■『主婦の学校』

な、な、なんなんだこれは…。予告をチラ見しただけで、心身ともに寛いでしまった。しかも隅々までスキっと美しいではないか!

『〈主婦〉の学校』は、アイスランドの首都レイキャビックにある家政学校「Húsmæðraskólinn」を密着取材したドキュメンタリー。1942年に創立した生活全般の家事を実践的に教える伝統校らしいが、いやはや、想像以上に様々なことを考えさせられる映画だった。

何せ疑い深いタチなので、まずはキレイキレイな印象を受けたじぶんを、一旦括弧に入れて座席に着いた。北欧マジックに騙されないぞーと(笑)。ところが開口一番、淡いピンクのセーターをお召しになり、静かに執務にあたっている校長先生を目撃したら…もうダメですね。

金八先生by赤木春恵ではなく、苦み走った草笛光子似のマルグレート校長が、超かっけーのだ。日本とはビジュアルだけでもこうも違うのか~。そしてひとたびそのハスキーボイスで穏やかに語り始めたら、英国諜報部MI6のボスにしか見えません。もちろん007は出てこない、ここは家政学校ですから―(笑)。

次の”こうも違う”事例は、建てられて100年になる真っ白な学び舎だ。少人数制の学校だから、ちょっと大きなお屋敷を校舎に利用しているようだが、どこもかしこも小ざっぱりと気持ちよく整えられ、さりげなく飾られた絵画がイチイチ決まっている。簡単に真似ができないレベル。それでいて誰もが親しみを抱くインテリアで心落ち着く。

さらに屋根裏には寄宿生のための寮が用意され、まるで絵本の世界ではないか。ここで暮らしながら学べるってマジに天国じゃね?恐るべし北欧マジック。少なくともわたしが知る学校環境とはまるで異なり、機能的かつ温もりのある空間作りに早くも脱帽するしかない。

学生側に目をやれば、アイスランド全土からごくフツーの若いお嬢さんたちが集まってきている。「主婦になるためじゃない」「手仕事に興味があって」…と、目的は様々だが、誰もがここで学ぶことに意欲的。そう、生活全般の知恵や技術を身につけることは、じぶんの人生をよりよきものにすると考えているのだ。「就職」に紐づいた学びにしか価値がないと思い込んでいる日本人とは、”決定的に違う”のだ。

授業シーンがこれまた楽しそう!秋に入学した学生たちは、バスに乗って遠出し、ベリー摘みの実習から始まる。ケーキやジャムを作るため、収穫から体験させるというダンドリだ。すんばらしいロケーション、ベリーってこんなゴツゴツした岩肌に実るのか!日本でこんなプログラムを実現するなら、授業というより、旅行会社のツアー商品だろう。

授業シーンの中で、登場頻度が高かったのは、やっぱり調理実習。目の保養にもってこいだからね。ただこの学校では、じぶんたちのその日の食事作りから始まっているので、授業と生活の区分けがなく、とても理想的な基礎実習方法に思えた。完成した夕飯を校長先生も交えて大家族のように食べ、食事を終えたら手をつないで「ごちそうさま」とねぎらいあうシーンなんて、美しすぎてめまいすら覚えたわ…(汗)。

その一方で、伝統料理や凝ったおもてなし料理も丁寧に学べるわけで、生活文化はこんな風に自然体で伝承されるのがベストだと感じた。母から娘とか、母から嫁へみたいな形骸化した家族幻想に未だに縛られていたり、食事作りの価値を無償奉仕としてしかみなしてこなかった我々とは “こうも違う”のだ。

他にもテーブルセッティングにマナー、洗濯&アイロンかけ授業もあれば、洋裁や手芸ワークと、盛りだくさんな内容。家事を基礎の基礎から学べるなんて、なんて贅沢!何よりすべての学びを、じぶんの生活技能を高めるための実学とおいているところにグッときた。

映画の構成は、卒業生たちのインタビューを交えて進行する。1997年に学校初の男子学生となった彼は「卒業するとき、校長に『あなたは幸運な男性になるわ』と言われた。人生でうまくいかないことがあるたびに、その言葉を思い出し乗り越えてきた」と語る。さらに、卒業後に環境大臣になった男性まで登場し、母校の取り組みを「いまこそ意義がある」と賞賛する。かんじ良すぎてケチのつけようがない。本当にここでの体験が、じぶんの人生に実をなしているのだろう。

今回初めて知ったのだが、良き主婦になることを目的としたいわゆる”花嫁学校”は、かつて世界中に作られていたらしい。でもって今ではどこも衰退。同様の目的で創立しながら本校は、時流に目配せしつつ「主婦」から「家政」へ学校名を変えたり、男女共学にしたりと教育内容はそのままに、アピールポイントを刷新して、現在も存続する数少ない例とか。それでも、学校継続の許可が下りるのは、毎回新学期が始まる1ヵ月前(!)だと言うから、マルグレート校長も、気が休まる暇はないだろう。

運営母体の大小にかかわらず、どんな学びの場を継続的に整えて行くかは、その国に生きている人々の在りたい姿が反映される。気負うことなく生活を大切に営み、自立した人生を楽しもうと考えるアイスランドの人々に、俄然興味がわいた。

生活全般を回せるようになることは、自らと社会の関係について認識することであり、それは共同体を維持するための規範を考えることにつながる。これぞまさに教養だ!”ジェンダー平等”先進国は、国の旗振りだけでなしえたものではない。よりよき市民になるための意識が、長い時間をかけて日常的に育まれているのだ。

映画は卒業式後の歓談シーンで幕を閉じる。小さな学校の小さなセレモニーのそのまた小さな階段前の通路が舞台だ。何もこんな窮屈なところでカメラを回さなくても…と呆れるような一角である(笑)。でも、ここに入れ代わり立ち代わり現れ、感謝と歓びをそっと噛み締め合い、別れを惜しむ学生たちの姿がたまらなくイイ。静かにねぎらいあう姿が胸に染みた…。寝食を共にしながら学んだ校内の道辻に、よき市民たちが集う絵として、特に忘れ難いものとなった。

ところで日本の家庭科教育は現在どうなっているのだろう。50年前のわたしの体験とは様変わりしているはず。本作を見て急に気になり始めた。ちょっと調べてみよう―。

『主婦の学校』

2020年/78分/アイスランド

監督/脚本/編集 ステファニア・トルス

製作/音楽/音響 ヘルギ・スババル・ヘルガソン

出演 マルグレート・ドローセア・シグフスドッティル

◆『ギプス』について

去年の10月に写真集『ギプス』を出版した。
 作品じたいは四半世紀以上もまえのものである。それらの写真が撮影された1991年頃の、それこそ写真家駆け出しの頃のことは長めの「あとがき」に書いたので、ここではなぜいまの出版なのかなどについて触れておこうと思う。
 撮影―現像、プリント―展示というサイクルをひたすら繰り返していた。振り返る余裕はなく見返したりはしないし、展示したプリントさえ忘れ去っていることも多々あった。寄る年波もあり、そろそろモノクロ印画紙の先行きも不安だし(いまでさえ高騰しているし)展示プリントの整理などを身体が動くうちにやっておかなければとは常に考えてはいたのだけど、なかなか時間が思うように取れずにいた。カラー自動現像機の不調を機にしばらくモノクロを焼いてみようと思い立ったのが2年前、バイテンの粗焼きを作っていなかった時代のものを見直したさい、記憶の中からも埋もれていたこのシリーズを発掘したのだった。
 モノクロの現像はいまもまだ継続しているのだが、1000枚ほど焼いて見直してみると、年代も傾向もバラバラで、いくつか分冊した方がいいように思った。
このシリーズは特に他のプリントと混ぜるよりも単独でまとめた方がいい気がした。出版社の人に見てもらったりしながら、写真集にする話がまとまったのが約1年前のことだった。
 もちろんモノクロの暗室だけに集中していたわけではなく、数年前から通っている琵琶湖だとか、そのほかの撮影も合間合間にやっていて、どちらもやっていかないと日々のバランスがとれない。もっと集中すべきなのかもしれないが、頭でこうした方がいいかもしれないと思うことは、たいてい外れるので従わないことにした。
 もっと早くに作れればよかったのかもと思わないでもない。古い写真の出しどきを考えていたわけでもない。そういう出版がいっぱいあるのは横目で見てはいる。たいていは年齢的に体力の衰えを感じた世代が、不用なネガなどの見極めもかねて、はっきりしているうちに見直そう(誰もやってくれないし頼めないし)という私と同じような動機かと推察する。今さら詮無いことではあるが、生前にきちんと見てもらいたかった方も何人かいた。
 今しかないというわけではないだろう。けれどタイミングとしか言いようのない流れだった。これを逃すと果たしてどうなったかと思うと、作り手としては作れるときに自然と――もちろん多くの人の協力と作為があるのだけど―−あたかも自然と実ったかのようにできるのがうれしく、また作品にとってもいいような気がする。

◆NU•E、その辺りのこと 2

17回の展示は、決まったフォーマットがあったというわけではなく、その時々の考えや思いつきなどを反映し、よく言えば自由であり、実験的なものであったと言ってもいいかもしれない。
 バライタという1時間ほど水洗をしなければならない印画紙を使うこともあったが、撮影しては展示の繰り返しで毎回時間に追われていたし、前日はおろか当日朝まで暗室をすることもあったから、水洗の簡単なRC印画紙を使うことの方が多かった。その場合、額装はせず、紙の上下にピンナップ用の余白を残し左右は裁ち落としにして虫ピンで止めた。
 四切の印画紙を壁に張り巡らせたときは、ヨコ位置を基本としセレクト、タテ位置のイメージはよりトリミングは必要となるが、印画紙2枚に露光し、ヨコ位置中心の展示のなかに混ぜたりした。また、ロール印画紙だけで構成した際は、10点も展示できなかった。展示した総数を正確に数えることは、今となっては不可能だが、カラーコピーなども駆使して一度に2、3百点を飾ったこともあるから、1000枚前後になるのだろうか。
 1年に4回、撮り下し、などということはいまではもう体力、気力がついていかないし、モチベーションも必要性も感じない。当時は当たり前に思っていたことが、いつのまにか当たり前ではなくなるということか。逆ももちろんあって、いまでは当たり前のことが、昔は当たり前ではなかったのだ。
 1995年の川崎市市民ミュージアムでの「another reality 現代写真の動向」展という企画展は、あたかもNU•Eの中間報告のようなものとなった。当時、サブカメラとして結構頻繁に使用していた6×6サイズは、ロール印画紙に焼き付け、35ミリは全紙にプリントした。展示下総数は77、8枚だったと思うが、100点くらい焼いた。すべて自家プリントだった。それを業者にカット、裏打ちしてもらって、裁ち落としのイメージで展示した。6×6はガラスのネガキャリアで周辺を入れて、フィルムの黒縁までプリントした。余白の全くない裁ち落とし(黒縁も絵柄なので裁ち落とし感覚)なので、虫ピンは裏打ちのボードの厚みにサイドから斜めに打ち付けた。
 額を使うこともなかったわけではないが、なぜだかプリントが剥き出しの方が好きだった。保護という意味でもガラスなりアクリルなりが間に入った方がいいのだということは理解できるものの、ピンナップの気軽さは捨てがたい。あくまで好みなので、絶対に、どうしてもという程ではないし、写真によってというよりむしろ場所によって、額の方がいいと思えることも多くなった。03はあくまで自分の場所で、自分が見るために作ったようなところもあって、そんなところなのだから、ふだん自分の写真を見るように飾りたいということだったのだろうと今は思う。

03FOTOSにて・1996年3月

川崎市市民ミュージアムでの展示・1995年−96年

◆NU•E、その辺りのこと 1

 NU•Eというタイトルで撮り下しの写真展を続けていたのは、1992年の終わりから1997年にかけてのことだった。03FOTOSという当時自ら開いていた場所で17回にわたった。03FOTOSはギャラリーとしての活動は、90年の10月から2001年の11月までだから、メインの展示だったといまになって思う。
 NU•Eに限らず、撮り下しは写真を発表していく常態だった。とりわけその頃は何を撮る、などと決めて撮影していたわけでもなかったので、来場者からテーマは何かと問われても答えるのが面倒くさかったし、特に撮りたいテーマが言葉にしてあるわけではなかったし、そういうことを最初に訊ねる風潮もつまらなかったので、心の趣くまま、視線の戯れるまま、いろんな物事を撮って詰められる箱的な言葉が必要だった。
 これは何度かインタビューなどで記事になっていることなのだが、フォトセッション(86-87)というグループの集まりの際に、写真を見てもらっていた森山大道さんに「君の写真はヌエみたいだね」と言われたのを、どうしたものか忘れがたく覚えていて、これはいいタイトルをもらったとばかりに使うことにした。英字にしたのは、ひらがなだとお腹に力が入らない感じで心許なく(95年の『日本カメラ』での連載では「ぬ•え」とした)漢字だと鵺、鵼となり、重たすぎるし読めない人もいるだろうから、初めから間口を狭めてしまう気がして避けた。アルファベットというのは意味と距離を置ける気がしたし、言葉であって言葉を断裁するような多重さを伝えやすかったように思ったのだろう、また多少のカッコ付けや案内状のデザインのしやすさやなども手伝って、とにかくNU•Eという表記でスタートしたのだった。
 17回の内訳は、92年の12月が最初で、93年、94年、95年は年に4回、96年は3回、そして97年に約一年振りに17回目を「ラストラン」と称して行っている(95、96年あたりから写真集を考え始め、ラストランは写真集の発売と同時であったので、新作ばかりではなく、写真集からのダイジェストという要素もあった)。
 最初のうちは写真集にあまり興味が持てなくて、撮り下しで展示をすることがとにかく面白かったのだが、95年に川崎市市民ミュージアムの「現代写真の動向/another reality」に参加したり、96年に石内都さんと「main」という雑誌を作り始めたりして視野が広がったり、印刷物の面白さや有難みがようやく分かったせいもあったかと思うのだが、おそまきながら写真集を作ることになった。編集作業はなにせ枚数が多いので難儀を極めたと記憶している。展示した写真は、カラーコピーやロール印画紙などというイレギュラーなものを含めなくても優に数百点はあった。当時はネガ現像をし、ベタを取ってそのままセレクト、半切や全紙や大全紙にプリントしたので、バイテンの試しプリントがなく、それに写真集がバイテンよりもイメージサイズが大きかったこともあり、大四つに焼き直したりした。現在であれば、あのような労力は不要なのかもしれないが、20年も前のことである。部数は1300、当時の自費出版物としては多かったかと思う。2冊目を作るなど考えもしなかったので、唯一の写真集なら一生かけて売っていけばいいという気持ちだったのだろう。

◆石原さんのこと

 ちょうど1年ほどまえ(2015年12月上旬)、ベトナムから帰国して帰宅した瞬間に電話が鳴ったので、しかもそれがツァイトフォトサロンの石原さんだったので、よく覚えているのだが、ふだんから携帯もろくに着信に気づかないのに、そのタイミングの絶妙さに南国帰りのムードは弾けとび、師走の東京モードに戻されて背筋がピンと伸びた。用件は、預かっている猫の写真、これぼくの部屋に飾りたいから譲ってくれないか、ということだった。2年ほど前に、初期のモノクロをまとめて見せて欲しいと言われ、そのまま預けていたのだった。ネコ、と言われても、瞬時には思いつかなかったのだけど、というより複数のネコ写真があるのではないかと思ったのだ。その後、プリントを撮影した画像が送られてきて頭の中でいちばんに思い浮かべた一枚と一致したものの、当時は毎回ネコを展示するくらいによく撮っていた。
 「春は曙」というタイトルで3回連続の個展をやったときのプリントだった。1989年当時のいわゆるヴィンテージというもので、仕舞いっ放しになっていたものをセレクトするのに開けたときには、その不器用さというかヘタさというか、我ながら呆れてしまったものである。とはいえ、紙が現在入手可能なものと全然違うし、ネガの濃さも相当で、どうあがいても今となっては焼きようがない出来の代物だった。ヴィンテージという言葉くらいは知っていたものの、価格の設定などまともに自分でしたこともなかったし、なんとなくバラバラにしたくなかったこともあって、即座には返事することはできなくて、結局そのまま気にしていたものの値付けはおろか、諾否すらはっきりさせることもしなかったのでウヤムヤになってしまったと思っていた。暮れに石原さんが入院したことを知ったのは、年が明けてからだった。思えばその電話のときの声も、かすれ気味で力のないものではあったけれど、口調がいつも通りだし前向きさがにじみ出ていたので、あまり気には止めなかった。
 イルテンポも含めると片手では足りないくらいの個展をさせていただいた。写真で食べていくなどということが想像だにできなかった時代に、プリントをいとも簡単にお金に換えていくように見えた石原さんはマジシャンのようでもあった。自主ギャラリー時代にも、写真を購入してくれる奇特な方がゼロではなかったものの、値段の付け方が違っていた。写真ってこんなふうに売っていいんだと認識を新たにもした。それまでの写真とのスタンスが変わるわけではなかったが、別のスタンスがあり、いろんな立場を駆使してみなやっていっていることを知れたのも大きかった。どうせ1回か2回でお終いだろうと思っていたら、けっこう続いて、イルテンポとツァイトフォトの同時展示の予定が決まりかけていたとき、イルテンポの和子さんが倒れられたので、それは叶わなかったが、その時の閉廊の素早さは印象に残っている。
 書き出せばキリがないのだけれど、こんな拙い文章のきれぎれの断章よりも遥かに石原さんの声が甦ってくるような本が出版されたので、その紹介を少し。ツァイトのスタッフを一時期やっておられた粟生田弓さんが著した『写真をアートにした男 石原悦郎とツァイト•フォト•サロン』(小学館、2016)。事実よりも真実が迫ってくる。と書くと語弊があるが(内容が事実でないというのではない)、石原さんの語りを元にしているため、どうしても記憶違いとか思い出せないこととかもあったろうことは容易く想像できる。それでも相当に準備をしてインタビューした(された)と推察するが、また石原さん特有のブラウ(というか洒落、ダンディさか)までが再現されていて、そのあたりへの注意深さも怠りなく、とくに前半のパリを中心としたあたり、深く聞き、丹念に甦らせ、さらに裏付けて、西洋写真の入口ともいえた時代の雰囲気を伝えている。

◆pgでベトナム展

 東京は新宿のphotographers’ gallery で4年振りの個展を開く。昨年の終盤、30年振りにベトナムを訪れたので、30年前のネガやベタを見直し始めた頃にそういう話になった。ベトナムに関しては30年後というキリのいいときにやれればとは漠然と思っていて、再訪越はキリのいい年に叶った。展示となると準備もあるし、キリのいい年にというわけにはいかなかったが、ようやく準備が大きな山をいくつも越えて、こうしてお知らせできるまでになったので、取りあえずひと安心という現状です。

 30年前の写真の撮影はモノクロが中心で、これまた久々にモノクロの暗室を季節のいいときにやることができた。自分の暗室で大全紙までは焼いているとはいえ、現像のプロセスは機械がやってくれるカラーの場合はあまり当てはまらないのだけれど、モノクロの場合、季節によってこんなにも暗室がストレスになったり楽しみになったりするとは、というくらいベストシーズンというものがある。
 他にビデオをかなりの量撮っていた。VHSのコンパクトビデオカメラで、当時ソニーが出していた「ベータカム」に対抗してビクターが手がけた一体型の小型ビデオカメラである。小型とはいえ今のものとは比べ物にならないくらい重くて大きい。1本20分なので、計画的に撮らないとならない。もっと前に映画のカメラをやったことがあるのだけれど(学生時代の自主映画)、それは1本3分ちょっとであったから、さらに計画的でなければならず、コマ割りなどで事前にだいたいの構想を固める必要があった。ビクターのビデオを最初に使ったときは、そういう不自由さがなかったので、逆に緊張感がなくなるねなどと仲間と話したものだが、今のデジカメは持っていることを忘れるくらいに軽いし、撮った分は小さなカードに収まっているし、それなのにほぼキリなく撮れてしまうので、この20分は程よい緊張感と達成感、充実感をもたらしてくれるいい設定ではなかったかと思う。

 そんなコンパクトビデオカメラを担いでホーチミンからハノイまで北上した分を、プロの手を借りながらやっと繋いで書き出したところである。まずはビデオテープを編集可能なDVDに移すところからだったので、思えば長い作業ではあった。20本ほどあったし、また他の時期にも2度訪越しているのだけど、あれもこれもだと散漫になるので、それらにはひとまず目をつむることにして、北上に限定し時系列でやると決めたので、思いのほか作業はスムーズにいった。会場は2つの部屋があり、1つはこのビデオとデジカメで撮影した新しい動画(動画とビデオという使い分けが分かりにくいかもしれないけれど、昔のビデオテープで撮影したものはビデオとしか表現できないのでご容赦を)の上映、もう1つの部屋は新旧取り混ぜての展示(20点)という構成。
 30年前の写真を見直したのも初めてなら、こんなにいろんな作業(カラーとモノクロの暗室、ビデオと動画編集、16ページの冊子の編集、それに入れる文章)を一度に並行して進めたのも初めてで、いま展示に向けての最終コーナーを味わいながら過ごしているのを幸福と言わなければバチが当たる、ということなのでしょうね。
 

◆解題•その山へ

 サイトのリニューアルをするにあたって新しい作品もいくつか見られるようにしてみた。そのうちの「Towards the Mountain (2013-)」についての経緯などを少々書いておこうと思う。最初に纏めて作品を展示したのが海外だったため、英語のタイトルが先になった。その後、ちょっとベタだけれど日本語をつけた。

 富士山は昔から気になっていて、新幹線は山側を予約することにしている。だから乗車日に曇ってたり雨が降ってたりするととても損した気分になる。眺めているだけでよかっはずなのに、一生に一度は行ってみてもいいかもなんて思いついて、それは10年ほど前に河口湖から撮った写真とずっとつきあっているので、そのお礼参りみたいな気分も上乗せされて、運動らしきことを自主的にしたことがないに等しいにもかかわらず、思いついたのだった。最初は漠然と。
 2013年から毎年富士山に登っている。その年の早春にとある会で、山に限らず世界をまたにかけて活躍している頭脳も体力も超人的な人に、来年くらいに富士山へ登ってみようと思うんですよと話したら、あっさりと「今年登ればいいじゃないですか」なんて言われ、たしか2月かそこらの時分であったため、年内はみっちりと体力増強に励み、ガイドブックにあたり、心の準備もしてからの方が安心だと思いつつも、どうせやりだすのは間際なのだから来年でも今年でも実質一緒、しかも年齢は確実に1つ増えるのだし思い切って今年やってしまおうかと思えるギリギリのタイミングであった。そのあっさり口調がほんとうに簡単そうに思えたことにも背中を押され、どのみち半年後には終っているのだ、今からなら間に合うかもしれないと思ってしまったのだった。思い込みは時に人を強くする。
 その年は、悪いことに世界遺産になったことと重なり、人が大勢で身動きとれないのではないかと不安だったけれど、世界遺産になった年から登るなんてミーハーねえと他人が思いやしないだろうかという余計な心配を抜きにすれば、かえって意外と空いていた。それから3年。今年登って4回目。いったいいつまで登れるか楽しみでもある、などと書いている自分が信じられないけれど、実際そのとおりなのだから仕方ない。もちろん弾丸登山なんてしませんがね。あくまで写真が目的なので、ゆっくりとできるだけ長く滞在することを心がけている(ものは言いよう)。とてもいい山小屋にも出会えた。ひどい山小屋のおかげで。
 その年、連泊で予約していた小屋を出発するとき、不要な荷物を預かってもらえず(といっても着替えくらいなもので、撮影済みフィルムは背負います。全員分を纏めて名前を記入した袋に入れて、あわよくば預かってもらおうと思っていたのだが、にべもなく断られた)同行者の中には富士宮のナマズと言われている男もいるのにいいのかな地元民にそんな態度で、などと悪態吐いたりはしてませんが、それ以外にも感じが悪かったので(トイレに入るとき大か小か聞かれる、朝食に出たゴミも持ち帰らされるなどなど)、ではキャンセルして他を当たるか頂上を早めに退いて下山しようということになって、荷物は預からないがキャンセルするのも全然オッケー(山小屋は基本的にはそういうものらしい)ということで、頂上で他の小屋へ電話をかけたところ1軒目は不在、2軒目がとてもいい感じで、実際に行ってみるとさらにいい感じで、できる限り毎年来ようと思うくらいに良い小屋だった。(ちなみにこの小屋では連泊でなくても普通に荷物を預かっていたようである)。7合ちょっとにある小屋なので、ビールを飲んでも下山に響くこともなく、カレーに温泉玉子はついてるし、ご飯だけでなくお肉や野菜のいっぱい入ったカレーのルウもお替わり自由で、まったく天国のようである。
 
 このタイトルで新たに写真展をするとか、写真集にまとめるとかがいつになるにせよ、登れる限り使い続けようと思っているので、長い付き合いになるかもしれない(願望もこめて)。「その山」が別の山になったりは、たぶんしないと思う。

◆03FOTOSとサイトリニューアルについて

 1990年にギャラリーとして始めた03FOTOS(ゼロサンフォトス)を、2001年にphotographers’ gallery への加入を機に閉じた。その後pgをやめたあとはサイトだけ続けてきたのだが、このたび久しぶりにリニューアルすることにした。
 1990年頃は今ほど写真のギャラリーもなく、とりわけ自主ギャラリーのあり方は過渡期だったように思う。70年代の自主ギャラリーブームは去り、森山大道さんが1987年に始めたROOM 801(のちのFoto Daido)に端を発したプレイスMとギャラリー街道があるくらいだった。他にもあったのかもしれないけれど(正確には覚えていないのだけど、渋谷のさくら組や目黒の方にもあった気がするが、90年になる前には閉じたのではなかったか)、なにせ世間が狭く見渡していなかった。
 自主ギャラリーだから自分が出ていくことが最優先、つまりは自分が写真展をするための場所だった。年に多いときで4、5回、さらに二人展などを入れた時期もあったが、展示期間はせいぜい1週間弱(連続して開けられる日が6日間だった)なので、他の時間は暗室をしたり、希望者に展示してもらったりしていた。いまなら6日間の展示なんて絶対にやりたくないけれど、当時は戦略も計画も予定さえもあまりなく、撮っては出し撮っては出しというサイクルが必要だったのだろう。いま当時のプリントを見ても、いつの展示に掛けたものか定かではない。会場写真と付けあわせる時間と気力は当分ないだろうし、その必要性もないのだろう。
 pgへの加入を機に03を閉じることは自然なことだった。この経緯については『photographers’ galley press no.1』に「ゼロサンフォトスからフォトグラファーズギャラリーへ」という短文を書いているので省略するが、3年在籍したpgをやめたあと、すぐにではないにせよ03FOTOSを再開ということにはならなかった。すでに倉庫と化していて物理的に不可能に近いということもあったが(当然場所を移してという選択肢だってあったはずだ)声がかかったらやれるところでやればいいという境地に傾いていたこともある。生来人と接するのが不得手ということも大きく、年を重ねるごとにその気分が増長していき、場所をリアルからサイトへ移せばいいのではないか、人と会わなくても発信はできると安直に考えたのだと想像する。
 いつサイトを立ち上げたのか定かではないが(たぶん2003年前後だと思われる)いつでも発信できる状態は、現実の多忙さにいとも簡単に追いやられるのを日々体感し、今に至るまで細々と、たまにアップするのはニュースだったりと不活発このうえない状態だったのを、このたび一新しようと試みているわけである。向き不向きでいえば向いていないのは承知していて、では向いてないなりにやってみようじゃないかという発想が芽生え、さらに他人を巻き込んでやらざるを得なくしようという、取りあえず万全の態勢をしいた。
 リニューアルに際して読み物を入れたいと思い声をかけたのは、映画評を書き続け、「かよこ新聞」を発行している服部かよこさん。2013年の展示の際にご来場いただき、その後文通のような形で交流をしていたのだけど、彼女の映画評を読むと、映画が見たくなるという副作用が、このところ私を映画館に連れて行く。私にしてみれば、映画館でこんなに映画を見た年は学生時代以来ではないかと思う。もう一人、高橋義隆さんは長年03サイトの管理者であり、写真関係誌、カメラ雑誌などでよく執筆もしている方である。いろんな文章が書ける人なので、何が出てくるのか楽しみにしている。