◾️墓泥棒と失われた女神

イタリア、トスカーナ出身のアリーチェ・ロルヴァケル監督の作品は、素朴なフリしていつも大胆。鼻歌とハラハラを共存させながら、時空を超えた物語と田舎町の日常を何喰わぬ顔で交信させる。間口はゆったりと広いが、イメージの跳躍に心拍数があがることもしばしば。この手ごたえは何かに似てる…。そう、現実とは異なるもうひとつの世界を、最小限の「ビジュアル」と「ことば」の共鳴で編む〝絵本〟をながめるときの感じ方に近い。

例えば、イケてる絵本とめぐり会うと、何が飛び出すかヨメないままひたすらページをめくり続けてしまわないか?「はい、おしまい。」と唐突に幕が降ろされても、「へっ?今のは何?もう一度はじめから!」と、速攻でリスタートしてしまう。絵本のツボがどこにあるのかを探り当て、もう一度じぶんの身体で体感するために、すぐさま反復したくなるのだ。きっと絵本から受けた好奇心が、自己発電力を高めているのだろう。彼女の映画からも同じようなスイッチが入る。

時代性が希薄なところも、絵本とロルヴァケルの映画に共通する点だ。正直言って、彼女の作品で起る事柄がいつもスンナリ呑み込めない。ただ、よく呑み込めないけど好奇心のフラグは立ち続け、信じられる。おそらく彼女が映画の中で描く社会の根底にはまだ筋力が残されていて、様々な人々が包摂されているからだ。新作『墓泥棒と失われた女神』では、なんと墓泥棒のコミュニティが登場する。

主人公は考古学の沼にハマる英国人男性アーサー。彼がトスカーナの田舎町へ向かう列車の中で、うたた寝しながら見る夢のシーンから映画は始まる。穴の向こうに現れ出るのは、失くした女神(恋人?)の顔らしい。そして、冒頭に掲げられた3つのアイテム―「穴」と「光」と「白いスーツ」が本作の鍵を握る。

甘美な夢から起こされたアーサー。なぜだか車中で地元民たちから散々嘲笑されて踏んだり蹴ったり。画面では、白い麻のスーツに白いシャツ姿でフォーマル風に映るのだが、みすぼらしいだのクサいだのと罵られ、よそ者排斥がけっこうエグい。どこまでをくすぐりと受け取るかのサジ加減がイマイチ判断しづらいところは、ロルヴァケルらしい演出ともいえる。開始早々、甘辛なのだ。

さて、白いスーツ姿の男が独り片田舎の駅に降りたら、映画の定石では殺し屋か世捨て人かのどちらかだが、アーサーは出迎えの仲間の誘いを拒み、まっすぐ自宅へ帰宅。どうやら旅人ではなくムショ帰りの身で、元々この町の住人らしい。しかも、城壁に張り付くように立てられた、いかにも不法占拠然としたボロ小屋の佇まいが素敵すぎて、目が釘付けに!トタンの錆び具合といい、犬の遠吠えが聴こえるロケーションといい、カンペキな侘び住まいじゃないか。

我が家で一服し、野花をつんだアーサーが次に向かった先は、大きくて古いお屋敷。ここで、冒頭の夢の中の女神についての謎が徐々に明される。女神は、姿を消したアーサーの婚約者ベニアミーナで、その行方を案じる母親と会うため、実家へやって来たってわけだ。ふたりは必ず戻って来るような口ぶりだが、そもそも蜜月期に姿をくらます恋人って問題ありありだろ?他にも、屋敷にはやたらと女たちが出入りし、ピント外れの母性が渦巻いて収拾がつかないし、事件にしてはシリアスさに欠け、ラブコメにしてはヒネリが多すぎて、まるで先がヨメない。

で、ようよう、一本気で無口なアーサーの本業のスケッチが始まる。地中のことなら何でもお任せのこの考古学オタクは、ダウジングを利用して古代の墓を掘り当てる能力があり、墓泥棒一味とタッグを組んで小銭稼ぎをしている。この辺りはエトルリア文明ゆかりの地。すでに大部分の墓は盗掘されてはいるものの、掘り残しの副葬品を秘密裏に買い取る業者もいて、探して➡掘って➡奪って➡逃げて➡まとめて売って…の小商いが成立しているのだ。

先にも書いたが、アーサーと墓泥棒たちの関係性や行動は、いつの時代の出来事なのか見えづらく、終始頭がクラクラ。おいおい、これはおとぎ話なのか?それとも冒険譚か?…と。その反対に、奴らがせしめた希少品が、資本主義市場で取引される現場も露骨に登場するため、むしろ墓をめぐることで、時間の流れが大昔から今につながり続けている事実に気づかされる。死者と生者を隔てるものなど何もないかのように―だ。

ある夜アーサーは、工場の廃液が流れ出る海べりの空き地の地下に、キメラの匂いを嗅ぎつける。恐る恐る近づき仲間と堀り起こせば、長年探し求めていた手つかずのままの遺跡が暗闇の中から現れ出るではないか。その時カメラが一瞬切り替わり、地上で掘り進めている墓泥棒たちの様子を、一筋の光と共に墓側からの目線で捉え返すショットの素晴らしいこと!まるで「ここでずっと再生されるのを待っていたわ」と言わんばかりに、葬られた魂の存在が生々しく立ち上り、思わず震えた。

想像以上のお宝と遭遇した墓泥棒一味は大興奮。中でも、丸っと完品の女神像を発見し、その顔にベニアミーナの面影を重ねてしまったアーサーは、胸の鼓動が抑えられない。さらには、やっと再会できたと妄想の極限に達した瞬間、仲間たちがいとも簡単に像の頭部をぶった切っちゃったりして、オーマイガー!泥棒たちにとって盗みやすい切断が、アーサーには妄想からの強制撤退となり、息も絶え絶えだ。

意表をつくアップダウンの連続。なるほど、アーサーは大切な人がこの世にいなくなってしまった現実を認められず、ぽっかり空いてしまった心の穴を埋めるように、古代に通じようとしていたのか…。一方でそんな男に映画は、イタリアという名の伸びやかな子連れ女をチラつかせ、浮き世で新たなお宝とめぐり会うプランも用意するが、向かう先はさらに陽気な混迷へ―。

幕切れに唸った。現実の街の足元深くに、死者たちの街が並行して存在し、穴を通して物語を行き交わせたロルヴァケルは、最後まで我々の幸福の定義を揺さぶってくる。穴からスルスルと降りてくる赤い糸は死者の手招きなのか、それとも現世からの逃避の象徴なのか…どちらに軸足があるのか判断がつかなくなる。だが、のぞく&のぞかれるが反転し、ふたりが同じ地平にたどり着いたラストシーンで、アーサーから放浪の痕跡は消え去り、彼のスーツは白く蘇っていた。やるなー、ロルヴァケル。光に満ちた祝祭的な幕切れに拍手喝采。

『墓泥棒と失われた女神』

2023年/131分/伊・仏・スイス

監督・脚本  アリーチェ・ロルバケル

撮影      エレーヌ・ルバール

美術      エミータ・フリガート

出演  ジョシュ・オコナー アルバ・ロルバケル イザベラ・ロッセリーニ

◾️『ヴォルテックス』

ギャスパー・ノエ監督作品、タイトルの『ヴォルテックス』(原題Vortex)は、フランス語で「渦(うず)」の意味らしい。渦と言えば鳴門の渦潮か、モーリス・ビンダーによる銃口をモチーフにした『007』のオープニングデザインくらいしか思い浮かばないが、本作はクライマックスでタイトルを表す映像がズバッと流れる。誰も予測できないとんでもない渦がスクリーンにデカデカと!

さて映画は「渦」にたどり着く前に、懐メロをBGMにして、これぞ”巴里の空の下”と言わんばかりのシーンで幕開け。ルネ・クレールやジャック・タチの映画に出てきそうな古いアパートのペントハウスに、身だしなみを整えた老夫婦がお出ましになるのだ。ご機嫌な二人は、ベランダで花に包まれながらワインで乾杯。親しい人との語らいで過ごす豊かな時間が立ち上り、まるで後期高齢者向けの広告記事に出てきそうなツーショットである。

妻が「人生は夢ね」とつぶやけば、夫は「夢の中の夢だ…」などと、哲学的に応答。さすがはアムールのお国、いくつになろうと現役宣言か。でもヘンだな…老夫婦が主役とは知っていたが、認知症の話じゃなかったけ?

いや、ちゃんと予備知識通り、開始後瞬く間に認知症の話になったので安心した。重いテーマに安心したというのもヘンな話だが(笑)、何かしら壊れて行くのは自然の摂理。老いた身にピッカピカな人生がエンエンと続く方がむしろしんどくないか?そこで本作は、「夢の中の夢」=人生から、今まさに退場しようとしている老夫婦の日々の営みの一部始終を定点観測して綴る。

心臓に持病を抱える夫のルイは、映画を専門とする現役の作家。妻のエリーは元精神科医という偏差値の高いカップル。ところが、ベランダでの語らいからどれほどの時間が経過したのかは定かではないが、バラ色の時間が一転、どうも近頃妻の様子がおかしいらしい。映画は、この微妙な変調を匂わすのに、同じベットに横たわる早朝のふたりの様子からスケッチを始め、素晴らしい!

どこからかラジオが流れる室内。先に起き出した妻がトイレに行き、コーヒーを用意し、服を着替えて机に向かい、何やら一生懸命メモを取る。一見寝起きの自然な振る舞いのようだが、どのアクションもやり切らずに次に移り、ソワソワと落ち着きがない。我々は冒頭のハレの横顔や、書物に囲まれたふたりの棲家に漂う充実した暮らしぶりをチラ見しており、この時点で認知症とは認めにくいが…それでもやっぱヤバない?

というのも、寝起きシーンから映画の画面が縦に二つに分かれ、妻と夫を左右別々の画面で捉えて進み、孤立感がより際立つからだ。ほーっ、同居している夫婦を、独居老人×2事例として個々に観察させる狙いなのか…なかなかユニークじゃないか。するとここには、いたわりあって老いを共に歩んでいる形跡はまるでなく、妻の異変が夫に届いていない。妻が近所を徘徊して手を焼いても、じぶんの仕事の遅ればかりが気になり、彼女をまともに見ようともしないし…あらあら、もしかして夫もヤバない?

不思議なもので、一旦ふたりの暮らしに綻びを嗅ぎ取ると、好きなものに囲まれた複雑な間取りの個性的な住居が、もはや誰も手が付けられないゴミ屋敷に見えてくる。そう、安心であるはずの住み慣れた終の棲家が、抜け出せない迷路に早変わりしてしまうのだ💦家の中で老夫婦を迷子にさせるなんて何て大胆かつリアルなの、面白すぎる!

そこへようよう家族が登場。離れて暮らす息子が様子を見にやって来た。夫よりは傾聴スキルがありそうな息子の態度に少しホッとするものの、連れて来た孫は年寄りには騒音でしかなく、ヨメは入院中だわ、そもそも肝心の息子が薬物依存者で、対策を取るどころか逆に金をせびって帰宅するではないか!

へっ?もしかして聴き役に来ただけ?役所に相談に行かなくて大丈夫?食事のシンパイは?…等、我々の懸念事項はことごとく据え置かれる始末。そっか、ホラー映画の鉄則に倣い、息子はさらなる恐怖を呼び込むための呼び水だったのだ。

そうとわかれば、ケアマネ心境で見守るのは野暮というもの。夢の中の夢の顛末をLIVEで拝見させていただくことにしようではないか。

何といっても人間の習慣ってヤツがコワい。医者だった妻は薬で遊ぶ(!)。淹れるつもりの珈琲はガス栓を開けるだけになり(!)、夫の原稿を破り捨てて掃除のつもりだ💦夫だって似たようなもの。現役作家と思い込んでいるのはじぶんだけで、執筆は遅々として進まず、20年来の愛人から別れを切り出されてうろたえている有様。呼吸疾患のひゅーひゅー音まで、恐怖効果は抜群だ。

かつて無意識で繰り返していた行動が、ズレて軌道修正できなくなったふたり。とっくにプロのケアを必要としていいタイミングだが、人生という夢から覚めたくないのか、妻は脈絡なく謝り、夫は焦燥感を逆ギレで訴える。

それでも映画は別々の画面のまま、予想を遥かに超えた具体的な崩壊劇を同時進行させ続けるため、コワすぎて爆笑せざるを得ない。極め付きはタイトルの渦だ。一家の灰汁を飲み込みながら便器の中にボンヤリ登場したときは、底なし沼のようで、さすがに慄然とした。

やがて、のたうち回りながら夫が先に逝き、受け入れ施設が決まった矢先に妻も永遠の眠りにつく―。どうあがいたところで一度生まれ落ちた個々の生は、個々の死で幕を閉じる以外ない。心穏やかな最期とは対極の壮絶なラストスパートだったが、二人とも自分本位で天寿を全うしたという意味においては本望だったように映る。息子を含めたこの一家を、終始批評しない監督の姿勢に好感を抱いた。

そして濃厚な夫婦の痕跡をかき消すかのように、事務処理、葬儀、納骨と、駆け足で型通りに執り行われての幕切れである。ブレッソン映画並みの有無を言わせぬ寒々しいシークエンスに、我々は夢から覚めた事実を知る。

ふたりのベッドが、遺品整理屋に運ばれて行くのを横目で見ながら、あの悪夢がすでに懐かしいものとして思い起こされるという不思議さ…。老夫婦を演じたダリオ・アルジェントとフランソワーズ・ルブランに拍手喝采―。

2021年/148分/フランス

監督・脚本 ギャスパー・ノエ

撮影/ ブノワ・デビエ

美術/ ジャン・ラバッセ

出演 ダリオ・アルジェント フランソワーズ・ルブラン

▪️『君は行く先を知らない』

予告映像を目にした時から気になってしょうがなかった。絶えずテンションMAXのクレイジーなガキが、スクリーンを占拠していたからだ。そのうえ、荒野を車で移動するロードムービーとくれば、間違いなく退屈はしないはず…。公開早々、急ぎ足で劇場へ直行した。

イランのパナー・パナヒ監督作品『君は行く先を知らない』は、いかにも長編デビュー作にふさわしい疾走感を保ちつつ、その一方で、葛藤という名の回り道も滋味深くつなぎ、なかなか手練れな仕上がり。改めてイラン映画の魅力に開眼した93分だった。

さて、ロードムービーと書いたが、映画はだだっ広い道路の脇に停められた1台の車中から始まる。おやおや、移動の要が動いていない(笑)。しかも、脚のギブスが痛々しい父親が不機嫌顔で後部座席を占拠し、停滞感満載ではないか。そんな父に、ハエのようにまとわりつくのが、予告で目を付けたあのチビガキ!この一家の次男坊とのことだが、予想を遥かに超えた減らず口で、車内の温度を確実に上昇させている。映画とはいえ、真夏日にこのチビと対面するのはちょっとした苦行だ💦

助手席では、やけに美人の母親がヒジャブを付けて静かに目を閉じている。ただし、やんちゃな次男にイエローカードを切るときは、手加減知らずでなかなかの迫力。ユーモアの切れ味も鋭くて、見た目とのギャップが◎ですね。そしてもう1人、どこか思い詰めた面持ちで休憩中のドライバーの姿を車外に発見。メガネの奥に頑なさが漂うこの青年は、どうやら一家の長男らしい。

映画は、エンジンOFFのオープニングから家族4人を短いスケッチで狙い撃ちし、我々の好奇心に火をくべる。そもそも、車をメインに使ったロードムービーとなれば、車中は自動的に乗車メンバーたちの居間と化すので、そこへカメラが中から外へ、外から中へ自在に潜入すれば、一家4人はより立体的に捉えられる。もちろん、観客もあっという間に5番目の同乗者に早変わりだ。

とはいえ、このロードムービーがフツーの家族旅行でないことはすぐに気づく。例えば、次男が携帯電話を隠し持っていてそれがバレたときの騒ぎっぷりや、長男が尾行されてるんじゃないかと疑心暗鬼になる様子とか、この旅がレンタカーを借りてわざわざ計画されたものだとわかったりもして、どうものんきなイベントではなさそうだなあ…、やんごとなき事情があっての移動なんだな…と、推察できるのだ。

おそらく、まだ幼い次男坊だけは何も聞かされていないのだろう。まあ、聞かされたとしても、チビのあの超絶おしゃべりが止まるとは思えないが―(笑)。そのうえでザックリ言うと、一家は父親と長男が陰キャラで、母親と次男が陽キャラに設定されているのね。

カーステレオから流れる懐メロに即座に反応するのは陽キャのふたりだし、何かとリアクションに富み、目にもハートにも小気味イイ。反対に陰キャなふたりは、独りで勝手に世界の不幸を背負い込んでいる気配が濃厚で、口を開ければボヤキ調。本人たちは気づいてないだろうが、典型的な似た者親子。これまた別の意味で見飽きることがない。

わちゃわちゃとむっつりが混在し、行く先も名前も不明の一家4人。あっ、失念。唯一名前を呼ばれるメンバーがいた!最後部席で大人しく横たわる愛犬のジェシーだ。ただし、哀しいことに死期の迫った状態にあり、安楽死させるべきかがみんなの悩みの種だから、これまた車内の空気を複雑なものにしている。

ではこの先、閉じた空間のままで物語をどう展開させるのか…と見ていると、自転車ロードレース中の一団と遭遇するではないか。意表を突かれた。しかも、最後尾で悪戦苦闘していた選手の一人が一家の車に接触して転倒したため、自転車ともども車内に招き入れることに。すると今度は、突然の珍客と、不正が発覚して永久追放されたランス・アームストロング選手ネタで大モメとなり、オヤジもチビガキも口が減らねぇ!

遂には、ピスタチオを拾っている間に競技集団を抜き去り、珍客を遥か先頭で降ろしてやって、まさかのごぼう抜き展開。ケガのシンパイより、あえて不正の片棒を担ぐアナーキーさがこの一家にはある。あー、面白い!行きずりの他者との化学反応にこそ、ロードムービーの醍醐味がある。

やがて一家の旅の目的が輪郭を見せ始める。次男坊には「お兄ちゃんは結婚して家を出る」と言い聞かせていたが、実は長男は単身で国外逃亡する意思を固めているのだ。そんな長男のために、父親は家も車も処分して金の工面をしており、母親のシンパイはもっとストレートに「行かないで」。詳しくは語られないが、合法的に母国を去るのではなく、家族4人が生きて再び会えぬレベルの別離が待ち受けている。

そう、これは最後の家族旅行。そして4人はいよいよ最終コーナーのトルコとの国境近くの村へ、長男を送り届けに到着。目の前には、山間で羊が群れる景色が広がるが、一服の風景画のごときのどかな眺めが徐々に謎めきはじめ、案の定、ここから先は息を凝らして見守る絵の連続となる。

羊飼いが亡命請負業者だったり、霧の中から覆面をした手配人が現れたりと、あれよあれよという間に映画のトーンが変わり果て、風雲急を告げる展開になるではないか。何が何だか分からない。霧の効果もあって、劇中劇に突入したような、ハシゴの外され方だ。しかも、状況が変わるたびに引きの絵が増え、4人の姿が米粒くらいに小さくなり、目で追えない。我々は親しくなった一家と引き離され、もはや山の向こうに響き渡る差し迫った叫び声から成り行きを想像するしか手立てはなく、心細さの極致へ放り出されるのだ。

自国に希望が持てぬ若者が、家族との生き別れを承知の上で亡命を決断するとは…テーマとしては相当深刻で重い。ただ、そんな長男と共に、父性も母性も次男坊の無邪気さも極限まで出し尽くして旅してきたからか、閉幕に向けて奇妙な爽快感が一家に宿り始める。一家4人がそれぞれに、「家族だからこそ」と「家族といえども」の間を行ったり来たりして抱いた様々な感情が、旅の時間の果てに浄化され、輝きに転じたように見えたのだ。

イランの懐メロが流れる中、泣き笑いのエンディングが胸に染みる…。4人+1匹で始まった旅が幕切れに3人にシフトチェンジしても、それでも人生はつづくのだ―。

2021年/93分/イラン

監督・脚本 パナー・パナヒ

撮影/ アミン・ジャファリ

製作/ ジャファル・パナヒ パナー・パナヒ

出演 モハマド・ハッサン・マージュニ、パンテア・パナヒハ、ヤラン・サルラク、アミン・シミアル

🔳『トリとロキタ』

『トリとロキタ』は、まるで犯罪者を取り調べるような緊迫したやりとりから始まる。この娘が一体何をした?

追い詰められ、おびえているのはロキタ。アフリカからベルギーへ流れ着いた未成年の少女だ。海を渡る途中で再会した弟のトリにはビザが下りたが、じぶんは未だ取得できず、早く発行してほしいと訴えている。でも尋問が苦しい。彼女にはメンタル面の持病がある。いや、それ以上に崖っぷちなのは、トリとは血のつながりがなく、密航の途中で偶然出会った偽りの姉弟だからだ。

映画は早々に、ふたりの秘密を我々に打ち明けて進む。観客を共犯者に仕立て、しかと見届けさせようとの狙いだ。ただ、彼らは孤立無援でもない。保護者のいない未成年のふたりには、身を寄せられる施設や人権保護のしくみがあり、支援の手も具体的に差し伸べられている。つまり、それだけ移民問題が日常化して久しい証でもあるのだが―。

実際にトリとロキタがどんな経緯でめぐり会ったかは明かされない。登場人物の過去を割愛し、いまいま、目の前で行われている行為にのみ集中させて語るのが、監督のダルデンヌ兄弟の作法である。見た目からは、小学生の弟と高校生の姉に見えるふたりは、一緒にイタリア料理店に潜り込み、客の前でカラオケを歌ったり、ドラッグの運び屋をして小銭を稼いでいるが、かなり危うい暮らしぶりだ。

映画が、故意に煽ることなくサラサラ綴られて行くので、ツイ見流しそうになるが、このあたりの描き込みはかなり緻密。料理店の裏の稼業の表情や、携帯TELが弱者になるほど命綱化している様子や、運び屋を利用する側のスケッチなど、リアリティの醸成がハンパない。金と薬物が頻繁に出入りするロキタのポシェットを眺めているだけでも、時限爆弾並みの恐怖を感じるし、ふたりの綱渡りの日々が皮膚に直に伝わってくる。

しかも、そんな危険と背中合わせの必死の稼ぎも、ビザのない未成年の不法就労者という弱みに付け込まれ、日常的に搾取される。そのうえロキタは、店のオーナーにはした金で性的サービスまで強要されて…。言葉を失うばかりの現実だ。

搾取はそれだけで終わらない。密航仲介業者に未だに張り付かれ、脅され、たかり続けられている。おそらく移民をカモにして根こそぎ奪い取るしくみも常態化しているのだろう。その一方で、祖国からロキタに金を送れとせっつく母親の圧も強烈なのだ。なのに「親ガチャ」と揶揄するどころか、彼女自身が家族を支える責務を一番自覚して生きているかのようで、何ともやり切れなくなる。一体どうなっているんだ?この世界は―。

そこでトリだ。超しっかり者のトリの存在にどれほど救われることか!びっくりするよ、賢くて。常にロキタに寄り添い、大人たちの言動を冷静に見極め、機転を利かせて偽装姉ちゃんを守り抜く。姉ちゃんの尊厳が傷つけられたときには、誰よりも早く手を差し伸べ、そっと励ましたりして…子どもながらにカンペキな神対応を見せてくれるのだ。

だからロキタの願いは、正規の仕事に就いて家族へ仕送りをし、トリにちゃんとした教育を受けさせ、ふたりでいっしょにアパートを借りて、自立して暮らすこと。そんなささやかな幸せだけを夢みている。ビザさえ取得できて働けるようになれば、ふたりの未来は開けると信じてやまない。ところが練習の甲斐なく、ビザ取得の面接に失敗し、非情にも申請は却下―。

さらなる地獄の釜の蓋が開く。絶望したロキタに闇組織がすかさず接近。偽造ビザが欲しけりゃ金、金がなければ高額報酬の仕事で稼げと追い詰めるのだ。それは、外界と遮断された地下室に独り閉じ込められ、薬物栽培に明け暮れるという過酷かつ危険な仕事。果たして持病がある彼女に、トリと離れてそんな作業ができるのか?…

ここから映画は、サスペンスドラマのフォーマットを巧みに利用し、潜入ルポタッチで観客を巻き込みイッキに攻めてくる。予想だにしない出来事が、次から次へと具体的に綴られ、我々はふたりと共に闇ビジネスの底なしの恐ろしさを目撃する。もはや進むのも止めるのも命に関わる選択となり、劇映画だとわかっていても、とてもじゃないが深々とシートに身を沈めて眺めてなどいられない。

ただ、トリとロキタの、互いをいたわり合いかつ支え合う呼吸が、想像以上にぴたーっとハモるので、逆に複雑な感情を抱いてしまったのは私だけだろうか。ふたりの只ならぬ絆を神々しく思う反面、共依存の脆さが目に付いてしまったのだ。

そもそもまだ幼いふたりは、なぜ困難な状況を誰かに相談しないのだろう。偽装がバレて引き離されるのを危惧してのことか?もはやじぶんたち以外は誰にも心が許せないのか?…わたしの目には、ふたりだけの世界があまりに強固ゆえ、むしろ孤立を深めてしまっているようにも映ったのだ。

そうは言っても、命懸けて国を出た未成年のふたりが、藁をもすがる思いで互いを手繰り寄せ合ったことは、十分に想像できる。過酷な現実社会を前にして、ふたり一緒じゃないと生きて行けないと強く思うのは必然なのかもしれない。何より肉親と離れ離れになってまで新天地を目指したのは、それだけもう待てない、進むしかないと、未来に賭けた証でもある。

だからトリは走る。ふたりの未来のために走る。監禁されていたロキタを助け出し、一緒に逃げる。とにかく逃げる。どちらかが欠けてもダメ。大柄なロキタとちっこくて痩せっぽちのトリが、互いを気遣いながら必死で逃げる後姿を、私は生涯忘れることはないだろう。そしてこの後の結末も―。

ラスト、ロキタの葬儀の席でトリはつぶやく…「ビザが下りたら死なずに済んだ」と。涙も見せず、まっすぐな目をして―。ダルデンヌ作品で、ここまで直接的に社会を非難したセリフが吐かれることは今までなかった。そしてふたりが劇中で何度もいっしょに歌い、歌うことで慰め合ったあの童謡が、幕切れで鎮魂歌としてリフレインされ、閉幕するのだ。

厳しい映画だった。場内が明るくなっても、しばらく現実の時間に戻れなかった。我々は命を懸けてロキタが守り抜いたトリの未来を、この先も想像せねばならない。大手芸能プロダクションの亡き社長を性的搾取で告発した件、国際人権基準を下回る入管法案の通過など、昨今見聞きした衝撃的な問題とも重なるテーマ…けして遠い国の話ではない。

2022年/89分/ベルギー・フランス

監督・脚本 ジャン=ピエール・ダルデンヌ  リュック・ダルデンヌ

撮影/ ブノワ・デルボー

編集/ マリー=エレーヌ・ドゾ

美術/ イゴール・ガブリエル

出演 パブロ・シルズ ジョエリー・ムブンドゥ

■『コンパートメントNo.6』

あっ、ヤバイ💦開口一番、ロキシー・ミュージックの「Love is The Drug」が流れてきた。でもってスクリーンいっぱいに、文字だけのポスター風なテロップが映し出され、懐かしのデザインワークが泣けるじゃないか!ユホ・クオスマネン監督作品『コンパートメントNo.6』。まだ何も目撃していないのに、すでに只ならぬ映画の予感が—。はしゃぎ過ぎか?

ところが意外なことに、1975年のヒット・ソングをエンジンにしてすべり出す物語は、1990年代後半のモスクワから始まる。なるほど、ソビエト連邦崩壊後、すべての価値観がイッキに変わり、混迷を極めた当時のムードを、西側諸国から20年遅れた「Love is The Drug」で匂わせようということか。いやもっとストレートに、ヒロインの心情をなぞるための選曲だったともいえるだろう。なにせフィンランド人留学生のラウラは、今まさに愛にどっぷりつかり溺死寸前なのだから―。

そんな彼女のお相手は大学教授のイリーナ。今なら間違いなく「アカンでしょ、先生!」とツッコミを入れられそうなアカハラ&セクハラ案件である。でも、美しく自由を体現している大国のインテリの一挙一動はどこまでも眩く、ラウラにとっては媚薬以外の何物でもない。もちろん教授にとっても、無限大の白地が広がる若者は格好の漁場。両者の結びつきはある意味必然のようにも映る。

が、双方共に勝者になれないのは愛の常。先生から一緒に行くはずだった研究旅行をドタキャンされ、「ひとりで見識を広めておいで~♫」と明るく背中を押されても、媚薬に依存しているラウラのモヤモヤは増すばかり。旅の目的は何だったのか?本当に世界最北端にあるペトログリフ(岩面彫刻)見学だったのか?それとも旅先で恋人と過ごす親密な時間だったのか?…そんな自問自答が聞こえてきそうな浮かぬ顔のラウラである。明日から旅行だというのに―ね。

さて、見知らぬ土地へ向け、想定外のひとり旅が始まる。吹っ切れぬまま強がって出発はしたものの、当然モチベーションは低い。さらに暗雲が垂れ込める。タイトル通り、寝台列車の6号室に足を踏み入れると、なんと相室になるのは粗野で飲んだくれの若い労働者風男性ではないか。リョーハと名乗り、運悪く行き先も同じ最北の駅ムルマンスク。やたら馴れ馴れしく絡んできたりして心底ウザイ。たまりかねたラウラは、部屋を変えてもらおうと車掌にワイロを差し出すが、ぴしゃりと拒否され、あえなく撃沈。

でもまあ、心細くて神経質になるのはわかるが、ラウラの態度には学生らしからぬ尊大さが漂うのも事実だ。恋人が大学教授だから?じぶんもインテリの仲間だと勘違いしてるわけ?…映画はあえて旅の開始時に、ラウラのズレっぷりと四面楚歌感をてんこ盛りにした。しかも、列車内はどこもかしこも狭っ苦しくて息抜きできるスペースなどなく、外は笑っちゃうくらいの猛吹雪だから、孤立感もひとしお。

どうにもいたたまれず、途中のサンクトペテルブルク駅でイリーナに電話し、モスクワへ戻りたいと泣きつくはずが、つれなくあしらわれてその一言も言い出せ
ず…。崖っぷちに立たされたラウラはシブシブ列車に舞い戻る。はい、ご想像通り、ここからが旅の本番だ。

彼女の唯一の居場所の食堂車へ逃げ込んでも、「いつもむっつり顔。シワだらけになるぞ!」と、リョーハの直球攻撃は止まらない。遂にラウラは観念し、旅の目的やペトログリフの魅力をポツポツ語り出す。やがて気負いがほどけたのか、嫌悪していた同乗者を前に、口元にマヨネーズをつけたまま熱く話し込むようになるから笑った。リョーハが鉱山へ出稼ぎに行くことも聞き出したし、モスクワに心を置いたままだったラウラに、ようよう世界が立ち現れ始める。

さらに、微妙に距離の縮まったリョーハから、次の停泊駅で知人宅を訪問するからいっしょに来ないか?と誘われる。正直言って、まだまだラウラの警戒心は解けないが、迷った挙句、恐る恐る乗ってみることに—。夜更けの田舎道、ボロ車の軋み音、心細さMAXでたどり着いた一軒家には老女が独り暮らしていて、リョーハの話どおり、手厚いもてなしをしてくれるではないか! モスクワを後にして初めて他者の存在を受け入れ、自己開示できた瞬間がここにはある。

それにしても、旅の途中に列車の外で宿泊し、再び同じ列車に乗り込んで目的地へ向かうとは…まるで船旅気分じゃない?時間の流れが何とも贅沢。途中下車後のふたりが、すっかり打ち解け、子犬のようにじゃれあう間柄になるのも納得だ。

予期せぬギフトを機に、心から長旅を楽しめるようになったラウラには、じぶんから他者へ接近する余裕さえ生まれる。席が取れずに困っていた同胞の男性に声をかけ、相乗りを誘うが、これがリョーハにはクソ面白くない。そりゃあそうだろ。球種の少ないリョーハと違い、その男はスペックの高さが一目瞭然。何より旅先での同胞の絆をみせ付けられたら、割り込めず不貞寝するしかない—。

まっ、この男がとんでもない食わせ者で、恋人との思い出が詰まったビデオカメラを盗まれてしまい、人は見かけじゃないねとのオチはつく。ただ、列車という閉ざされた空間でありながら、映画が絶えず車内を街角のように流動的に切り取るので、教訓めいた話にならないところが心地イイ。いつだってどこでだって、ヘマすることもあれば上手くいくこともある。列車は終着駅まであとわずか。

到着を前に、ふたりは少しだけおめかしして食堂車で乾杯する。ラウラは道中の非礼を詫び、リョーハの寝顔を描いたスケッチを贈る。わたしのことも描いて!とねだり、住所交換しようとはしゃぐが、どうもうまくかみ合わない。挙句の果てには、リョーハは何も告げずに列車を降りてしまったのだ。

いやー、長旅を伴走してきた我々にとっては、願ったりな寸止めである。最果ての地に降り立ち、ペトログリフを目指すラウラの最終コーナーを、正真正銘のひとり旅の形で目撃できるのだから。その上、宿のフロント係にイケズされたり、電話口の恋人のそっけなさに改めて落胆したり、そもそも冬場はペトログリフへ行く手段がないと判明して途方に暮れたりと、この場に及んでネガティブ情報満載で面白すぎる!はてさて、ラウラよどうする?残りカードはあいつだけだ。

何としてでも、旅の目的を果たしたいと踏みとどまったラウラのために、一肌脱いだのは、やっぱりあのリョーハだった。我が祖国を旅する客人をせいいっぱいもてなそうと、出航を嫌がる地元漁師たちを粘り強く説得するではないか!

そしてここからの撮影がスゴイ!まったく別種のアドベンチャードラマが始まったのでは?と錯覚するほど、映画は海沿いの町の厳しい冬の横顔を様々な角度で切り取り、圧巻だった。白雪の中を無心で歩き続けるちっぽけな2人の姿は、いつしか物語の枠組みを離れ、太古の昔の人間たちの情感をも想起させた。

個人的に一番好きだったのは、リョーハが最後までペトログリフという名称を覚えきれず、ラウラの教養に立ち入らない点だ。彼女が魅かれている世界は、リョーハが親しんできた世界とはあまりにもかけ離れている…。ただ、そうだとわかった上で尚、他者を尊重できるようにリョーハも変わった。そう、偶然の出会いでじぶんの領域を広げられるようになったのは、リョーハもいっしょなのだ。

ラスト、我々は他者を想像することで、間違いなく球種が増えたリョーハを目撃し、苦笑いしながら幕切れに立ち会う。実に爽快。カンヌ映画祭2021年グランプ
リ受賞作品。

2021年/107分/フィンランド・ロシア・エストニア・ドイツ

監督/脚本/ ユホ・クオスマネン

原案/ ロサ・リクソム

撮影/ J=P・パッシ

編集/ ユッシ・ラウタニエミ

出演 セイディ・ハーラ ユーリー・ボリソフ

■『みんなのヴァカンス』

なんて心地よい映画なんだろう!

ギョーム・ブラック監督作品『みんなのヴァカンス』は多幸感にあふれ、どこにもケチのつけようがない仕上がり。心から感心した。ゴダールを哀悼するシネフィルにも、トップガン・マーベリックのリピーター観客にも、自信を持っておススメできる映画なのだ。何ならアナ雪好きに声をかけてみるのもアリだろう。全方位に対応可能とは…スゴくないか?

ところが見終わってしばらく寝かせ、映画評に書こうと脳内で振り返ってみたら、ハタと困った、いったいどこがよかったんだっけ?と(笑)。「この場面に酔った!」「あのショットがただならない!」などと、勢い込んで語りたくなる要素がなぜだかすぐに思いつかない…もしかしてバランス良すぎ? その一方で、すぐにでも見返したいほど、未だ映画の余韻に浸ってもいる。トータルで惚れたということなのか…。書きながら整理してみたいので、しばしお付き合いください。

まず、「乗り込め」という意味の原題「À l’abordage」を、『みんなのヴァカンス』という日本語タイトルにして正解。不思議なことに我々は、長期有休休暇への憧れからか、実際のヴァカンスについて何の経験もないのにヴァカンスと耳にしただけで、夏の甘美な解放感イメージに速攻で同機する。タイトル一発で、ちょっとアバンチュール寄りのご陽気モードにスイッチオンしてしまえるのだ。

そして、あなたのでもわたしのでもなく、”みんなの”と風呂敷を広げている点も座布団一枚だ。 “みんな”には我々観客も含まれている。そのうえ、映画はロードムービー仕立てにすることで観客を非日常空間に招き入れ、登場人物たちと共に解き放つ仕立てなのである。なるほど、もはやみんなで乗り込むしかない作品らしい(笑)。

夏の夕暮れ。どこからか聴こえてくる音楽に酔いしれながら、独り鼻歌交じりにセーヌ川のほとりを漂い歩く黒人青年フェリックス。しばらくすると赤いタンクトップ姿の美女アルマと出会い、一緒に踊っているうち、なんだかいいムードに…。が、そう見えた矢先、いともあっさりと翌朝シーンへ切り替わり、アルマは慌ててヴァカンスへ旅立ってしまうではないか。おいおい、寸止めかよ~💦

そこで甘美な一夜を忘れられないフェリックスは、シンデレラにはナイショでサプライズ再会を画策しようと動く。宿代わりのテントを無料調達したと思ったら、親友のシェリフを強引に誘い出し、相乗りアプリで知り合った世間知らずの青年エドゥアールの車にちゃっかり乗り込み、彼女を追い駆けて南仏の田舎町ディーへ旅立つのだ。はっや!恐るべし恋の情熱!

しかもこの間に事前情報として、野郎3人の個々の社会的背景やキャラ設定が超手際よくかつカジュアルに提示されるので、観客側が受け取る道づれ感はハンパない。特に車中のスケッチは、目的は一緒でも偶然出来上がったチーム編成ゆえ、不協和音も込みのLIVE中継になってて可笑しいのなんの!奴らへの親しみを募らせつつ我々は、4人目のヴァカンス・メンバーとしてすでに車中に居合わせているのだ。

やがて車窓から、緑濃い田舎町の景色や川遊びに興じる人々の賑わいが見えてくると、足並みが揃わなかった凹凸トリオ+我々全員のホホは自然と緩み、テンション上昇~♬未知の土地から薫る空気や、流れている時間の違いに全身で反応し、生きる歓びを再確認する瞬間がここには描かれている。旅が、休暇が始まる前の、あの至福の瞬間が!

ヴァカンスを始終引っ張るキーマンとなるのは、上昇志向があり、自分本位で場を乱しがちなフェリックスだ。果たしてシンデレラに接見して靴を差し出せるか。未だ母親の監視下に置かれているエドゥアールは、裕福な家のお坊ちゃまくん。世知に疎くドン臭いが、手垢がついていない分、ヴァカンスでの伸びしろは大きい。そんな水と油の2人の仲を取りもつのが、ホスピタリティの異様に高いシェリフ。 “邪魔にならない男”の役割からどう飛躍するかが今後の課題だ。

とはいえ、目の覚めるようなリッチな体験や、トンデモ事件は一切出てこない。テントで寝起きし、サイクリングに燃え、水辺ではしゃぎ、アイスクリームを舐めながら散歩し、ハッパにダンスにカラオケで盛り上がる若者たちの夏の日々である。

例えば旅先で偶然遭遇した若者たちの間で交わされる会話の中身は、人種や社会階層の違いから進路や支持政党に至るまで多岐にわたり、かつ恋バナと等価に扱って成熟度の違いを見せつけるが、めんどくさい話になる前でさらっとフェイドアウト。何かと引っ張り過ぎないのだ。また、自然光撮影や編集、フランス国旗を意識した色彩設計もカンペキなのに気負いはゼロで、なぜここまで間がもってしまうのか…本当に不思議

実は本作は、フランス国立高等演劇学校の学生とのワークショップを元に制作された作品で、メインの3人をはじめ登場人物のほとんどが、映画出演経験のない学生とのこと。何が素晴らしいって、彼らの手つかずの輝きをそのマンマ真空パックし、映画に活かし切っている点だ。演技の上手い下手問題というより、役柄と素の本人との狭間に生じる揺らぎみたいなものに耳を澄ませ、その不安定さを映画に撮り込むことによって、劇映画らしさから巧妙にすり抜け続けている。

その一方で映画のフォーマットには、恋愛、青春、冒険、コメディ、アクション、サスペンスetc…と、控えめながらあらゆるジャンル映画のエッセンスを散りばめ、劇映画らしく構成していて、なかなかの手練れなのだ。アクの強いフェリックスを早々と撃沈させ、映画のエネルギーをニューカマーたちに分散し、勝ち組と負け組の役回りを絶えず塗り替えるあたりなど、非常に上手い。

そもそも監督は、ハレよりケのスケッチに対する臭覚が鋭敏な作家である。ヴァカンスといえども、一人一人が備え持つ習慣化された日常の流儀はついて回るわけで、本作でも若者たちのケの時間に接近して行く。それも、どうだっていいレベルの事柄をきっかけにすれ違いを生じさせ、モメごとを勃発させるシーンのなんと多いことか!ハッキリ言って、「みんなのモメごと」とタイトルを変えてもいいくらい絶えずモメているのである(笑)。

冒頭、介護訪問先の老婆に、「リスクは犯すべきよ!」と背中を押されて急遽始まったフェリックスのシンデレラ探しが、あれよあれよという間にみんなのヴァカンスへ拡大展開した。振返ってみてわかった。そう、「モメ」こそが多幸感につながるアクションだったのだと!他者は大いなるストレスだが、他者の存在で人は変化し、世界が開かれる。もつれたときは、謝罪とハグで折り合える道だって見つかるしね。

劇映画らしさと、劇映画らしからぬ瞬間を共振させながら、仕上がった『みんなのヴァカンス』。スクリーンを吹き抜ける風を彼らと共に感じた至福の100分が忘れ難く、思わず2回、劇場へ乗り込んだ。わぉー💦

2020年/100分/仏

監督/脚本/ ギョーム・ブラック

脚本/ カトリーヌ・パイエ

撮影/ アラン・ギシャウア

録音/ エマニュエル・ボナ

出演 エリック・ナンチュアング サリフ・シセ エドゥアール・シュルピス

■『あなたの顔の前に』

すれ違いざまに胸騒ぎするものが視界に入り、「えっ?今のなに?」と、振り返ってもう一度見直すことってあるよね?しかも、確実に目の端で気になるものを捉えたのに、すでに辺りに姿形はなく、何やらキツネにつままれた心持になった経験も一度ならずあるだろう。

わかりにくい例えで恐縮だが、ホン・サンス監督の新作『あなたの顔の前に』は、そんな感覚を思い起こさせる映画である。上映中にマンマと梯子を外され、未だに映画の時間の中に宙吊りにされている気がしてしょうがない。細い輪郭線で描かれたその幻影と戯れるのは、艶めかしくてなかなかオツな体験となった。

―と、神妙に書き始めたが、実際はしっとり気分で鑑賞しながら、一方でその同じ熱量を使い、銀幕に向かってひとりツッコミを繰り返していたのである。面白いでしょ(笑)。だって、タイトルからしてジャンル分けもドラマの展開もさっぱりヨメず、意味不明だしね。

ただ、幕開け早々にヒロインのモノローグで「私の顔の前にある全ては神の恵みです」「過去もなく、明日もなく、今この瞬間だけが天国なのです」と聴こえてくると、そのあまりの目線の高さに意表を突かれ、神の恵みかどうかはともかく(笑)、「この瞬間=天国」イメージに一発でノセられてしまったのだ。

教会でなく高層マンションの一室の寛いだ空間でこのつぶやきである。さらにヒロイン・サンオクが、江波杏子(1942-2018)を思わせる苦み走ったイイ女で、真っ赤なノースリーブ姿には年増女の色香が漂い、訳ありの過去を踏まえた言葉のように聴こえてくるからたまらない。もしかして職業は女賭博師か?(笑)

いやいや、賭場でもN・Yでもなく、ここはソウル市内にある羽振りのイイ妹の家らしい。とはいえ、サンオクが妹の寝顔をじっと見つめるのはなぜ?起床した妹との会話がぎごちないのは気のせいか?…と、一般的な姉妹ドラマの素振りには程遠いため、またもや奇妙な感触がついて回る。

その後も、サンオクがトランクから着替えを出すシーンや、二人で朝食を食べに外出しつつ金や不動産の話になるところとか、ここで盛り込むネタかよ?やけに感謝のつぶやきも多いし…とツッコミ続けていたが、長年交流のなかった姉が突然アメリカから帰国したら、とりとめのない会話で距離を測り合うのが自然な姿にも見えてくるのだ。

さらに姉妹の間に他者も絡ませる。公園を散歩中の二人が、通りすがりの女性に写真撮影をお願いしたら、かつて俳優をしていたサンオクの顔に見覚えがあり、もう一度出演作を見たいと声を掛けてくるではないか。偶然✕偶然みたいな、ありえない情景。TVに出たのは1回だけなのに…と、サンオク自身もその奇遇に驚くが、すでに監督のズラしのリズムにノッてしまっているわたしは気負わない。映画が個々のエピソードをどう回収するのか?と、先読みすること自体がもはやケチくさい気がして―。

例えば橋の下でサンオクが喫煙するシーン。なぜこんな所で?と疑問に思っても、せせらぎの音とかがめた身体のラインと天上界へのつぶやきが混然一体となり、瞼に焼き付いて離れない。あたりなどつけずともへっちゃら。謎は多いが、なぜかハシゴを外されても向かう先には恵みが待っている予感がしてならないのが本作なのだ。

散歩の後にふたりは、妹の息子が経営する飲食店へ立ち寄る。お目当ての甥は不在。その代りここでも、スープトッポギを食べたら、ブラウスに汁を飛ばして慌てるといったどーでもいい(?)エピソードをクローズUPし、あえて意味を遠ざけ、のらりくらりとやり過ごすホン・サンス。

しかし、なんやかんやと絶えずアクションでつなぎ、映画内運動は決して止めずに回し続けるわけで、ユルそうでいて緊張感は途切れない。遂にはフレーム外からプレゼントを持った甥っ子が追いかけてきて、大好きな叔母さんと再会&抱擁である。なによ、このスペシャル感!もはやブラウスのシミさえ、かけがえのない人生の瞬間に変換しているわ!

さてここからが本番。映画はサンオクを独り、久しぶりの故郷に放牧してみせた。すると彼女は意表を突き、幼い頃に住んでいた懐かしき場所を訪れ、かつて遊んだ庭の茂みにうずくまる。しかも今は店舗になっている空間で、サンオクの記憶が身体の隅々まで緩やかに蘇るとき、スクリーンを前にした我々の個人的記憶をも呼び起こす…。そう、縁もゆかりもないソウル市内の空間が、鑑賞者ひとりひとりの記憶の空間と響きあうのである。映画がもたらしてくれたギフトに、束の間酔いしれた。

さらに放牧の最終コーナーには密会が待っていた。女優時代のサンオクの熱烈なファンを自認する映画監督との対面である。貸し切りの居酒屋で、昼間っから中華をつまみつつホロ酔い気分の中年男女。永遠のマドンナを前に涙ぐんで喜ぶ監督と、手放しの礼賛に悪い気はしない元女優の、愚かしも憎めないやりとりが、可笑しくもありまばゆくもあり。

サンオクが、昔習ったギターをたどたどしく爪弾けば、突如居酒屋店内が風流なお座敷に化けたりして、まるで都々逸的世界(笑)。ベテラン芸妓のサンオク姐さん、時折りのぞくブラの肩ひもさえも艶っぽい。青春スイッチの入った監督が、彼女主役の映画を作りたいとラブコールするのも当然だろう。

ところがサンオク姐は頬を紅潮させ、時折笑みさえ浮かべながら―私には時間がない、病気で長く生きられない―と、丁寧に詫びるではないか!衝撃的な余命告白。「まいったな…」とつぶやく監督と我々の戸惑いは見事に一致。様々な謎や、彼女が絶えず神に向かって語り掛けていた理由がここでイッキに判明する。と同時に、今となっては物語の中心線をズラされ続けたあの歯がゆい時間に戻りたいとも思うのだ。

降り出した雨の中、店をあとにするふたり。1本の傘に身を寄せタバコに火をつける後ろ姿…。雨音をBGMに繰り広げられるドラマチックなシークエンスはここだけ別撮りされた短編映画のように映るが、ホン・サンスは並みの作り手ではない。このまま映画を終わらせない。幕切れ前になお、ここぞとばかりに見事にうっちゃる。

翌朝、なんと冒頭の設定を再び繰り返す。高層マンションの一室に舞い戻り、眠っているサンオクの夢を解くかのように、監督のヘタレ録音メッセージを高らかに響かせるではないか。おいおい、いざとなったら腰が引けたのかよぉー!真摯に詫びる男の声を聴きながら、声を上げて笑うサンオク姐。彼女は”観客の顔の前” で、本作中最も生命力にあふれた姿を披露する。世界中の誰よりも今この瞬間を濃密に生きて笑う、身体をのけぞらして大笑いするのだ。死を前にしてもままならない人生の皮肉を!

『あなたの顔の前に』は、どこへたどり着くともわからない不意打ちの連続だ。赤いタンクトップで始まり赤いタンクトップで終わって一巡する1日だけの物語だが、常にフレームの外へ外へと拡張しながら綴られているため、印象が固定化されない。それでも、映画内時間をヒロインと共に慈しんで生きたという残り香だけは間違いなく身体に刻印される。はぐらかされているうちに、いつしか生の一回性を痛感してしまう傑作、必見です。

2021年/85分/韓国

監督/製作/脚本/撮影/音楽/編集 ホン・サンス

出演 イ・ヘヨン チョ・ユニ クォン・ヘヒョ

■『アネット』

映画という虚構の中に、さらに別の虚構を組み入れ、入れ子細工の形でお披露目する『アネット』は、140分の長尺であり、かつミュージカル仕立てである(汗)。おそらくこう聞いただけで、戸惑う観客も多いだろう。どこを映画の現実ラインとして見るべきか…なんとなくめんどっこくて嫌だなあと。でもだいじょうぶ。1ミリも身構える必要はない

オープニングを飾るのは、とある音楽スタジオでの録音風景。監督のレオス・カラックスご本人が、コントロール・ルームの真ん中に鎮座し、演奏者たちにプレイ開始を告げると、アメリカのベテランロックバンド・スパークスが演奏を始め、何とそのまま歌いながらご陽気にスタジオを出て行く。

おっと~、楽屋ネタかと思っていたら、曲といっしょにすでに始まっているではないか―。途中、本編の登場人物たちも合流し、みんなでSo May We Startを歌いながら夜の路上へ繰り出すシーンのカッコイイこと!さあ、夢の世界のはじまりだといわんばかりの、高揚感溢れる長廻しがたまらない。そう、音楽スタジオがミュージカルへの導入口として機能し、瞬く間に虚構の中へワープできるダンドリだ。そして主演ふたりが役の衣装を軽やかに羽織れば、目の前で物語の扉がすーっと開きはじめる―。

バイクに跨り走り去った男の名はヘンリー。ストイックに過激な笑いを追求する人気スタンダップ・コメディアンだ。緑色のガウン姿で独り舞台に立ち、客との丁々発止が見世物の際どい芸で名を馳せている。一方、お抱え運転手付きの車に乗り込んだのは、世界的ソプラノ歌手のアン。映画は、美女にリンゴをかじらせたりして、早くも不吉な予感を漂わせつつ、人気セレブ・カップルの恋愛ピーク時を幕開けに置いた。

美女と野獣のカップリング。しかも、それぞれの舞台を終えたふたりが、取り巻きたちから逃れ、太ももを露わにしながらバイクの二人乗りで人里離れた森へ逃げ込んだりして、何だか私の方が照れくさくなるくらいキッラキラなロマンチックLOVEシーンの連投である。まるで一条ゆかり先生が描く華麗な少女漫画の一コマのよう…思わず目を細めた。

“私たちは愛し合う~ 心から あまりに深く~♪”とかなんとか、歌いながら&じゃれながら山道を歩くふたり。めまいがする。いや、それどころか、絡みシーンまで歌いながらの睦まじさ…。いやー、地球はふたりのために回っているこのかんじ、ディズニー・アニメを軽々と越えてしまっていて、アッパレとしか言いようがない。言葉とメロディの共振によって、空間が色鮮やかに塗り替えられて見えるのだ。

一方で、誰にも邪魔されずに蜜月を過ごす森の中の邸の佇まいとか、インテリアの隅々やら、身につけている着衣の色彩&素材感が、リアルに計算されていて、ファンタジーワールドに回収されない点がミソだ。ありえない設定ではなく、趣味のいいセレブのありそうな隠家蜜月を創造しているから、観客はじぶんたちのリアルと地続きで眺められ、好奇心が持続するというわけだ。

要はリアリティの扱い。例えば映画では、度々ふたりの仲をゴシップ記事的体裁でウォッチし、大衆が欲望するセレブ・カップルの通俗的なイメージを、観客に投げ掛けてくる。スターを崇めながらも、下世話なネタに引きずり降ろさずにはいられない我々の日頃の好奇心とやらが、いかにありきたりで貧相なものかを生々しく皮肉るのだ。キッラキラマジックと世俗の垢のブレンド配合が絶妙で…楽しくって笑った。

やがて結婚そして妊娠。案の定、出産シーンまで大賑わいなミュージカル仕立てで綴られ、物珍しさMAXである。ところが驚くのはまだ早い。映画は、アネットと名付けられた女の赤ん坊を、しれーっと人形の姿で登場させるから腰を抜かす。

へっ?ご冗談でしょ?もしかしてギャグ映画だった?…と、どこまでホンキで見るべきか、一瞬腰が引けるが、それさえすぐにメタファーとして受け入れ可能になる。日本には人形浄瑠璃という語りもあるし、シラケるどころかむしろ赤ん坊を人形にしたことでセレブ枠は取っ払われ、現代を生きる我々の話として不気味に迫ってくるのだ。

さて、アネット誕生がきっかけとなり、徐々に崩壊し始めるセレブ・カップル。アンは産後ウツなのかヘンリーの人間性に疑いを持ち始め、ヘンリーもイクメンしている間に芸人として落ち目になってゆく。意外な取り合わせが旬だったふたりだが、成功格差が広がるにつれ、溝は深まるばかり。さらにはやり直しを賭けて出た船旅の途中、なんとアンが荒れ狂う海に飲み込まれ、帰らぬ人になるではないか!

このサスペンスフルな嵐のシーンをはじめ、邸内のプールや、オペラの舞台など、名作絵画を連想させるような撮影が繰り広げられ、それはそれは見事な出来栄えで、鳥肌が立った。しかも歌とアクションの連続技で進行するので、映画内の現実ラインが絶えず曖昧になり、身体ごと映画に浸かってしまうからたまったものじゃない。まさにこれぞ映画!

結局、事故か事件かわからぬまま、アンは映画から退場し、怨念だけが燻ぶり続けるからコワイコワイ。そこへママと入れ替わるようにアネットが表舞台に押し上げられ、物語はスキャンダラス方面へまっしぐら。というのも、妻も名声も失くしたヘンリーが、アネットにアンを超える歌の才能を発見し、マネージャーとなってイッパツ逆転を図るからだ。娘をベイビー・アネットの愛称で強引にSNS上のアイドルに仕立て、世界制覇を目論む女衒なパパは、どこまでも腐り続け、地の底まで転げ堕ちる―。

パパとママは演じられても、親にはなれなかったセレブ・カップル。一方娘は、最後に毅然とした態度で彼らの身勝手さに唾を吐く。そして、じぶんの意思で家族ごっこに終止符を打ったそのとき、なんと人形だったアネットが生身の少女の姿に移り変わるのだ!見得を切り、独り我が道を歩いて行く娘と真っ赤な囚人服で取り残される父の絵…大向こうから声がかかりそうな鮮やかな幕切れである。

こんな荒唐無稽な展開なのに?と疑問を持つかもしれないが、『アネット』は極めてシンプルで美しい作品である。喜劇の要素と悲劇の要素を併せ持ち、重心の低い古典的な作りの映画だと思う。映画(虚構)の中に舞台(虚構)があり、舞台では生死が演じられ、幕が下りれば夢物語も消えてなくなり、「あー、映画を味わいつくしたなぁ」という充実感に身体が満たされる。現実社会とはかけ離れた物語であっても、ここには観客の胸を打つデタラメが実っている。繰り返し言おう、これぞ映画だと―。

ちなみに、悪い父親の転落劇なのに、ツイ魅せられてしまうのは、ヘンリー役のアダム・ドライバーの存在感に寄るところが大きかった。アクが少なく、体温低めで、かつどこまでも闇の広がるキャラクター作り…歌舞伎でいうところの色悪を、サラリと演じていて付け入るスキなし。

『アネット』

2021年/140分/仏・独・ベルギー・日

監督/脚本 レオス・カラックス

原案/音楽 スパークス

撮影/ キャロリーヌ・シャンプティエ

美術/ フロリアン・サンソン

出演 アダム・ドライバー マリオン・コティアール

■『クライ・マッチョ』

穏やかな日の光を浴び、古めかしいトラックが広大な大地をゆったり走って行く。カントリー・ソングが響き渡る中、運転席に鎮座するのは、監督デビュー50周年を迎えたクリント・イーストウッド91歳。監督業40本目にして主演も務め、マイク・マイロ役に扮してみせる。

時は1979年テキサス。マイクが余裕綽々と牧場へ乗りつけ、カウボーイハット姿で降車するオープニングを目撃すれば、映画ファン(特に男子)の目頭は早々に熱くなり、思わず「待ってました!」と声をあげたくなるだろう。クリントがマイクなのか、マイクがクリントなのか…もはや本人と役柄の境界線も、現実とスクリーンの境界線も溶解し、何だかよくわかんないけどありがたい光を拝もうと手を合わせたりなんかして…ね(笑)。

考えてみたら、米国へ行ったことのない私だって、カウボーイ文化や西部劇の様式美は、すべて映画からの刷り込みでイメージしているに過ぎない。どこまでもどこまでも続く荒野の景色なんて、生涯ナマで体感することさえないわけで、わたしにとっては絵空事。なのにこの非日常のロケーションこそ、映画の日常だと承知し、郷愁さえ感じてしまうのだから、脳ミソはじぶん都合でできている。

そして、スクリーンを通じて、米国のヒーロー像を体現し続けてきたと言われるクリントもまたしかり。これだけ長い役者人生を、ある意味、思わせぶりだけで歩き通してきた事実があるのだから、映画館では彼が現実なのだ。

ところが『クライ・マッチョ』は、一瞬にして信望者たちの夢を打ち砕く。マイクはヒーローどころか牧場主でもなく、一介の雇われ調教師に過ぎなくて、しかもやる気なしの遅刻の常習者(汗)。開口一番、オーナーのハワードから解雇通達をくらい、問答無用で追い出される始末。もちろん、反省するどころか軽口叩いてどこ吹く風で立ち去るあたりも、クリント映画らしい定石ではあるが…。

とりあえず映画は、クリントの現人神化を早々と避け、”祭りの後”から始まるドラマに舵を切る。ロデオのチャンピオンだった栄光の時代をひとなめし、その後の落馬事故ですべてを失い、辛うじて住処だけはあるが今や落ちぶれ切った老いぼれだとアピール。そして、そんな孤独な老人の前に、先のハワードを再登場させ、別れた妻に引き取られてメキシコにいる13歳の息子ラフォを連れ戻してくれと依頼させるのだ。

なるほど。誘拐まがいの厄介な事案でも、恩義のある人間から頼まれたら、国境越えも辞さないのがロンサムカウボーイの美意識か。だってマイクの家は、手狭ながらじぶんの趣味が全開でさー、ぜんぜん不憫に見えないわけ。むしろ独居老人の天国みたいな理想空間だったから、彼の、”家を去り、仁義を切ろう”決断には思わず苦笑いした。そうそう、ヒーローとは不合理を直進する生き物でしたね(笑)。

先を急ごう、国境越えだ。ところが我らがヒーローは、マニュアル車をヨボヨボ転がし、野宿をしながら気負いゼロで向かう。ラフォの母親の豪邸へもゆるゆると潜入し、案の定捕まってもどこ吹く風。逆に母親の養育放棄に釘を刺したりして、まるで町内会の会長ノリだ。ご都合主義のその上を行くオレサマ展開に、笑いが止まらない。

そのうえ息子探しだってあっさり成功。ラフォは自堕落な母親の元を離れ、独り路上で生き抜いてきたらしい。両親に振り回され、大人を信じられなくなっている少年の唯一の相棒は、闘鶏用のニワトリ”マッチョ”だけ。そこでもマイクは、父親を拒むラフォに対して強い説得を試みない。爺さんとひ孫ほどの年の差があっても、孤独に向き合っている点では同じ地平に立つ身だからだ。知恵は授けても支配者ヅラしない大人との接触で、やがて少年からは屈託のない笑顔がこぼれるようになる。

というわけで、後期高齢者と未成年者とニワトリのオレサマ軍団は、父親の待つテキサスへ向かう。ここからは荒野を舞台にロードムービーのはじまりだ。

ところで、お察しの通りここが映画の一番のメインディッシュとなるはずなのだが…およそチャージがかからない。サボテンをかじったり…リオグランデ柄のジャケットを買い込んだり…車を盗まれたり&盗んだり…と、終始のんきな旅日記調。いちおう、母親が放った追手の気配はあるものの、ほぼ開店休業状態。鼻っ柱の強い2人と1匹が揃っていながら、如何せん「圧」が一個もなくて、荒野が銭湯の書割りに見えてしまうほどだ。

挙句の果てには流れ着いた田舎町で、小さな食堂を営む未亡人と懇ろになり、オレサマ軍団一同、しれーっと居ついてしまうではないか!へっ?ミッションはどうした?こだわりのやせ我慢道はどこへ行った?ファイティングポーズを忘れたのか?…いやいや、何せ今回ばかりは90歳越えでの主役である(汗)。そのうえ役どころは、実年齢のひと回り以上年下の設定と推察できるので、確かに絵的に決めたくても限界がある(汗)。そこで、不自然な若作りを避けつつもそれなりの現役感を匂わせるには、男稼業で培ったテクのお披露目が最適解となるのだろう。

少年にはカウボーイキャリアを伝授し、女こどもには小マメなフォローを欠かさず、村人たちの困りごとのために親切なドクトル先生にも扮してみせるマイク。…おいおい、すっかり善人の代表か?何より目尻が下がり、昼間っから窓辺で無防備にうたた寝をしたりして、世界で一番しあわせな好々爺に鞍替えですわ。

それでもいちおう、じぶんたちが居つくと村人たちがキケンだからと竜宮城を後にし、本来のミッションへ軌道修正。取って付けたように、ゆっる~いカーチェイスをファンに用意するものの、今回のクリント=ヒーローがお披露目するのは、イキがっていたかつてのオレサマ至上主義を、前面撤回する反省の弁だ。そう、オレの二の舞にはなるなと少年ラフォを諭すくだりが見せ場となるのだ。

ラスト。国境で「困ったら来い」と愛弟子を送り出し、じぶんは踵を返し、マッチョと共にベンツでメキシコへUターン。最後までバイオレンスは封印し、一点の翳りも迷いもなく、朗らかに奏でられた91歳のクリント映画。もはや仮想敵は不要らしい。オレサマ指標は減らず口とモテと運転に集約させ、目指せ100歳!という魂胆なのね。よろしいんじゃないでしょうか。

映画という虚構の世界で実学実践者として振る舞ってきたクリントにとって、生身のじぶんを括弧で括り、ヴァーチャルな英雄像に差し替えることはできないのだろう。その代り、ニワトリに決着をつかせて大団円とは!…意表を突かれたな。唯一、筋肉の落ちた好々爺に肩パットの入った衣装だけは、見てて切なくなったが―

『クライ・マッチョ』

2021年/104分/アメリカ

監督/製作/出演 クリント・イーストウッド

脚本/ ニック・シェンク

撮影/ ベン・デイヴィス

音楽/ マーク・マンシーナ

出演 ドワイト・ヨーカム エドゥアルド・ミネット

■『主婦の学校』

な、な、なんなんだこれは…。予告をチラ見しただけで、心身ともに寛いでしまった。しかも隅々までスキっと美しいではないか!

『〈主婦〉の学校』は、アイスランドの首都レイキャビックにある家政学校「Húsmæðraskólinn」を密着取材したドキュメンタリー。1942年に創立した生活全般の家事を実践的に教える伝統校らしいが、いやはや、想像以上に様々なことを考えさせられる映画だった。

何せ疑い深いタチなので、まずはキレイキレイな印象を受けたじぶんを、一旦括弧に入れて座席に着いた。北欧マジックに騙されないぞーと(笑)。ところが開口一番、淡いピンクのセーターをお召しになり、静かに執務にあたっている校長先生を目撃したら…もうダメですね。

金八先生by赤木春恵ではなく、苦み走った草笛光子似のマルグレート校長が、超かっけーのだ。日本とはビジュアルだけでもこうも違うのか~。そしてひとたびそのハスキーボイスで穏やかに語り始めたら、英国諜報部MI6のボスにしか見えません。もちろん007は出てこない、ここは家政学校ですから―(笑)。

次の”こうも違う”事例は、建てられて100年になる真っ白な学び舎だ。少人数制の学校だから、ちょっと大きなお屋敷を校舎に利用しているようだが、どこもかしこも小ざっぱりと気持ちよく整えられ、さりげなく飾られた絵画がイチイチ決まっている。簡単に真似ができないレベル。それでいて誰もが親しみを抱くインテリアで心落ち着く。

さらに屋根裏には寄宿生のための寮が用意され、まるで絵本の世界ではないか。ここで暮らしながら学べるってマジに天国じゃね?恐るべし北欧マジック。少なくともわたしが知る学校環境とはまるで異なり、機能的かつ温もりのある空間作りに早くも脱帽するしかない。

学生側に目をやれば、アイスランド全土からごくフツーの若いお嬢さんたちが集まってきている。「主婦になるためじゃない」「手仕事に興味があって」…と、目的は様々だが、誰もがここで学ぶことに意欲的。そう、生活全般の知恵や技術を身につけることは、じぶんの人生をよりよきものにすると考えているのだ。「就職」に紐づいた学びにしか価値がないと思い込んでいる日本人とは、”決定的に違う”のだ。

授業シーンがこれまた楽しそう!秋に入学した学生たちは、バスに乗って遠出し、ベリー摘みの実習から始まる。ケーキやジャムを作るため、収穫から体験させるというダンドリだ。すんばらしいロケーション、ベリーってこんなゴツゴツした岩肌に実るのか!日本でこんなプログラムを実現するなら、授業というより、旅行会社のツアー商品だろう。

授業シーンの中で、登場頻度が高かったのは、やっぱり調理実習。目の保養にもってこいだからね。ただこの学校では、じぶんたちのその日の食事作りから始まっているので、授業と生活の区分けがなく、とても理想的な基礎実習方法に思えた。完成した夕飯を校長先生も交えて大家族のように食べ、食事を終えたら手をつないで「ごちそうさま」とねぎらいあうシーンなんて、美しすぎてめまいすら覚えたわ…(汗)。

その一方で、伝統料理や凝ったおもてなし料理も丁寧に学べるわけで、生活文化はこんな風に自然体で伝承されるのがベストだと感じた。母から娘とか、母から嫁へみたいな形骸化した家族幻想に未だに縛られていたり、食事作りの価値を無償奉仕としてしかみなしてこなかった我々とは “こうも違う”のだ。

他にもテーブルセッティングにマナー、洗濯&アイロンかけ授業もあれば、洋裁や手芸ワークと、盛りだくさんな内容。家事を基礎の基礎から学べるなんて、なんて贅沢!何よりすべての学びを、じぶんの生活技能を高めるための実学とおいているところにグッときた。

映画の構成は、卒業生たちのインタビューを交えて進行する。1997年に学校初の男子学生となった彼は「卒業するとき、校長に『あなたは幸運な男性になるわ』と言われた。人生でうまくいかないことがあるたびに、その言葉を思い出し乗り越えてきた」と語る。さらに、卒業後に環境大臣になった男性まで登場し、母校の取り組みを「いまこそ意義がある」と賞賛する。かんじ良すぎてケチのつけようがない。本当にここでの体験が、じぶんの人生に実をなしているのだろう。

今回初めて知ったのだが、良き主婦になることを目的としたいわゆる”花嫁学校”は、かつて世界中に作られていたらしい。でもって今ではどこも衰退。同様の目的で創立しながら本校は、時流に目配せしつつ「主婦」から「家政」へ学校名を変えたり、男女共学にしたりと教育内容はそのままに、アピールポイントを刷新して、現在も存続する数少ない例とか。それでも、学校継続の許可が下りるのは、毎回新学期が始まる1ヵ月前(!)だと言うから、マルグレート校長も、気が休まる暇はないだろう。

運営母体の大小にかかわらず、どんな学びの場を継続的に整えて行くかは、その国に生きている人々の在りたい姿が反映される。気負うことなく生活を大切に営み、自立した人生を楽しもうと考えるアイスランドの人々に、俄然興味がわいた。

生活全般を回せるようになることは、自らと社会の関係について認識することであり、それは共同体を維持するための規範を考えることにつながる。これぞまさに教養だ!”ジェンダー平等”先進国は、国の旗振りだけでなしえたものではない。よりよき市民になるための意識が、長い時間をかけて日常的に育まれているのだ。

映画は卒業式後の歓談シーンで幕を閉じる。小さな学校の小さなセレモニーのそのまた小さな階段前の通路が舞台だ。何もこんな窮屈なところでカメラを回さなくても…と呆れるような一角である(笑)。でも、ここに入れ代わり立ち代わり現れ、感謝と歓びをそっと噛み締め合い、別れを惜しむ学生たちの姿がたまらなくイイ。静かにねぎらいあう姿が胸に染みた…。寝食を共にしながら学んだ校内の道辻に、よき市民たちが集う絵として、特に忘れ難いものとなった。

ところで日本の家庭科教育は現在どうなっているのだろう。50年前のわたしの体験とは様変わりしているはず。本作を見て急に気になり始めた。ちょっと調べてみよう―。

『主婦の学校』

2020年/78分/アイスランド

監督/脚本/編集 ステファニア・トルス

製作/音楽/音響 ヘルギ・スババル・ヘルガソン

出演 マルグレート・ドローセア・シグフスドッティル