この夏、うつ病を患う老いた母にカメラを向けた『抱擁』(14)というユニークなドキュメンタリー作品を見たばかり。そして今回遭遇したのは『徘徊』(15)だって。あまりに身もフタもないタイトルだが、たじろぐ必要は全くございません。そう、お年寄り密着記録は、今最も斬新な企みが試される荒野なのだ。何せ被写体内になみなみと湛えられている、“時間”が、ある種の衝撃吸収材となり、どこまで突っ込んだ実験をしようが、彼らはびくともしない。逆に老人たちの、“どこ吹く風”な一面を目にするたび、「恐れ入りました…」と平伏したくなる。腫れ物に触る扱いをしていては、かえって失礼だと気付かされてしまうのだ。『抱擁』の坂口香津美、『徘徊』の田中幸夫。おそらく2人の監督は、老人たちのポテンシャルの高さに瞠目しながら記録したのではないかと思われる。とにかくこの荒野が、我々の想像をはるかに超えていることだけは間違いない―。
田中幸夫監督作品『徘徊』は、タイトルとは無縁な素振りで、高層ビルが立ち並ぶ都会の景色からスタートする。やがてカメラは、とあるマンションのベランダを捉え、無造作にしつらえた空中庭園の瑞々しさを切り取り、開け放たれた窓から室内へ柔らかな風が吹き抜ける様子を丁寧に映し出す。何とも心地よい昼下がりの情景である…窓際にちょこんと座る白髪の老婆が口を開くまでは―。
大阪の北浜に住む酒井親子。母親のアサヨさん87歳は認知症で、娘の章子さんが自宅マンションでギャラリーを営みながら一緒に暮らし始めて6年になる。適度に力が抜け、適度に玄人好みなインテリアとこなれた娘の手料理が目を引く2人のマンション生活は、雑誌クロワッサン読者が喜びそうな趣味の良さだ。さすが、美術にかかわる仕事をされてきた人の審美眼は確かですね。バブル時代にいい意味での放蕩を経験し、それが今も血肉になっていると推察できる。ところがそこで飛び交う母娘の会話は、しっとり&優雅とは程遠く、見事なまでに噛み合わない。開始早々場内は笑い声に包まれるのだ。正直言って、ズルい構えである。つまり、強烈な関西弁の初期設定と、母娘のズレまくりの対話がエンエンと繰り広げられることで、酒井家の茶の間は舞台と化し、我々は映画内お笑い番組を眺めている気分になるわけだ。しかも認知症の母が突っ込みで、娘がボケ役に回り、プロのお笑い芸人がどうあがいても太刀打ちできない超過激でシュールな漫才コンビがスクリーンを占拠する。「ここは刑務所か?」と繰り返す母を、娘はビールと煙草を手にしながら、全部拾ってリアクション。オチを決めずにはいられない関西人の血が炸裂する瞬間を垣間見るだけでも、面白くないわけがない。さて、ここまでを寄席編とするなら、ここから先はショートコント編といった趣だ。タイトル通り、昼夜構わず徘徊する母と、それを見守る娘の脚本なきガチンコ勝負の幕が開く。娘は、ここではないどこかへ向かわずにいられない母の衝動を受け入れ、抑圧するのを止め、どこまでも寄り添い歩く。そこには、18歳で家を出て、ひとり自由を謳歌してきた55歳の彼女が、母に自由を与えることで自身はもう何年もある種の軟禁状態に置かれているという皮肉が窺い知れる。もちろんそれを全面的に重荷と捉える時期もあったらしい。章子さんは正直に打ち明ける。そしてその一方で、好きなことを思う存分してきた彼女だからこそ、今、母の意思を尊重できるポジションに立っていられるように映るのだ。認知の症状は刻々と変化するが、それでも彼女は母の中に確かに存在する人間性とそれを理解したいとまっすぐに願う気持ちを失っていない。いや、むしろ母という他者と対峙して、全面的に受け入れたところから、彼女の真の自由が始まったのではないか―そんな風にさえ思えるのだ。
当初、章子さんは自分で撮影するつもりでいたが、知り合いの田中監督が2人に興味を持ち、監督に名乗りを上げて、ひと夏の密着撮影に至ったらしい。これも大きな成功の要因だと思う。私は田中作品とは初めての遭遇となったが、この人はプロだなあと感じることが多々あった。何といっても、発症する方も、される方も、どちら側に立っても生きることの難儀さを深刻に受け止めざるを得ない重苦しいテーマである。だけど母娘ともに懸命に立ち向かっている…、ポテンシャルも高い…、この船は愉快である限り沈没しない…と、監督は確信しながら撮影していたのではないか。だから絶えず軽やか。風通しがいい。2人を取り囲む大都会の人間模様も清々しい風を送り込む。冒頭のシークエンスがそのまま映画の基調音となって、スクリーンいっぱいに響き渡る。そして何より田中監督のさりげないフェミニストぶりに感心させられた。監督の根底には2人に向けた賛辞が流れていて、最初から最後まで酒井親子をエレガントに見せることに徹していた。生々しい修羅場はあってもなるべく煙に巻き、章子さんの美意識や明朗さを十二分に尊重し、その背中を押している。作り手側のこうあって欲しいという願望も含め、あえてノンシャランに、劇映画を撮るような姿勢で制作しているようにさえ見えた。
アッコちゃんとママリンは、笑えてしかもカッコいい!…田中監督がここに着地させて正解である。
徘徊~ママリン87歳の夏
2015年/日本/カラー/77分
監督 撮影 編集 田中幸夫
助監督 北川のん
照明 竹森潤二
音効 吉田一郎
出演 酒井アサヨ
酒井章子