■『その手に触れるまで』

2019年カンヌ国際映画祭で監督賞を受賞した、ダルデンヌ兄弟の新作『その手に触れるまで』(’19)。主役となる13歳のメガネ少年アメッドは、いつも独りで急いでいる—-。

兄からの連絡を待つとき、アメッドは走って階段を駆け上がり、駆け降りる…息せき切ってだ。さらには、担任のイネス先生の制止も振り切り、放課後クラス(学童みたいなものか?)を勝手に切り上げて飛び出す… バタバタと慌ただしく—-。まるで銀行強盗でもしてきたかのように、兄が乗る車に滑り込むや否や、今度は寸暇を惜しんでコーランの暗記に必死。只事じゃない急ぎっぷりと緊張感、一体何がはじまるのか—-。

兄弟が向かった先は、街中のゲーセンでも、若者たちの溜まり場でもなく、自分たちが暮らす地区にあるイスラム教の礼拝所。へっ?因数分解から解放されて今からお遊びタイムじゃないの?むしろ厳粛なお祈りタイム?しかもアメッドは、さっきまでの荒っぽい態度とは打って変わり、丁寧に身を清め、イマーム(導師)の教えに絶対服従の姿勢ではないか。なんとまあ、驚くべき手のひら返し!

ベルギーの、北アフリカ系移民家庭に生まれ育ったアメッドは、近頃様子がおかしい。礼拝に熱中し過ぎで、見かねた母から「導師に洗脳されている!」と叱責される一幕も。兄と姉も手を焼いているが、アメッドはひとり徹底抗戦。反抗期と簡単に片付けられないほど頑なで、不穏な空気をまき散らしている。

とはいえ、もともとは年齢よりも幼く見えるアメッド。撫で肩で、背中からお尻のラインが丸みを帯び、絶えずうつむきがちで表情が読み取れない姿は、引っ込み思案のボーイッシュな女の子に映ったりする。処女性さえ漂って見えたのはわたしだけか?—-

だから余計、恩師のイネス先生をはじめ、母や姉らの女性性に対して激しく線引きをする様子が、教義以前になんとも不似合いで、ツイ動揺してしまうのだ。このおぼこいポッチャリ少年の、どこにそんな排他的な側面があるのかと—-。

葬式仏教しか馴染みのないわたしには、宗教心自体が縁遠いものだが、この家族にとっても、この地域の住人にとってもイスラムの教えが日常に根差しているのは想像に難くない。イネス先生が住人たちを集会に呼び寄せ、歌でアラビア語の学習を提案する場面では、活発な意見交換もあり、なんだか我々より開かれた環境では?と感じるほどだ。

そんな中、イネス先生を背教者と決めつける導師は、兄弟を焚きつけ、集会で横やりを入れるミッションを与える。ところが、サッカーの試合が気になる兄と、導師のメッセージを絶対化している弟とでは、明らかに温度が違って興味深い。さらには、アメッドを真ん中にして、2人の師が対決する構図となり、学ぶとは何か、師とは何か、主体性とは何かといった、教育に対する考えを、今一度整理したくなるような投げ掛けも浮かび上がる。

そして、ここからアメッドの狂信的な側面がイッキに表面化して行く。『タクシー・ドライバー』(’76)のトラヴィス並みに虎視眈々と自己改造に励み、我らが敵と教え込まれたイネス先生を抹殺しようと、またもやひとり階段をのぼる…今度は足を忍ばせてだ。えっウソでしょ?ホンキで恩師を排除するつもり?と、ちょっと呆気にとられるくらいの大胆な行動にツイあたふたしてしまう—-。

しかし、ここで注目してほしいのは、ナイフを握りしめて襲撃し、結局失敗に終って立ち去るときのアメッドの非力な身体だ。脳ミソ内で作られた過激な排外主義と、彼の丸みを帯びた身体の反応には大きな乖離がある。誤解を恐れずに言えば、アメッドは他者を殺めようとするような肉体に至っていない…。今ならまだ世界の声が届くかもしれない…。少年の弱い肉体に、逆に希望が持てたのだ。

アメッドは自主し、少年院に収監。そこは、管理一辺倒の施設ではなく、自己形成を目的とした更生プログラムが用意されていて、強張った考えを時間をかけて解きほぐそうとの体制が整っている。新たな師たちとの出会い、そして新たな環境に新たな生活を介して、果たしてアメッドはどう変化して行くのか—-。

映画は、母との面会と抱擁に始まり、動物飼育に農場実習、はたまた心理士の伴走や、初恋の兆し(!)さえも用意する。所詮13歳、いかに難攻不落のアメッド城だろうと、世俗の愉しみにホホを緩めるのも時間の問題だろうなどと、高を括るわけだが—-。はい、何せ相手はダルデンヌ兄弟ですからね(汗)。我々が抱く「願わくはこうなって欲しい…」絵で終わるはずはない。

アメッドは一見、我々と同じタイムラインに居合わせる振る舞いをするが、彼の精神はむしろ世界の声から急いで離れようと進んで行く。ここにいては汚れると—-。テロに命を捧げた従妹、逮捕された導師…我が英雄たちを拠りどころとした聖域にしがみつきたい思いは固く、純粋であるがゆえに、一貫性を求めずにはいられないのだ。

アメッドは、ダルデンヌ作品の中で、最も共感できない主人公だと言われている。じぶんの正義を貫くためには、他者を排除することも厭わない執拗さに、観客はほとほとお手上げになるのだろう。わからないでもない。ただ、ラストの長廻しのシークエンスに、わたしはやっぱり震えた—-。

あの弱っちかったアメッドの肉体は、心身ともに誰も止めることができない怪物になり果て、すべてを振り切って我が正義の証明へ突進する。もちろんそれは地獄の扉が開く予兆だ。でも映画は賭けに出る。上映終了間際ギリギリまでアメッドの一貫性だけをつぶさに狙い続け、なんの補助線も与えない。そして、なだれ込んだ最後の最後に暴走の梯子を一瞬にして外し、アメッドを丸ごと宙に放って見せたのだ—-。

『蜘蛛の糸』のカンダタは、血の池地獄へ真っ逆さまに転落したが、アメッドは放課後クラスの中庭に落下。身動きできず、泣きながら思わず「ママ…」とつぶやく…そう、今度は『杜子春』にもなる!

うつむき続けた少年が図らずも仰向けに倒れ、陽の光を浴びたとき、彼の何かが変わった。だから自ら手を伸ばし、世界へ助けを求める…他者を傷つけるはずだった凶器を打ち鳴らし、ゆるして!と—-。

アメッドは立ち戻る場所を思い出した… もう独りで急ぐ必要はない。『その手に触れるまで』は稀に見るアクション映画。劇場で体感することを強くお勧めしたい。

その手に触れるまで』

2019年/84分/ベルギー・フランス

監督・脚本 ジャン=ピエール・ダルデンヌ  リュック・ダルデンヌ

撮影       ブノワ・デルボー

編集       マリー=エレーヌ・ドゾ

出演       イディル・ベン・アディ ミリエム・アケディウ

■『つつんで、ひらいて』

やるなあ、広瀬奈々子。初めてのドキュメンタリー作品の被写体に、超手強そうなお相手を選ぶなんて!まだお若いのに大したもんだ。

広瀬監督が3年に渡り密着したのは、1943年生まれの装幀家・菊地信義。わたしも、お名前だけはウッスラ知ってはいたものの、本を買うときに、装幀家を意識したことなどありませんからね(汗)。逆に本作を見て初めて、我が本棚にも少なからず菊地氏の手掛けた本が並んでいることを知ったという体たらくです(…遅まきながら気づかせてもらえてよかった)。

本作『つつんで、ひらいて』では、そんな“縁はあっても認識の乏しかった”菊地氏の動く姿が、冒頭からいきなりつぶさに捉えられ、妙に興奮した。憧れや妄想がない分(!)、かえって「えっ、こんなに至近距離で、鶴の機織り場面をのぞいてイイの?…」と、ちょっとした後ろめたさも感じつつ前のめったのだ。

というのも、銀座にある菊地氏の事務所は、トップランナーのイメージとは裏腹なこじんまりした静かな空間で、ご自宅の茶室にでもおじゃましている感があったから—-。よく知らない年長者に前振りもなく急接近、だから余計にドキドキ。

そのうえ、いかにも使い勝手が良さそうなコックピット的作業机のすぐ横には、さりげない風情の坪庭がのぞいたりして…どんだけ趣味がイイねん!ですからね(笑)。菊地ワールドには野暮なものが一切見当たらない。菊地氏=手強そう&面白そうスイッチは、瞬く間にONになった。

そして、高い山に挑む広瀬監督の姿勢がこれまた上等なのだ。知性と度胸の両方が備わっている。カメラに四六時中つきまとわれるのを嫌う菊地氏が、舌打ちしながら「いやだねぇ…」とイラつくシーンを、あえて開始早々お披露目したりなんかして、なかなかツワモノですわ。

監督は、おっそろしく審美眼の肥えた被写体からこぼれ落ちる自意識を見逃さず、丁寧に織り上げる。尊敬するお相手とはいえ、じぶんの作品にするための批評性はけして手放したくないとの覚悟が、何ともあっぱれではないか!

さて長期密着記録は、7つの章に分けられ、本に見立てた構成になっている。これが、シンプルなアイデアながらも楽しさ倍増♪章立てにしたことで間口が広がり、日頃お目にかかることのない本作りに携わる現場を、砂被り席から見られて大満足だ(製本工程の映像が艶めかしくて、思わず工場萌え!)。何より、生業側のアクションを通じ、消えゆく運命にある紙の本のことを、今一度考えるきっかけになり、有難かった。

そんな風に周辺事情も充実させつつ、もちろん映画の本丸は菊地氏である。例えばメインとなる制作シーン。なんとなくアナログな作業をしているタイプかな?…と、想像はしていたが、シャレじゃなく本当に“鶴の機織り”だったとは!たまげましたね。

そもそも机の上に並ぶのは、PCではなく、はさみ、のり、カッター、定規などごくフツーの文房具。誰にも馴染みのある道具を使い、アイデア出しの段階からデザインを確定させるまで、そのすべてを自身ひとりの手作業だけで処理して行く…サクサクと手際よく滑らかに!菊池氏の手や目のちょっとした動きから、思考がどう展開するのかも窺い知れて、実にスリリングだった。

とはいえ、印刷業界がDTP化されて久しいわけで、入稿用データ作成のタイミングには、菊地イズムを熟知しているベテランの技術アシスタントさんが隣室から登場。そこからお2人で、並んでPCに向かうのではなく(!)、壁越しでミリ単位の修正を始めるのだが、息のあったやりとりに昔懐かしい銭湯での記憶が蘇ってしまったのはわたしだけ?男湯と女湯の壁を挟み、「もうすぐ出るよ」と声を掛け合う昭和の風景が連想されて…(笑)。お2人の信頼関係は、そのくらい強固なものに見えた。

他にも、印刷・出版関係の方々をはじめ、作家の古井由吉氏や、行きつけの喫茶店、庭に遊びに来る猫までも、菊地氏とつながりのあるものすべてに、長く深い交流の痕跡が感じられる。それも、東京生まれの美意識なのか、べたつかず、さらりと縁を結んでいる風情だったな…。なるほど、彼のたったふたつの手は、こうしてずーっとずーっと緊張と愛着の時間を行き来しながら本の身体を拵え、それが巡り巡ってわたしの本棚にもつながっているってことか—-。

唯一関係性の毛色が異なって見えたのが、かつてのお弟子さんで、いまは独り立ちして活躍されている水戸部功氏のインタビューシーンだ。映画の中で、何かと師と対照的に映るよう配置されるが、一方で師との間に横たわるもどかしく複雑な感情を、よくもこれだけ客観的に述べられるなあと感心してしまいましたよ。

反発するでも皮肉るでもなく、素直に「全部やられてる」と認識しながら、本の未来をどう担うかの岐路に立つ若手代表の声…。ここには、同じように映画界の先人たちを意識しているであろう広瀬監督自身の内なる声も重なって見えたなあ。好きなら溺愛すればいいし、イヤなら無視すればいいのに、どちらにも振り切れないのがツライところなのか…。若者たちは繊細だねぇ。

ぶっちゃけ菊地氏は、全方位にスゴすぎて、いささかめんどくさいおっさんにも映る。装幀哲学を語る言葉にスキはないわ、骨董市めぐりに、蕎麦屋に、蓄音機に、鎌倉在住…と、趣味方面でも筋が通った“美の壺”おやじだし、今までに「手」がけた装幀が1万5000冊以上って…もぉー、気絶しそうだ(汗)。

映画の中では仕事の「質」を間近に堪能させてもらったが、実際は世に送り出した膨大な仕事の「量」こそが、菊地氏の唯一無二の存在感に直結している気がしてならない。どんな球も拾いまくり、長年世の中に請われ続けてきて今に至る何よりの証だからね。 “受注仕事における創造性”—-ジャンルは異なるが、作曲家・筒美京平と近しいスタンスも感じたわ。

そんな御大は、映画の後半で「やればやるほど自分が空っぽになってゆく」「装幀家としての達成感がない」などとキャリアと裏腹な発言を漏らしたり、はたまたアイデアが浮かび「夜中の大発見!」と無邪気な笑顔を覗かせたり、重鎮に収まり切らない横顔も披露する。オレサマで突き抜けている人こそ、じぶんに固執せず、じぶんから最も自由でいたい人なんだろうな。じぶんをつつみ…じぶんをひらき…絶えず独りリニュアル。

それが映像で記録されて、ホントよかった。広瀬監督の粘り腰によって、ある種の絶景を見た気がする—-。

2019年/94分/日本

『つつんで、ひらいて』

監督・撮影・編集 広瀬奈々子

プロデューサー  北原栄治

出演          菊地信義 水戸部功 古井由吉

■『タレンタイム〜優しい歌』

へっ?いったい何ごと?聞いてないし…(汗)。チラシには「8年の時を経て“伝説の映画”がついに待望の劇場公開」とある。そう言われても、逆に引いてしまうが…(汗)。ただし、いかに宣材に無関心なあたしでも、予告を見れば自ずとカンは働く。取り急ぎ、こちらの動画をチェックしてみて。

結論から言うと、『タレンタイム~優しい歌』の予告は、早々に公開日を心待ちにさせる2分間である。データベースの乏しい人でも、「なんだかイイかんじ…これ見たい!」と、思わずホホを緩ませる道案内になっているのではないか。ついぞ触れたことのないマレーシアの映画だが、なるほどここには「伝説」と呼ばれるに値するテイストが網羅されている。ちなみに辞書によれば、「伝説」=ある時、特定の場所において起きたと信じられ語り伝えられてきた話―とある。

話は前後するが、本作は完成後8年間、観客の口コミを支えに日本各地でささやかに自主上映され続け、今回初めて劇場公開が実現した息の長い映画だという。つまり、映画そのものが描いているのも「伝説」なら、作家の手を離れた映画が、観客に息をつながれて「伝説」と化してもいるらしい。未だDVDになっていないことも、前のめりに拍車をかける大きな要因だろう。

驚くのはまだ早い!監督のヤスミン・アフマドは、本作完成後に51歳の若さで急逝。全編にわたり、生と死が非常に接近した形で描き進められたこの1本が遺作となるとは…。すべてがあまりに劇的すぎて茫然としてしまうが、『タレンタイム~優しい歌』は、この先も何度となく人々の口の端に上る傑作である。天界に召された彼女は、作品と共に永遠に語り継がれる―。

本音を言えば、「伝説」とは予備知識なく、バッタリ出くわしていただきたいので、いつものようにエンジン全開で映画評にまとめるのは、いささかためらわれるのだが―。そもそもあたし自身、マレーシアのことは、何一つ知らなかった(汗)。地図上で指し示すことさえできなかったし、宗教や言語の異なる人々が共生する他民族国家だという事実も、映画を見て初めて知った。何かにつけて、日本人には想像しにくい背景じゃないか―。

ところがヤスミンの映画には、あたしみたいなボンクラを最短最速で射止める決定打が随所に用意されている。その一つが「音楽」である。

ドラマは、学内の音楽コンクール“タレンタイム”に挑戦する高校生たちを描いた群像劇。当然ながら音楽は肝になるが、競技シーン以外でも音楽を活かした演出がことごとく素晴らしい。多様な楽曲のきらめきが、ときに雄弁に、ときに思慮深く我々の胸を打ち、見知らぬ国との距離をイッキに縮めてくれるのだ。選曲はもちろん、登場人物のキャラの違いを、扱う楽器で色分けしてみせるのも、わかりやすく楽しい試み♪

ここで競技に絡む高校生諸君を紹介すると…。しっとりとピアノの弾き語りで魅了するのが、リベラル&リッチなおウチ育ちのムルー嬢。ギター片手に陽気にオリジナル曲を歌う転校生のハフィズ君は、母親が末期の脳腫瘍で入院中。そんな転校生を何かにつけて敵視するのが中国系のカーホウ君で、見事な二胡の腕前をお披露目。ここに、ムルー嬢の送迎役に抜擢されたインド系のハンサムBOYマヘシュ君が加わり、キーマンの多さにたじろぐほどだ(汗)。

いや、まだまだ序の口。たじろいでいる場合じゃない。4人の他に、彼らの家族や親族や友人たちが出張るわ、キャラの濃い先生たちも黙っていないわ、さらにはメイドに天使に亡霊(!)までもガッツリ組み込まれた、多民族かつ大所帯のドラマなのである。

そのうえ誰一人欠かすことができない役どころを配されていて、登場人物全員が主役となって奏でるオーケストラ仕立て。「音楽」を網の目に張り巡らし、多様な人々がゆるやかにつながることで映画内相関図は豊かさを増し、やがてマレーシアという一国の枠を超え、目の前にすーっと「世界」が出現する! そう『タレンタイム』は、「音楽」を共通言語に「世界」が立ち上り、我々に「希望」の在りかを授ける映画なのだ。

例えば、耳の聞こえないマヘシュ君とムルー嬢の背中越しの初恋がある。残された時間を精一杯慈しみあうハフィズ親子の情愛があり、同僚を慕う片思い先生の一途さもある…。甘い触れ合い、清らかな願い、苦く切ない別れ…など、映画は人と人が織りなす様々な情景を捉え、ときに憎々しい感情にさえも「希望」を見い出し、ユーモアを交えながら切り捨てることなく、もてなして描く。とてつもない包容力で。

また「希望」は、各人の胸の内を伝える「告白」のアクションと、常に抱き合わせて紡がれるので、画面の強度は増し、我々と映画の親密度はより高まるというわけだ。だが、実際の社会はそうじゃない。そうじゃない状況を見据えているから、この太っ腹が胸を打つ!

ヤスミンは、人と人との距離が近づくほどに、民族、宗教、言語、文化のすれ違いをあえて露呈させ、むしろ世界のままならなさを容赦なく浮かび上がらせるが、黙って立ち去りはしない。まず他者との間に風を通す。そして困難さを引き受けたうえでなお、人が皆、こうありたいと願ってやまない理想の世界図を描き切る。“愛は月より古く”、相互理解はけして見果てぬ夢ではないと…。うーん、思わず武者震い。

映画は、念じていれば必ず見られるチャンスがやって来る娯楽。ヤスミンの作品はいずれDVDになるだろうし、回顧展も開催されるだろう。だから極力具体的なストーリーに触れないようにしてきたが、最後に1つだけシビレまくったエピソードを紹介すると―。

死期が迫るハフィズくんの母の枕元を訪れては、話し相手になる車椅子の男がいる。ずいぶん打ち解けあっているが、明らかに実在の人間ではない気配。亡霊?守護神?それとも死神?…やがて迎える最期の瞬間。男が、赤く光る木苺の束を口元にそっと差し出すと、母は静かにその実を受け入れ、天に召される―。

ヤスミンの映画では、生者間の隔たりだけじゃなく、生者と死者の隔たりもまた溶け出して消えて行く…。未だかつて見たことがないほど慎ましく美しい最期の晩餐。まるで神話のような一節を、サラっと簡素に綴るがゆえに忘れ難い。この世のすべての優しさを引き出すヤスミンのマジック…思い返しては今も背筋がゾクゾクする―。

『タレンタイム ~優しい歌』
2009年/115分/マレーシア
監督・脚本 ヤスミン・アフマド
撮影 キャン・ロウ
音楽 ピート・テオ
出演 パメラ・チョン マヘシュ・ジュガル・キショール

■『エセルとアーネスト ~ふたりの物語』

『ドッグマン』『ジョーカー』そして『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』…と、ここのところ、あたし好みの狂気をはらんだ映画に立て続けに出くわして、至極ご満悦。どの作品も、内なる境界線を踏み越えてしまった主人公が、危うい領域へ転がり落ちる瞬間を捉えていて、とてもスリリングだった。予想を超える見事なタガの外れっぷりに、思わずホレボレ(笑)。ユルく凡庸な毎日を生きてる人間側からすると、ちゃぶ台返しのアクションすべてに快哉を叫ぶってわけだ。

―が、今回取り上げるのは、これとはまったく真逆な一本。英国の絵本作家、レイモンド・ブリッグズが、今は亡き両親の想い出を綴った『エセルとアーネスト~ふたりの物語』(’16)である。

恥ずかしながら、この著名な作家に関する予備知識はゼロ。作品も読んでいない。そのうえ原作のアニメ化だという…(汗)。チラシを見れば、写実的な画風や真面目な人物タッチ、「ささやかな幸せを大切に生きたふたりの日々に温かな涙があふれる―」との惹句も照れくさくて、むしろ腰が引けるばかりだった。…が、なぜか劇場へ出掛けた(汗)。そして悪態ついてるヒマがないほど面白く見てしまったのだ!

映画は、原作者レイモンドが慣れた手つきでミルクティーを入れる、なんと“実写”シーンで幕を開ける。自宅と思わしき台所や仕事部屋を背景に、ご本人が本編の前フリをする仕立てだ。特に、ゆっくりハニかみながら両親の想い出を紐解く老画家の語り口は、レイモンドを知らない&ファミリーヒストリー好きなあたしに願ってもない導入となり、苦手意識は早々に吹き飛んだ―。
さてアニメ本編は、1928年のロンドンを舞台に、若かりし頃のレイモンドのご両親の馴れ初めから始まる。陽気な牛乳配達員のアーネストが、5歳年上のメイドのエセルと偶然目が合い、手を振りあって、デートに誘ったと思ったら、あれよあれよという間にご結婚!

古今東西の映画を愛好してきたあたしでも、ここまで高速ゴールイン・ドラマは記憶にないかも…マジで(汗)。しかも、ほころびを想像する気も失せるような、安心、安全、誠実、純粋なほのぼのカップルの誕生に、「おい、おい、開始早々ハッピーエンドか~!」と、意表を突かれて苦笑い。まるで、半年分の朝の連ドラを5分で早送りしたみたいなノリではないか(笑)。

そして、若い夫婦が新居の購入にチャレンジするくだりも見物。ここでは一転、人生すごろくのスピードはスローダウン。学のない牛乳配達員が、労働者としての誇りを胸に夢のマイホームを手に入れ、夫婦で知恵と力を合わせ、丁寧に暮らして行く様子を事細かにお披露目する。

25年のローンを組み、入り口には鉄の門。小さいながらも庭があり、トイレは水洗、お風呂だって付いている…。エセルが思わず涙ぐむほど、それは当時の憧れの文化的生活だったのだろう。さらに言えば、少し背伸びしての人生設計が、立ち上げたばかりの若い共同体の絆をより強固にしていて、90年前の英国庶民の“暮らしの社会史”として眺めても、興味深いスケッチになっていた。

1934年。ふたりに待望の子どもが授かる。雪の日の朝、難産を乗り切ってレイモンド誕生。そして同じ頃、世界はキナ臭い匂いに包まれるようになる。新しい歓びと、忍び寄る戦争の影を、映画は相互に組み入れながら、再び流麗に飛ばす。

「外」にどんなに荒波が立とうが、「内」は絶えず穏やかで、生活者目線を崩さないブリッグス家のエピソードの数々…。ささやかな日常の一コマが、緩急使い分けた編集のリズムによって、イチイチ粋な小話に豹変するのには驚いた。もちろん、夫婦の素顔には夫々の個性がくっきりと浮かび上がり、日本人のフツーとは異なる側面も伺われる。ラジオから流れる政治情勢に、敏感に反応するふたりが、互いの見解を自由に語る姿は、我が国のホームドラマではついぞお目にかかれない代物だろう。

また、エセルとアーネストにとって共に身内を亡くした前回の大戦の傷は深く、あの絶望を乗り越えることで、彼らの質実剛健な生活者スタイルが確立されたことにも気づかされる。生きている限り人生の時間は、絶えず後ろへも前へも伸び続けているのである。

世界は再び悲劇を繰り返す。ふたりは泣く泣く幼いレイモンドを田舎へ疎開させる。同時代を生きた人々なら、誰もが味わったであろう戦時下の不自由な暮らし…。だが、ブリッグズ家の体験談は、ここでも個別的であり普遍的でもあるように映る。それはなぜか。小さな幸福を積み重ねてひたむきに生きる一家の在り方に、我々自身が信じたい生のドラマを重ねて見ているからではないか。我々の営みには意味があると―。

やがて終戦。再び一つ屋根の下に家族が揃い、平和な日々が戻って来るが、政治は絶えず揺れ動き、科学の進歩は生活スタイルを一変させる。何より愛する一人息子の成長が、一番予期せぬ“未知との遭遇”になろうとは!(笑)

エセルとアーネストに信じたい生のドラマを重ねて見てきたのは我々観客だが、劇中のふたりも同じように、息子にこうなってほしい理想を思い描いていたのである。が、それは見果てぬ夢。握りしめていた親心をゆっくり手離すと、今度は自然にじぶんたちの老いが目の前に広がるようになる―。

人類が月への一歩を遂げた2年後、エセルはこの世を去り、追いかけるようにアーネストも旅立つ。ふたりの最期は、唖然とするほど即物的に描かれ、極めて残酷に映る。40年以上に渡り、ふたりの日々を丹念につむぎながら、映画は最後まで観客の思惑をいい意味で外し続け、ただただ激動の時代を駆け抜けた。

そう、すべては無常。誰にも等しく終わりはやってくる。しかし、はかない生の一回性に賭け、生涯を全うしたふたりの軌跡は、虚無に飲み込まれない。自身の両親を描きながら、真摯に生きたすべての人々の生をも照射したレイモンド、その仕事は大きい―。

『エセルとアーネスト ~ふたりの物語』

2016年/94分/英国 ルクセンブルク

原作    レイモンド・ブリッグズ
監督    ロジャー・メインウッド
音楽    カール・デイヴィス
声の出演  ブレンダ・ブレッシン ジム・ブロードベント

■『よあけの焚き火』

今回は、内容もタイトルもほとんど知られていない映画の紹介です。残念ながら観客動員は伸びず、すでに名古屋の公開は終わってしまいました(涙)。プロの役者が使われていないし、宣伝も控えめな小品だから、致し方ないんだけど…もったいない話です。かくいうあたしも、劇場の方に薦められなきゃスルーでした(汗)。映画愛好家たるもの、これじゃあマズいだろうと反省し、ブログにまとめることにしました。映画って、念じているといつか見られることがあったりします(確率高い!)。記憶の片隅にぜひ入れておいてください。

土井康一監督による『よあけの焚き火』(’18)は、72分という短い作品ながら、わたしには“初めて尽くし”な映画で、かなり意表を突かれました。もちろんホメです。ご存知の通り、映画に関しちゃ相当すれっからしになってますから、脇腹をフイに刺される体験=ブラボー!なんです(笑)。

晴れた冬の朝、閑静な住宅街から映画は始まります。帽子にマフラーでしっかり防寒して車に乗り込む親子。サッカーの試合に出る息子の送迎でしょうか?…カジュアルウエアが板についた、今どきのシャレオツなパパと息子の絵ですわ。それにしてもニッポン、変わりましたね~(笑)。50年前の我が親子像とは全くの別物(汗)。しかもどことなくお品も良くて―。

いや、出で立ちは軽快だけど、息子は助手席ではしゃぐ様子もなく、遠い目をして後部座席に口数少なく座っています。凛々しくもあり、心細くも映る複雑な横顔。休日の親子の遠出にしては、場違いな緊張感が…一体なぜ?はい、実はこの親子、650年以上もの伝統がある大藏流狂言方の血筋を受け継ぐふたりで、山奥の稽古場へ向かうところなのです。

映画初主演かつ、じぶん役に挑むことになった親子―父は大藏基誠(おおくらもとなり)、10歳の息子は康誠(やすなり)と言います。車窓からの眺めは、雪の残る大自然へと見る見るうちに様変わりし、ふたりがたどり着いた先は、ひっそり佇む一軒の古民家です。

到着早々、親子は手分けをし、キビキビとおウチ作業を始めます。雨戸を開け放ち、隅々まで掃除をし、台所周りを整えて柱時計のねじを巻き、手作りのカレンダーまで貼り出します。どうやらしばらく滞在する模様。「おいおい、『男の隠家』by三栄書房っスか」とツッコミを入れてみましたが(笑)、昭和初期の匂いがする小ざっぱりと美しい空間の磁力にはあらがえません。なんと照明以外、家電製品が見当たらないのよ~、清々しいはずです。

そして驚くべきことに、一連の作業の間、父から教育的指導が入っても、息子はことごとく「はい」としか返さない…。ちょっと信じられないほど素直に振る舞い、聞き入れます(汗)。かといって、特殊な家業の躾に閉じるスケッチでもなく、家の中の「はい」の連発が、家の外の雄大な蓼科の山並みに抱かれるように描かれ、とても寓話的。一目で「これはノレそう!」と直感が働きました。

男2人の合宿生活には、小さな彩りも添えられます。自宅から持ち込まれたのは、人形の姿をした陶製のベルと一匹の金魚。ゲームとアニメではなく(汗)、留守番の母をイメージさせる小道具を登場させるとは…付け入るスキがございません。ここまで俗臭ゼロだと、これはこれで、変わりもの見たさ欲が募り、かえって新鮮。何せ稽古が始まれば、初めて尽くしにさらに血が騒ぎ、身体が勝手にヒートUPするのですから。

実際は、父から息子へ伝統の技が伝授されるシーンに奇をてらうような手触りはなく、カメラは絶えずクールダウンしていて、記録の構え。だからなのか、口伝え&身体伝えの繰り返しに、素描集を眺めるようなそぎ落とした美しさが立ち上がり、強い輝きを感じます。

稽古場のしつらえがこれまた素晴らしい。コーナー2面が共にガラス窓になっている畳敷きの和室は、ちょっと手狭にも感じる暮らしと地続きの一室ですが、黙々と稽古を続けるうちに、普段使いの空間の“気”が、徐々に上昇してくるから目が離せません。日常と非日常な営みが溶け合い、なんともイイ塩梅に…。そしてここでも、屋外の凍てつく空気が親子稽古の書割りとなって、静謐な情景を生み出していました。

とはいえ、親子であり子弟である関係は、向き合いすぎて煮詰まることも。寝食を共にし、逃げ場のない閉ざされた場所でのトライだからなおさらです。映画はそこに風穴を開けるように、親子じゃれ合い狂言合戦を差し挟み、なんとアクション映画にも仕立ててくれちゃうんです。

父が作った具だくさんのお味噌汁を食べながら、はたまた人っ子一人いない広大な草原ではしゃぎながら、興にまかせて狂言のフレーズを繰り出し、親子で丁々発止する様子が楽しいったらない!そう、ラップの掛け合いノリなんですよ。狂言のことなどまるっきし知らないあたしも思わずつられてしまいました。相棒がいるっていいなあ…。大自然を舞台にいっしょのアクションで共振しあうのって愉快だなあ…と。

そんな親子に映画は、近所に住む宮下老人の孫の咲子を巡り合わせます。両親を震災で亡くし、この地へ移り住むようになった物静かな少女と、伝統という名のレールが敷かれた運命を生きる康誠。いわば対照的な境遇の2人が出会い、ほんの一欠けらの未来の兆しを、共に探り当てるまでが描かれて行きます。詳しくは書きませんが、少女を絡ませることで、映画が世界へ向けるまなざしはさらに遠くまで伸び、かつ、言葉に置き換えられないたおやかな仕上がりになりました。

土井監督は、人間国宝シリーズなどのドキュメンタリーで実績のある人らしいです。なるほど!被写体との距離が絶えず一定で、余計なものを足したり引いたりせず、落ち着いています。なので当然のように、大藏基誠・康誠親子ありきで始まった長編初監督作品なのかな…と思っていたら…これがまったく違ったの!

鑑賞後、監督の舞台挨拶を聞きました。するってーと、なんと原案はポーランドの絵本にあると言うじゃありませんか。『よあけ』という絵本の世界観にインスパイヤーされ➡家族をテーマにした映画にできないか➡家族の日常は「伝える・伝わる」の連続だ。でも「伝える・伝わる」とは一体何なのか?➡伝統芸能の家系に生まれた親子はまさに「伝える・伝わる」の体現者だから…とまあ、想像とは正反対のルートで狂言方親子を主人公にしたことが判明してビックリ!

そして原案となった絵本の世界観も監督仕立てで見事に開花させます。自然という名のカンバスに頼った絵的なイメージの捻出だけではなく、大藏親子と咲子を通じて、スクリーンの前の我々自身の内なる “よあけ”を想起させるよう設計してるんです。控えめに見えて、この監督の巻き込み胆力はなかなかのものです(笑)。

ついでに、ご本人にあの魅力的な稽古場のことを尋ねたら…稽古場は大藏家のものではなく、監督の師・本橋成一氏と縁のある建物を借りてのセット撮影だって!確かに出来過ぎだろうと思う節はあったものの、思わずめまいが…。もしかしたら大藏親子も役者?(爆)いやー、なんて素敵なウソつきさんなの~!マンマと乗せられましたあ~。もちろん最上級のホメです。

すでに映画監督としての資質をじゅうぶん備えておいでの土井康一氏、次作も素敵なウソつきでよろしくです(ぺこり)。

『よあけの焚き火』
2018年/72分/日本
監督/脚本/編集  土井康一
撮影      丸池 納
音楽       坂田 学
照明      三重野聖一郎
キャスト    大藏基誠 大藏康誠 鎌田らい樹

■『ROMA/ローマ』

アルフォンソ・キュアロン監督が描く話題の新作『ROMA』は、タイル模様のクローズUPでゆるりと始まる。背後から、控えめに鳴り響いてくるのは、鳥のさえずり…足音…デッキブラシがゴシゴシこすれる家事労働らしき音だ。

やがて、水が撒かれて清められ、その水がタイルの上に徐々に流れ着くと、天窓から刺す光の反射で水鏡と化し、上空を横切る飛行機をアメンボみたいな姿で映し出す―。まず音で誘い、次に光を降り注ぎ、最後に動く物体を、ごく小さくスクリーンに招き入れる仕立てが神々しい。そう、世界はこうして絶え間なく動いているのだ!

ここで映画はカメラを引き、一連の労働音が、小柄な若い女性による清掃スケッチだったことを明かす。傍らでうろつく一匹の犬も含め、平穏な日常の一コマなのか…。きわめてよい風景だ。その後もカメラは、彼女の手慣れた家事労働を遠目に追い駆けながら、家政婦仲間との関係性や、邸内の情報も一筆書きのリズムに乗せてさりげなく捉え、ドラマの舞台をものの見事に立ち上げる。滞空時間の長い滑らかな幕開け…我々の意識はすでに映画の中にある―。

マズイ!こんな調子で映像美にイチイチ感嘆していたら、ひとりウットリつぶやきで終わってしまう(汗)。先を急ごう。
70年代メキシコシティのローマ地区。先住民族の血を引くクリオは、白人中流家庭の邸で働く住み込みの家政婦だ。雇い主一家は、医者のアントニオに妻のソフィアとその母、やんちゃ盛りの4人の子供の7人家族。同僚と2人、朝から晩まで一家の生活周りのすべてを整えているが、主人と奉公人の線引きは、極端に緊張を強いるほどのものでもなさそうだ。逆を言えば、それだけ階級差が固定化されてしまっている証にも受け取れるが―。

しかし無垢な子どもたちは、慈愛に満ちた方へと自然に吸い寄せられる。慎ましく穏やかなクリオの表情や振舞いに陽だまりを感じるのか、気づけば子どもたちは皆、彼女が側にいてくれるのを願っている。時代や国や肌の色が違えども、子どもは魂の感応アンテナを尖らせ、焦がれる対象を見つけ出す生き物なのかもしれない。

映画はこうして早い段階から、クリオ自身がじぶんの介在価値を肌で感じながら奉公している断片を綴り、これが勝因の一つになっている。クリオの背景はわからなくても、彼女にはじぶんで築いた居場所がある。ヒロインと我々との親和性を絶えず意識しながら、『ROMA』は描かれて行くのだ。

もちろん、家政婦にも女子の時間はやってくる!クリオは、同僚と勢いよく休日の街へ繰り出し、出会ったばかりの恋人候補と早々にベッドイン。慎ましく働く黒子の横顔から一転、好奇心に突き動かされて輝くハレな横顔へ鮮やかに転身だ。ここでもカメラは、若さ弾むクリオの姿を、ひとつの情景として遠目で見守り続けるため、時に我々の記憶を呼び覚ます装置にもなる。労働から解放され、細胞の隅々までじぶんだけの時間を生きる彼女ののびやかさは、懐かしく眩しいものとして、しかと脳裏に焼き付くのだった。

ある日、アントニオがケベックへ旅立つ。たかが出張で家を空けるだけなのに、悪い予感がしたのかヨメのソフィアは大揺れ。時を同じくしてクリオの妊娠が発覚するが、こちらも相手の男にあっさり逃げられ途方に暮れる…。社会的ポジションの異なる2人の女が、男に去られてピンチ襲来という1点を共通項に、物語の中心に迫り出して行く…ずいぶん意表を突く展開である。

そもそもソフィアは、子どもたちに圧倒的に慕われるクリオに対して、面白く思っていなかっただろう。家政婦としては重宝しても、母親の面目は保たれないからだ。ただ2人の女は、異なる立場だからこそ無暗に接近せず、互いの状況変化を察知して、手を差し伸べ合うことはできる。ソフィアは、すぐさまクリオを病院へ連れて行き、このまま働きながら子供が産める環境を約束し、クリオもXmasが来ても一向に修復できない主人夫婦を黙って見守る…。同情でも、友情でもなく、今の生活を持続可能にするための合理的な選択で2人の女は結束する。美談を遠ざけたこのリアリティに、わたしは気持ちよくノレた!

さらに映画は、女たちの内面の葛藤も微妙にズラして巧い。地震に雹、ド派手な年越しパーティーに山火事など、非日常なアクションを唐突に差し入れ、日常を相対化して進行するため、彼女たちの心配事は必要以上に悲劇化せず、我々は絶えずまっさら状態でドラマの行方を見届けられるというわけだ。

例えばクリオが逃げた男を訪ねるシーン。彼女は、ぬかるんだ田舎道をたどり、男の居場所をようよう探し当てて声をかけるが、いきなり酷い仕打ちを受ける。フツーなら、不実な男と憐れな女という悲恋の絵にハメるところだが、ここではそんな等身大の後日談では終わらない。男は、都会で真面目に働き信頼を築いた女へ、嫉妬と憎悪をたぎらせ必要以上に逆ギレする。格差への不満が、まず身近な相手を捌け口にしてエスカレートする様に、やり切れなさが募った。

そして終盤、映画はさらに大きくうねる。出産を間近に控えたクリオが、突然、政権への抗議暴動に巻き込まれてしまう。激しく暴徒化する若者の中には、怒りに狂ったあの男の姿も見えるではないか!恐ろしい勢いで生と死がせめぎあい、もはやスクリーンの中は濁流状態。冒頭の平穏な日常がここでイッキに裏返り、クレオは死産を告げられた―。

犬に出迎えられ無事に退院したクリオ。離婚を決意し、夫の愛車を小型車に買い替えたソフィア。2人は子どもたちを連れて、心機一転の小旅行へ出掛ける。目の前に広がる海辺の景色は、2人の再出発を祝福するにふさわしい自然美の結晶だ。が、驚くのはまだ早い。ここでは明かさないが、全てのパーツが出揃った最後の最後に、映画はなお、究極の“光と音”で神話を編み、我々に贈り届ける。そう、この瞬間を目撃させるために『ROMA』は作られたのだ!

旅から戻り、家政婦の毎日がまた始まる。留守番の同僚に「話がたくさんあるの…」と声を掛けながら、慌ただしく家事に勤しむクリオの姿が小さく捉えられ、映画は閉幕。平穏な日常とうっすら漂う無常観…あー、このエンディングがわたしはたまらなく好きだ!ハンパない傑作…早くも今年のナンバー1候補に決定だ。

『ROMA/ローマ』
2018年/135分/メキシコ・アメリカ
監督/脚本/撮影  アルフォンソ・キュアロン
美術      エウヘニオ・カバレロ
衣装      アンナ・テラサス
キャスト    ヤリッツァ・アパリシオ マリーナ・デ・タビラ

■運び屋

薬物使用で逮捕された人気ミュージシャンの映像が、派手に世間に流れていた3月某日。「 “伝説の運び屋”の正体は90歳の老人だった」―と、謳い文句が躍る映画を見に行った。

クリント・イーストウッドが監督・主演する新作『運び屋』(’18)だ。大いに笑い、めいっぱい楽しませてもらった。―が、本作は、実際にあった麻薬密輸事件の映画化だという。考えてみたら日本の騒動と源泉はいっしょなのだ。いや、リアル犯罪として比較したら、そのウン百倍もタチが悪いのは明らか。まったくもって言い逃れできない真っ黒案件である。なのに、気持ちよく手を叩き、快哉まで叫んでしまうのだから、困ったものだ(汗)。

そう、改めて思った―「映画」という装置が、アウトローを物語るとき、いかに最大級の効果を発揮するかを!劇場の暗闇に身を沈め、世の中からはぐれた輩どもの輝きをこっそり拝むと、しょぼい毎日がいきなり活気づく…あれですよ、あの愉悦。じぶんを大きく見せたい…、それも反体制を気取って…、という青臭く後ろめたい欲望に、映画はタイムリミット付きで個別に奉仕してくれる。それゆえ我々は、錯覚の時間内で、日々の規範からより遠いところまで運ばれたいと切に願うのだ。真っ黒だろうが真っ白だろうが、左だろうが右だろうが、なんだってかまわない…トンでもないジャンプを体感させてくれ!と(バンジーだから紐ついてるしね 笑)。

そして文句なくトンでもないジャンプを味わいましたよ~。なにせ、90歳のジジイのわんぱく体験にお付き合いするのだから、全てが未知との遭遇(笑)。映画は、イリノイ州のへんてこな花畑のシーンから始まった。「なにこのヨレヨレの花?もしや薬物栽培でもしてんの?」などと、ぼーっと眺めていたら、名前も知らない花より、さらにヨレヨレシワシワ猫背の御大イーストウッドが、テンガロンハットではなく、麦わら帽子を被ってひょいっと登場★荒野をさすらい続けたカウボーイの終着点は、土と共に生きる園芸家なのか~と苦笑い。一瞬、デレク・ジャーマンみたいな求道者像を思い浮かべるものの、すぐさま撤回(笑)。

ヨレヨレの花は、1日だけ開花する「デイリリー」というユリ科の一種で、イーストウッド扮するアールは、移民たちを使ってこれを手広く栽培し、ひと財産を築いた成功者だった。しかも、枯れても山のにぎわいどころか、軽口をたたきながら正装して品評会に繰り出す様は、まるで花道をねり歩く歌舞伎役者のごとき艶姿。その有頂天ぶりが可笑しいったらありゃしないのだ。ところが洋の東西を問わず、ジジイのええかっこしいを「馬鹿だね~」と笑って許せるのは、他人様ゆえのことらしい。家族をないがしろにしてきたカッコつけ男は、ヨメと娘から見放されて久しい憐れな老人でもあるのだ。

さて、外堀から伺っているだけでも、『運び屋』がどんな展開になるかは、概ね予測できるだろう。デイリリーの生態のようにアールは早々と萎れ、転落街道まっしぐら。艶姿から12年後の2017年、商売は傾き、自宅と農園を差し押さえられ、手元に残ったのは古ぼけたフォード1台だけ。無論、しょげて帰れる場所もない。人生の高低差を味わうのはヒーローの常だが、口の減らない90歳の老人に、一発逆転の打ち手など用意できるはずもなく、はてさてどうしたものか―。

「町から町へと走るだけでカネになる」―。無違反運転で国中を旅してきたのが自慢のアールは、そう持ち掛けられてテキサス州エルパソへ。運転免許返納に怯える日本のシルバードライバーからすれば、ここぞとばかりに自尊心を取り戻せそうなキャリア・パス図だが、案の定とびっきりヤバイ奴らがお出迎えだ。ただし、アールが出没する先は、いつでもどこでも花道に早変わり♪じぶん十分の立ち回りを披露なんかして、退路を断たれたジジイに怖いものはない。

で、中身は見るなと言われた荷物を、鼻歌交じりに指定の場所へ運べば…アラ不思議。ダッシュボードから大金入りの封筒が、手品みたいにでてくるではないか!いやー、やっぱ現ナマのパワーはすさまじい。アールの皺くちゃの手で握りしめると、かえって札束にナマナマしさが割り増しされ、妙に興奮しちゃったわよ。というわけで、取り急ぎこれで孫娘の結婚披露宴代はゲット。汚名返上&家族の信頼回復に一歩前進か。

こうして、超お手軽&高額バイトに身を乗り出したジジイは、運び屋稼業に精を出し、次から次へと失くしたものを買い戻す。そもそも根がええかっこしいだから、これを機に老後を手堅く内向きに生きようなどと改心するわけもなく、稼ぎは周囲に大盤振る舞いし、踊りまくりモテまくり。世間ではよく「金のない年寄りは誰にも見向きもされずに孤独」と、教訓めいたことを言うが、あぶく銭が人気者の座を保持するための運用費に充てられる絵は、大ウケしつつ、どこかウッスラと侘しさが漂うようにも映る。

もちろんイーストウッド映画だから、老人に金をチラつかせ、家族との和解の果てに大団円―には至らない。アールに絡ませるのは、家族は家族でも麻薬元締め一家のボスや、組織に忠誠を誓う手下の若造や、はたまた赴任したてのエリート麻薬捜査官という顔ぶれで、要は背景の白黒に関係なく、男同士のジャレあいこそがヒーローの現役感を司るパワー源だという仕立て。女どもにすまないと詫びるしぐささえ、様式美の内なのだ。

「タタ(じいさん)」の愛称で呼ばれ、運び屋記録を更新するほど振り切った仕事ぶりを披露したアールは、映画ならではの血統書付きアウトロー。カーラジオをBGMに、自由気ままにオレサマの流儀で浮世を疾走する一方で、朝鮮戦争の退役軍人だという経歴が終始通低音として鳴り響く。具体的にはほとんど語られないが、だからこそ、見たくないものを嫌というほど目撃してしまったであろう老人の虚無感が際立って見えた。

そうイーストウッドが作る映画は、ある意味、いつだって形を変えた戦争映画。そして彼が演じるヒーロー像には、常に鎮魂のしぐさが刻印されている。折れ曲がった背中で、ダーティーワードを連発する孤高の狂想老人に、男たちが惚れるのもわからなくもない(笑)。イーストウッドはしぶとい。まだまだ飛べるな。この先も治外法権でジャンプし続けていただきましょう!

『運び屋』

2018年/116分/アメリカ

監督/製作/主演  クリント・イーストウッド

撮影      イブ・ベランジェ

音楽      アルトゥロ・サンドバル

脚本      ニック・シェンク

キャスト    ブラッドリー・クーパー ローレンス・フィッシュバーン

■世界で一番ゴッホを描いた男

 おらぁ、タマげただぁ~…。中国深圳市の大芬(ダーフェン)に「油画村」と呼ばれるエリアがあるんだってサ!

「油画村」と聞くと、なんだか自意識をトンがらせた若者たちが夜な夜な集い、新しい芸術を模索し合う刺激的な場所…かつてのモンパルナスとかソーホーとか、そんなイメージが安直に浮かぶよね。―が、さすがは肝っ玉のデカイ中国の方々。そんなナイーヴなアプローチなどアッサリ蹴散らし、労働と金が24時間渦巻き続ける、異様にガツガツした活動拠点を築き上げていらっしゃいました!

目下、仕事探しを真剣に考えてる人がこの職場を見たら、間違いなくぶっ飛びますね。“働き方改革”からもっとも極北に位置する劣悪環境に、他人事とは言え、マジに引くかも…(汗)。いや、もしかしたらプロレタリア映画?ここから労使紛争が勃発するとか?…なーんてマジに社会派気分で見ちゃうケースも考えられるけど、ここはひとまず、じっと堪えて静観していただきましょう。

その名の通り、「油画村」で生産されるのは絵画。それも、有名画家の複製画を制作する工房がひしめき合い、1万人以上もの画工たちによって、年に数百万点もの油絵が世界中へ売られているんだとか。映画は、そんな複製画産業の街へ出稼ぎに来て、独学で絵を学び、20年もの間、ひたすらゴッホの複製画を描き続けてきた男、シャオヨンの姿を追い駆けたドキュメンタリーです。

現在のシャオヨンは、自分の工房を持ち、稼ぎ頭の画工も兼務中。自宅を兼ねた狭い一室で、昼夜を問わず描き続け、寝るのも食事もすべて工房の中で済ませる暮らしぶり。そのうえ家族や弟子たちまでも、まるっと同じ生活をしていて、眺めているだけで過呼吸になりそう…凄まじい光景です(汗)。ただし、全員が働きバチだからか、資本家VS労働者構図とは様子が異なり、どこか旅芸人一座風なノリもあって、これはこれで成立している気がしなくもない…。“同じ釜の飯友”効果ですかね(笑)。

シャオヨンのお得意先は、ゴッホの母国、オランダのアムステルダムにある画廊です。『夜のカフェテリア』を40日以内に300枚納品してくれ!と、Webでしれーっとオーダーが入ったりして、シュールすぎて笑うしかありません。生前、ほとんど売れなかったあのゴッホが知ったら、なんて思うだろう…。自作に何十億もの値がつく事実より、「えっ?どうやったら300枚も描けるの?ボクにも教えて!」と、御本人が一番腰を抜かしそうな話よね(笑)。

何せシャオヨンは、これまでに10万点以上のゴッホ作品を描いてきた男。多い月なら1ヵ月で700枚だって!すかさず単純計算してみると、700枚÷30日=一日約23枚(汗)。ついでに、絵を描く以外の時間を1日4時間で見積もり、時間制作数を割り出せば、23枚÷20時間=1時間 1枚強ペースですよ。ひぇ~、無茶振りにも程がある。これじゃあ下書きだってまともに描けないわよね(汗)。

―というわけで、前半のハイライトは、ズバリ複製画の制作シーンです!油画村が編み出したこの必殺技法が、一言で言うとアクロバティックな流れ作業なんですわ。なるほどその手があったのか!と、妙に感心しちゃったりして…(苦笑)。まず複製に際して、お手本となる作品を線で捉えず、鮮やかな色の点に分解し、配列で見ているところがミソですね。おそらく、点描画として脳ミソにインプットしてるんじゃないかな…。

つまり、ゴッホの図版を、あの後期印象派の代表、ジョルジュ・スーラの目をお借りして再構築。これってある意味、印象派の流れそのものじゃね?(爆)しかも、お外へ一歩も出ずに(!)印象派モードになり切り、無意識の“筆触分割”をメンバー全員で共有し、作業マシーンと化すとは…これぞまさしく超絶技法そのものよ~。

完成した絵が欲しいかどうかはさておき(汗)、「名画とはなんぞや…」「美とはなんぞや…」と、思わず深遠な面持ちになったなあ。そしてなんと、馬車馬シャオヨン自身にも、遂に成熟時代がやってくるのです!

そもそも本作は、ブラック仕事の実態に迫ろうとの意図ではなく、「油画村」への関心から長期取材に至ったと想像できるんだよね。そして、夥しい数の画工の中から、なぜシャオヨンがメインターゲットに選ばれたのかも、映画が進行するにつれ、自然とわかり始めるの。そう、シャオヨンには高い理想がある。描けども描けども、未だゴッホの絵には近づけないと苦悩する一方で、それほど大きな存在が自分の仕事の対象なのだという矜持も強く感じられるの。皮肉にも、同情するはずだった我々が逆に羨みたくなるくらいの、粉うことなき働く歓びが本人から立ち上り、ちょっと意表を突かれましたね。

当たり前だけど、ハードルの高いオーダーをこなすには、自分にとっての働く動機付けが最も肝心。金銭との交換だけが目的なら、馬車馬生活を長くは続けられない。ゴッホに憧れ、追いつこうとするシャオヨンのウブでまっすぐなパッションを見つけ出し、時間をかけて拾い上げたところが、映画の一番の勝因だと思ったわ。

やがてシャオヨンは、アムステルダムへ行く決意を固めるの。実は、まだ一度も本物のゴッホの絵を見たことのない彼が、自らの画工人生を賭け、工房の外へ一歩足を踏み出すってわけ。ここから先の展開は、ぜひ映像で見て欲しい。文字にすればするほど、映画の魅力が目減りする恐れがあるから、あえて寸止めにしておくわ。長期密着ならではの予想を超える瞬間がたくさん登場して、ツイ人間の運命に思いを馳せてしまいます…。

とにかくシャオヨンとともに、我々もありったけの感情がほとばしり、複雑にからみあって、幕切れへとなだれ込むの。メンターはシャオヨンに何をもたらせたか…。そして我々は弟子の一喜一憂を目撃して何を思考するか…。作り手が、絶妙のタイミングで映画から手を放して終わる『世界で一番ゴッホを描いた男』。いやはや忘れられない1本となりました。

『世界で一番ゴッホを描いた男』

2016年/84分/中国・オランダ

監督      ユイ・ハイボー キキ・ティンチー・ユイ
撮影    ユイ・ハイボー
製作    キキ・ティンチー・ユイ

キャスト  チャオ・シャオヨン

■悲しみに、こんにちは

「へーっ、 “だるまさんがころんだ”は、世界共通の遊びなんだあ…。」
バルセロナの町の一角。子供たちがはしゃぐ夏祭りの情景を、ぼーっと眺めながらのオープニング。夜空に輝く花火の幻想性も効果的で、幕開け早々からわたしは、映画と対峙する気構えなどスッカリ忘れ、子どもの頃の記憶手帖をゆったりと開いていた気がする。半世紀も前のホコリにまみれた我が記憶を―(笑)。

カルラ・シモン監督作品『悲しみに、こんにちは』は、1993年のスペインを舞台に、両親を亡くしたばかりの少女フリダの“ひと夏”の体験を描く。

のっけから身も蓋もないことを言うけどゆるしてね(汗)。そもそも、この映画を文章で紹介すること自体、一番やっちゃいけない行為だと強く思うわけ(笑)。映画の中で目撃したたくさんの瑞々しい出来事が、言葉に落とした端から、凡庸な幼少期スケッチの集積にしかならないのがミエミエなの(汗)。たとえ多くの人に見てもらいたいと願っても、本作に関しては、他者の解説や見解がもてなしの役目になるどころか、かえって足を引っ張る恐れさえある…。つまり鑑賞者一人一人と作品との、一対一の化学反応だけで純粋に成立する映画なんだよね。遅ればせながら、映画と観客の最も幸福な在り方を思い起こした気がする…。そのうえでなお、書き記しておきたい衝動にも駆られるから困ったものよ(笑)。わたしのゴタクをお聞かせする前に、まずは物語を軽く紹介しておこう―。

だ~るまさんがこ~ろんだ~♪と、ひとしきり遊んで帰宅したフリダが目にするのは、親類たちが引越しの荷造りに追われる光景だった。フリダはお気に入りの人形を抱きながら、大人たちの動向を見守るしか術はないが、あれよあれよという間に、両親との想い出から引き離され、生まれ育った町と人間関係に別れを告げることになるのだ。さよなら、バルセロナ!

そして目が覚めれば、あたり一面が緑に覆われたカタルーニャ地方の一軒家だ。田舎で暮らすママの弟エステバおじさんの元へ引き取られ、奥さんのマルダと、幼い従姉妹アンとの4人の生活が新しく始まる。はい、 「両親を亡くして親戚のウチの子になる」設定ですね(汗)。だから、ツイ我々も身構えてしまいそうだが、映画はフリダを観客の半歩前に立たせ、彼女を物おじしない好奇心と冷静な観察力で動き回らせるため、大人仕立ての余計な推察を挟む余地はない。我々は、シンプルに目の前のフリダの体験を目撃し、共に一喜一憂するだけ。

苦手な牛乳と格闘する朝食でのしぐさ、生まれたての卵を用心深く運ぶ後ろ姿、肉屋でハムをつまみ食いし、雷で電気が消える暮らしに驚き、森の中に祀られたマリア像の前で願いを伝えるフリダ…。この一匹狼少女は、顔に似合わぬダミ声(!)と鋭い眼差しで新天地探検に乗り出すが、日常のすべてが挑戦の連続だ。それをカタルーニャの自然と、おじさん一家の包容力が背後からしかと支える。

一人っ子同士のフリダとアンの距離が縮まり、姉妹と化すプロセスも実に楽しい♫ 嫉妬、羨望、競争心が露わになっても、同じ目線で世界を臨む“今この瞬間の遊び相手”は、かけがえのない宝物なのだ。夜中につるんで家の中をブラついたり、大人たちの目をかすめて笑いを共有したり…2人にしか通じない波動で、子ども帝国が築かれて行く―。

一方でフリダは、独り占めできる愛情のシャワーを絶たれたこと、二度と両親に会えない事実は、ウッスラわかっている。ただ、「死」をどう整理したらいいかの判断がつかず、宙ぶらりんな気持ちを内に抱えながら、周囲に向けて反発するかと思えば急に無防備に甘えたり、ときには孤独の牙城で妄想に耽ったりを繰り返す。映画は、そんな言葉にできないモヤモヤや、落ち着かない気分をすくい上げ、あえて野ざらしのままで進行。そっけない演出ゆえの破壊力には、想像以上の手応えがあった。

幼いフリダの葛藤は、「死」と対峙するときの我々の足取りと何ら変わらない。いやむしろ、子どもならではの理屈や、何としてでも首尾一貫したいと必死になる彼女の本能に、逆に多くの気づきを与えられる。死を自問自答しながら、毎日を生きるという離れ業…。喪の儀式は、遺された者の生が問われる時間なのだ。

また、少女ひとりに求心力を持たせて、場をかっさらうような映画にしなかったのも本作の非凡な点だろう。親代わりとなるエステバとマルダが、迷いながらも逃げずに本気でフリダの喪失をバックアップするスケッチをはじめ、少女を取り囲む人間模様がとても充実している。亡き両親の痕跡も含め、スクリーンには絶えず様々な人物が出入りし、幼い身ながら彼女がすでに世の中の一員として生きている側面を立ち上げる。そう、世の中から照射されることで、フリダの姿はさらに重層化され、我々は彼女の未来をも思い描きながら、映画の時間に浸ることができるのだ―。

本作は監督の幼少期の体験をもとに制作。映画の中では明かされないが、両親の死因はエイズだった。フランコ政権崩壊後の90年代初頭のスペインでは、独裁政治から解放された喜びでドラッグが蔓延し、2万人以上もの人がエイズで亡くなったという。おおっぴらにしにくい問題と同時に、フリダ自身にも感染の恐れがあり、映画の中では「血」のつながりに光明を見出すこともあれば、「血」にまつわる影のエピソードも織り込んで見せて行った。さらに言えば、そうした複雑で特殊な事情も含めて描きながら、なんの予備知識も持たないスペインの少女の“ひと夏”の体験が、我々の記憶を同機させ、改めて生の一回性をも痛感させるのだ。

ラストがまた素晴らしい!“バッタもん家族”をやってるうちにたどり着いた、無防備な一瞬がたまらなく美しい…。ここに記すのを躊躇するほど意表を突かれ、かつ、これ以上フリダの胸の内を物語るにふさわしい表現はない“究極のリアクション”で閉幕する。涙による幸福の寸止めと、背後に流れる不協和音めいた音楽まで…悔しいほどカンペキ★

『悲しみに、こんにちは』

2017年/100分/スペイン

監督/脚本  カルラ・シモン
撮影    サンディアゴ・ラカ
音楽    エルネスト・ピポ
製作    バレリー・デルピエール

キャスト  ライラ・アルティガス パウラ・ロブレス ブルーナ・クッシ

『かぞくへ』

なにコレ? ズルいわ~。『かぞくへ』というタイトルに、若干身構えていたら、見せ方としては正真正銘のラブストーリーじゃない?しかも驚くべきことに、あの使い古しの“友情”が、ロマンティック・ラブ・イデオロギーに勝利しちゃうという革命的映画なのよ。はい、春本雄二郎監督作品『かぞくへ』は、日本中の男子全員が間違いなくむせび泣く1本です(爆)。

ネタバレになるが、すでに開始5分で決着は付いている。都内のワンルームで暮らす旭(アサヒ)と佳織が、仲睦まじく食事の支度をしながら、半年後に迫った結婚式の打ち合わせをするシーンでのこと。両家の人数合わせに関して、旭はじぶん側の招待客は1人だと事もなげに答える…「洋人(ヒロト)がいればいいし」と―。どうやら旭は、身寄りのない施設育ちの生い立ちだとわかるのだが、そんな境遇を差っ引いたとしても、この一言は胸騒ぎを誘う。

「洋人がいればいい」って、どういう意味なんだ?マブダチには違いないだろうが、やけに確信に満ちたオンリーワン宣言で聞き逃せない。洋人っていったい何者? その後「洋人は結婚してるから嫁さんと2人だ!」と、思い出したように付け足すあたりがさらに不可解。世界は旭と洋人の2人だけで回っているのか…(汗)。開始5分で花嫁候補は蚊帳の外。佳織、だいじょうぶ?それにしてもすごいセリフだ―「洋人がいればいい」。

…というわけで、我々はマンマと“洋人よ、早く出てこい!”状態に焚きつけられている。そこで満を持しての逢瀬である。2人が待ち合わせをするのは、長距離バスが行き交うターミナルだ。あたりを見渡す旭の背後から→フイに待ち人の声が響き渡り→目の前にリュックが投げつけられ→タメをきかせてようよう洋人がお出ましになる。さらに映画は、2人をシャドーボクシングでジャレさせ、言葉より前に魂の交換をしているようなアクションで鮮やかにつなぐのである。おいおい、ここは放課後の校庭か!期待以上の再会シークエンスに思わず苦笑い…わたしが照れてどうする?(笑)

2人は、五島列島の同じ施設で育った幼なじみ。旭はプロのボクサーを夢見て上京し、ジムでトレーナーをしながら生計を立て、島に残った洋人は漁師になって今では所帯を持つ身だ。共に31歳。久しぶりに顔を合わせて島の言葉でくつろいだ会話が始まれば、2人の波動は自然に共鳴しあい、都会の雑踏は静かに書割りと化す。一見すると、いつの時代の話でしたっけ?とチャチャを入れたくなりそうな純朴青春パッケージだが、なぜか照れ臭さいのに、古臭くは見えない。
むしろ血筋のいい友情が新鮮だった。すべてを飲み込み尽くす東京では、溺れないようにと、こんな友情の再確認ドラマが無数に営まれている気さえした。

束の間の滞在中、旭は洋人に商売の口を紹介し、洋人はマリッジ・ブルーの旭に励ましのエールを贈り、2人はそれぞれの持ち場へ帰る。思いやりのジャブ合戦にノックダウン寸前。その名残惜し気な空気の繊細なことと言ったら…タマりません(汗)。

いや、主役はもう1人、しっかり者の佳織もいるのだが…。こっちは新しい家族を拵える前に、古い家族に足を引っ張られ、少々お疲れだ。祖母は痴呆が進み、旭の存在を認めない母とは平行線で、妹の将来までも背負う立場でしんどそう。何よりマズイのは、そうした事実を婚約者に打ち明けられない佳織の心の硬さにある。佳織よ、今からそんなにきっちり内と外の線引きをしてしまってこの先どうするつもり?でも、あのちっこい住処を基地にして、都会で人並みな生活を維持するには、息のあう相棒じゃないと難しい反面、逆に言えば相当顔色を窺い合ってもいるはずだ。一番大切な相手だからこその遠慮。彼女にとってのもたれ合わない線引きは、せいいっぱいの愛情表現なのかもしれない。

そこにアクシデントが降りかかる―。金の問題である。なんと洋人に紹介した商売の話が詐欺だと発覚。責任を感じた旭は落ち込み、借金を抱えた洋人の力になるべく深夜バイトを始め、佳織には式の延期を申し出る。じぶんをいっぱいいっぱいまで絞り込み、フォローしようと懸命に動き回る旭。ところがそんなひとり相撲が、友とも恋人とも微妙なすれ違いを生み始めるのだ。

家族のいない旭、家族が重荷の佳織、それぞれが理想の家族像を求めて出会い、かけがえのない絆を感じて結婚に至ろうという、ごく自然な流れだったはずなのに―。焦れば焦るほど思いやりの歯車が狂い出し、やがて書割りだった都会が前面にせり上がってくると、恋人たちはあっけないほどバラバラになる―。

若いのに苦労人の2人…。ピンチもあるのが人生だと身に染みているから、チームになろうと決意したのでは?今がまさに支え合いを発動するタイミングなのになぜ?…などと、ツッコミたい気持ちはやまやまだが(汗)、映画は丁寧に積み上げてきたものが、音を立てて崩れ落ちる過程に狙いを定め、予想以上の切れ味を見せる。

例えば出色なのは、登場するすべての人物の役柄とセリフがカチッとハマっているので、やたらLIVE感が渦巻いて見えるところ。中でも頻繁に映し出される携帯電話のやりとりには、対面コミュニケーション以上の悲喜こもごもが立ち上り、実に見ごたえがあった。そう、電話って見えない相手と手探りで会話している当事者の2人より、感謝もウソも詫びも怒りも、傍聴する我々観客の方が見通せてしまえる道具。映画=のぞき見のスリルに、うってつけのツールだと改めて気づかされたのだ。それと、お地味ながらジムの会長がいいのよ!生真面目で熱い旭の人柄を十二分に理解し、あえて遠巻きに伴走するその振舞い方が、ボクサーに寄り添うトレーナーのリズムになってて、印象深かったな…。

とはいえ、この映画の最大の武器は、ラスト・ランにある。その詳細を書くのはあまりにも野暮なので、バッサリ割愛させていただくが、孤独と感情の高まりを一直線に結んで幕切れへとなだれ込み、付け入るスキがない。映画は “洋人がいればいい”が、“かぞくがいればいい”にささやかにバージョンUPして終わる。慈愛に満ちた究極のラブストーリー、ぜひ劇場で堪能して―。

『かぞくへ』

2016年/117分

監督/脚本/編集 春本雄二郎
撮影     野口健司
音楽     高木 聡
照明     中西克之

キャスト 松浦慎一郎 梅田誠弘 遠藤祐美