■ナショナル・ギャラリー

何かと手強いドキュメンタリー作家フレデリック・ワイズマンが、今回作品に選んだ舞台は、ロンドンの中心部にあるナショナル・ギャラリー。1824年に開設された英国初の国立美術館である。私にとっては、訪問経験も予備知識もない公共施設の探訪記。美術には関心が強い方だから、尚のことありがたい企画でもある。

 ワイズマン作品はいつもさり気なくはじまり、しかもエレガントな印象を残す。観客は一呼吸する間もなく、舞台の中央に独り立たされるのだが、そうした意識すら働かない。気負わなくていい代わりに、馴れ馴れしい身振りも見せないので、ここで何時間過ごそうとも“気づき”は自分次第。独断と偏見で観察させていただくまたとない機会が、冒頭から待ち受けるのだ。さて、本作のオープニングは、宵闇迫る美術館の外観、噴水、ライオン像のショットである。ロンドンの観光スポット・トラファルガー広場から見たハレの構えを、チラっとお披露目する。なるほど、戦いの勝利を記念する場所にあるようだ。そして次に所蔵絵画へ。ところが美術史の流れはかなり足早で、主役のはずの絵画の紹介はアッという間に進み、おもむろに館内の清掃シーンへつないでみせる。磨かれた床に映った名画の影と、観客が残した靴跡が重なり合い、美術館の日常性がスッと立ち上る仕立てだ。はい、ハレとケの混じり合いですね。これからの3時間、退屈する暇のないことは明らかである。
 
 ナレーションもテキストも音楽も用いないワイズマンの作風は、近年優れたドキュメンタリー映画とされる型の先駆けであり、すでに広く定着された趣がある。先にも記した通り、「ここで何時間過ごそうとも“気づき”は自分次第」。そもそも美術品を鑑賞して想像を膨らますだけでもかなりの集中力を要す作業だから、美術館に行って施設そのものの日常へ目を向けることなどまずないだろう。故に、脚色ゼロの複数の視点をヒントにしてこの施設の営みの輪郭が掴めたら、翻って美術品に対峙する際の得難い補助線になりうるかもしれない…。とまあ、教養増幅材料として見るだけでも楽しいわけだ。個性的な学芸員、ユニークなワークショップ、空中戦が繰り広げられる運営会議、高度な技術を身に着けた専門家たちの矜持など、裏方の日頃の労働姿勢を窺い知ると、俄然ハコの信頼&親密度は増す。そのうえ映画は、名画を前にしたときの鑑賞者たちの横顔を頻繁に差し挟み、ハコの日常から見たら観客もこの場所を織りなす一要素と捉えて指し示す。つまり、この場所にはとてつもない崇高な何かが存在し、人々はそれにあやかりたかったり、それを守り抜かねばならないという使命感に燃えたりするようだ。全員で「美」の下に集結している情景とでも言ったらいいのか…。ということで、人々をこれほどまでに惹き付けてやまない美術館の魅力の源泉は一体何なのかを、考えあぐねながら3時間を過ごしていた。

 偶然だが、美術史の舞台裏を描いた傑作―『印象派はこうして世界を征服した』((フィリップ・フック著 白水社)を読んでいたときに、本作を目にした。印象派絵画が、世界の富裕層に絶対的な価値基準となるまでを競売人の視点でスリリングに明かし、極めて興味深い一冊なのだが、本の中で英国は分が悪い。19世紀の絵画の世界において、印象主義はアカデミーに対抗する最も重要な抵抗運動だったが、英国は新しいものの見方をなかなか受容できず、相当イケテなかったようだ。ナショナル・ギャラリー理事会は1905年にドガの作品の寄贈を拒絶さえしたとか((爆)。コレクターのコレクションで始まった開かれた美術館との触れ込みだが、どうやら保守的で了見の狭いエピソードに事欠かない側面もあるらしい。でもまあ、考えようによってはそれも一つの“差別化”になり得る。公共施設ならではの様々な課題と摺合せながら、「美」という定義しづらい価値を射抜くのには、ある種の頑なさも必要なのだろう。時を経て変わらずに残り続ける部分と、しなやかに変わり移る部分の両方が浮び上がるとき、この施設の健全状態に触れられた気がする。

 個人的には、美術品を前にしたときの人々のリアクションを見るのが楽しかった。観客も裏方も、「美」に照らされるとこんなにも豊かな反応を見せるのね…。脳内で個々にどんな判断をしているかは不明だが、対象から確実に何かを受け取り、その情報量の多さは自分が日常的に使っている物差しでは対応できなくて、自動的に目盛を増やしているかのごとくだ。そして目盛が増えると、自分を取り囲む世界の解像度も上がる…。そう、美術館は化学反応を起こす理系の場なのかもしれない。そういえば、映画では化学反応によって体内会話が増幅し、演劇めいた空間が目の前に広がって見えるシーンも登場する。学芸員たちのレクチャータイムである。熱い思いを気持ち良さそうに放出する彼らは、絵画の補足役から独り歩きし、ほとんどパフォーマンスの領域に突入していた。ガマの油売りの口上みたいと言ったら叱られるか((笑)。ワニスの扱いに熱弁をふるう修復師・ラリーもかなりの芸人だったしな…。
「美」を前にすると人はタガを外す。これ以上の悦楽はないようだ。

ナショナル・ギャラリー 
~英国の至宝~

2014年/米・仏/カラー/181分
監督・編集・録音  フレデリック・ワイズマン
撮影          ジョン・デイヴィー
キャスト  ナショナル・ギャラリーのスタッフ他