■悲しみに、こんにちは

「へーっ、 “だるまさんがころんだ”は、世界共通の遊びなんだあ…。」
バルセロナの町の一角。子供たちがはしゃぐ夏祭りの情景を、ぼーっと眺めながらのオープニング。夜空に輝く花火の幻想性も効果的で、幕開け早々からわたしは、映画と対峙する気構えなどスッカリ忘れ、子どもの頃の記憶手帖をゆったりと開いていた気がする。半世紀も前のホコリにまみれた我が記憶を―(笑)。

カルラ・シモン監督作品『悲しみに、こんにちは』は、1993年のスペインを舞台に、両親を亡くしたばかりの少女フリダの“ひと夏”の体験を描く。

のっけから身も蓋もないことを言うけどゆるしてね(汗)。そもそも、この映画を文章で紹介すること自体、一番やっちゃいけない行為だと強く思うわけ(笑)。映画の中で目撃したたくさんの瑞々しい出来事が、言葉に落とした端から、凡庸な幼少期スケッチの集積にしかならないのがミエミエなの(汗)。たとえ多くの人に見てもらいたいと願っても、本作に関しては、他者の解説や見解がもてなしの役目になるどころか、かえって足を引っ張る恐れさえある…。つまり鑑賞者一人一人と作品との、一対一の化学反応だけで純粋に成立する映画なんだよね。遅ればせながら、映画と観客の最も幸福な在り方を思い起こした気がする…。そのうえでなお、書き記しておきたい衝動にも駆られるから困ったものよ(笑)。わたしのゴタクをお聞かせする前に、まずは物語を軽く紹介しておこう―。

だ~るまさんがこ~ろんだ~♪と、ひとしきり遊んで帰宅したフリダが目にするのは、親類たちが引越しの荷造りに追われる光景だった。フリダはお気に入りの人形を抱きながら、大人たちの動向を見守るしか術はないが、あれよあれよという間に、両親との想い出から引き離され、生まれ育った町と人間関係に別れを告げることになるのだ。さよなら、バルセロナ!

そして目が覚めれば、あたり一面が緑に覆われたカタルーニャ地方の一軒家だ。田舎で暮らすママの弟エステバおじさんの元へ引き取られ、奥さんのマルダと、幼い従姉妹アンとの4人の生活が新しく始まる。はい、 「両親を亡くして親戚のウチの子になる」設定ですね(汗)。だから、ツイ我々も身構えてしまいそうだが、映画はフリダを観客の半歩前に立たせ、彼女を物おじしない好奇心と冷静な観察力で動き回らせるため、大人仕立ての余計な推察を挟む余地はない。我々は、シンプルに目の前のフリダの体験を目撃し、共に一喜一憂するだけ。

苦手な牛乳と格闘する朝食でのしぐさ、生まれたての卵を用心深く運ぶ後ろ姿、肉屋でハムをつまみ食いし、雷で電気が消える暮らしに驚き、森の中に祀られたマリア像の前で願いを伝えるフリダ…。この一匹狼少女は、顔に似合わぬダミ声(!)と鋭い眼差しで新天地探検に乗り出すが、日常のすべてが挑戦の連続だ。それをカタルーニャの自然と、おじさん一家の包容力が背後からしかと支える。

一人っ子同士のフリダとアンの距離が縮まり、姉妹と化すプロセスも実に楽しい♫ 嫉妬、羨望、競争心が露わになっても、同じ目線で世界を臨む“今この瞬間の遊び相手”は、かけがえのない宝物なのだ。夜中につるんで家の中をブラついたり、大人たちの目をかすめて笑いを共有したり…2人にしか通じない波動で、子ども帝国が築かれて行く―。

一方でフリダは、独り占めできる愛情のシャワーを絶たれたこと、二度と両親に会えない事実は、ウッスラわかっている。ただ、「死」をどう整理したらいいかの判断がつかず、宙ぶらりんな気持ちを内に抱えながら、周囲に向けて反発するかと思えば急に無防備に甘えたり、ときには孤独の牙城で妄想に耽ったりを繰り返す。映画は、そんな言葉にできないモヤモヤや、落ち着かない気分をすくい上げ、あえて野ざらしのままで進行。そっけない演出ゆえの破壊力には、想像以上の手応えがあった。

幼いフリダの葛藤は、「死」と対峙するときの我々の足取りと何ら変わらない。いやむしろ、子どもならではの理屈や、何としてでも首尾一貫したいと必死になる彼女の本能に、逆に多くの気づきを与えられる。死を自問自答しながら、毎日を生きるという離れ業…。喪の儀式は、遺された者の生が問われる時間なのだ。

また、少女ひとりに求心力を持たせて、場をかっさらうような映画にしなかったのも本作の非凡な点だろう。親代わりとなるエステバとマルダが、迷いながらも逃げずに本気でフリダの喪失をバックアップするスケッチをはじめ、少女を取り囲む人間模様がとても充実している。亡き両親の痕跡も含め、スクリーンには絶えず様々な人物が出入りし、幼い身ながら彼女がすでに世の中の一員として生きている側面を立ち上げる。そう、世の中から照射されることで、フリダの姿はさらに重層化され、我々は彼女の未来をも思い描きながら、映画の時間に浸ることができるのだ―。

本作は監督の幼少期の体験をもとに制作。映画の中では明かされないが、両親の死因はエイズだった。フランコ政権崩壊後の90年代初頭のスペインでは、独裁政治から解放された喜びでドラッグが蔓延し、2万人以上もの人がエイズで亡くなったという。おおっぴらにしにくい問題と同時に、フリダ自身にも感染の恐れがあり、映画の中では「血」のつながりに光明を見出すこともあれば、「血」にまつわる影のエピソードも織り込んで見せて行った。さらに言えば、そうした複雑で特殊な事情も含めて描きながら、なんの予備知識も持たないスペインの少女の“ひと夏”の体験が、我々の記憶を同機させ、改めて生の一回性をも痛感させるのだ。

ラストがまた素晴らしい!“バッタもん家族”をやってるうちにたどり着いた、無防備な一瞬がたまらなく美しい…。ここに記すのを躊躇するほど意表を突かれ、かつ、これ以上フリダの胸の内を物語るにふさわしい表現はない“究極のリアクション”で閉幕する。涙による幸福の寸止めと、背後に流れる不協和音めいた音楽まで…悔しいほどカンペキ★

『悲しみに、こんにちは』

2017年/100分/スペイン

監督/脚本  カルラ・シモン
撮影    サンディアゴ・ラカ
音楽    エルネスト・ピポ
製作    バレリー・デルピエール

キャスト  ライラ・アルティガス パウラ・ロブレス ブルーナ・クッシ