映画製作をめぐる裁判で、不当な判決を言い渡されたイラン人監督モハマド・ラスロフは、表現の自由を貫くため、収監直前に祖国を脱出。政府の腐敗と圧政を世界に向けて問おうと、命懸けで新作「聖なるイチジクの種」を第77回カンヌ国際映画祭に持ち込み、審査員特別賞を受賞した。いやはや、発表までの舞台裏だけで映画が何本も作れそう…。前振りが劇的すぎて、本編にたどり着く前からお腹いっぱいになりそうだが―💦
ところが、蓋を開けたら意外な手触りのする娯楽作品に仕上がっていて、めっぽう面白い!イスラム世界を前に身構える必要はなく、むしろ鑑賞後はイスラム世界との距離が縮まったようにすら感じた。というのも、本作の基本フォーマットが、リアルタイムのイランという国家を照射したホームドラマだからだ。
主役一家は、裁判所に勤める国家公務員のイマンを大黒柱にして、専業主婦の妻ナジメと十代の娘たち―長女レズワンと次女サナ―の4人家族。一見平凡に映るかもしれないが、イラン映画を長年愛好してきたじぶんの印象からすると、今までで一番〝政府寄り〟かつ〝安定した暮らしぶり〟の家庭像だ。
映画は、この一家を捉えるときに、3つの関係を通じて接近する。1つはイマンと職場の関係。2つ目はイマンとナジメの夫婦の関係。3つ目はナジメと娘たちの関係だ。ちなみに1は男性だけ、2は男女一対、3は女性だけという見方もできる。そのうえで、最後にメンバー4人が総出で、家族関係の決着を図るという仕立てである。
映画は1から順にスタート。20年以上も誠実に勤めてきたイマンが、念願の昇進を果たす。だが表情は浮かない。何せ、出世と同時に支給されるのが護身用の銃なのだ!いったいどんな組織で働いてきたのか?裁判所の調査官に任命されたはずだが、本当はヤクザ?一方で、仕事帰りにわざわざ山奥のモスクへ立寄り、神へ感謝の祈りを捧げたりして、やっぱりまんざらでもなさそう…。組織型体質と宗教心を見る限り、どうやらイマンには、ドン・コルレオーネもどきな側面がありそうだ。
次に、夜遅く帰宅したイマンに、お茶と夜食を出し、甲斐甲斐しく世話をするナジメが登場。ここからは2の夫婦のパートだ。赤いランプシェードが目を引く寝室で、昇進の喜びを噛みしめ合うふたり。夫が妻に銃に触れさせるエロさや、妻が憧れの官舎への引越しに胸をときめかせる様子に、ふと高度成長期を舞台にした日本のドラマのエッセンスが蘇ってきた。そう、あのジェンダーに応じて規範や役割が固定化され、それが共通認識になっていた時代の匂いが―。
ただし、ここでイランの夫婦像を時代錯誤の一言で片付けたいわけではない。今の日本だって大枠ではさほど変わらない。いや逆に、最近のドラマ設定では多様性への配慮が先行し過ぎ、夫婦としての存在感が希薄になりがち。このふたりが放つような濃厚な絵には昇華できない。映画表現にとって、強い関係性を切り口に物語へ誘えるのは、大きな武器と言えるだろう。
そして一転。翌日の3のパートは、母と娘のかしましい会話で始まる。
今夜はお父さんの祝いだからと舞い上がる母に対し、ずっと父親の職業を秘密にされてきた娘たちの関心度は低い。夫の出世に前のめってる母親が、ヒシャブを必ずつけろ、SNSは注意して使え、立場を考えた振る舞いをしろと口うるさく釘を刺しても、テキトーにあしらっていて温度差は歴然だ。今どき少女たちと母との距離感は、我々の日常光景と変わらない。特に女同士のシーンには、食事や身づくろいや学校への送り迎えなどの生活スケッチを通し、一家の中流家庭像が具体的に肉付けされると同時に、母と娘の価値観の違いが浮き彫りになり、興味が尽きなかった。
さてイマンに話を戻すと、昇進を喜んだのもつかの間、新たなミッションは、政府に歯向かう輩たちに対し、ロクな調査もせず、右から左へ死刑求刑を下す役目だった。つまり銃の支給は、反政府側から狙われる可能性を踏まえての対策。出世コースにしがみつくなら、上司の命令に絶対服従の忖度マシーンになるしか道はない。イマンはこれも神の導きだと固く信じ、見て見ぬふりに徹する覚悟のようだ。
ただしイマンには、家へ戻れば大黒柱を守るための魔法が用意されている。外でどんなに良心が咎められても、世話焼き妻が家長の椅子へ押し上げてくれて、裸の王様状態。いやマジでイマンは、やたら上半身裸になる(爆)。その度にぶ厚い胸筋をお披露目するのだが、このシーンって要る?(笑)もしかしたら、これはナジメ側からの成果発表なのかもしれない。鍋を磨くように、夫もピカピカに磨き上げて自尊心を取り戻させようとの意図なら、ある意味最強タッグだ。
日本になぞらえるなら、「昭和」な父イマンは国家と信仰心に生き、「平成」な母ナジメは家庭に生きる。じゃあ、「令和」の娘2人が何に生きているかというと、それは革命とSNS。内向きな両親に反し、家の外でリアルタイムに起きている変化が最大の関心事である彼女たちは、日ごとに増す市民による政府への反抗議デモに、圧制からの開放の予感を感じずにはいられなくなる。そんな家族4人、それぞれが抱える日常的なストレスがMAXに至った或る夜、家の中で父の拳銃が消えた…。誰もがじぶんは知らないと主張し続け、誰もが容疑者の汚名を着せられたまま暮らすことに―。
ここからがさらに見ものだ。社会からの信用喪失を恐れた父が、何と同僚の手を借りて家族を尋問するではないか!もちろん娘たちが黙っているわけはない。常に父を正統化してきた母も責め立て、家の外で拡大する反抗議デモと呼応するかのように、家族内で戦いの狼煙が上がる…もしや分断か!この先映画は舞台を郊外へ移し、疑惑と逃亡のアクションムービーへイッキに加速するのだ。
そうだった…イラン映画は政府による厳しい検閲を通るため、子供を主人公に作品作りをしてきた歴史がある。本作では、権力の横暴があからさまな実際のSNSの動画も使われるが、それよりむしろ映画ならではのホレボレするような作劇のテクこそが作品を骨太なものにしていた。監督の身の上で起ったことを振り返れば、まさに命がけのメタファーだろう。またじぶんが、ツイ日本になぞらえて見てしまったように、ホームドラマのフォーマットが国も宗教観も超えた当事者意識を生み、じぶんたちの足元に根付いた価値観を改めて考えさせられる機会にもなるのだった。
167分という長尺ながら、一瞬もダレることのない「聖なるイチジクの種」。鑑賞後、タイトルの意味がジワジワと腹落ちする傑作だった。
2024年/167分/独・仏
監督・脚本/ モハマド・ラスロフ
撮影/ プーヤン・アガババイ
出演 ミシャク・ザラ ソヘイラ・ゴレスターニ マフサ・ロスタミ
セターレ・マシキ