17回の展示は、決まったフォーマットがあったというわけではなく、その時々の考えや思いつきなどを反映し、よく言えば自由であり、実験的なものであったと言ってもいいかもしれない。
バライタという1時間ほど水洗をしなければならない印画紙を使うこともあったが、撮影しては展示の繰り返しで毎回時間に追われていたし、前日はおろか当日朝まで暗室をすることもあったから、水洗の簡単なRC印画紙を使うことの方が多かった。その場合、額装はせず、紙の上下にピンナップ用の余白を残し左右は裁ち落としにして虫ピンで止めた。
四切の印画紙を壁に張り巡らせたときは、ヨコ位置を基本としセレクト、タテ位置のイメージはよりトリミングは必要となるが、印画紙2枚に露光し、ヨコ位置中心の展示のなかに混ぜたりした。また、ロール印画紙だけで構成した際は、10点も展示できなかった。展示した総数を正確に数えることは、今となっては不可能だが、カラーコピーなども駆使して一度に2、3百点を飾ったこともあるから、1000枚前後になるのだろうか。
1年に4回、撮り下し、などということはいまではもう体力、気力がついていかないし、モチベーションも必要性も感じない。当時は当たり前に思っていたことが、いつのまにか当たり前ではなくなるということか。逆ももちろんあって、いまでは当たり前のことが、昔は当たり前ではなかったのだ。
1995年の川崎市市民ミュージアムでの「another reality 現代写真の動向」展という企画展は、あたかもNU•Eの中間報告のようなものとなった。当時、サブカメラとして結構頻繁に使用していた6×6サイズは、ロール印画紙に焼き付け、35ミリは全紙にプリントした。展示下総数は77、8枚だったと思うが、100点くらい焼いた。すべて自家プリントだった。それを業者にカット、裏打ちしてもらって、裁ち落としのイメージで展示した。6×6はガラスのネガキャリアで周辺を入れて、フィルムの黒縁までプリントした。余白の全くない裁ち落とし(黒縁も絵柄なので裁ち落とし感覚)なので、虫ピンは裏打ちのボードの厚みにサイドから斜めに打ち付けた。
額を使うこともなかったわけではないが、なぜだかプリントが剥き出しの方が好きだった。保護という意味でもガラスなりアクリルなりが間に入った方がいいのだということは理解できるものの、ピンナップの気軽さは捨てがたい。あくまで好みなので、絶対に、どうしてもという程ではないし、写真によってというよりむしろ場所によって、額の方がいいと思えることも多くなった。03はあくまで自分の場所で、自分が見るために作ったようなところもあって、そんなところなのだから、ふだん自分の写真を見るように飾りたいということだったのだろうと今は思う。