまで伸び、かつ、言葉に置き換えられないたおやかな仕上がりになりました。

土井監督は、人間国宝シリーズなどのドキュメンタリーで実績のある人らしいです。なるほど!被写体との距離が絶えず一定で、余計なものを足したり引いたりせず、落ち着いています。なので当然のように、大藏基誠・康誠親子ありきで始まった長編初監督作品なのかな…と思っていたら…これがまったく違ったの!

鑑賞後、監督の舞台挨拶を聞きました。するってーと、なんと原案はポーランドの絵本にあると言うじゃありませんか。『よあけ』という絵本の世界観にインスパイヤーされ➡家族をテーマにした映画にできないか➡家族の日常は「伝える・伝わる」の連続だ。でも「伝える・伝わる」とは一体何なのか?➡伝統芸能の家系に生まれた親子はまさに「伝える・伝わる」の体現者だから…とまあ、想像とは正反対のルートで狂言方親子を主人公にしたことが判明してビックリ!

そして原案となった絵本の世界観も監督仕立てで見事に開花させます。自然という名のカンバスに頼った絵的なイメージの捻出だけではなく、大藏親子と咲子を通じて、スクリーンの前の我々自身の内なる “よあけ”を想起させるよう設計してるんです。控えめに見えて、この監督の巻き込み胆力はなかなかのものです(笑)。

ついでに、ご本人にあの魅力的な稽古場のことを尋ねたら…稽古場は大藏家のものではなく、監督の師・本橋成一氏と縁のある建物を借りてのセット撮影だって!確かに出来過ぎだろうと思う節はあったものの、思わずめまいが…。もしかしたら大藏親子も役者?(爆)いやー、なんて素敵なウソつきさんなの~!マンマと乗せられましたあ~。もちろん最上級のホメです。

すでに映画監督としての資質をじゅうぶん備えておいでの土井康一氏、次作も素敵なウソつきでよろしくです(ぺこり)。

『よあけの焚き火』
2018年/72分/日本
監督/脚本/編集  土井康一
撮影      丸池 納
音楽       坂田 学
照明      三重野聖一郎
キャスト    大藏基誠 大藏康誠 鎌田らい樹

■『ROMA/ローマ』

アルフォンソ・キュアロン監督が描く話題の新作『ROMA』は、タイル模様のクローズUPでゆるりと始まる。背後から、控えめに鳴り響いてくるのは、鳥のさえずり…足音…デッキブラシがゴシゴシこすれる家事労働らしき音だ。

やがて、水が撒かれて清められ、その水がタイルの上に徐々に流れ着くと、天窓から刺す光の反射で水鏡と化し、上空を横切る飛行機をアメンボみたいな姿で映し出す―。まず音で誘い、次に光を降り注ぎ、最後に動く物体を、ごく小さくスクリーンに招き入れる仕立てが神々しい。そう、世界はこうして絶え間なく動いているのだ!

ここで映画はカメラを引き、一連の労働音が、小柄な若い女性による清掃スケッチだったことを明かす。傍らでうろつく一匹の犬も含め、平穏な日常の一コマなのか…。きわめてよい風景だ。その後もカメラは、彼女の手慣れた家事労働を遠目に追い駆けながら、家政婦仲間との関係性や、邸内の情報も一筆書きのリズムに乗せてさりげなく捉え、ドラマの舞台をものの見事に立ち上げる。滞空時間の長い滑らかな幕開け…我々の意識はすでに映画の中にある―。

マズイ!こんな調子で映像美にイチイチ感嘆していたら、ひとりウットリつぶやきで終わってしまう(汗)。先を急ごう。
70年代メキシコシティのローマ地区。先住民族の血を引くクリオは、白人中流家庭の邸で働く住み込みの家政婦だ。雇い主一家は、医者のアントニオに妻のソフィアとその母、やんちゃ盛りの4人の子供の7人家族。同僚と2人、朝から晩まで一家の生活周りのすべてを整えているが、主人と奉公人の線引きは、極端に緊張を強いるほどのものでもなさそうだ。逆を言えば、それだけ階級差が固定化されてしまっている証にも受け取れるが―。

しかし無垢な子どもたちは、慈愛に満ちた方へと自然に吸い寄せられる。慎ましく穏やかなクリオの表情や振舞いに陽だまりを感じるのか、気づけば子どもたちは皆、彼女が側にいてくれるのを願っている。時代や国や肌の色が違えども、子どもは魂の感応アンテナを尖らせ、焦がれる対象を見つけ出す生き物なのかもしれない。

映画はこうして早い段階から、クリオ自身がじぶんの介在価値を肌で感じながら奉公している断片を綴り、これが勝因の一つになっている。クリオの背景はわからなくても、彼女にはじぶんで築いた居場所がある。ヒロインと我々との親和性を絶えず意識しながら、『ROMA』は描かれて行くのだ。

もちろん、家政婦にも女子の時間はやってくる!クリオは、同僚と勢いよく休日の街へ繰り出し、出会ったばかりの恋人候補と早々にベッドイン。慎ましく働く黒子の横顔から一転、好奇心に突き動かされて輝くハレな横顔へ鮮やかに転身だ。ここでもカメラは、若さ弾むクリオの姿を、ひとつの情景として遠目で見守り続けるため、時に我々の記憶を呼び覚ます装置にもなる。労働から解放され、細胞の隅々までじぶんだけの時間を生きる彼女ののびやかさは、懐かしく眩しいものとして、しかと脳裏に焼き付くのだった。

ある日、アントニオがケベックへ旅立つ。たかが出張で家を空けるだけなのに、悪い予感がしたのかヨメのソフィアは大揺れ。時を同じくしてクリオの妊娠が発覚するが、こちらも相手の男にあっさり逃げられ途方に暮れる…。社会的ポジションの異なる2人の女が、男に去られてピンチ襲来という1点を共通項に、物語の中心に迫り出して行く…ずいぶん意表を突く展開である。

そもそもソフィアは、子どもたちに圧倒的に慕われるクリオに対して、面白く思っていなかっただろう。家政婦としては重宝しても、母親の面目は保たれないからだ。ただ2人の女は、異なる立場だからこそ無暗に接近せず、互いの状況変化を察知して、手を差し伸べ合うことはできる。ソフィアは、すぐさまクリオを病院へ連れて行き、このまま働きながら子供が産める環境を約束し、クリオもXmasが来ても一向に修復できない主人夫婦を黙って見守る…。同情でも、友情でもなく、今の生活を持続可能にするための合理的な選択で2人の女は結束する。美談を遠ざけたこのリアリティに、わたしは気持ちよくノレた!

さらに映画は、女たちの内面の葛藤も微妙にズラして巧い。地震に雹、ド派手な年越しパーティーに山火事など、非日常なアクションを唐突に差し入れ、日常を相対化して進行するため、彼女たちの心配事は必要以上に悲劇化せず、我々は絶えずまっさら状態でドラマの行方を見届けられるというわけだ。

例えばクリオが逃げた男を訪ねるシーン。彼女は、ぬかるんだ田舎道をたどり、男の居場所をようよう探し当てて声をかけるが、いきなり酷い仕打ちを受ける。フツーなら、不実な男と憐れな女という悲恋の絵にハメるところだが、ここではそんな等身大の後日談では終わらない。男は、都会で真面目に働き信頼を築いた女へ、嫉妬と憎悪をたぎらせ必要以上に逆ギレする。格差への不満が、まず身近な相手を捌け口にしてエスカレートする様に、やり切れなさが募った。

そして終盤、映画はさらに大きくうねる。出産を間近に控えたクリオが、突然、政権への抗議暴動に巻き込まれてしまう。激しく暴徒化する若者の中には、怒りに狂ったあの男の姿も見えるではないか!恐ろしい勢いで生と死がせめぎあい、もはやスクリーンの中は濁流状態。冒頭の平穏な日常がここでイッキに裏返り、クレオは死産を告げられた―。

犬に出迎えられ無事に退院したクリオ。離婚を決意し、夫の愛車を小型車に買い替えたソフィア。2人は子どもたちを連れて、心機一転の小旅行へ出掛ける。目の前に広がる海辺の景色は、2人の再出発を祝福するにふさわしい自然美の結晶だ。が、驚くのはまだ早い。ここでは明かさないが、全てのパーツが出揃った最後の最後に、映画はなお、究極の“光と音”で神話を編み、我々に贈り届ける。そう、この瞬間を目撃させるために『ROMA』は作られたのだ!

旅から戻り、家政婦の毎日がまた始まる。留守番の同僚に「話がたくさんあるの…」と声を掛けながら、慌ただしく家事に勤しむクリオの姿が小さく捉えられ、映画は閉幕。平穏な日常とうっすら漂う無常観…あー、このエンディングがわたしはたまらなく好きだ!ハンパない傑作…早くも今年のナンバー1候補に決定だ。

『ROMA/ローマ』
2018年/135分/メキシコ・アメリカ
監督/脚本/撮影  アルフォンソ・キュアロン
美術      エウヘニオ・カバレロ
衣装      アンナ・テラサス
キャスト    ヤリッツァ・アパリシオ マリーナ・デ・タビラ

■運び屋

薬物使用で逮捕された人気ミュージシャンの映像が、派手に世間に流れていた3月某日。「 “伝説の運び屋”の正体は90歳の老人だった」―と、謳い文句が躍る映画を見に行った。

クリント・イーストウッドが監督・主演する新作『運び屋』(’18)だ。大いに笑い、めいっぱい楽しませてもらった。―が、本作は、実際にあった麻薬密輸事件の映画化だという。考えてみたら日本の騒動と源泉はいっしょなのだ。いや、リアル犯罪として比較したら、そのウン百倍もタチが悪いのは明らか。まったくもって言い逃れできない真っ黒案件である。なのに、気持ちよく手を叩き、快哉まで叫んでしまうのだから、困ったものだ(汗)。

そう、改めて思った―「映画」という装置が、アウトローを物語るとき、いかに最大級の効果を発揮するかを!劇場の暗闇に身を沈め、世の中からはぐれた輩どもの輝きをこっそり拝むと、しょぼい毎日がいきなり活気づく…あれですよ、あの愉悦。じぶんを大きく見せたい…、それも反体制を気取って…、という青臭く後ろめたい欲望に、映画はタイムリミット付きで個別に奉仕してくれる。それゆえ我々は、錯覚の時間内で、日々の規範からより遠いところまで運ばれたいと切に願うのだ。真っ黒だろうが真っ白だろうが、左だろうが右だろうが、なんだってかまわない…トンでもないジャンプを体感させてくれ!と(バンジーだから紐ついてるしね 笑)。

そして文句なくトンでもないジャンプを味わいましたよ~。なにせ、90歳のジジイのわんぱく体験にお付き合いするのだから、全てが未知との遭遇(笑)。映画は、イリノイ州のへんてこな花畑のシーンから始まった。「なにこのヨレヨレの花?もしや薬物栽培でもしてんの?」などと、ぼーっと眺めていたら、名前も知らない花より、さらにヨレヨレシワシワ猫背の御大イーストウッドが、テンガロンハットではなく、麦わら帽子を被ってひょいっと登場★荒野をさすらい続けたカウボーイの終着点は、土と共に生きる園芸家なのか~と苦笑い。一瞬、デレク・ジャーマンみたいな求道者像を思い浮かべるものの、すぐさま撤回(笑)。

ヨレヨレの花は、1日だけ開花する「デイリリー」というユリ科の一種で、イーストウッド扮するアールは、移民たちを使ってこれを手広く栽培し、ひと財産を築いた成功者だった。しかも、枯れても山のにぎわいどころか、軽口をたたきながら正装して品評会に繰り出す様は、まるで花道をねり歩く歌舞伎役者のごとき艶姿。その有頂天ぶりが可笑しいったらありゃしないのだ。ところが洋の東西を問わず、ジジイのええかっこしいを「馬鹿だね~」と笑って許せるのは、他人様ゆえのことらしい。家族をないがしろにしてきたカッコつけ男は、ヨメと娘から見放されて久しい憐れな老人でもあるのだ。

さて、外堀から伺っているだけでも、『運び屋』がどんな展開になるかは、概ね予測できるだろう。デイリリーの生態のようにアールは早々と萎れ、転落街道まっしぐら。艶姿から12年後の2017年、商売は傾き、自宅と農園を差し押さえられ、手元に残ったのは古ぼけたフォード1台だけ。無論、しょげて帰れる場所もない。人生の高低差を味わうのはヒーローの常だが、口の減らない90歳の老人に、一発逆転の打ち手など用意できるはずもなく、はてさてどうしたものか―。

「町から町へと走るだけでカネになる」―。無違反運転で国中を旅してきたのが自慢のアールは、そう持ち掛けられてテキサス州エルパソへ。運転免許返納に怯える日本のシルバードライバーからすれば、ここぞとばかりに自尊心を取り戻せそうなキャリア・パス図だが、案の定とびっきりヤバイ奴らがお出迎えだ。ただし、アールが出没する先は、いつでもどこでも花道に早変わり♪じぶん十分の立ち回りを披露なんかして、退路を断たれたジジイに怖いものはない。

で、中身は見るなと言われた荷物を、鼻歌交じりに指定の場所へ運べば…アラ不思議。ダッシュボードから大金入りの封筒が、手品みたいにでてくるではないか!いやー、やっぱ現ナマのパワーはすさまじい。アールの皺くちゃの手で握りしめると、かえって札束にナマナマしさが割り増しされ、妙に興奮しちゃったわよ。というわけで、取り急ぎこれで孫娘の結婚披露宴代はゲット。汚名返上&家族の信頼回復に一歩前進か。

こうして、超お手軽&高額バイトに身を乗り出したジジイは、運び屋稼業に精を出し、次から次へと失くしたものを買い戻す。そもそも根がええかっこしいだから、これを機に老後を手堅く内向きに生きようなどと改心するわけもなく、稼ぎは周囲に大盤振る舞いし、踊りまくりモテまくり。世間ではよく「金のない年寄りは誰にも見向きもされずに孤独」と、教訓めいたことを言うが、あぶく銭が人気者の座を保持するための運用費に充てられる絵は、大ウケしつつ、どこかウッスラと侘しさが漂うようにも映る。

もちろんイーストウッド映画だから、老人に金をチラつかせ、家族との和解の果てに大団円―には至らない。アールに絡ませるのは、家族は家族でも麻薬元締め一家のボスや、組織に忠誠を誓う手下の若造や、はたまた赴任したてのエリート麻薬捜査官という顔ぶれで、要は背景の白黒に関係なく、男同士のジャレあいこそがヒーローの現役感を司るパワー源だという仕立て。女どもにすまないと詫びるしぐささえ、様式美の内なのだ。

「タタ(じいさん)」の愛称で呼ばれ、運び屋記録を更新するほど振り切った仕事ぶりを披露したアールは、映画ならではの血統書付きアウトロー。カーラジオをBGMに、自由気ままにオレサマの流儀で浮世を疾走する一方で、朝鮮戦争の退役軍人だという経歴が終始通低音として鳴り響く。具体的にはほとんど語られないが、だからこそ、見たくないものを嫌というほど目撃してしまったであろう老人の虚無感が際立って見えた。

そうイーストウッドが作る映画は、ある意味、いつだって形を変えた戦争映画。そして彼が演じるヒーロー像には、常に鎮魂のしぐさが刻印されている。折れ曲がった背中で、ダーティーワードを連発する孤高の狂想老人に、男たちが惚れるのもわからなくもない(笑)。イーストウッドはしぶとい。まだまだ飛べるな。この先も治外法権でジャンプし続けていただきましょう!

『運び屋』

2018年/116分/アメリカ

監督/製作/主演  クリント・イーストウッド

撮影      イブ・ベランジェ

音楽      アルトゥロ・サンドバル

脚本      ニック・シェンク

キャスト    ブラッドリー・クーパー ローレンス・フィッシュバーン

◆『ギプス』について

去年の10月に写真集『ギプス』を出版した。
 作品じたいは四半世紀以上もまえのものである。それらの写真が撮影された1991年頃の、それこそ写真家駆け出しの頃のことは長めの「あとがき」に書いたので、ここではなぜいまの出版なのかなどについて触れておこうと思う。
 撮影―現像、プリント―展示というサイクルをひたすら繰り返していた。振り返る余裕はなく見返したりはしないし、展示したプリントさえ忘れ去っていることも多々あった。寄る年波もあり、そろそろモノクロ印画紙の先行きも不安だし(いまでさえ高騰しているし)展示プリントの整理などを身体が動くうちにやっておかなければとは常に考えてはいたのだけど、なかなか時間が思うように取れずにいた。カラー自動現像機の不調を機にしばらくモノクロを焼いてみようと思い立ったのが2年前、バイテンの粗焼きを作っていなかった時代のものを見直したさい、記憶の中からも埋もれていたこのシリーズを発掘したのだった。
 モノクロの現像はいまもまだ継続しているのだが、1000枚ほど焼いて見直してみると、年代も傾向もバラバラで、いくつか分冊した方がいいように思った。
このシリーズは特に他のプリントと混ぜるよりも単独でまとめた方がいい気がした。出版社の人に見てもらったりしながら、写真集にする話がまとまったのが約1年前のことだった。
 もちろんモノクロの暗室だけに集中していたわけではなく、数年前から通っている琵琶湖だとか、そのほかの撮影も合間合間にやっていて、どちらもやっていかないと日々のバランスがとれない。もっと集中すべきなのかもしれないが、頭でこうした方がいいかもしれないと思うことは、たいてい外れるので従わないことにした。
 もっと早くに作れればよかったのかもと思わないでもない。古い写真の出しどきを考えていたわけでもない。そういう出版がいっぱいあるのは横目で見てはいる。たいていは年齢的に体力の衰えを感じた世代が、不用なネガなどの見極めもかねて、はっきりしているうちに見直そう(誰もやってくれないし頼めないし)という私と同じような動機かと推察する。今さら詮無いことではあるが、生前にきちんと見てもらいたかった方も何人かいた。
 今しかないというわけではないだろう。けれどタイミングとしか言いようのない流れだった。これを逃すと果たしてどうなったかと思うと、作り手としては作れるときに自然と――もちろん多くの人の協力と作為があるのだけど―−あたかも自然と実ったかのようにできるのがうれしく、また作品にとってもいいような気がする。