■未来をなぞる ~写真家 畠山直哉~

この秋、セバスチャン・サルガド、石内都、そして畠山直哉と、世界的に活躍する写真家を被写体にしたドキュメンタリー映画が3本続けて公開された。こんな偶然もあるのか…。そのうえ三者三様の異なるアプローチが面白く、この機会に抜け目なく、しかと見比べ、楽しませていただいた(笑)。最後に足を向けた『未来をなぞる 写真家 畠山直哉』は、最も密着度の高い印象の残る作品。こんなに無防備な畠山が見られるとは!…かなり驚きだった。

 畠山の写真は以前から興味を持って追いかけていたが、2011年10月に訪れた東京都写真美術館の『Natural Stories ナチュラル・ストーリーズ』展をきっかけに、より強く惹かれるようになった。初期から現在に至る仕事のうち、自然と人間との関わりを俯瞰する作品を中心に構成された企画展。何が凄かったって、トンデモないものが破綻なく繰り広げられ、かつ、異様に静謐なところだった。作品の前に立つと、足元がクラクラするほどの崇高な磁力を感じるのだが、被写体を力でねじ伏せるというより、被写体と気を合せ、ここぞ!というワンポイントに着地させている風に見えたのだ。荒ぶるものを受け止め、不純物ゼロの澄み切った領域に統合させている感触。カッコいい!と唸った。
そしてまたラッキーなことに、昨年、愛知県美術館で開催された『これからの写真』展で、畠山の話が聞けるチャンスにも巡りあえた。鷹野隆大、田代一倫も加わり、「表現と距離」をテーマにしたトークイベントは、異様に面白くて思わずメモを取るほど。畠山は、極めて丁寧に、言葉を選び取りながらゆっくり話す。与えられたテーマ・タイトルの定義付けから始める念の入れ方だが、難解な言い回しは一切しないし、卑近な例えを用いて場にすり寄ることもない。対峙する側一人一人の思考を、グルグルと稼働させるような話し方をする。往々にして暴走する論理は煙たいものだが、畠山から立ち上る整然とした気配は、受け手の思考を動かす呼び水になると思った。…と、そんな勝手な私仕様のイメージを抱きつつ、今度はドキュメンタリー映画の被写体側に身を置く畠山とご対面。何とも願ったりな機会だった。

 写真家のドキュメンタリーは、本人の作品でも顔でもなく、手書きの線から始まる。
東日本大震災で流された畠山の故郷、岩手県・陸前高田市の実家の間取り図を説明付きで描くシーンである。気負いなくゆったり稼働し始める贅沢なオープニング。早くも人となりがにじみ出る。本作は、震災1年後の2012年3月から2年間、畠山直哉の創作の現場に密着した記録である。震災後、足繁く故郷へ戻り、急速に変貌する風景を独り黙々と撮影し続けるアクションが映画の背骨になっている。そこで耳にするのは、イベントで聞き惚れたあの呼び水となる語り口。生まれ故郷に家がないのは不自然、故郷を撮っても全然楽しくない…と、個人的な感慨を漏らすときでさえ、ちょっと立ち止まって彼の発言の中身を考えてみたくなるのである。何だろう、この圧倒的な求心力は…。畠山は震災で母を亡くした。ただ、家と母の2つの故郷を失った悲劇が背景にあるから、発言に求心力があるというわけではない。むしろそんな時でさえ、生臭いものをツイ括弧でくくってしまう自意識のクセに、彼自身がテコずっているため、考えさせられたのだと思う。

かつての“ものさし”は横に置いたものの、脱力し切れない宙ぶらりんな状態が、ひどくリアルで―。暮らしも生き方も一変するような悪夢を前にしても、生きている限り途切れない自分という意識。畠山が立ち向かっているものの在処は、私自身の根源を問うものでもあり、目が離せなかった。

 アーティストの長期取材記録を見る度、彼らの逃げ場がない生き方に恐れおののく。生きることが作品となり、作品は生きた結晶として残るのだ。本作でも、畠山の制作現場の横顔と被災した家の後処理問題で役所へ出向く顔は、平行線の状態ではない。写真とは何かを語る時間と、故郷での邂逅の時間も同様だし、「美しい」の実体は何なのか?と問い続ける姿と亡き母の面影をしのぶ姿もしかり。そう、すべてが入り混じりながら畠山を形作っているのだ。さらに付け加えるなら、大きな喪失を体感して、彼は故郷に改めて自ら近づき、今初めて「長男」になったのではないかと私は想像した。以前から大人な人だなあ…と感じていたが、何と私と3歳しか年の差がない畠山(汗)。でも故郷で見せる横顔には、再び誰かの息子を生きている瞬間があり、その柔軟さに心が弾んだ。とっても瑞々しいのである…通りすがりの老婦から、ご両親の面影を指摘されるシーンとか―。あと、一家の写真は流されても、青年時代の畠山がしかと刻印されたスナップ写真を、地元の友人が届けてくれるシーンも忘れ難い。畠山は長らく活動拠点を東京に移し、実体としては故郷を留守にしてきた。なのに、今も自らの存在を証明する時間が故郷に流れ続けていることに、歩く度に気づかされたのではないか。過去をなぞりながら、未来をなぞる―。ここには50歳を過ぎた人間の作業として、極めて興味深い記録が映っていた。(それにしても畠山、オシャレおやじすぎないか!今は亡き安西水丸レベル?笑)

 映画は水に飛び込むイモリのエピソードで幕を閉じる。素晴らしくチャーミング!冒頭とラストに監督から見た畠山の印象をささやかに差し入れ、その控えめな身振りも、本作を上等にした一因だと思う。

未来をなぞる
~写真家 畠山直哉~

2015年/日本/87分
監督    畠山容平
撮影    畠山容平
編集    尾尻弘一
音楽    湊大尋
キャスト  畠山直哉

■フリーダ・カーロの遺品~ 石内都、織るように

ドキュメンタリー映画、『フリーダ・カーロの遺品~石内都、織るように』を見に出掛けた。めぐり合わせの妙も含め、なかなか得難い映画的興奮が味わえた。

 ここには被写体が2つある。1つは、死後50年経て初めて封印が解かれた、メキシコを代表する画家フリーダ・カーロの遺品である。彼女のトレードマークとなっていたメキシコの伝統衣装を始め、身に着けていた下着や装飾品などと共に、不自由な身体に苦しんだ生涯を物語るコルセットや医薬品等、彼女の日常生活と密接した様々な物たちが登場する。もう1つの被写体は、フリーダ・カーロ財団から撮影の依頼を受けた写真家・石内都の仕事風景だ。本作品の監督・小谷忠典は、学生時代から最も影響を受けた石内を、いつか自作で描いてみたいという思いがあり、意を決して直接連絡を取ったという。そこでたまたま、2週間後にフリーダの遺品撮影の目的でメキシコへ渡る話を聞き、何とか自分で渡航費用を工面し、撮影に同行。敬愛するアーティストの仕事現場に密着取材することが可能となったらしい。面白いのは偶然の数珠つなぎである。つまり、思い切って自分から近づいた小谷は、その結果、図らずも石内とフリーダという2人の女性アーティストを手繰り寄せるに至った。またその石内も、フリーダへの熱い支持から依頼を引き受けたわけではなく、メキシコに出向き、作品や遺品と直接対峙したことでイメージが刷新し、新たに魅了されたというから、これもまた予期せぬめぐり合わせだったと言えるだろう。何とまあ、ぞくぞくするような偶然ではないか!

こうして我々は、贅沢にも、小谷のカメラを通して2つの被写体の化学反応を見届ける幸運に恵まれる。中でも常に感動的だったのは、石内の柔軟なスタンスである。例えば現地のキューレターから遺品に関する説明を受けるとき、彼女はまるでフリーダの長年の友人のように理解しようと心を開き、耳を傾ける。「綺麗!」「面白い!」と感嘆しながら遺品の一つ一つににじり寄る姿は、女性モデルをその気にさせる男性カメラマンに見えたりもする。おそらく撮影に居合わせた人間は、監督以外全員女性だったと思われるが、衣服や生活にまつわる四方山話は、時空を超えて女たちの親密度を高めるもの。しかも、フリーダの日常に思いを馳せ、親類の集まりのように寛いで語り合う様子は、故人の墓掘りに留まるものでもない。そう、石内のスタンスは、現場に母性を立ち上らせる火付け役となる一方、カメラを通し父性の力で論理的に記録し、現在を基軸に捉え直して進むのだ。母性で場を温め、父性で切断するというその合わせ技に舌を巻いた。フリーダに流布する情念や傷のイメージを一度平坦に均し、生き物として存在した事実のみに集約したうえで、現在の時間に晒してもなおにじみ出る息遣いを丁寧に掬い上げるかのように…だ。そして、そんな慈愛に満ちた作業工程を経た石内の写真には、今まで知ることのなかったフリーダの可憐な気配が表れ出ていて、私にはとてもしっくりくるものとなった。遺品ではあるが、もはやものと呼べないような感覚…これもまたフリーダにまつわる一つの記憶である。記憶に正解はない。記憶の数が増えるほど、死者は自由に現在を駆け巡れるようになる。石内はカメラでより自由へと誘うのである。

そして映画はさらにもう一歩奥へ踏み込む。監督は、石内の仕事が形になり、写真集発表のハレの場まで追跡取材を続けたが、それだけで終わりにしなかった。ファンによる記録映画で着地せず、もう一度メキシコへ渡り、自分のまなざしも織り込むタペストリーに仕上げたのである。石内をきっかけにめぐりあったフリーダ・カーロ、そしてフリーダの精神的支柱となったメキシコの風土や伝統へ視野は広がり、今も受け継がれるオアハカの刺繍工芸に着目した小谷。母から娘へ譲り受け、親子3代で袖を通す伝統衣服という名の皮膚のバトンタッチを掘り起こすことで、フリーダの骨格をも示唆する取材となった。ここに、母性に対する感受性の強い小谷という作家の資質が発見できる。石内とは異なる文脈で、自分とフリーダの化学反応を織り上げたからこそ、偶然の旅の総括は成し得たのである。

 最後に個人的な備忘録を綴っておこう。正直言って私にとってフリーダは、どちらかというと踏み込みたくないタイプのアーティストだった(汗)。ただ、10年以上前に公開された伝記映画『フリーダ・カーロ』を見て、その独創的なファッション・センスの印象だけは強く残っていたため本作に足を延ばしたのだが、何を選んで生きたのかを、ものを通じて観察する機会となり、想像以上にスリリングで面白かった。特に日常使いの様々なものたちに、彼女の手仕事の痕跡が見られたときの興奮は忘れ難い。彼女の苛烈な生涯には、こんなささやかな作業に夢中になる時間が事実としてあり、太ゴシックで描かれることのないこの時間もまたフリーダを形作っていたと知って、軽やかな気分になったのだ。

その他、これは私の引き寄せた偶然になるのだが…、同日に見たホウ・シャオシェンの『黒衣の刺客』が、武侠映画でありながら衣装と母性の印象が濃厚に残る怪作だったことも書き加えておく。

 多面的な視座を組み入れて新たな物語が動き出す―。『フリーダ・カーロの遺品~石内都、織るように』は、そうした映画的な試みが成功した作品に仕上がっていると私は思う。

フリーダ・カーロの遺品~
石内都、織るように
2015年/日本/89分
監督    小谷忠典
撮影    小谷忠典
録音    藤野和行 磯部鉄平
音楽    磯端伸一
キャスト  石内都

■フレンチアルプスで起きたこと

生まれてこの方、一度もスキーをしたことがない。身軽にトライできないスポーツだからパスしてきた。移動が大変、用意も大袈裟、そのうえ季節限定となると、面倒くさがり屋な私の手に負えない。そんな私に最も縁遠い、“スノー・リゾート”なるものを取り上げた映画『フレンチアルプスで起きたこと』が面白かった。それも真夏日連続記録更新中の名古屋で満喫できるなんて!これ以上オツな楽しみ方はないだろう。監督はスウェーデンの新鋭リューベン・オストルンド。

 冒頭から見慣れないものばかりで、やたらテンションが上がった!スキーには、民宿→雑魚寝→学生サークル→和気藹々…みたいなノリしか持ち合わせていなかったが、なるほど欧州のスキー・バカンスは、ゴージャスな楽しみ方があるようだ。映画は、スウェーデン人の家族4人が、フランスの高級リゾートにやってきたところからスタートする。いきなりウェルカム写真撮影なんていうサービスが繰り広げられ、カメラマンの指示通りに笑顔でポージングする一家。おやおや、家族団らんの時間をハレにするための旅行会社の戦略か(笑)。まっ、乗せられるまま取りあえずなり切っておくのもありなのだろう。わざわざフランスに足を運んで羽を延ばすわけだから、一家の経済状態が裕福なのは自ずと推察できる。エグゼな夫トマスが、日頃怠っている家族フォローのために5日間のバカンスを計画したらしい。妻のエバと、娘のヴェラ、息子のハリーの4人が連れ添う姿は、まるで広告から抜け出たような理想の家族像そのものだ。でもって、笑っちゃうくらい壮大なアルプスの景色と、山々に抱かれるように建つ趣味のいいリゾートホテルと、洗練されかつ行き届いたスキー設備の揃い踏みはどうだ!ここまで全部がキラキラ輝いていると、かえって「書き割りですか?」と突っ込みたくなるから不思議(鑑賞後、本当にCGが多投されていると知って再度ウケた!)。ひと滑りしたあとの一家のお昼寝タイムまで覗き見させていただけて、滞在1日目にしてすでに私は、旅と家族にまつわる欧州発トレンド幸福見取図でお腹一杯になった。

 さて事件は2日目に起こった。山際のテラス席を陣取っての絶景ランチタイム時に、突如雪崩が発生し、居合わせた人々が一瞬パニックに陥った。雪崩自体は、ちょっとした笑い話のレベルで収束したが、笑えないのが咄嗟に取ったトマスの行動。何と妻と子供を置いて独り一目散に逃亡したのだ。あー、やっちゃったなあ…と思わず同情したくなる場面でもあるのだが、それよりパパのメンツが丸つぶれになるための小技が異様にサエていて、見惚れましたね。まずパパは、絶叫する息子をまったく無視し、野次馬的に雪崩に興奮した後、急に恐ろしくなって踵を返し、子供の手を取るのではなく携帯と手袋を掴んで独り猛ダッシュするというしょぼいオチ。このとき霞を用いて省略して見せる演出が、どこか大和絵の技法を彷彿させ、とぼけた味わいで何とも心憎かった。ただし、ほっかむりして逃げただけなら小心者と罵倒されて片付く話も、家族より携帯を優先させたことで、観客をも巻き込む展開へとイッキに変貌する。笑えない…もしかして私もやっちゃう?…、イザというときこそ無意識に自分の習慣に寄りかかるかも…と、スクリーンを離れた観客の日常にまで雪崩効果が及ぶ仕立てなのだ。―というわけで、キラキラから一転、気まずさ全開の残り3日半のバカンスが、この後も傷口に塩をすり込むように描かれて行く―。

家族の絆をテーマに描くなら、一旦家族サービスは取り止め、早々に帰国して日常で仕切りなおすのが妥当路線なのだろう。でもこれは、持ち場を離れた非日常の時間の中で、普段曖昧にしている役割分担の基準を白日の下に晒し、さらに「思っていたチームじゃなかった…」と、家族全員の落胆に何度も追い打ちをかけるように作り込んでいる。人工的に人間の深層心理に分け入るのである。特に、一家族のトラブルから端を発してはいるものの、男と女、親と子、既婚者と未婚者、客と従業員、単独行動と集団行動など、絶えず複数の周辺人物の心理状態を対比させながら描写していて、人間が抱える普遍的な心理側面を一望できるところがミソだ。ゲレンデを舞台にリゾート・モードになり切っていたトマス一家のように、観客をいっぱしの心理分析者になり切らせ、映画の時間に留め置こうという狙いが成功している。そしてやはり、心理ゲームを盛り立てるため、至る所に張り巡らせた小技のバリエーションが圧巻だ。星降る山並みが見知らぬ惑星に見え、雪崩防止設備は近未来の兵器に映り、時間とともに『シャイニング』のセットと化すホテル内にビビり、洗面所が登場するたび嫌な緊張が走る…。実際に見えているものとそこから立ち上る空気を微妙にズラし、しかもこれを登場人物たちの心理模様とガッツリ呼応させる描写力には斬新さが溢れている。相当偏差値の高い作り手なのだ。
 
 ラスト。ウソ泣きパパに負けじと過剰防衛ママの暴走で、トボトボと歩いて下山する幕切れがこれまた秀逸。不信感がアっという間に拡大感染し、身ぐるみ剥がされて彷徨う人々を冷徹に追いかけ、付け入るスキがない。
高級リゾートで心が遭難して終わるという皮肉な顛末―。娯楽映画の語り口をフル活用し、うそぶいてみせるが、この作家はなかなか硬派な出自。次回作が楽しみとなった。

フレンチアルプスで起きたこと
2014年/スウェーデン・デンマーク・フランス
ノルウェー/カラー/118分
監督    リューベン・オストルンド
脚本    リューベン・オストルンド
撮影    三村和弘
製作    木滝和幸
キャスト  ヨハネス・バークンケ
      リサ・ロブン・コングスリ
      クリストファー・ヒヴェー

■恐怖分子

およそ20年振りの再見、そして制作されて30年あまり経たエドワード・ヤン監督作品『恐怖分子』((86)の登場だ。

 かつての私の備忘録にはこんなことが書かれている―感情のブレがこれ程ない作家も珍しい。自分のルーツにこだわり続けるホウ・シャオシェンと異なり、何度見直しても色褪せしない視座で世界を捉えている―と。ベタ褒め。でも正直に告白すれば、今回、予告篇をウットリ見惚れながらもストーリーの記憶がほとんどなく、若干焦った。恥ずかしながら幾つかのシーンを断片的に思い出すだけだった(汗)。そんなわけで、初めて挑むつもりで飛びついたら…予想以上に強い映画で驚愕!もしかしたら30年寝かせて正解だったかも。やっとこの映画とまともに対峙できるようになったようだ。そのくらいヤンが捉えていた現代性は、時代の一側面をなぞっただけの代物ではなかった。作品そのものが有機的で、今も息をし続けているように映ったのだ。

 なんだろう、この生々しい感触は―。
ドラマには3つのグループが登場する。カメラ小僧と読書好き女子の同棲中カップル。ヤバイことに首を突っ込みまくる不良少女とその仲間たち。出世に貪欲な病院勤務の男とスランプ女流作家の倦怠期夫婦。ここに夫の友人の刑事や妻の元カレも絡みあい、台北を舞台にけしてほどけることがない悪夢が描かれる。内輪揉めなのか、犯罪絵巻なのか、それとも誰かの頭の中の妄想か…。早朝の都会で起きたドンパチを合図に、それまで接点のまるでなかった人々の動線がイッキに表出し、もつれだすのである。複数の登場人物を個々の関係性を浮かびあがらせながら進行させ、やがて大きな世界観が立ち上るように練られた構成は、確かに色褪せしにくいものではあるが、うーん、それほど通りのいい類型でもなかった。監督は、超・俯瞰で映画を緻密に設計しながらも、手中から零れ落ちるものはわざとそのまま放り出し、知らんぷり。微妙に余白を残しているのだ。そこに、登場人物たちの肉体があてどなく漂い、余白を埋めているように見えた。映画の中心に座するような役柄も演技も見当たらないのだが、どいつもこいつも自分のことしか考えていない物体として漂い、その負のエネルギーの総量がやけに生々しい。しかもまさに現代(いま)だ!

 特にドキッとしたシーンが3つある。1つは、小説家の妻が、テーブルを挟んだ向かい側にいる夫に三下り半を突き付けるくだり。この映画で一番長いセリフが用意され、切々と内面を吐露する唯一のシーンでもある。カメラは含みを一切排除し、ひたすら真正面から妻の顔を捉え続け、スクリーンはしだいに熱を帯びてくるのだが、一方でこの必死の訴えは対面する夫へ向けられてはおらず、過去の自分と決別するための体内会話に映る。他者不在の熱演。我々はいたたまれなくなる。ただし均衡は保たれる…夫は自動的に耳を塞ぎ、何も聞いていないのだから―。2つめは、兵役前の重圧から逃避中のカメラ小僧が、恋愛を出汁(だし)に生の意味を探しあぐねながら、ついにやることがなくなって実家へ戻るシーンだ。プール付きの豪邸で優雅にひと泳ぎして、だだっ広いダイニングテーブルで独り麺を啜るお坊ちゃまくん。話し相手は使用人だけ。驚いたことにその空虚な背中からは、独居老人の昼下がりのけだるさが漂うではないか。お坊ちゃまくんは入隊前からすでに老人と化している。そして3つめ。とどめを刺すのは、妻に逃げられ、出世の夢も断たれた八方塞がりの男と、友人の刑事が酒を酌み交わすやりとり。なんと監督は「朋あり遠方より来る、また楽しからずや」の絵を借りて、恐怖のボルテージを最高値に上げてみせた。夢遊病者のような佇まいで現れ、嬉しそうに嘘を並べ立てる男と、なにも疑わず快く祝杯をあげる刑事の寛いだひとときに、戦慄を覚えずにはいられない。誰に向けられた笑顔なのか、何を見据えた嘘なのか不透明なまま、旧友を観客に見立てて繰り広げる虚ろな独り芝居の感染力は、演出の範疇を超え、やがてスクリーンの外にいる我々の足元へ忍び込むのだ。そして最後にたどり着くのが、コントロール不能となった男が静かにおっぱじめる “死の舞踏 ”。崩壊寸前の男の見る悪夢が、もはや誰の悪夢か特定できぬ輪郭線のない地獄絵になり、登場人物全員の脳内へ感染して行くではないか―。ここに至り、『恐怖分子』という奇妙なタイトルの全貌が解き明かされるのである。

不意打ちのアクションを流麗に繋ぎ、予測不可能な日常を現実以上の弾力を湛えて描いたエドワード・ヤン。いや、彼の作品は、現実の日常以上に我々の生に痕跡を残すと断言しても過言ではない。絶えず人物と等価にモノ・音・空間が放つ情報を拾い上げ、それを映像に編み入れて進行させるため、ヤンの映画内時間の根は深く、強い。未来まで軽々と射程圏内に置ける表現になっているのはそれ故だ。しかも知性は上手に刈り込まれ、我々を置いてきぼりにすることなく、時折り笑いすらも送り届けてくれる…。そう、抜け殻になった大勢の人々をスクリーンで目撃しながら尚、我々は娯楽映画の高揚感に包まれ、エンドロールを眺めることになるのだ。

『恐怖分子』はこの先も呼吸し続ける。我々より長く生き延びる有機体映画である。

恐怖分子
1986年/台湾/カラー/109分
監督    エドワード・ヤン
脚本    エドワード・ヤン シャオ・イエ
撮影    チャン・ツアン
製作    リン・ドンフェイ
キャスト  リー・リーチュン
      コラ・ミャオ
      チン・シーチエ

■フォックスキャッチャー

不気味な映画である。背中に粘着性の強い物質がべっとり貼りついて、どうにもはがれないような薄気味の悪さが、ダラダラとしつこく続く。でもこの感触は嫌いじゃない。むしろ癖になるから困ったものだ(笑)。やはり劇場の暗闇は、いかがわしいものを浮かび上がらせ、この時とばかりに堪能させるための装置なのだと改めて認識した。そして映画では、善の単調さより、悪の面妖さを味わう方が断然愉快であることも― 。

“なぜ大財閥の御曹司は、オリンピックの金メダリストを殺したのか―”これは、1996年に実際に起きたレスリング五輪選手射殺事件を基にした映画『フォックスキャッチャー』のキャッチコピーだ。ただし、全米を震撼させた衝撃事件の全貌が今明かされるのか!などと色めき立つのは早合点。スキャンダル狙いの観客にとっては、詐欺紛いの一文である。何せここでは原因究明に時間を割かない。主要登場人物3人の背景も詳しく言及しない。映画の進行をそのまま事件に至るまでのプロセス(特に人間模様)と重ね、観客の目でしかと目撃させる映画なのだ。つまり“なぜ”の答えは目撃者個々の想像力次第。前号で紹介したワイズマン作品と同様の仕立てである。

開始早々観客は、スクリーンを覆い尽くす淀んだ空気に身震いするだろう。この極めて陰鬱な気配の主、マーク・シュルツは、ロス五輪で兄弟揃って金メダルに輝いたヒーローのはずだが、華やかさも朗らかさもない。そのうえ貧しい。およそアスリートとは思えぬ食事と生活環境は、どう解釈したらいいのか一瞬ひるむほどだが、競技への集中力だけは独りギンギンに張りつめていて、ライオンさえ素手で射止めかねないほどの闘争心を放っている。察するにマークは、根暗なレスリングおたく。偉業をなしても世間に注目されないのは、彼の視界に世間が映らないからではないか。唯一の社会接点は親代わりでもある兄のデイヴで、こちらは才能の高さはもちろん、気さくで面倒見が良く、誰からも慕われる人気者。つまり、極端に対照的な性格で絆の強い兄弟がドラマの要になるらしく、否が応でも悲劇の予感は高まる― 。

ある日この兄弟に、大富豪デュポン財団の御曹司ジョン・デュポンから破格の誘いが舞い込む。はい、想定外の口説きこそ、観客を最もとろけさす映画のマジックである。ファーストクラスのチケット、広大な屋敷への招待、高額の報酬提示、才能への賞賛と期待、そして何よりどデカイ未来図を提示して赤い絨毯へ導く「あしながおじさん」の登場に、観客はマークに成り代わって思わずウットリ。札束による価値提示と自尊心の高揚の、両方に酔いしれるというわけだ。社会に適応しにくいキャラだけど、研鑽を重ね一芸に秀でればいつかは報われる…よかったね、マーク!と勝手に拍手。映画ならではのトンデモ話は、派手に打ち上げてもらってこそナンボのものだ。ところが、兄のデイヴが迷うことなくアッサリ辞退するから面倒なことに―。レスリングも家族との暮らしも今の環境で十分幸せだからオマエ独りで行けよ… 悪気なく、こうかわされてしまうと弟はキツイ(観客は退屈)。意気込んでいた己の足元が、逆にブレ始めるから皮肉だ。こうして、金で動かない兄の存在によって、弟は金で買われた立場を意識せざるを得なくなり、兄の庇護を離れ、エリート・サラリーマン・レスリング選手の道を邁進するようになる。さて、ここからが画期的に面白い。ジョン・デュポンが、スポーツ振興をイメージ戦略に使う真っ当な企業スポンサーではないからだ。この「あしながおじさん」は金持ち過ぎた。もはや金で手に入れられないものは何もない男ゆえ、世界から称賛される人物になりたい!→オリンピックの舞台で世界を征服するチームの指導者になりたい!が目標設定。いわゆる名誉欲というやつだが、潤沢な資本を持っているがために妄想に歯止めがかからず、常軌を逸した執着をお披露目し、かなり笑える。「フォックスキャッチャー」と名付けたチームを設立し、最高の訓練環境を整え、そこに名ばかりのコーチとして君臨するのだが、実は笑ってばかりもいられない。妄想の根底にあるのが、高圧的な母を見返すための必死のチャイルド・プレイだからだ。むしろ母子の確執や家系の重圧を孤独に背負う男の裸の王様パフォーマンスに、深い憐れみを抱いてしまうのは私だけだはないだろう。ジョンに扮するスティーヴ・カレルの突き上げた顎のラインと虚ろな瞳が、掘れども掘れどもたどり着けない特権階級の底なしの虚無感を具現化し、とんでもないものを見てしまった感さえある。狂人と一言で片付けるのはちょっと惜しいような…。そして世間と馴染めないマークがジョンに急速に傾倒して行ったのも、夢や金を優先した結果というより、同類相憐れむという感情が無意識に働いたせいとも受け取れる。「一緒に偉大なことを成し遂げよう!」と一致団結するこの凸凹コンビは、承認欲求に憑りつかれた宙ぶらりんな十代の少年みたいだ。子供並の情緒年齢に留まっている者同士、ある意味、奇跡に近いめぐり合
わせにも見える。ポジに転べば『最強のふたり』のように格差を超えた甘い友情ドラマになる可能性もあったはずだが、結末は悲惨。歯止めの利かなくなったジョンの狂気が、兄デイヴへ向けて炸裂する― 。

大富豪の御曹司が転落に至る道筋には、「ざまあみろ!」と一言で片づけられない後味の悪さがあった。常に愛され、祝福される人生を真っ直ぐ歩んできたデイヴの存在は、周囲から孤立して無感情に生きてきたジョンの何かを刺激してしまったのかもしれない。マークも含めた三つ巴の破滅劇は、人生の輝度の差が激しくて、終わってみたら悪の面妖さより、遠吠えを聞かせる相手さえいない者たちの悲哀に気を取られてしまった。それにしても、祖国アメリカが切望するヒーロー像に盲目過ぎる者たちが陥る自滅のドラマは、今後も際限なく繰り返されるような気がしてならない。アメリカが「強者神話」の幕を降ろす日は、果たして来るのだろうか― 。

フォックスキャッチャー
2014年/アメリカ/カラー/135分
監督ベネット・ミラー
脚本E・マックス・フライ
撮影グリーグ・フレイザー
美術監督ジェス・ゴンコール
キャストスティーヴ・カレル
チャニング・テイタム
マーク・ラファロ

■ナショナル・ギャラリー

何かと手強いドキュメンタリー作家フレデリック・ワイズマンが、今回作品に選んだ舞台は、ロンドンの中心部にあるナショナル・ギャラリー。1824年に開設された英国初の国立美術館である。私にとっては、訪問経験も予備知識もない公共施設の探訪記。美術には関心が強い方だから、尚のことありがたい企画でもある。

 ワイズマン作品はいつもさり気なくはじまり、しかもエレガントな印象を残す。観客は一呼吸する間もなく、舞台の中央に独り立たされるのだが、そうした意識すら働かない。気負わなくていい代わりに、馴れ馴れしい身振りも見せないので、ここで何時間過ごそうとも“気づき”は自分次第。独断と偏見で観察させていただくまたとない機会が、冒頭から待ち受けるのだ。さて、本作のオープニングは、宵闇迫る美術館の外観、噴水、ライオン像のショットである。ロンドンの観光スポット・トラファルガー広場から見たハレの構えを、チラっとお披露目する。なるほど、戦いの勝利を記念する場所にあるようだ。そして次に所蔵絵画へ。ところが美術史の流れはかなり足早で、主役のはずの絵画の紹介はアッという間に進み、おもむろに館内の清掃シーンへつないでみせる。磨かれた床に映った名画の影と、観客が残した靴跡が重なり合い、美術館の日常性がスッと立ち上る仕立てだ。はい、ハレとケの混じり合いですね。これからの3時間、退屈する暇のないことは明らかである。
 
 ナレーションもテキストも音楽も用いないワイズマンの作風は、近年優れたドキュメンタリー映画とされる型の先駆けであり、すでに広く定着された趣がある。先にも記した通り、「ここで何時間過ごそうとも“気づき”は自分次第」。そもそも美術品を鑑賞して想像を膨らますだけでもかなりの集中力を要す作業だから、美術館に行って施設そのものの日常へ目を向けることなどまずないだろう。故に、脚色ゼロの複数の視点をヒントにしてこの施設の営みの輪郭が掴めたら、翻って美術品に対峙する際の得難い補助線になりうるかもしれない…。とまあ、教養増幅材料として見るだけでも楽しいわけだ。個性的な学芸員、ユニークなワークショップ、空中戦が繰り広げられる運営会議、高度な技術を身に着けた専門家たちの矜持など、裏方の日頃の労働姿勢を窺い知ると、俄然ハコの信頼&親密度は増す。そのうえ映画は、名画を前にしたときの鑑賞者たちの横顔を頻繁に差し挟み、ハコの日常から見たら観客もこの場所を織りなす一要素と捉えて指し示す。つまり、この場所にはとてつもない崇高な何かが存在し、人々はそれにあやかりたかったり、それを守り抜かねばならないという使命感に燃えたりするようだ。全員で「美」の下に集結している情景とでも言ったらいいのか…。ということで、人々をこれほどまでに惹き付けてやまない美術館の魅力の源泉は一体何なのかを、考えあぐねながら3時間を過ごしていた。

 偶然だが、美術史の舞台裏を描いた傑作―『印象派はこうして世界を征服した』((フィリップ・フック著 白水社)を読んでいたときに、本作を目にした。印象派絵画が、世界の富裕層に絶対的な価値基準となるまでを競売人の視点でスリリングに明かし、極めて興味深い一冊なのだが、本の中で英国は分が悪い。19世紀の絵画の世界において、印象主義はアカデミーに対抗する最も重要な抵抗運動だったが、英国は新しいものの見方をなかなか受容できず、相当イケテなかったようだ。ナショナル・ギャラリー理事会は1905年にドガの作品の寄贈を拒絶さえしたとか((爆)。コレクターのコレクションで始まった開かれた美術館との触れ込みだが、どうやら保守的で了見の狭いエピソードに事欠かない側面もあるらしい。でもまあ、考えようによってはそれも一つの“差別化”になり得る。公共施設ならではの様々な課題と摺合せながら、「美」という定義しづらい価値を射抜くのには、ある種の頑なさも必要なのだろう。時を経て変わらずに残り続ける部分と、しなやかに変わり移る部分の両方が浮び上がるとき、この施設の健全状態に触れられた気がする。

 個人的には、美術品を前にしたときの人々のリアクションを見るのが楽しかった。観客も裏方も、「美」に照らされるとこんなにも豊かな反応を見せるのね…。脳内で個々にどんな判断をしているかは不明だが、対象から確実に何かを受け取り、その情報量の多さは自分が日常的に使っている物差しでは対応できなくて、自動的に目盛を増やしているかのごとくだ。そして目盛が増えると、自分を取り囲む世界の解像度も上がる…。そう、美術館は化学反応を起こす理系の場なのかもしれない。そういえば、映画では化学反応によって体内会話が増幅し、演劇めいた空間が目の前に広がって見えるシーンも登場する。学芸員たちのレクチャータイムである。熱い思いを気持ち良さそうに放出する彼らは、絵画の補足役から独り歩きし、ほとんどパフォーマンスの領域に突入していた。ガマの油売りの口上みたいと言ったら叱られるか((笑)。ワニスの扱いに熱弁をふるう修復師・ラリーもかなりの芸人だったしな…。
「美」を前にすると人はタガを外す。これ以上の悦楽はないようだ。

ナショナル・ギャラリー 
~英国の至宝~

2014年/米・仏/カラー/181分
監督・編集・録音  フレデリック・ワイズマン
撮影          ジョン・デイヴィー
キャスト  ナショナル・ギャラリーのスタッフ他