■『あなたの顔の前に』

すれ違いざまに胸騒ぎするものが視界に入り、「えっ?今のなに?」と、振り返ってもう一度見直すことってあるよね?しかも、確実に目の端で気になるものを捉えたのに、すでに辺りに姿形はなく、何やらキツネにつままれた心持になった経験も一度ならずあるだろう。

わかりにくい例えで恐縮だが、ホン・サンス監督の新作『あなたの顔の前に』は、そんな感覚を思い起こさせる映画である。上映中にマンマと梯子を外され、未だに映画の時間の中に宙吊りにされている気がしてしょうがない。細い輪郭線で描かれたその幻影と戯れるのは、艶めかしくてなかなかオツな体験となった。

―と、神妙に書き始めたが、実際はしっとり気分で鑑賞しながら、一方でその同じ熱量を使い、銀幕に向かってひとりツッコミを繰り返していたのである。面白いでしょ(笑)。だって、タイトルからしてジャンル分けもドラマの展開もさっぱりヨメず、意味不明だしね。

ただ、幕開け早々にヒロインのモノローグで「私の顔の前にある全ては神の恵みです」「過去もなく、明日もなく、今この瞬間だけが天国なのです」と聴こえてくると、そのあまりの目線の高さに意表を突かれ、神の恵みかどうかはともかく(笑)、「この瞬間=天国」イメージに一発でノセられてしまったのだ。

教会でなく高層マンションの一室の寛いだ空間でこのつぶやきである。さらにヒロイン・サンオクが、江波杏子(1942-2018)を思わせる苦み走ったイイ女で、真っ赤なノースリーブ姿には年増女の色香が漂い、訳ありの過去を踏まえた言葉のように聴こえてくるからたまらない。もしかして職業は女賭博師か?(笑)

いやいや、賭場でもN・Yでもなく、ここはソウル市内にある羽振りのイイ妹の家らしい。とはいえ、サンオクが妹の寝顔をじっと見つめるのはなぜ?起床した妹との会話がぎごちないのは気のせいか?…と、一般的な姉妹ドラマの素振りには程遠いため、またもや奇妙な感触がついて回る。

その後も、サンオクがトランクから着替えを出すシーンや、二人で朝食を食べに外出しつつ金や不動産の話になるところとか、ここで盛り込むネタかよ?やけに感謝のつぶやきも多いし…とツッコミ続けていたが、長年交流のなかった姉が突然アメリカから帰国したら、とりとめのない会話で距離を測り合うのが自然な姿にも見えてくるのだ。

さらに姉妹の間に他者も絡ませる。公園を散歩中の二人が、通りすがりの女性に写真撮影をお願いしたら、かつて俳優をしていたサンオクの顔に見覚えがあり、もう一度出演作を見たいと声を掛けてくるではないか。偶然✕偶然みたいな、ありえない情景。TVに出たのは1回だけなのに…と、サンオク自身もその奇遇に驚くが、すでに監督のズラしのリズムにノッてしまっているわたしは気負わない。映画が個々のエピソードをどう回収するのか?と、先読みすること自体がもはやケチくさい気がして―。

例えば橋の下でサンオクが喫煙するシーン。なぜこんな所で?と疑問に思っても、せせらぎの音とかがめた身体のラインと天上界へのつぶやきが混然一体となり、瞼に焼き付いて離れない。あたりなどつけずともへっちゃら。謎は多いが、なぜかハシゴを外されても向かう先には恵みが待っている予感がしてならないのが本作なのだ。

散歩の後にふたりは、妹の息子が経営する飲食店へ立ち寄る。お目当ての甥は不在。その代りここでも、スープトッポギを食べたら、ブラウスに汁を飛ばして慌てるといったどーでもいい(?)エピソードをクローズUPし、あえて意味を遠ざけ、のらりくらりとやり過ごすホン・サンス。

しかし、なんやかんやと絶えずアクションでつなぎ、映画内運動は決して止めずに回し続けるわけで、ユルそうでいて緊張感は途切れない。遂にはフレーム外からプレゼントを持った甥っ子が追いかけてきて、大好きな叔母さんと再会&抱擁である。なによ、このスペシャル感!もはやブラウスのシミさえ、かけがえのない人生の瞬間に変換しているわ!

さてここからが本番。映画はサンオクを独り、久しぶりの故郷に放牧してみせた。すると彼女は意表を突き、幼い頃に住んでいた懐かしき場所を訪れ、かつて遊んだ庭の茂みにうずくまる。しかも今は店舗になっている空間で、サンオクの記憶が身体の隅々まで緩やかに蘇るとき、スクリーンを前にした我々の個人的記憶をも呼び起こす…。そう、縁もゆかりもないソウル市内の空間が、鑑賞者ひとりひとりの記憶の空間と響きあうのである。映画がもたらしてくれたギフトに、束の間酔いしれた。

さらに放牧の最終コーナーには密会が待っていた。女優時代のサンオクの熱烈なファンを自認する映画監督との対面である。貸し切りの居酒屋で、昼間っから中華をつまみつつホロ酔い気分の中年男女。永遠のマドンナを前に涙ぐんで喜ぶ監督と、手放しの礼賛に悪い気はしない元女優の、愚かしも憎めないやりとりが、可笑しくもありまばゆくもあり。

サンオクが、昔習ったギターをたどたどしく爪弾けば、突如居酒屋店内が風流なお座敷に化けたりして、まるで都々逸的世界(笑)。ベテラン芸妓のサンオク姐さん、時折りのぞくブラの肩ひもさえも艶っぽい。青春スイッチの入った監督が、彼女主役の映画を作りたいとラブコールするのも当然だろう。

ところがサンオク姐は頬を紅潮させ、時折笑みさえ浮かべながら―私には時間がない、病気で長く生きられない―と、丁寧に詫びるではないか!衝撃的な余命告白。「まいったな…」とつぶやく監督と我々の戸惑いは見事に一致。様々な謎や、彼女が絶えず神に向かって語り掛けていた理由がここでイッキに判明する。と同時に、今となっては物語の中心線をズラされ続けたあの歯がゆい時間に戻りたいとも思うのだ。

降り出した雨の中、店をあとにするふたり。1本の傘に身を寄せタバコに火をつける後ろ姿…。雨音をBGMに繰り広げられるドラマチックなシークエンスはここだけ別撮りされた短編映画のように映るが、ホン・サンスは並みの作り手ではない。このまま映画を終わらせない。幕切れ前になお、ここぞとばかりに見事にうっちゃる。

翌朝、なんと冒頭の設定を再び繰り返す。高層マンションの一室に舞い戻り、眠っているサンオクの夢を解くかのように、監督のヘタレ録音メッセージを高らかに響かせるではないか。おいおい、いざとなったら腰が引けたのかよぉー!真摯に詫びる男の声を聴きながら、声を上げて笑うサンオク姐。彼女は”観客の顔の前” で、本作中最も生命力にあふれた姿を披露する。世界中の誰よりも今この瞬間を濃密に生きて笑う、身体をのけぞらして大笑いするのだ。死を前にしてもままならない人生の皮肉を!

『あなたの顔の前に』は、どこへたどり着くともわからない不意打ちの連続だ。赤いタンクトップで始まり赤いタンクトップで終わって一巡する1日だけの物語だが、常にフレームの外へ外へと拡張しながら綴られているため、印象が固定化されない。それでも、映画内時間をヒロインと共に慈しんで生きたという残り香だけは間違いなく身体に刻印される。はぐらかされているうちに、いつしか生の一回性を痛感してしまう傑作、必見です。

2021年/85分/韓国

監督/製作/脚本/撮影/音楽/編集 ホン・サンス

出演 イ・ヘヨン チョ・ユニ クォン・ヘヒョ