■『クリスト ウォーキング・オン・ウォーター』

おもしろい。おもしろすぎる。26歳の年の差などまったくもってノープロブレム。細身で白髪の老人に、もうメロメロだ。

老人の名はクリスト(CHRISTO)。言わずと知れた20世紀を代表する芸術家だが、ここで彼の経歴には触れない。各自ネットで調べて。わたしだって、実際の大規模プロジェクト体験は一度もなく、正直言ってどう評価していいのかわからない。だから純粋に、ドキュメンタリー映画の被写体として見た!そして恋した!

見知らぬ年寄りの記録映像は、薄暗がりのアトリエから始まる。我がヒーローは、お茶の水博士ヘアスタイル+防毒マスク姿でぼんやり立ち現れて…オイオイここはどこの惑星か?それとももしかしてゴースト?いや、立ち居振る舞いにスキはなく、独り黙々と作業に集中する様子が、早くも高齢者であることをカンペキに忘れさせる。描きかけの作品に繊細に手を加えていると思ったら、躊躇なくでっかいキャンバスを動かしたりもして、仕立ての良さそうなストライプのシャツに汚れがつきやしないかと、そっちにハラハラ(汗)。

しかもハラハラはどんどん加速する。階下でPC作業に勤しむアシスタントを襲撃し、おっそろしくせっかちにまくしたてて大騒動。「違う!これじゃない!」「早く送れ!」。デジタルを知ろうとしない輩にありがちな煽り指示で詰め寄り、めんどっこいジジイ全開である。万事心得てる風なアシスタントくんとはいえ、ツイ同情。そのうえプロジェクトメンバーとスカイプで打ち合わせを始めれば、当初の企画案をひっくり返し、罵詈雑言が止まらない…。いやはや我がヒーローは、眺めるだけでも脇汗をかく。

しかーし、クリストが世間に姿を見せれば、どこもかしこも人だかり。盛んに声を掛けられ、サインや写真撮影にも気軽に応じる人気者。つい、政治家並みの軍資金集めか?と邪推したくなるが、実は彼は制作費のすべてを自腹でまかなっているという。それはそれで驚くべき事実だが、だとすればなぜわざわざ世界中に出向き、権力者から子どもまで、誰に対しても真剣にじぶんのビジョンを語る必要があるのかという新たな疑問が浮上する。勝手に自己実現すればいいだけの話じゃないかと―。

こんな作品を作ってきた…こんなことを実現したいと思っている…ただし、純粋な芸術作品を発表するだけで他に役目はないと言い切るクリストの正直プレゼン。地元N.Yの小学生に「なんで芸術のために我慢ができるの?」と尋ねられたクリストは半ばムキになって即座にこう答える―「我慢じゃない、情熱なんだ!」と。子どもたちに向かって、芸術家は職業じゃない、オレサマは24時間ずーっと芸術家だと、真顔で言えるクリストが眩しくてしょうがなかった。

やがて、金の無心をするわけでもないのに、直接出向いて広報活動に勤しむ理由が飲み込めるようになる。彼の活動に最も重要なのは、じぶんが実現したい芸術の理解者を増やすこと。クリストが手掛けてきたプロジェクトは、コロラドの渓谷にオレンジの布を張ったり、ベルリンの旧ドイツ国会議事堂を銀色の布で包んだりと、地球をキャンバスにした壮大なもので、とにかくアイデアがあっても設置許可が得られないことには実現できない。交渉に云十年かかるなんてザラらしく、あらゆる方面から理解者を増やすことが、実現へ向けての布石となるのだ。

そしていよいよ本作のメインイベント。2016年に北イタリアのイゼオ湖で実現した『The Floating Piers(浮かぶ桟橋)』の現地映像が始まる。全長3キロの布の道を湖上に浮かべ、来場者に水の上を歩いてもらおうという大規模プロジェクトの舞台裏が、砂かぶり席で鑑賞できるのだ。しかも彼のプロジェクトでは、どれほど困難を極めた企画でも、発表期間は限定され、終了後の資材はリサイクルに回されて跡形もなくなるので、この砂かぶり席がどれほど貴重か!

さて、実現前から十二分にハラハラだったが、現地に行ってからもすべてが予測不能。あーそうか、生きるとはそもそも予期せぬことばかりなんだと、二回り以上も年長の爺様に教えられることになる。

例えばこんなシーン。はじめてクリストが、湖面に連結させた樹脂製のキューブの上を、恐る恐る歩いてみせるところ!その無邪気な歓びっぷりに、目頭が熱くなってしまう。これで水の上を歩いたキリストと肩を並べたわね(笑)。クリストの右腕であり、現場の最高指揮官として支えるヴラディミアとのやりとりも、毎回シビレた。互いに譲らずエンエンと論争を続け、それでも「やっぱりイヤだ…」といつまでも駄々をこねるクリストの横顔をカメラは逃さない。絶対君主制では、叶えたい夢は実現できないという決定的瞬間である(笑)。

それでも一番悩ましいのは天候だ。自然には逆らえず、ダンドリは狂い、せっかちクリストには待ち時間こそ拷問。しかし止まない雨はない。握力の強い我がヒーローのオープニングは見事な快晴。窓からは、ゴッホの麦畑のような黄金色の道が現れるではないか~ わぉー!

さて、これにてめでたしめでたしと収めたいところだが、生きるとはそもそも予期せぬことばかりだから、これで終わらないのが本作。むしろここからが本番。来場者が多すぎて、いつ事故が起きてもおかしくない非常事態になってしまうのだ。一般的に、安心・安全を配慮するあまり、何かと規制をかけるのが行政側の出方だが、ここではその逆。私費を投じて、しかも入場無料で提供するクリストのプロジェクトに便乗し、はしたなくも観光で一儲けしようと行政側が鞭を打つから厄介。

そうそう、金銭絡みの俗臭たっぷりな爆笑エピソードが他にも登場する。冒頭のアトリエシーンで制作していた今プロジェクトのためのドローイングやコラージュが、会期中、ホテルの一室で販売されるのだが、意気揚々と乗り込んだコレクターが、あまりの高騰ぶりにひるみ、思わず女房にTELで相談するから笑った。ぼったくり男爵たちをぼったくる構図の痛快なこと!公的資金も寄付も使わず、作品販売が資金源になるクリスト国財政のしくみ、いやはや実に興味深い。

その後プロジェクトは行政と話し合いの場を持ち、人数規制をして再開。来場者120万人で16日間の展示を無事に閉幕する。最終日、ヴラディミアの計らいでヘリに乗り込み、我が創造物を望み見るクリストは何を思っただろうか。きっと上空で、2009年に亡くなった共同制作者であり妻のジャンヌ=クロードと語り合ったに違いない―「今回も感動したね。また美しい作品ができたね」と。

会期中に発表された英国のEU離脱に驚いたり、転んで顔に擦り傷を作ったり、差し入れの生卵をちゅーちゅー吸い尽くしたり…24時間芸術家はどんな瞬間も「真剣(マジ)」だった。そして「現実のものが好きだ」と公言するこのリアリストは、やれやれと寛ぐ素振りなど一切見せず、いつも立っていた。幕切れまで心身ともに同じトーンで。

宿を引き払う朝、手慣れた荷造りの様子が冒頭のアトリエシーンと響き合い、何とも心地いい。我がヒーローは感慨にふけることなく古ぼけた旅行ケース一つを転がし、サラリと立ち去る。うーん、なんてカッコイイのよ~。

7か月後、今度はラクダと沙漠のアブダビに降臨。1977年から構想を始めた41万個のドラム缶で作る巨大彫刻プロジェクトの予定地だ。―が、2020年5月31日急逝。享年84歳。本作は、クリストの生前最後に実現したプロジェクトの記録映像となった。ナレーションの代わりに、オリジナル楽曲で伴走する構成も素晴らしい。傑作。

『クリスト ウォーキング・オン・ウォーター』

2018年/104分/アメリカ・イタリア

監督 アンドレイ・M・パウノフ

製作 イザベラ・ツェンコワ ヴァレリア・ジャンピエトロ

音楽 ソーンダー・ジュリアーンズ ダニー・ベンジー

出演 クリスト ヴラディミア・ヤヴァチェフ ウォルフガング・フォルツ