映画という虚構の中に、さらに別の虚構を組み入れ、入れ子細工の形でお披露目する『アネット』は、140分の長尺であり、かつミュージカル仕立てである(汗)。おそらくこう聞いただけで、戸惑う観客も多いだろう。どこを映画の現実ラインとして見るべきか…なんとなくめんどっこくて嫌だなあと。でもだいじょうぶ。1ミリも身構える必要はない
オープニングを飾るのは、とある音楽スタジオでの録音風景。監督のレオス・カラックスご本人が、コントロール・ルームの真ん中に鎮座し、演奏者たちにプレイ開始を告げると、アメリカのベテランロックバンド・スパークスが演奏を始め、何とそのまま歌いながらご陽気にスタジオを出て行く。
おっと~、楽屋ネタかと思っていたら、曲といっしょにすでに始まっているではないか―。途中、本編の登場人物たちも合流し、みんなでSo May We Startを歌いながら夜の路上へ繰り出すシーンのカッコイイこと!さあ、夢の世界のはじまりだといわんばかりの、高揚感溢れる長廻しがたまらない。そう、音楽スタジオがミュージカルへの導入口として機能し、瞬く間に虚構の中へワープできるダンドリだ。そして主演ふたりが役の衣装を軽やかに羽織れば、目の前で物語の扉がすーっと開きはじめる―。
バイクに跨り走り去った男の名はヘンリー。ストイックに過激な笑いを追求する人気スタンダップ・コメディアンだ。緑色のガウン姿で独り舞台に立ち、客との丁々発止が見世物の際どい芸で名を馳せている。一方、お抱え運転手付きの車に乗り込んだのは、世界的ソプラノ歌手のアン。映画は、美女にリンゴをかじらせたりして、早くも不吉な予感を漂わせつつ、人気セレブ・カップルの恋愛ピーク時を幕開けに置いた。
美女と野獣のカップリング。しかも、それぞれの舞台を終えたふたりが、取り巻きたちから逃れ、太ももを露わにしながらバイクの二人乗りで人里離れた森へ逃げ込んだりして、何だか私の方が照れくさくなるくらいキッラキラなロマンチックLOVEシーンの連投である。まるで一条ゆかり先生が描く華麗な少女漫画の一コマのよう…思わず目を細めた。
“私たちは愛し合う~ 心から あまりに深く~♪”とかなんとか、歌いながら&じゃれながら山道を歩くふたり。めまいがする。いや、それどころか、絡みシーンまで歌いながらの睦まじさ…。いやー、地球はふたりのために回っているこのかんじ、ディズニー・アニメを軽々と越えてしまっていて、アッパレとしか言いようがない。言葉とメロディの共振によって、空間が色鮮やかに塗り替えられて見えるのだ。
一方で、誰にも邪魔されずに蜜月を過ごす森の中の邸の佇まいとか、インテリアの隅々やら、身につけている着衣の色彩&素材感が、リアルに計算されていて、ファンタジーワールドに回収されない点がミソだ。ありえない設定ではなく、趣味のいいセレブのありそうな隠家蜜月を創造しているから、観客はじぶんたちのリアルと地続きで眺められ、好奇心が持続するというわけだ。
要はリアリティの扱い。例えば映画では、度々ふたりの仲をゴシップ記事的体裁でウォッチし、大衆が欲望するセレブ・カップルの通俗的なイメージを、観客に投げ掛けてくる。スターを崇めながらも、下世話なネタに引きずり降ろさずにはいられない我々の日頃の好奇心とやらが、いかにありきたりで貧相なものかを生々しく皮肉るのだ。キッラキラマジックと世俗の垢のブレンド配合が絶妙で…楽しくって笑った。
やがて結婚そして妊娠。案の定、出産シーンまで大賑わいなミュージカル仕立てで綴られ、物珍しさMAXである。ところが驚くのはまだ早い。映画は、アネットと名付けられた女の赤ん坊を、しれーっと人形の姿で登場させるから腰を抜かす。
へっ?ご冗談でしょ?もしかしてギャグ映画だった?…と、どこまでホンキで見るべきか、一瞬腰が引けるが、それさえすぐにメタファーとして受け入れ可能になる。日本には人形浄瑠璃という語りもあるし、シラケるどころかむしろ赤ん坊を人形にしたことでセレブ枠は取っ払われ、現代を生きる我々の話として不気味に迫ってくるのだ。
さて、アネット誕生がきっかけとなり、徐々に崩壊し始めるセレブ・カップル。アンは産後ウツなのかヘンリーの人間性に疑いを持ち始め、ヘンリーもイクメンしている間に芸人として落ち目になってゆく。意外な取り合わせが旬だったふたりだが、成功格差が広がるにつれ、溝は深まるばかり。さらにはやり直しを賭けて出た船旅の途中、なんとアンが荒れ狂う海に飲み込まれ、帰らぬ人になるではないか!
このサスペンスフルな嵐のシーンをはじめ、邸内のプールや、オペラの舞台など、名作絵画を連想させるような撮影が繰り広げられ、それはそれは見事な出来栄えで、鳥肌が立った。しかも歌とアクションの連続技で進行するので、映画内の現実ラインが絶えず曖昧になり、身体ごと映画に浸かってしまうからたまったものじゃない。まさにこれぞ映画!
結局、事故か事件かわからぬまま、アンは映画から退場し、怨念だけが燻ぶり続けるからコワイコワイ。そこへママと入れ替わるようにアネットが表舞台に押し上げられ、物語はスキャンダラス方面へまっしぐら。というのも、妻も名声も失くしたヘンリーが、アネットにアンを超える歌の才能を発見し、マネージャーとなってイッパツ逆転を図るからだ。娘をベイビー・アネットの愛称で強引にSNS上のアイドルに仕立て、世界制覇を目論む女衒なパパは、どこまでも腐り続け、地の底まで転げ堕ちる―。
パパとママは演じられても、親にはなれなかったセレブ・カップル。一方娘は、最後に毅然とした態度で彼らの身勝手さに唾を吐く。そして、じぶんの意思で家族ごっこに終止符を打ったそのとき、なんと人形だったアネットが生身の少女の姿に移り変わるのだ!見得を切り、独り我が道を歩いて行く娘と真っ赤な囚人服で取り残される父の絵…大向こうから声がかかりそうな鮮やかな幕切れである。
こんな荒唐無稽な展開なのに?と疑問を持つかもしれないが、『アネット』は極めてシンプルで美しい作品である。喜劇の要素と悲劇の要素を併せ持ち、重心の低い古典的な作りの映画だと思う。映画(虚構)の中に舞台(虚構)があり、舞台では生死が演じられ、幕が下りれば夢物語も消えてなくなり、「あー、映画を味わいつくしたなぁ」という充実感に身体が満たされる。現実社会とはかけ離れた物語であっても、ここには観客の胸を打つデタラメが実っている。繰り返し言おう、これぞ映画だと―。
ちなみに、悪い父親の転落劇なのに、ツイ魅せられてしまうのは、ヘンリー役のアダム・ドライバーの存在感に寄るところが大きかった。アクが少なく、体温低めで、かつどこまでも闇の広がるキャラクター作り…歌舞伎でいうところの色悪を、サラリと演じていて付け入るスキなし。
『アネット』
2021年/140分/仏・独・ベルギー・日
監督/脚本 レオス・カラックス
原案/音楽 スパークス
撮影/ キャロリーヌ・シャンプティエ
美術/ フロリアン・サンソン
出演 アダム・ドライバー マリオン・コティアール