■『わたしの叔父さん』

目を凝らさないと判別できないような、薄暗い物置部屋を映し出して、映画は始まる。とりあえず、動くものはない様子。音楽も流れないし……とっかかりゼロの、何ともお地味なファーストショット。情報がなさ過ぎて、逆にどんな意図があるのだろう?と、身を固くしたほどだ。

そんな静かな空気を、フイに目覚まし時計のアラーム音が打ち破る。これを合図に一転、本作の骨組みと情報のほとんどを、一筆書きでスーっと開示してくるから、身を乗り出さずにはいられない。舞台となるのは、デンマーク、南ユトランド地方の農場である――。

起床した瞬間にキビキビと動き回る金髪のヒロインは、クリスという名で27歳。手短に身繕いをして、体の不自由な叔父さんの身支度に手を貸し、ふたりで朝食のテーブルに着く。パンとシリアル、ヌテラ(ピーナッツチョコ)と紙パックドリンク、ワールド・ニュースと数独(ナンプレ)本…じぶん好みの食事のお供を各自用意し、眼を合わせることなく黙々と過ごす早朝のひととき。

やがて隣接する牛舎で酪農作業が始まる。メインに動くのはクリスだが、叔父さんも歩行器を使いながら巧みにアシスト。作業後の手洗いにさえ阿吽の呼吸が流れ、「なにも足さない…なにも引かないbyサントリー山崎」並みの安定感に脱帽するばかり。

驚くのはまだ早い。この後もふたりのよどみない動きが、我々にある種の快楽をもたらすよう映画は進む。洗濯物を畳み、買い出しに行き、食事の用意&後片付けも常にいっしょ。夜になればふたりでゆったりゲームを楽しみ、眠る直前までリビングでTVを見ながらお茶をして寛ぐ……。叔父と姪のニコイチプレイが一日中止まらないのだ。

でもなぜ我々は、何の変哲もないふたりの日常を、退屈するどころか面白がって眺めていられるのだろうか――。まずこの時点でわかるのは、クリスにやらされ感がゼロだということ。叔父さんへの素晴らしく行き届いたケアが、若さ眩しい未婚の女性の”意思”で行われていることに、確信が持てるからだ。喜んで世話をしているんだな……叔父さんを心から大切に思っているから目配せが丁寧なんだな……と。

さらに、クリスの繊細な配慮は、あらゆる場面で顔を出す。夜更けに牛の異変に気付いて死産を回避させたり、子牛の病を見逃さなかったりと、出入りしている獣医のハンセンから助手になってほしいと懇願されるほど筋がイイ。もともとクリスは獣医志望の学生だったらしい。だから、叔父さんが倒れ、農場を守るために進学を断念した経緯を知るハンセンは、研鑽が積めるための応援を惜しまない。彼女の能力を将来につなげてもらいたい一心なのだ。

一方で我々は、クリスの気難しくて頑な一面も頻繁に目撃し、その理由を遠巻きに知ることになる。14歳で父と兄を相次いで亡くし、以来叔父さんの農場で同居するようになったが、未だ父の自殺を受け入れられないあたりに、息苦しさの根っこがありそうだ。確かに幼くしてそんな喪失感を味わってしまったら、TVから流れる世界情勢は無論、身近な世間にも背を向け、ひとり数独本に没頭するのも無理はないだろう。しかしそれも時間の問題か――。

ある日クリスは教会で、見知らぬ青年・マイクと出くわす。偶然が2度続けば必然である。さわやかな彼からすかさずデートの誘いもあり、恋愛感情の芽生えにこれ以上ないほどの好条件が揃う。スクリーンを前にすれば、誰もが大手を振って恋愛至上主義者になれるのが映画の醍醐味。すでにクリスに関して訳知り顔となっている我々が、身内気分で胸をなでおろすのも自然な成り行きだ。

いつも静かに寄り添い続けてきた叔父さん。そこに新規参入するキャリア支援役のハンセンと、人生伴走候補のマイク。

そのうえ、エミール・ノルデの水彩画を思わせる美しき故郷の風景がヒロインをゆったりと抱きとめ、遠回りしながらも、今の彼女は世界にもてなされている。

ところが、案の定というか、やっぱりというか……。将来への期待が膨らめば膨らむほど、クリスは心の整理がつかない。獣医学に集中すれば叔父さんへの後ろめたさであたふたし、ロマンチックラブも、叔父さんを隠れ蓑にして溺れないよう絶えず後ずさってばかり……。挙句の果てには、選択肢が増える混乱で、善意のもてなしをバッサリ切り捨て、ちゃぶ台をひっくり返すから手に負えない。

観客という奴は勝手なもので、予定調和な未来図よりはリアルな日常を欲するものの、ここまで主人公が安心&安全のルーティンにしがみつくと、むず痒くていたたまれなくなる。しかも新規参入者たちは恨むことなく撤退し、叔父と姪のニコイチプレイが、何食わぬ顔で再演されて膝カックン。えっ?結局この人生すごろくは振り出しに戻るってわけ?

意表を突く”振り出し戻りシーン”に、わたしはどっと力が抜けた。知らぬ間にクリスの頑なさが私にも伝染していたようで、思わず苦笑い。我らのヒロインが、来るべき未来の時間を想像し、博打が打てないことはよーくわかった。差し当たっていまいま必要なのは、叔父さんという名の古い杖なのだろう。そうと気づけば、冒頭の何も動かない物置小屋のシーンは、彼女の心中のようにも思えてくる。まだ潮目は変らないようだが、動かぬ生活だって一つの幸福の形だ。ただ映画は、最後に一滴の雫を落とし、寸止めで幕を下ろしてみせた――。

いつもの朝、いつもの食卓、そこに流れるいつものワールドニュース。叔父と姪のニコイチ朝食プレイは判で押したように今日も繰り返される。――が、突然音声がプツリと途絶え、何とTVが故障。そう、映画は幕切れに、世界のノイズを遮断したのだ。するとクリスは数独本から頭をもたげ、今はじめて見るかのように叔父さんの顔をマジマジと眺めるではないか!

じぶんの意思をもってしても、予期せぬことが起こり続けるのが世の常。なるほど、モノが壊れて潮目が変わることは十二分にあるだろう。音声が消えた食卓で、クリスは一体何に反応したのだろう……。2人がいつも無言だった事実にハッとしたのか。それとも、本当はじぶんが叔父さんに依存していることに気づいたのか……。いずれにせよ、諸行無常。一滴の雫の波紋はスクリーンの外へ外へと広がり、閉幕後も我々の想像力を刺激して止まない。

男性目線の成長神話にも、女性目線の変容神話にも安易に乗らないクリス。外からもたらされたものでなく、内なるじぶんが何かを掴んだとしたら、『わたしの叔父さん』は新しいヒロイン像の誕生に立ち会う映画かもしれない――。

『わたしの叔父さん』

2019年/110分/デンマーク

監督・脚本・撮影・編集 フラレ・ピーダセン

プロデューサー マーコ・ロランセン

音楽 フレミング・ベルグ

出演 イェデ・スナゴー ペーダ・ハンセン・テューセン