■オマールの壁

ちょっと言葉にならないくらい、切ない映画である。フィクションと頭でわかっていても、どうにもやり切れない。映画の背景となる現在進行形の政治情勢に、これほど反応してしまった理由は、若者にとっての黄金の切り札―「愛」と「友情」と「青春」―が、ことごとく踏みにじられてしまうからに他ならない。パレスチナ自治区は天空までも壁に阻まれていた―。

パレスチナ自治区に高々と聳える分離壁を背にし、ひとり立ち尽くす美青年の名はオマール。次の瞬間、イスラエル兵士の監視を潜り抜け、垂れ下がる綱を掴んでイッキによじ登り、壁の向こうへスルリと潜入する。威嚇の銃声が響き渡り、手のひらには鮮血の花が咲くが、これがルーティンワークと言わんばかりの慣れた振る舞いで、映画は幕を開ける。その深く静かに輝く瞳と、しなやかな身体性に早くもテンションMAXだ。

ただし、オマールは今から007やマッド・マックスになるわけではない。切れ味抜群のオープニングを演じた青年は、コツコツと愚直に働くパン職人なのだ。彼が向かったのは幼なじみタレクの家。身の危険を冒してまで訪問する先が、友人宅だという日常に、まずは驚かされる。そう、あのヨルダン川西岸地区を囲む分離壁は、イスラエルとパレスチナの線引きだけにとどまらず、自治区内を分断する形で建てられており、パレスチナ人同士を引き離す意図もあるらしいのだ。申し訳ない、まったく知らなかった(汗)。千種区に住む私が中川区の実家へ壁を乗り越えて行く図を想像したら、思わずめまいが…。

話を映画に戻そう。ではそんなタレクの家で一体何がおっぱじまるのかというと、幼なじみで集う茶話会(!)である。まるで放課後の高校生男子のように、リーダー役で堅物のタレクとお調子者のアムジャドと3人で和むユルいひととき。冒頭の分離壁とのギャップが激しくて妙に可笑しい。いや、正確に言えば、我々を拍子抜けさせるこのトボけたリズムこそリアリティの要。むしろ緊張感を途切れさせないポイントなのだ。

そして「友情」の次は「愛」の目撃である。オマールはタレクの妹ナディアと密かに愛を育んでいる。壁ドンよりはるかに難易度が高い“壁越え”に励むのは、愛のなせる技らしい。2人は誰にも気づかれぬよう、お茶と一緒に小さくたたんだ恋文をそっと手渡す仲だ。だが燃え上がる思いは、本人たちの気づかぬところで、閉ざされた世界の均衡を次第に崩し始める―。ここで目にする「友情」と「愛」は、一見、懐かしく控えめで純朴な青春の一コマに映るが、我々は冒頭の壁を目撃している。無邪気に酔えるはずはない。いつ終るとも知れぬ占領下の日常は、未来を宙づりにしたまま、息苦しく過ぎてゆく―。

ある日、オマールはいつものように壁を越え、恋人との束の間の逢瀬に胸を高鳴らせた帰り道で、イスラエル兵たちの嫌がらせにあう。その執拗なからかいと、息を殺して耐えるオマールの背中を一つ画面に収めるシーンの暴力的なこと!武力で制圧される側の屈辱感がスクリーンからにじみ出て、客席に座っている自分を後ろめたく感じてしまうほどだった。そしてこの事件を機に、若者たちの抑圧された感情が暴走を始める。積もり積もった苛立ちを晴らすべく、「待ってても切りがない!」と、3人はイスラエルの検問所を襲撃。すでにオマールの愛と友情に親しみ、彼の心情と堅く結びついている我々は、このGOサインに躊躇なく飛びつくが、それはオマールと共にさらなる非情な世界へ足を踏み入れることを意味する。イスラエル秘密警察の報復である―。

この映画で唯一プロの役者が演じる秘密警察の捜査官ラミ。この男の登場とともに、映画はまたも顔つきを変える。まるで金貸しシャイロックのごとく老獪なラミは、オマールを容疑者として逮捕し、協力者になって仲間を売るか、一生収容所で暮らすかの二者択一を迫る。いやー、ねっとりと赤子の手をひねる取引演出に興奮させられた!映画は、一本気な若者VS狡猾な大人というわかりやすい絵に作り込み、イッキに青春ジレンマ物語へとお色直しを図ってみせるのだ。そのうえ、レミの謀略に乗る振りをして、再び恋人と同胞たちの元に戻ったオマールが直面する様々な断片、その葛藤のバリエーションと緻密な構成があまりに見事で、私の意識は自治区内から外へ一歩も出ることなく集中し切った。

特に、問題の多いこの地を宗教や民族間の確執からアプローチするのではなく、恋人同士がフツーに夢見る未来や仲間との変わらぬ友情というささやかな心の拠り所に、大きく揺さぶりをかけてくるスケッチの連続だからいたたまれないのだ。嫉妬があり、裏切りがあり、訣別がある…。オマールは何度も壁を越えて、自分の未来を掴みに行くが、その積み重ねがむしろ彼を孤独に追い込むという皮肉。世界はなぜこれほどまでにオマールをいじめるのか―。と同時に、なぜオマールはここまで自己犠牲を貫くのか―。古典的な悲劇の形式を借りることで、かえって占領下パレスチナ自治区の今を強く想像せずにはいられなかった。
 
印象的なシーンを2つだけ書いておきたい。ラスト近く、恋人も幼なじみもなくし孤高な日々を過ごすオマールが、もう一度分離壁をよじ登ろうとする。しかし壁を越えることができずに途方に暮れていると、通りがかりの老人が「大丈夫、すべてうまくゆく」と手を貸すシーンが描かれる。衰弱して縮こまった心に染み入る一言と一陣の風…オマールの代わりに声をあげて泣き出したくなるほど、胸に突き刺さった。そして、アムジャドの妻になったナディアとの2年ぶりの再会場面。オマールは穏やかな笑みを浮かべて尋ねる「勉強は続けてる?」と―。家父長制が強く、男女間の壁も高く聳え立つ慣習の中で、教養は女の人たちの力になる!と励ますような一言に聞こえて、これも私には忘れ難いシーンとなった。…それにしてもせつない(涙)。

若者たちの黄金の切り札は、みんなが嘘を信じたことで崩壊した。云わば壁に取り囲まれた中での自壊によって消失したのだ。今見るべき映画、必見である。

『オマールの壁』
2013年/パレスチナ/カラー/97分
監督・脚本・製作 ハニ・アブ・アサド
撮影 エハブ・アッサル 
キャスト アダム・バクリ、ワリード・ズエイター、リーム・リューバニ