■恐怖分子

およそ20年振りの再見、そして制作されて30年あまり経たエドワード・ヤン監督作品『恐怖分子』((86)の登場だ。

 かつての私の備忘録にはこんなことが書かれている―感情のブレがこれ程ない作家も珍しい。自分のルーツにこだわり続けるホウ・シャオシェンと異なり、何度見直しても色褪せしない視座で世界を捉えている―と。ベタ褒め。でも正直に告白すれば、今回、予告篇をウットリ見惚れながらもストーリーの記憶がほとんどなく、若干焦った。恥ずかしながら幾つかのシーンを断片的に思い出すだけだった(汗)。そんなわけで、初めて挑むつもりで飛びついたら…予想以上に強い映画で驚愕!もしかしたら30年寝かせて正解だったかも。やっとこの映画とまともに対峙できるようになったようだ。そのくらいヤンが捉えていた現代性は、時代の一側面をなぞっただけの代物ではなかった。作品そのものが有機的で、今も息をし続けているように映ったのだ。

 なんだろう、この生々しい感触は―。
ドラマには3つのグループが登場する。カメラ小僧と読書好き女子の同棲中カップル。ヤバイことに首を突っ込みまくる不良少女とその仲間たち。出世に貪欲な病院勤務の男とスランプ女流作家の倦怠期夫婦。ここに夫の友人の刑事や妻の元カレも絡みあい、台北を舞台にけしてほどけることがない悪夢が描かれる。内輪揉めなのか、犯罪絵巻なのか、それとも誰かの頭の中の妄想か…。早朝の都会で起きたドンパチを合図に、それまで接点のまるでなかった人々の動線がイッキに表出し、もつれだすのである。複数の登場人物を個々の関係性を浮かびあがらせながら進行させ、やがて大きな世界観が立ち上るように練られた構成は、確かに色褪せしにくいものではあるが、うーん、それほど通りのいい類型でもなかった。監督は、超・俯瞰で映画を緻密に設計しながらも、手中から零れ落ちるものはわざとそのまま放り出し、知らんぷり。微妙に余白を残しているのだ。そこに、登場人物たちの肉体があてどなく漂い、余白を埋めているように見えた。映画の中心に座するような役柄も演技も見当たらないのだが、どいつもこいつも自分のことしか考えていない物体として漂い、その負のエネルギーの総量がやけに生々しい。しかもまさに現代(いま)だ!

 特にドキッとしたシーンが3つある。1つは、小説家の妻が、テーブルを挟んだ向かい側にいる夫に三下り半を突き付けるくだり。この映画で一番長いセリフが用意され、切々と内面を吐露する唯一のシーンでもある。カメラは含みを一切排除し、ひたすら真正面から妻の顔を捉え続け、スクリーンはしだいに熱を帯びてくるのだが、一方でこの必死の訴えは対面する夫へ向けられてはおらず、過去の自分と決別するための体内会話に映る。他者不在の熱演。我々はいたたまれなくなる。ただし均衡は保たれる…夫は自動的に耳を塞ぎ、何も聞いていないのだから―。2つめは、兵役前の重圧から逃避中のカメラ小僧が、恋愛を出汁(だし)に生の意味を探しあぐねながら、ついにやることがなくなって実家へ戻るシーンだ。プール付きの豪邸で優雅にひと泳ぎして、だだっ広いダイニングテーブルで独り麺を啜るお坊ちゃまくん。話し相手は使用人だけ。驚いたことにその空虚な背中からは、独居老人の昼下がりのけだるさが漂うではないか。お坊ちゃまくんは入隊前からすでに老人と化している。そして3つめ。とどめを刺すのは、妻に逃げられ、出世の夢も断たれた八方塞がりの男と、友人の刑事が酒を酌み交わすやりとり。なんと監督は「朋あり遠方より来る、また楽しからずや」の絵を借りて、恐怖のボルテージを最高値に上げてみせた。夢遊病者のような佇まいで現れ、嬉しそうに嘘を並べ立てる男と、なにも疑わず快く祝杯をあげる刑事の寛いだひとときに、戦慄を覚えずにはいられない。誰に向けられた笑顔なのか、何を見据えた嘘なのか不透明なまま、旧友を観客に見立てて繰り広げる虚ろな独り芝居の感染力は、演出の範疇を超え、やがてスクリーンの外にいる我々の足元へ忍び込むのだ。そして最後にたどり着くのが、コントロール不能となった男が静かにおっぱじめる “死の舞踏 ”。崩壊寸前の男の見る悪夢が、もはや誰の悪夢か特定できぬ輪郭線のない地獄絵になり、登場人物全員の脳内へ感染して行くではないか―。ここに至り、『恐怖分子』という奇妙なタイトルの全貌が解き明かされるのである。

不意打ちのアクションを流麗に繋ぎ、予測不可能な日常を現実以上の弾力を湛えて描いたエドワード・ヤン。いや、彼の作品は、現実の日常以上に我々の生に痕跡を残すと断言しても過言ではない。絶えず人物と等価にモノ・音・空間が放つ情報を拾い上げ、それを映像に編み入れて進行させるため、ヤンの映画内時間の根は深く、強い。未来まで軽々と射程圏内に置ける表現になっているのはそれ故だ。しかも知性は上手に刈り込まれ、我々を置いてきぼりにすることなく、時折り笑いすらも送り届けてくれる…。そう、抜け殻になった大勢の人々をスクリーンで目撃しながら尚、我々は娯楽映画の高揚感に包まれ、エンドロールを眺めることになるのだ。

『恐怖分子』はこの先も呼吸し続ける。我々より長く生き延びる有機体映画である。

恐怖分子
1986年/台湾/カラー/109分
監督    エドワード・ヤン
脚本    エドワード・ヤン シャオ・イエ
撮影    チャン・ツアン
製作    リン・ドンフェイ
キャスト  リー・リーチュン
      コラ・ミャオ
      チン・シーチエ

■フォックスキャッチャー

不気味な映画である。背中に粘着性の強い物質がべっとり貼りついて、どうにもはがれないような薄気味の悪さが、ダラダラとしつこく続く。でもこの感触は嫌いじゃない。むしろ癖になるから困ったものだ(笑)。やはり劇場の暗闇は、いかがわしいものを浮かび上がらせ、この時とばかりに堪能させるための装置なのだと改めて認識した。そして映画では、善の単調さより、悪の面妖さを味わう方が断然愉快であることも― 。

“なぜ大財閥の御曹司は、オリンピックの金メダリストを殺したのか―”これは、1996年に実際に起きたレスリング五輪選手射殺事件を基にした映画『フォックスキャッチャー』のキャッチコピーだ。ただし、全米を震撼させた衝撃事件の全貌が今明かされるのか!などと色めき立つのは早合点。スキャンダル狙いの観客にとっては、詐欺紛いの一文である。何せここでは原因究明に時間を割かない。主要登場人物3人の背景も詳しく言及しない。映画の進行をそのまま事件に至るまでのプロセス(特に人間模様)と重ね、観客の目でしかと目撃させる映画なのだ。つまり“なぜ”の答えは目撃者個々の想像力次第。前号で紹介したワイズマン作品と同様の仕立てである。

開始早々観客は、スクリーンを覆い尽くす淀んだ空気に身震いするだろう。この極めて陰鬱な気配の主、マーク・シュルツは、ロス五輪で兄弟揃って金メダルに輝いたヒーローのはずだが、華やかさも朗らかさもない。そのうえ貧しい。およそアスリートとは思えぬ食事と生活環境は、どう解釈したらいいのか一瞬ひるむほどだが、競技への集中力だけは独りギンギンに張りつめていて、ライオンさえ素手で射止めかねないほどの闘争心を放っている。察するにマークは、根暗なレスリングおたく。偉業をなしても世間に注目されないのは、彼の視界に世間が映らないからではないか。唯一の社会接点は親代わりでもある兄のデイヴで、こちらは才能の高さはもちろん、気さくで面倒見が良く、誰からも慕われる人気者。つまり、極端に対照的な性格で絆の強い兄弟がドラマの要になるらしく、否が応でも悲劇の予感は高まる― 。

ある日この兄弟に、大富豪デュポン財団の御曹司ジョン・デュポンから破格の誘いが舞い込む。はい、想定外の口説きこそ、観客を最もとろけさす映画のマジックである。ファーストクラスのチケット、広大な屋敷への招待、高額の報酬提示、才能への賞賛と期待、そして何よりどデカイ未来図を提示して赤い絨毯へ導く「あしながおじさん」の登場に、観客はマークに成り代わって思わずウットリ。札束による価値提示と自尊心の高揚の、両方に酔いしれるというわけだ。社会に適応しにくいキャラだけど、研鑽を重ね一芸に秀でればいつかは報われる…よかったね、マーク!と勝手に拍手。映画ならではのトンデモ話は、派手に打ち上げてもらってこそナンボのものだ。ところが、兄のデイヴが迷うことなくアッサリ辞退するから面倒なことに―。レスリングも家族との暮らしも今の環境で十分幸せだからオマエ独りで行けよ… 悪気なく、こうかわされてしまうと弟はキツイ(観客は退屈)。意気込んでいた己の足元が、逆にブレ始めるから皮肉だ。こうして、金で動かない兄の存在によって、弟は金で買われた立場を意識せざるを得なくなり、兄の庇護を離れ、エリート・サラリーマン・レスリング選手の道を邁進するようになる。さて、ここからが画期的に面白い。ジョン・デュポンが、スポーツ振興をイメージ戦略に使う真っ当な企業スポンサーではないからだ。この「あしながおじさん」は金持ち過ぎた。もはや金で手に入れられないものは何もない男ゆえ、世界から称賛される人物になりたい!→オリンピックの舞台で世界を征服するチームの指導者になりたい!が目標設定。いわゆる名誉欲というやつだが、潤沢な資本を持っているがために妄想に歯止めがかからず、常軌を逸した執着をお披露目し、かなり笑える。「フォックスキャッチャー」と名付けたチームを設立し、最高の訓練環境を整え、そこに名ばかりのコーチとして君臨するのだが、実は笑ってばかりもいられない。妄想の根底にあるのが、高圧的な母を見返すための必死のチャイルド・プレイだからだ。むしろ母子の確執や家系の重圧を孤独に背負う男の裸の王様パフォーマンスに、深い憐れみを抱いてしまうのは私だけだはないだろう。ジョンに扮するスティーヴ・カレルの突き上げた顎のラインと虚ろな瞳が、掘れども掘れどもたどり着けない特権階級の底なしの虚無感を具現化し、とんでもないものを見てしまった感さえある。狂人と一言で片付けるのはちょっと惜しいような…。そして世間と馴染めないマークがジョンに急速に傾倒して行ったのも、夢や金を優先した結果というより、同類相憐れむという感情が無意識に働いたせいとも受け取れる。「一緒に偉大なことを成し遂げよう!」と一致団結するこの凸凹コンビは、承認欲求に憑りつかれた宙ぶらりんな十代の少年みたいだ。子供並の情緒年齢に留まっている者同士、ある意味、奇跡に近いめぐり合
わせにも見える。ポジに転べば『最強のふたり』のように格差を超えた甘い友情ドラマになる可能性もあったはずだが、結末は悲惨。歯止めの利かなくなったジョンの狂気が、兄デイヴへ向けて炸裂する― 。

大富豪の御曹司が転落に至る道筋には、「ざまあみろ!」と一言で片づけられない後味の悪さがあった。常に愛され、祝福される人生を真っ直ぐ歩んできたデイヴの存在は、周囲から孤立して無感情に生きてきたジョンの何かを刺激してしまったのかもしれない。マークも含めた三つ巴の破滅劇は、人生の輝度の差が激しくて、終わってみたら悪の面妖さより、遠吠えを聞かせる相手さえいない者たちの悲哀に気を取られてしまった。それにしても、祖国アメリカが切望するヒーロー像に盲目過ぎる者たちが陥る自滅のドラマは、今後も際限なく繰り返されるような気がしてならない。アメリカが「強者神話」の幕を降ろす日は、果たして来るのだろうか― 。

フォックスキャッチャー
2014年/アメリカ/カラー/135分
監督ベネット・ミラー
脚本E・マックス・フライ
撮影グリーグ・フレイザー
美術監督ジェス・ゴンコール
キャストスティーヴ・カレル
チャニング・テイタム
マーク・ラファロ

■ナショナル・ギャラリー

何かと手強いドキュメンタリー作家フレデリック・ワイズマンが、今回作品に選んだ舞台は、ロンドンの中心部にあるナショナル・ギャラリー。1824年に開設された英国初の国立美術館である。私にとっては、訪問経験も予備知識もない公共施設の探訪記。美術には関心が強い方だから、尚のことありがたい企画でもある。

 ワイズマン作品はいつもさり気なくはじまり、しかもエレガントな印象を残す。観客は一呼吸する間もなく、舞台の中央に独り立たされるのだが、そうした意識すら働かない。気負わなくていい代わりに、馴れ馴れしい身振りも見せないので、ここで何時間過ごそうとも“気づき”は自分次第。独断と偏見で観察させていただくまたとない機会が、冒頭から待ち受けるのだ。さて、本作のオープニングは、宵闇迫る美術館の外観、噴水、ライオン像のショットである。ロンドンの観光スポット・トラファルガー広場から見たハレの構えを、チラっとお披露目する。なるほど、戦いの勝利を記念する場所にあるようだ。そして次に所蔵絵画へ。ところが美術史の流れはかなり足早で、主役のはずの絵画の紹介はアッという間に進み、おもむろに館内の清掃シーンへつないでみせる。磨かれた床に映った名画の影と、観客が残した靴跡が重なり合い、美術館の日常性がスッと立ち上る仕立てだ。はい、ハレとケの混じり合いですね。これからの3時間、退屈する暇のないことは明らかである。
 
 ナレーションもテキストも音楽も用いないワイズマンの作風は、近年優れたドキュメンタリー映画とされる型の先駆けであり、すでに広く定着された趣がある。先にも記した通り、「ここで何時間過ごそうとも“気づき”は自分次第」。そもそも美術品を鑑賞して想像を膨らますだけでもかなりの集中力を要す作業だから、美術館に行って施設そのものの日常へ目を向けることなどまずないだろう。故に、脚色ゼロの複数の視点をヒントにしてこの施設の営みの輪郭が掴めたら、翻って美術品に対峙する際の得難い補助線になりうるかもしれない…。とまあ、教養増幅材料として見るだけでも楽しいわけだ。個性的な学芸員、ユニークなワークショップ、空中戦が繰り広げられる運営会議、高度な技術を身に着けた専門家たちの矜持など、裏方の日頃の労働姿勢を窺い知ると、俄然ハコの信頼&親密度は増す。そのうえ映画は、名画を前にしたときの鑑賞者たちの横顔を頻繁に差し挟み、ハコの日常から見たら観客もこの場所を織りなす一要素と捉えて指し示す。つまり、この場所にはとてつもない崇高な何かが存在し、人々はそれにあやかりたかったり、それを守り抜かねばならないという使命感に燃えたりするようだ。全員で「美」の下に集結している情景とでも言ったらいいのか…。ということで、人々をこれほどまでに惹き付けてやまない美術館の魅力の源泉は一体何なのかを、考えあぐねながら3時間を過ごしていた。

 偶然だが、美術史の舞台裏を描いた傑作―『印象派はこうして世界を征服した』((フィリップ・フック著 白水社)を読んでいたときに、本作を目にした。印象派絵画が、世界の富裕層に絶対的な価値基準となるまでを競売人の視点でスリリングに明かし、極めて興味深い一冊なのだが、本の中で英国は分が悪い。19世紀の絵画の世界において、印象主義はアカデミーに対抗する最も重要な抵抗運動だったが、英国は新しいものの見方をなかなか受容できず、相当イケテなかったようだ。ナショナル・ギャラリー理事会は1905年にドガの作品の寄贈を拒絶さえしたとか((爆)。コレクターのコレクションで始まった開かれた美術館との触れ込みだが、どうやら保守的で了見の狭いエピソードに事欠かない側面もあるらしい。でもまあ、考えようによってはそれも一つの“差別化”になり得る。公共施設ならではの様々な課題と摺合せながら、「美」という定義しづらい価値を射抜くのには、ある種の頑なさも必要なのだろう。時を経て変わらずに残り続ける部分と、しなやかに変わり移る部分の両方が浮び上がるとき、この施設の健全状態に触れられた気がする。

 個人的には、美術品を前にしたときの人々のリアクションを見るのが楽しかった。観客も裏方も、「美」に照らされるとこんなにも豊かな反応を見せるのね…。脳内で個々にどんな判断をしているかは不明だが、対象から確実に何かを受け取り、その情報量の多さは自分が日常的に使っている物差しでは対応できなくて、自動的に目盛を増やしているかのごとくだ。そして目盛が増えると、自分を取り囲む世界の解像度も上がる…。そう、美術館は化学反応を起こす理系の場なのかもしれない。そういえば、映画では化学反応によって体内会話が増幅し、演劇めいた空間が目の前に広がって見えるシーンも登場する。学芸員たちのレクチャータイムである。熱い思いを気持ち良さそうに放出する彼らは、絵画の補足役から独り歩きし、ほとんどパフォーマンスの領域に突入していた。ガマの油売りの口上みたいと言ったら叱られるか((笑)。ワニスの扱いに熱弁をふるう修復師・ラリーもかなりの芸人だったしな…。
「美」を前にすると人はタガを外す。これ以上の悦楽はないようだ。

ナショナル・ギャラリー 
~英国の至宝~

2014年/米・仏/カラー/181分
監督・編集・録音  フレデリック・ワイズマン
撮影          ジョン・デイヴィー
キャスト  ナショナル・ギャラリーのスタッフ他