◾️『小さなロバ、ビム』

1951年製作「小さなロバ、ビム」は、映像詩人と称される伝説のフランス人監督アルベール・ラモリス(1922-1970)の日本未公開作品。

東の国の、或る島の昔ばなしを、モノクロで描いた55分の短編だ。ここには私が映画で見たいもの、味わいたいことのすべてがあった―。

うわっ、ロバがいっぱいいる!子どもたちに連れられて、楽しそうに海岸線を走って行く。この国では、子どもたちがじぶんのロバを持ち、ロバと一緒に遊んだり労働したりして暮らしているみたいだ。ロバはペットというより大切な相棒。だから、海辺に連れ出して洗ってやったり、おやつに蜂蜜ケーキを買って仲良く食べたりして、とても大切にしている。彼らが島内をあちこち移動するたびに、ピンと張ったロバの長い耳と、ポンチョを着ている子どもたちのとんがりシルエットが響きあい、その愛らしさと言ったら…ついホホが緩む。監督のデザインセンスに早くも目を見張った。

物語の主人公は、ビムという名のロバと、飼い主のアブダラである。周囲の子どもたちよりさらに貧しいこの少年は、相棒におやつを買ってやれないと哀しむが、内心ではビムこそ最も美しいロバだと誇りに思っている。そもそもボロボロの布をまとっていてもフォトジェニックなアブダラと、どこから眺めても可憐なビムの組合せには、神話的な雰囲気が漂い、ついパゾリーニの映画を連想してしまったほどだ。…ということは、もしかして映画は悲劇へ向かうのか?それとも…。

はい、お察しの通り、突如ヴィランが現れ、風雲急を告げる!意地悪領主の息子メサウドが、ビムを見初めご執心。アブダラから強引に略奪を謀り、宮殿へ連れ去ってしまうのだ。そう、いつの世も、貧乏人は権力者に屈するしかないというお約束通りの展開である。ただし、定石とはいえ、白い壁とドーム型の屋根が特徴的な込み入った集落の中を、ビムを抱きかかえて走るアブダラの懸命の逃走アクションは、構図といい、明暗のコントラストといい、イチイチ絵としてキマり、作品の厚みにつながっているから大したもの。子供映画だと侮るなかれ!だ。

そんな中、広大な宮殿にビムを閉じ込めたメサウドは、支配欲に燃えるが、ビムからは一向に相手にされず、意地悪をエスカレート。ガキの悪戯とはいえ、ロバに靴下をはかせたりペンキを塗るって、なかなかの変態ぶりじゃあないか。やるなぁ。一方アブダラは、仲間の子どもたちと連係し、ビム救出作戦に乗り出す。イスラムと欧州文化が融合した、エキゾチックな建築様式の宮殿内へ、屋根伝いに忍び込み、スパイ映画さながらに高低差を活かした潜入活劇をお披露目だ。楽しいったらない♪(余談だが、映画を眺めながらなぜかマティスがモロッコ滞在時に描いた名作絵画の数々を思い出したので、鑑賞後にロケ地を調べたら、北アフリカのチュニジア ジェルバ島だと判明。やっぱりそうか、同じ文化圏の匂いがしたんだよね。)

ところが作戦はあえなく失敗。アブダラは護衛に見つかり屋敷牢へ閉じ込められ、ビムは翌朝肉屋に売られる運命に!試練は多いほど観客のカタルシスにつながるものだが、そろそろこの辺りで物語を転調させ、視点を変えたいタイミングでもある。

そこで映画は、ヴィランをあっさり改心させる。ビムとアブダラの強い結びつきを目撃させ、メサウドに友情の尊さを気づかせるのだ…仲良きことは美しきかなと。と同時に、映画を動かすためには、いかにノンストップで波乱を連鎖させるかが肝なので、すかさず次の仇役を用意した。ビムを宮殿の外へ連れ出すために、謎の泥棒コンビを新たに投入し、終盤に向かって舞台を大きく動かすのだ。

いよいよ最終コーナー。メサウドはアブダラを牢屋から脱出させ、連れ去られたビムを追う同志となる。そして夜明けとともに、ロバを連れた子どもたちがふたりの援軍になろうと続々と集まり、ビム奪回作戦の狼煙を上げる。いざ出陣!いやー、鳥の声が響き渡る中で繰り広げられる、友情の連鎖がタマラン。不覚にも涙ぐんだりして…。しかも、ビム救出軍団が馬車やロバに乗り合わせ、砂地や海岸線を猛スピードで追撃する移動撮影では、まるで「駅馬車」並みのLIVE感が堪能でき、超カッケーのよ、マジに。でもって、それだけじゃない!最後の最後に、なんと舞台を大海原へ移すのだ!

海辺にたどり着いた泥棒コンビは、嫌がるビムを船に乗せ、帆を上げる。子どもたちもひるまず大急ぎで別の船に乗り込み、海上大決戦が始まる。小さなロバたちが心細そうに岸辺で見守る中、敵に勇敢に食らいつく子どもたちが、次から次へと海へ投げ落とされ、想像以上にエグイ。ヒヤヒヤドキドキ。それでもめげることなく、子どもたちが一丸となり、どこまでもタフに立ち回る雄姿の眩しいこと!これぞ正統派冒険活劇。ビム奪回の勝利に沸きながらの閉幕に、ヤンヤの拍手喝采だ。

「小さなロバ、ビム」は、とても55分の短編とは思えない濃密さ。そのうえ鑑賞後の多幸感が、いつまでも続く奇跡的な仕上がりの映画である。セリフを極端に少なくし、物語の補足となるようなナレーションを時折挟むだけの、絵本のような構成も、大きな勝因となっていた。

「バルタザールどこへ行く」(1966)「ライフ・イズ・ミラクル」(2004) 「EO」(2022) 「イニシェリン島の精霊」(2022)…これまでにも、ロバの存在が記憶に残る外国映画とたびたびめぐり会ってきた。ヨーロッパの文献に最も多く登場する動物はロバだと読んだことがあるが、確かにどれも、ロバをありふれた存在として位置付けたうえで、あえて象徴的に描く映画だった。それに対して日本では、ロバが家畜化されなかったせいか、どこかファンタジー的存在に捉えている節がある。首をうなだれてひっそりたたずむ姿に憂いがあり、個人的にはスクリーンにちらっと映るだけで、ツイ胸を締め付けられてしまうのだ。

ロバと子どもが一心同体で暮らすおとぎ話「小さなロバ、ビム」、新たなロバ映画として忘れられない1本となった。

「小さなロバ、ビム」

1951年/55分/フランス

監督・脚本/アルベール・ラモリス

語り/ジャック・プレヴェール

◾️『旅と日々』

ロカルノ映画祭の最高賞に輝いた、三宅唱監督作品『旅と日々』が楽しい。タイトル通り、描かれるのは「旅」、と、「日々」だ。並列助詞の「と」を真ん中に置き、等価に並べた点がミソ。

「旅」と言ってもここでは、観光や仕事目的とは異なり、日常から自分を引きはがすために移動するイメージ。無理して目的を置かないことが目的みたいな…。そして生活圏から離れ、数日同じ場所に滞在する形で語り、「日々」とした。非日常は移動とともに始まるわけだが、滞在となると晴れがましさは徐々に消える。そこで、旅に出たからこそ知り得た胸騒ぎと、旅に出ても尚つきまとう自我との間で、あっちに行ったり、こっちに来たりが繰り返される…。映画は、そんな様子を「絵(映像)」と「文字(言葉)」の2方向からのアプローチで “絵日記”仕立てに綴り、乙な味わいがある。そう、「日々」だから、絵巻物のうねりではなく、日めくり感覚で眺める絵日記の形式こそがふさわしい。ここから何が飛び出すのか―。

東京で脚本家をしている主人公の李は、創作に行き詰まりを感じつつも、夏の離島を舞台に新作を書き始めた。原稿用紙に鉛筆を使い、ハングル文字(!)で。すると、物語が書き進められて行く端から滑らかに映像に置き換わり、映画は劇中劇の様相を見せる。ただ映像が動き出しても、日本語からハングルに書き直して執筆する記憶に引きずられ、どこの国の話か特定できず、日本語が聞こえてようやく、目の前に広がっているのは日本の夏の情景らしいとあたりがついた。そっか、文字を捉えたショットが入り込むだけで、国レベルのものさしが起動し、該当国の文化を意識して見ようとするものなのか…脚本家は韓国人女性?類推する要素が多くなると、とっ散らかって嫌な人もいるかもしれないが、私は歓迎。物語の行く先は簡単に見えない方がいい。この後も、見通せない動きがずっとずーっと続く。

指先に絆創膏を貼った若い女が登場。人影まばらな海辺の町を訪れ、ひとり気ままにあちこちぶらつく。郷土の歴史を展示する小さな資料館に入ったり、進入禁
止の山の中へ分け入ったり、岩壁を通り抜けたら海が全開になったり…。真っ青な夏空と時折吹き付ける強風を背中合わせの絵にして、不穏な気配は濃厚だ。そしてもちろん、訳アリ風な女が動けば男と出会う。母親の故郷に滞在中の青年を見かけ、雑談がスタート。退屈まぎれに交わす言葉は、跳ねもしなけりゃ途切れるでもなく、夕暮れから夜のとばりが下りるまで、いい塩梅のトーンでゆるゆる漂い、やけに心地イイ。風のような…波のような…。旅の途中ならではの3割増し効果か―。

ふたりは翌日も海で再会。台風が迫りくる暴風雨の中、青年はアロハ姿でみつ豆を差し入れし、訳あり女はいきなりビキニ姿をお披露目だ。しかも何の躊躇もなく、ふたり揃って大荒れの海で泳ぎ始めるのには目を疑った。「この悪天候に及んで夏本番アクションかよ!」と、へなちょこ風味のエロスとタナトスを笑っていたら、突然劇中劇は幕を降ろし、現実時間に着地するではないか。そうだった、そうだった!忘れていたが、今目にしていた奇妙でオチのない白日夢のような光景は、脚本内の世界だった。どうやら、書き上がった脚本が映画化され、大学のゼミで上映されていたようだ。

ここで時系列を整理すれば、脚本家の李の創作現場(現実時間)→脚本世界の映像化(脚本内時間)→完成した映画が大学で上映(現実時間)→ゲストとして教授や学生と交流(現実時間)という流れになる。それなりに起伏はあるが、ドラマが向かう先はまだまだ不透明。だけど、映画自体が立ち止まる気配のない日めくり絵日記仕様なので、観客の思考も同期し、静かにずっと回り続ける。

さて後半戦。映画はいよいよヒロイン李の身辺に接近する。完成した映画を見て、じぶんには才能がないと凹んだ李は、ひょんな経緯で手に入れた古い一眼レフカメラを携え、旅へ向かう。言葉から逃れ、代わりにカメラで世界と対峙しようというわけか。そんな、真夏の物語を書いた脚本家がたどり着いた先は、真冬の雪に閉ざされた山奥だ。そのうえ自身の旅も、彼女が書いた脚本同様、「この悪天候に及んで冬本番アクションかよ!」と突っ込まずにはいられない命からがらの行程となり、可笑しいやら恐ろしいやら―。

“遭難”の2文字がよぎる吹雪の中、ようよう見つけた宿は、風流狙いのわび住まいではなく、今にも崩れ落ちそうなただのオンボロ小屋だった。そもそも客間すらなく、宿主のオヤジと囲炉裏を囲んで着の身着のまま寝るハメに…マジか。だが、旅先のトホホ体験が、韓国人女性をヒロインに配したことで、外国人旅行者の異文化好奇心へとごく自然に展開するのには恐れ入った。何より偶然出くわしたこの二人、絵的にも言葉的にもおっそろしくかけ離れているのに、浮世離れ感が同質のため、バディとしてやけにスクリーン映えするのだ。あの訳アリ女と青年の雑談のように―。

というわけで、主人公はほうほうの体で宿を立ち去るどころか、旅先で執筆道具を広げたり、仕事に行き詰まっている胸の内をこぼしたりと、宿主を前にスッカ
リ打ち解け出す。宿主は宿主で、突如現れた話し相手に気持ちが緩み、俗物臭を大っぴらに出し始めたりして、もはや客と宿の間柄ではない。そのうえ、共に人生のスランプ期に突入中のこのバディは、観客の想像を大きく超え、深夜に降り積もった雪道をエンエンと歩き、泥棒に入ろうというまさかの展開!宿主の元ヨメの実家から錦鯉を盗み、養殖で一儲けしようと企むのだが…。

夏と冬、海と山、台風と吹雪、昼と夜…見知らぬ男女の出会いがあり、謎と倦怠と冒険に縁どられた絵日記をめくるうち、いつしか犯罪現場にも遭遇できてしまった「旅」と「日々」。李さん、もう大丈夫。こんなに盛りだくさんな体験をしたのだから、すでにスランプは遠い日の想い出。掃除して、昼寝して、非日常が日常に置き換わった。そろそろ書き始めますか―。

追伸/恥ずかしながら、つげ義春の原作も、女優シム・ウンギョンの存在も全く知らずに鑑賞。むしろ自分にとっては、知らないことが幸いした一本となった。

2025年/89分/日本

監督・脚本/三宅 唱

撮影/月永雄太

編集/大川恵子

原作/つげ義春

出演 シム・ウンギョン 河合優実 髙田万作 堤真一

◾️『ハード・トゥルース 母の日に願うこと』

前作から6年を経て、ようよう公開となった英国人監督マイク・リーの新作『ハード・トゥルース 母の日に願うこと』。ご贔屓監督作品との久々の対面が心底うれしい。何せ彼の巨匠も80歳を超えたご高齢の身だ。新作をリアルタイムで追っ駆けられること自体、貴重だからね。はやる気持ちをなだめつつ、公開2日目に劇場へ直行した。

映画は、ロンドンの閑静な住宅街の角地に立つ、真っ白な壁が目を引く二階建ての家屋を捉えて、幕を開ける。住人らしき作業着姿の黒人男性が、玄関から出てきて助手と合流し、バン車に乗り込み、仕事現場へ出発。平和な朝の出勤の一コマ…今日も穏やかな一日が始まろうとしている。ところがすぐさま映画のトーンは暗転。中流な暮らしぶりが伺われるその家の中では、黒人女性が夢にうなされ、ホラー映画のごとく奇声をあげて、飛び起きるではないか。彼女が忌々し気に家事を始めれば、物音や屋外に向ける警戒心が異様で、度を越したキレイ好きも明らかに病的レベル。いったい何が始まるのか…。予測のつかない滑り出しに、早くも前のめった。

50代の主婦パンジーは、配管工の夫カートリーと22歳でニートの息子モーゼスとの3人暮らし。どうやら目覚めが悪くて不機嫌なのは、この日に限った話ではないようだ。何せ起床した息子の気配を察知しただけで、一方的に攻撃的な小言を投げつけ、口をはさむ余地さえ与えない。頭から湯気が出るほどのガミガミ戦闘モード。図体のデカいモーゼスが、表情を変えずに黙ってやりすごすから、余計にパンジーのキレキャラが際立つという演出の妙も見どころだ。家族揃って食事するときでも、独りエンエンと悪態をつきまくるパンジーの前で、黙食を続ける男2人の仕草がやたら可笑しい。おそらくパンジーとはまともに向き合わないという対処法が、夫と息子が長年かけて導き出した結論なのだろう。

ちなみに、髪の毛が逆立つほどすごい剣幕で怒る様子を、「怒髪天を衝く(どはつてんをつく)」と言うが、パンジーの顔を見たとき、これぞまさしく怒髪天だ!と興奮した。眉間の皺の深さといい、鼻孔の迫力といい、新薬師寺の伐折羅(バサラ)大将像そっくりなのだ💦それならば、本尊を守るために仏敵を寄せ付けまいとにらみをきかせるバサラに対し、パンジーの怒りは一体何に起因するのか?何を守るために、どこに向かって、怒りちらしているのだろうか?

次に映画は、黒人女性たちのおしゃべりで華やぐ美容室へ場面転換。客のボヤキから噂話まで、すべてを軽やかに受け止め、ユーモアたっぷりにリアクションする女主人のシャンテルは、何を隠そうパンジーの妹である。シングルマザーの彼女は、成人したふたりの娘ケイラとアレイシャと暮らしているが、こっちは姉一家と真逆で、何でも語り合う三姉妹のような関係性だ。笑い声が絶えないオープンマインドな妹一家と、閉鎖的で緊張感が支配する姉一家…あまりに対照的過ぎる構図ゆえ、先が思いやられたのは私だけではないだろう。もちろんその狙い通り、映画は両家族の日常風景を交互に映し出しながら、我々の目線を黒人社会へ接近させる。さながら彼らの親類縁者の一人になるように―。

にしても、パンジーの悪態のつきっぷりは想像以上に凄まじかった。身内以外でも、行く先々で誰彼かまわず標的にして罵詈雑言を吐きまくり、迷惑千万な振る舞いを炸裂。理由があるならまだしも、憎まれ口をたたくことが目的化してしまっているようで始末が悪い。スーパーのレジ店員に「なに幽霊みたいな顔してんだよ!」と言い放ったときには、さすがに私も白旗を挙げた…口が悪いレベルをはるかに超えたホンキの罵りだから。世間が嫌ならシャットアウトする道もあるのに、そうはしない。むしろ突っ掛かる相手を探し求めて生きているように映る。そりゃあこれだけ自分の刃で自分を常に痛め続けていたら、心身ともに不調になるのも当然だろう。いやはや、彼女を理解するためのハードルは、とてつもなく高い。

そこを何かとフォローしてきたのが包容力満点のシャンテルである。ある日、次の日曜の母の日に、一緒に墓参りに行って、その後みんなで食事をしようとパンジーに持ち掛ける。案の定、誘う端から即座にNO!と突っぱねられるが、それでも妹は粘り強く姉を導き、何とかふたりで肩を並べて墓地を訪問。すると5年前に孤独死した母の墓前で、パンジーの複雑な感情が涙とともにどっと溢れ出るではないか…これはひょっとして信田さよ子氏案件?ただし映画は、彼女の不可解な言動の要因を、あえて観客の望むわかりやすい形で展開しない。亡き母との確執を匂わせはしても、分析も和解も開放も遠ざけ、ひたすら疲れ切った一人の人間の断片を描写するだけ…これがやけにリアルで染みた。

パンジーの陰に隠れがちだが、周辺の登場人物たちのさりげないスケッチを、要所要所で差し挟むのも、作品の厚みにつながった。カ―トリーと無駄口ばかりの助手との間延びした関係をはじめ、モーゼスが日課の散歩を通じて味わう世間との関係や、実はキャリア面では弱みを見せあえないケイラとアレイシャ姉妹の関係など、誰の横顔にも言葉にしづらい孤独の断片が浮かび上がり、見過ごせなかった。

そして本日のメインイベント―シャンテル家へ移動して手作りの料理を囲み、娘二人が陽気にもてなす、2家族揃っての食事会が始まる。
ところがこの頃になると、国も人種も異なる人々の遠いドラマだったはずが、親類の法事の集まりにでも居合わせた気分で眺めるようになっていて、あらまあ不思議。知らぬ間に、親しみと同時にいたたまれなさを感じる距離にまで近づいていたみたい。我ながらびっくりだ。しかも頭の中では、小津の『東京物語』から類推し、家族の在り様はいずこも同じか…などと思い巡らせているではないか。そう、一堂に会した誰もが、“家族だからこそ”と“家族といえども”の間で揺れ動く。そこに幻想はあっても正解はない。大団円と見せかけて梯子を外し、最後の最後までカタルシスをうっちゃる見事な設計、なんて大きな映画だ!巨匠は健在だった。

そうそう、パンジーを、映画史に残る傍迷惑なキレキャラだと認定してしまっていたが、見終わって時間が経つほどに印象は変わった。色物として扱うことに違和感をおぼえ、あれが彼女の噓偽りのない振る舞いであり、パンジーは自分を全うして生きているのではないかと―。そしてシャンテルの献身も自己犠牲からではなく、同じようにひたすら自分を全うして生きているだけだと思うようになった。私がスクリーンで目撃していたのは、私が安堵できるものとは異なるにせよ、宿命を受け入れて生きる姉妹の姿だったのだ。

2024年/97分/イギリス
監督・脚本/マイク・リー
撮影/ディック・ポープ
美術/スージー・デイビス
音楽/ゲイリー・ヤーション
出演 マリアンヌ・ジャン=バプティスト

◾️『スターレット』

ショーン・ベイカー作品を最初に目撃したのは、2017年のこと。全編iPhoneで撮影した「タンジェリン」(2015)が話題になり、劇場へ。あれからまだ10年も経っていないのか…。

正直言って映画鑑賞の方法論として、個人の電話(iPhone)で撮影した日常的な内輪の騒動を、わざわざ映画館の大きなスクリーンで有料で見せることに、当初は「いかがなものか?」と訝しく思ったものだ。だが、製作費用を抑えるための苦肉の策とはいえ、「タンジェリン」に素人臭さは微塵もなく、むしろジョン・ウォーターズ映画を圧縮したような語り口に、得も言われぬ郷愁が漂い愛らしかった。以降、常に次回作を待ち望む監督の一人となった。そのうえ新作「アノーラ」(2024)が、去年のカンヌでパルムドール受賞の快挙だ。こんなに短期間で世界を席巻するとは…ぶっちゃけ、本人が一番驚いていないか?

そんなショーンの「タンジェリン」以前の初期の作品が、この夏初公開された。「テイクアウト」(2004)「プリンス・オブ・ブロードウェイ」(2008)「スターレット」(2012)と、3本立て続けにチェックしたが、いやー、私が悪うございました。譲れない確固としたテーマを持ち、テーマに対して毎回新しい切り口で挑み、着実に腕を上げている。パルムドールに至るまでの軌跡を遡ってたどってみたら、驚きでもなんでもなく、非常に腑に落ちた。獲るべくして獲ったのだ。取り急ぎここでは、3本中最も気に入った「スターレット」について書いておく。

女優志願のジェーンは21歳。親友メリッサとヒモのマイキーの馬鹿ップルとルームシェアをしながら、ロサンゼルスで暮らしている。差し当たり、3人が何で生計を立てているのかは不明だが、好きな時間に起き、ドラッグをやりながら昼間から対戦ゲームに夢中になっている様子からすると、いわゆるサラリーマン的金銭思考で生きていないことだけは確かだ。あと、見た目の印象=トレンドの取り入れ具合が同質なので、3人ともわかりやすく一旗揚げたい人種に違いない。

引越して来て間もないジェーンは、ある日殺風景な自室を模様替えしようと、愛犬を連れてガレージセールへ出かける。雄のチワワのスターレットとは、何をするのも一緒。ペットというより、相方扱い。痩せっぽちで持て余すくらいなが~いおみ足のジェーンと、ちびっこいスターレットの組合せは絵的にも絶妙で、スクリーンがおとぎ話の世界に早変わり。うーん、なかなか楽しいじゃないの~♪

さて、戦利品を抱え帰宅したジェーンが、ある老婦人から買った魔法瓶を花瓶にしようと洗っていると、中から丸めて束ねた札束がゴロゴロ出てくるではないか!丁寧に乾かして数えてみたら、何と1万ドル以上もある。ジェーンは、逸る気持ちを相方につぶやきながら、ちゃっかり大金を魔法瓶からじぶんのブーツの中へ配置換え。そりゃあ、現ナマのオーラを浴びたら最後、誰しも抵抗できないものだ。彼女のユルく飢えているかんじがリアルに伝わるいいシーンだった。

早速ジェーンは、意気揚々とショッピングセンターに出かけ、美容サロンに立ち寄り、棚ぼた小金持ちをエンジョイしようとするが、イマイチ心が晴れない。魔法瓶の売り主の家はわかっているし、そのうえ相手はお年寄りだ。良心の呵責ってヤツが付きまとう…意外にもまっとう。迷った挙句、思い切って返しに行ってみた。ところが、なぜか頑なに返品を断られ、玄関先で追い払われる始末…。うーん、どうしたものか。とりあえずお金のことは秘密にしたまま、ジェーンはこの人嫌いな老婦人と打ち解けあう方法を探ることにした。

まずは、偶然を装い、車を持たない老婦人の送迎を勝手に始めた。なるほど、罪の相殺にちょうどイイ思い付きではないか。荷物の運搬にかこつけてしれーっと自宅に上がり込み、暮らしぶりをきょろきょろチェックしたりして…ジェーンの大胆さに大笑いだ。相方のスターレットも一緒ってところがさらにウケる。老婦人の名はセイディ。高齢の単身暮らしに送迎はありがたくても、若い女+一匹の勝手な振る舞いに振り回され、当然ながら警戒心は増すばかり。

次にジェーンは、セイディの週一回の楽しみのビンゴゲーム会場へ、またまた偶然を装って襲撃。虚無の吹き溜まりのビンゴ大会と、露出度の高い若いねーちゃんの組み合わせは相当に奇異で可笑しいのだが、ジェーンの一方的な付きまといに怒り心頭のセイディが、催涙スプレーを持ち出して反撃に転じ大騒ぎに!魔法瓶を縁に接点の始まったふたりが、ごく短期間に、警察が出動するほどホンキでぶつかり合う。痛快。と同時に、ここは本作のキモにもなるシーンだ。

ユルユルに生きてるジェーンと偏屈なセイディ。映画は、異質な者同士をガチンコ勝負させた後、今度はセイディの方から謝罪のために近づかせ、ふたりをイッキにときほぐしてみせるのだ。世間からハミ出しているふたりだが、ここでは実社会のルールにのっとって軌道修正し合い、美しい。送迎も再開。ただし、それはジェーンの目論見通りでもある。セイディの身の上話を聞けば、家族は誰もおらず、ギャンブラーだった亡き夫の遺産があり、お金には困っていない様子。何より魔法瓶のことなど、すっかり忘れているのには助かった。

家へ出入りし、お茶してくつろぎ、おしゃべりを重ねるふたりと一匹。

やがて、運転免許を返納して遠出ができないセイディを、夫の墓参りに連れ出してあげる間柄にまでなる。まるで帰省した孫と祖母だ。とはいえ、ショーンの映画が孝行ドラマで終わるわけがない!遅ればせながら、ここからジェーンのリアルお仕事現場に横展開する。我々は、彼女が主演の新作の撮影現場に同行する形で、ハードなからみシーンを前振りもなく目撃する。そこで初めて、ポルノ女優が生業だとわかる仕立て。何食わぬ顔で、我々の偏見を炙り出そうとする演出が油断ならない。

とはいえ、ジェーンの振る舞いはどんな場でも同じトーンに映し出される。同居人と接するときも、高齢のセイディの前でも、裸一貫稼業の現場でも、ちょっと呆れるくらい素直で濁りがない。いつも他者を想像して接し、優しさに厚みがある。そう、ジェーンには、”共同体の中で生きる”という感覚が、ごく自然に備わっている。それは、我々が職業に貴賎なし状態で映画に留まっていられる理由にもなっているのだ。

そして忘れちゃならないのが、例の大金の落としどころだ。ジェーンは、PARISに憧れるセイディのために、あのお金で一緒に旅する計画を思いつく。ところが出発までに様々なアクシデントが起こり、本当に旅立つことができるのか、最後の最後までまったくヨメない。秘密を持つジェーンは明らかに分が悪く、見守る我々もツイあの手この手とお節介妄想に走る。果たして一発逆転はあるのか。

ラストは年の功が光った。旅立ちの朝、セイディは、どうしても墓参りに立ち寄りたいと言い出す。実は彼女にも打ち明けられずにいた秘密があり、それを信頼の証として先回りして開示し、ジェーンの重荷をほどいてあげたのだ。年齢も出自も大きく異なるふたりの心が、さらに強く結びつくための慈悲深きサプライズ…。無言のアイコンタクトが胸に染みる幕切れとなった。

長編デビュー作から今年で25年。ショーン・ベイカーは、毎回、観客を閉幕ギリギリまで映画内世界に引き止めて離さない作家である。そして必ずや最後に予想外の角度から、我々に今日を生き延びるためのささやかな安息を与えてくれる。彼の映画は、すべての労働者のためにある。

2012年/103分/米国

監督・脚本/ショーン・ベイカー

撮影/ラディウム・チャン

出演 ドリー・ヘミングウェイ ベセドカ・ジョンソン ジェームズ・ランソン 

◾️『フォーチュン クッキー』

映画館通いを続けて半世紀以上になるが、入場の際にお菓子を手渡されたのは、今回が初めてだ。何だかわからぬまま、映画が始まる前に食べてしまおうと開封したら、餃子の皮をねじったような奇妙な形状の煎餅で、ガリッと噛むと中からおみくじが出てきた。「あなたはもう、原石ではなく、宝石。」と書かれている。口の中に広がる煎餅の懐かしく素朴な味と、どう解釈するべきか一瞬戸惑う不思議なメッセージをかみしめるうち、映画はゆるりと始まった―。

幕開けの舞台となるのは、女性ばかりが働く小さな食品工場。もっとも、労働現場の割には流れている時間はユルく、モノクロ&スタンダード画面のせいか、寓話の趣すら漂って見える。次に、できあがった商品を袋詰めにしている作業がスクリーンに映し出されたとき、「もしかして、さっき食べた煎餅では?」と、遅まきながら気づいた。どうやらあれが、映画の邦題にもなっているフォーチュンクッキーらしい。図らずも私は、現物配付によって、すでに映画内世界とリアルに結びついていたってわけだ。おそるべし宣材力!

さて、袋詰め作業員の1人、ドニアが本作のヒロインである。顔つきがイイ。自分の頭で考えようとしている印象。何より、若さという無限の可能性に生きる人間の眩しさがある。―が、おしゃべりな同僚ジョアンナにムダ話を振られても、リアクションが乏しく、ちょっと気になる。無視する気も皮肉るつもりもなく、むしろ丁寧に耳を傾けている様子だが、話は弾まず、表情も変わらない。大学出にこの仕事は単調?有り余る若さの渦中にいながら、本人がその恩恵に最も無自覚というのはありがちな話でもあるが―。

しかし心配は続く。ドニアは慢性的な不眠症らしい。夜中に星を見上げながら、不眠症つながりの隣人に精神科に通いたいと打ち明けるのには軽く驚いた。確かに、若くても健康的に見えても、背負いきれないものを抱えていることは少なくない。ドニアは幸運にも、隣人が譲ってくれた予約を使い、精神科のカウンセリングを受診できるようになった。なるほど、医者との対話によって、我々は彼女の背景を徐々に知ることになるわけか。うまい運びだ。

祖国アフガニスタンの米軍基地で通訳をしていたが、軍の完全撤退&タリバンの復権によって、アメリカへ単身で逃れ着いたこと。故郷に残した家族は裏切り者のレッテルを貼られ、苦境に立たされていること。友人たちが殺される中、なんとか生き延び、特別移民ビザが下りて8カ月前からフリーモントに住んでいることなど…衝撃の事実が次々と明かされる。

ただ本人は医者を前にしても、饒舌になるでも、苦痛で言葉を詰まらせるでもなく、表情を変えず、聞かれたことに落ち着いて淡々と答えるだけ。穏やかな語りのリズムと内容のあまりの落差にツイ笑ってしまうが、そりゃあこれほど過酷な体験をしたなら、感情が追いつけなくもなるだろう。ドニアは、自分の過去にも未来にも焦点が合わせられず、宙吊りになったままのようだ。

映画の舞台 “フリーモント”は、カリフォルニア州のベイエリアにある街で映画の原題にもなっている。人種も国籍も多様な人々が住んでいて、北米最大のアフガン人のコミュニティもある。ドニアはここへたどり着いた。ただし、移民居住区での彼女の暮らしは正直言ってビミョー💦同胞たちも皆、それぞれに重い現実を背負って生きているようだが、連帯ムードはなく、閉塞感が漂っている。まあ、それだけ祖国への絶望が深く、拠り所が持てないのだろう。ドニアの行動範囲も、勤務先のクッキー工場と、行きつけのアフガン食堂と、精神科の3か所を行き来するだけだし…。このままでは歌を忘れた籠の中のカナリアだ。

ある日ドニアは、工場のオーナーからクッキーの中に入れるおみくじ用のフォーチュンメッセージを書く仕事を任される。いきなりコピーライターに配置換えだ(笑)。あらゆる人を対象に、さりげなく前向きなメッセージを紡ぎ出すのは、自身の人生を想像できないと難しい。自分独りが生き残ったことに罪悪感を感じ、幸福を遠ざけてきたドニアにはある種の試練だが、これを機に彼女の意識はゆっくり変化する。

オーナーは執筆への心構えを説き、医者は治療に役立つと背中を押し、ジョアンナはカラオケで美声を贈り、食堂のオヤジは「最後に胸がときめいたのはいつだ?」とハッパをかける…。そう、みんなが遠巻きに彼女を応援している。何よりドニア自身が他者からの声援に気づいたことで、自分も幸せになりたい!と目覚め始めるのだった。

そんな中、ドニアはフトした思いつきから、自分の名前と電話番号をメッセージに書き込み、こっそりクッキーに忍び込ませてみた。やるなあ、なかなか大胆じゃないか!すると早々に、メッセージを読んだ相手から連絡が届き、迷いながらも会いに行くことを決意する。貯金を切り崩して旅の計画を立て、着て行くものを選び、鏡の前で笑顔の練習♬ジョアンナのお母さんから借りた車に乗って、初めてフリーモントの外へ旅立つ…可能性の大海へ一歩踏み出すスケッチの、武者震い感がたまらない。

映画は最後の最後に至って、それまでと全く違うテイストの顔つきに変わり、我々を驚かせる。向かった先には運命の人は現れず、オーナーの妻が謀った“鹿の置物”があるだけ💦 ところが目的地の手前に、とびっきり美しいサプライズをサラリと用意するではないか。

旅の途中、ドニアはたまたまオイルチェックに立ち寄った自動車工場で整備士の青年に対応してもらい、隣接するダイナーでも再び顔を合わせる。ブラインド越しに光が差し込む窓際の、一つ離れた席に向かい合い、不器用に言葉を交わす見知らぬ男女。長い沈黙に私の方が照れたりなんかして…。これぞ本当の意味での“ブラインドデート”だと、思わずツッコんだ(笑)。しかも整備士を演じるのは、今を時めくジェレミー・アレン・ホワイト。最短最速で恋愛映画に豹変しても何の問題もなしだ。

「あとでコーヒー飲みに来ない?」と誘われ、事務所の扉を開けるドニアは、すでに8カ月前の彼女とは別人である。いつもどこか遠い目をしていた彼女の瞳の先に、今は自分から近づいて言葉を交わしたい対象が存在するのだ。凄惨な記憶や贖罪の思いはこの先も消せはしないが、世界は広い。自由に生きて幸福を追い求めたいと願う気持ちに、もうウソは付けない。自動車工場の裏庭に佇み、列車の音を聴きながら吹き抜ける風を感じるドニアを、引きで捉えた幕切れの抒情性が素晴らしい。今夜から彼女に睡眠薬は不要だろう。命短し恋せよ乙女。

2023年/91分/米

監督・脚本/ ババク・ジャラリ

脚本/カロリーナ・カヴァリ

出演 アナイタ・ワリ・ザダ グレッグ・ターキントン ジェレミー・アレン・ホワイト

◾️『年少日記』

香港映画『年少日記』は、ニック・チェク監督のデビュー作にして、いきなり数々の賞に輝いたという注目の一本。ここのところずっと、2時間越えの映画が続いていたから、95分という上映時間にも好感が持てて、公開直後に速攻で劇場へ向かった。

ところが、日記➡回顧モノと安直に構えていたら、幕開けから構成が複雑で、ボケボケしていられない。けして難しくはないのだが、注意深く追いかけていないと、物語の背骨が捉えられなくなりそう…。予想外に集中力を要す作品なのだ。舐めたらアカンね💦

映画の冒頭、可愛らしい顔をした小学生の男の子がビルの屋上に駆け上がり、スッと姿を消す。飛び降りか?と肝を冷やしていると、逆に大声を出しながら自身を叱咤激励し始めるではないか…なんだか奇妙な光景。続いて、高校生男子たちのいじめの現場と、成人男性が浮かない表情で通勤するスケッチが同時進行する。どうやら男性は高校で教鞭をとるチェン先生で、いじめられていた男子生徒の担任らしい。私生活でも結婚が破綻したばかりで、お疲れの様子。さらに放課後、チェン先生の教室のゴミ箱の中から自殺をほのめかす遺書が見つかり、これが職員会議で問題に―。

そう、始まってすぐに緊張を強いられる大きな要因は、4つもの異なるエピソードがパタパタと綴られるのに、映画の主人公が一体誰なのか、一向につかめない点にある。

小学生の男の子なのか、いじめの渦中にいる高校生男子なのか、チェン先生なのか、遺書の書き手か…。そもそも時間軸は1本なのか、それとも複数なのか…見通せない。ただ、どのエピソードも学校や学生生活が背景になっているので、観客が映画につなぎ止められるのは間違いない。取り急ぎ参照可能な共通体験があると、想像力は発動するものだからー。

次に映画はチェン先生にフォーカス。先生は、遺書に書かれた「私はどうでもいい存在だ」というフレーズが頭から離れなくなっていて、遺書の筆跡をもとに、書き手の手がかりをつかもうと捜索に乗り出す。と同時に、そのフレーズから自身の幼い頃の記憶が蘇った先生は、押入れから一冊の日記帳を探し出し、読み始める―。

さて4つのエピソードが、ここで一旦、遺書の書き手とチェン先生の記憶に絞られた。そして早くもタイトル通り、日記が登場。チェン先生の子供時代の回想シーンへ移行する。日記の書き手であり回想の中の主人公は、何と冒頭に登場した愛らしい少年ヤウギツではないか。なるほど、映画は冒頭から回想を織り込んだ仕立てになっていたわけだ。

ヤウギツは、両親と弟の4人家族。運転手や家政婦が常駐し、学校に多額な寄付もする富裕層のお坊ちゃまくんである。が、弁護士の父は家父長制の権化のような暴君で、勉強もピアノも優秀な弟のヤウジョンと比べては兄のヤウギツを罵倒し、体罰を繰り返す。服従を強いられている母は、ヤウギツをフォローするどころか保身に走り、弟は要領の悪い兄から距離を置く。家族の一員でありながら、ヤウギツは完全アウェイ状態だ。

いやアウェイどころか、安心であるはずの家庭内で、いじめの構図ができあがっているのには言葉を失くす。しかも切ないことに、そんな理不尽な目にあってもヤウギツは、まっすぐ過ぎて怖いほど日記の中で絶えず努力不足を反省し、家族みんなに認めてもらえ、理想の大人になれるようにと頑張り宣言を繰り返す…。いやいや、本当に小学生?家族の中でキミが一番大人では?と思わずにいられない。

そんな健気なヤウギツの心の友は、お気に入りの漫画の主人公と、話し相手のマペット人形と、ピアノの家庭教師だけ。いつも優しく寄り添ってくれる彼女に「弟と同じじゃなくてもいいんだよ」と慰められると、ボクもいつかこんな先生になりたい!と感化され、日記の中でささやかな希望を見出すことも…。なんだかイチイチ涙ぐましくて、嫌な予感が渦巻くばかり。

このあたりになると、映画の主人公は、概ねチェン先生なのだろうなあ…、幼い頃に深く傷ついた経験があったのね…と、見守るようになる。やがて遺書の発覚をきっかけに、チェン先生の中で変化が起きる。教え子たちに自分から歩み寄り、破綻した結婚生活の記憶とも再び向き合うようになる。特に本作が巧みなのは、チェン先生の現在進行形の問題を語る際に、彼の回想シーンを因果に直結させず差し挟む点だ。そのうえ絶えず新しい登場人物を過去の記憶から送り込み、あえて遠回りしながら描き進める。当然複雑にはなるが、現在と複数の人々と紡いだ過去の時間とを抱き合わせて語るがゆえに、単なる一人の人間の回想録に閉じず、映画に社会的な視座が加わって映るのだ。

ところが、ヤウギツの背負う運命は想像以上に惨酷で、回想シーンであってもなぜか「すでに終わったこと」扱いし切れない緊張感が続く。進級試験に失敗し、大好きな宝物を没収され、父からはもちろん、助け舟を求めた弟にも見放されて、追い詰められ方がハンパない。終には絶望の果て、みんなの期待に沿えない自分を自らの意思で葬り去ってしまうのだ―。

思わず「えっ!」と声を上げた。ヤウギツ=幼い頃のチェン先生ではなかったのか!先生が弟の方だったなんて!どこで見誤り、思い込み違いをしてしまったのだろう…。オープニングの飛び降りもどきがまさか本当に起こるとは…。ここには、不意に梯子を外され、宙づりにされるという映画鑑賞の醍醐味がしかと設計されている。だが、鮮やかなギミックはあくまで呼び水で、秘密の解明が映画の狙いではない。終盤では、兄が消え去った後に贖罪に苦悩する弟が、今度こそ閉じずに世界とどう向き合い生きて行くのかが描かれ、さながらチェン先生が綴る弟日記のような仕立てになっているのだ。

そこには、後悔に苛まれながら死期の迫る父や、自己開示する勇気が持てず傷つけてしまった妻、そして教え子たちも登場し、彼らとの双方向の対話が積み重ねられ、チェン先生は自身の手で過去の痛みから解き放たれてゆく…。そしてもちろん最後は兄との対面だ。屋上にあがり、兄の幻影に花を手向けた弟の人生は、ここからもう一度動き出すのだ―。

2023年/95分/香港

監督/ ニック・チェク

出演 ロー・ジャンイップ ロナルド・チェン ショーン・ウォン

▪️『ケナは韓国が嫌いで』

2015年に刊行され、韓国でベストセラーになった小説の映画化「ケナは韓国が嫌いで」(24)は、28歳のヒロイン・ケナが、家族と恋人のジミョンに見送られ、大きなスーツケースを引っ提げ、飛行場から旅立つシーンで幕を開ける。本人は、家族、恋人、そして韓国に、キッパリおさらばして海外へ渡るつもりらしいが、見送りの一行は金魚のフンのように付き添い、未練タラタラ。当のケナだって、いかにも旅慣れていない様子で何とも心許ない。そんな彼女が、なぜ祖国から抜け出す決意をしたのか―。映画は、ケナのモノローグを基調音に、過去と現在、韓国と留学先のニュージーランドを往復しながら、彼女の決意の中味を探る。

ソウル郊外で両親と妹と暮らすケナは、まだ夜が明けきらないうちからバスと電車を乗り継ぎ、片道2時間かけて金融会社に通勤している。大学は出たものの、不正や忖度がはびこる仕事環境には何の興味も持てず、心身共に疲弊させられるだけの毎日。そもそも競争力のない自分には、韓国社会の荒波の中で生き抜ける気がしないのだ。

恋人のジミョンとは学生時代から7年も付き合ってきた仲。穏やかで誠実そうな人柄だが、「就職したら自分が支える」と慰められると、上から目線のズレた同情心にケナの憤りは収まらない。結婚を持ちかけられるのは素直に嬉しいが、結婚すれば自分の人生は万事快調!などと、安易にすり替えられない性分だから、ついイラついてしまうのだ。

もともと裕福な家庭で育ったジミョンとは、明らかに格差がある。ケナは、隙間風が寒くてコートも脱げないような古ぼけた団地に暮らしながら、予定されている新居購入資金に、自分の稼ぎがあてにされているような境遇だ。さかのぼれば大学進学時も、本当は名門校を目指して頑張りたかったのに、家には塾に通える余裕はなく断念した。そう、彼女が「競争力がない」とボヤくのは、本人の努力の問題ではなく、生い立ちで将来が決まってしまう自国の社会構造に理不尽さを感じるからだ。ケナは自分の人生を自分で描いて生きて行きたいだけなのだが、この国にいる限り、現在も未来も息苦しさしか想像できない。

じゃあ、海を渡ればすべてHAPPYになるのか―。もちろんそんな単純な話ではない。オークランドに到着はしたが、永住権を得るためのハードルは想像以上に高い。まずは語学、そして資格取得に学費稼ぎのアルバイトもマストだ。それでもヨチヨチ歩きからベテラン留学生へ、ケナの顔つきや身のこなしが少しずつ変わり始める。年下ボーイたちにモテたり、ワイルドな女ともだちと出会ったり、政治問題をディスカッションできるほど英語も上達した。留学同期の同胞ジェインとは、男女の垣根を超え、何でも打ち明けられる親友になった。そして何よりニュージーランドは暖かい!凍てつく母国でのうつむきがちな生活とは正反対。ケナは寒い韓国が心底嫌いだったのだ。

その一方で、ケナを送り出した韓国側の人々を捉えるスケッチがさりげなく豊かで、本作を一層侮れないものにしている。結婚をせっつく母には母なりの人生哲学があるとわかるし、家長ヅラできない父は「ウチの子は美人だ!好きに生きろ」と、ケナのすべてを受け止めてくれる存在だ。ヤンチャだった妹が、バンドマンの恋人ができたら、姉とまともに話せるようになるエピソードもエエ逸話。

つまりケナは、家族を呪って新天地へ向かったわけじゃない。家族仲が良くても、恋人が優しくても、大手企業に就職できても、そこで得られる日常に、生の歓びが見出せないから去るしかなかったのだ。自分の中に棚上げにできない不満分子を見つけてしまった以上、博打を打つのが我らがヒロイン。他責にせず、進む先を自ら決め、自らを変えるために留学を決意したってわけだ。

そして本作は、自己実現に目覚めたヒロインの冒険譚だけに終わらせなかった。ケナ以上に、苦しんでいる大学時代の友人ギョンユンを登場させた。公務員試験に落ち続け、崖っぷちに立たされているこの青年とケナはコインの裏表。貧困から抜け出し、自分の人生を生きたいと願う点においては同士だが、国を離れて博打を打ったケナとは反対に、ギョンユンは自国の構造にとどまり一発逆転を夢みている。ところが、ある日ふたりに悲痛極まりない別れが訪れる―。

ドン詰まりな状況下でも、いつもおどけてみせてたギョンユンが、道化の仮面を脱ぎ、自ら死を選択してしまったのだ。留学後の初めての帰国が、まさか葬儀になるとは…。深夜のハンバーガーショップでケナはギョンユンの夢を見る。ハンバーガーを食べながら、いつものようにざっくばらんに心境を吐露しあう2人の姿が、店内の鏡に幾重にも反射する。「不安な人ばかり見ているから旅に出るよ」と話すギョンユンの横顔に、もう悲壮感はない。突如現れたこの幻影に、ケナ同様、我々もまた奇妙な安らぎを覚えるのだった。

国へ帰り、家族とも元恋人とも、久しぶりに顔を合わせたケナは、一旦、振り出しに戻った形。そのうえで今一度我が身を振り返り、寒さよ、さらば!と、出国を決意する。そこには、大きなスーツケースでアタフタしていたかつての姿とは異なり、すっかり旅慣れたバックパッカーのケナが屹立していた。どこへ向かおうが、幸福が約束されているわけではない。ただ、今の彼女に自分探しはもう不要。30歳を目前に、再び機上の人となる幕切れが、実に爽快だった。

監督は、韓国出身で1977年生まれのチャン・ゴンジェ。本作は、リアルな社会問題と真正面から向き合い、しかもかなり入り組んだ構成で仕上げられているのに、まったく気負いがない。編集のリズムは絶えずなめらかで心地良く、夢と現実の境界線が不意に消える瞬間でさえ、やけに落ち着いてながめていられるほどだ。映画の虚構性が、こんなに慎ましい姿で表出する作り手が存在するとは…。アクがないのにいつまでも記憶に残る不思議な魅力の作家。レトロスペクティブ企画で過去の4作品すべてを鑑賞し、その実力に確信を持った。次作が今から待ち遠しい。

2024年/107分/韓国

監督・脚本/ チャン・ゴンジェ

原作/ チャン・ガンミョン

撮影/ ナ・ヒソク

出演 コ・アソン チュ・ジョンヒョク キム・ウギョム

▪️聖なるいちじくの種

映画製作をめぐる裁判で、不当な判決を言い渡されたイラン人監督モハマド・ラスロフは、表現の自由を貫くため、収監直前に祖国を脱出。政府の腐敗と圧政を世界に向けて問おうと、命懸けで新作「聖なるイチジクの種」を第77回カンヌ国際映画祭に持ち込み、審査員特別賞を受賞した。いやはや、発表までの舞台裏だけで映画が何本も作れそう…。前振りが劇的すぎて、本編にたどり着く前からお腹いっぱいになりそうだが―💦

ところが、蓋を開けたら意外な手触りのする娯楽作品に仕上がっていて、めっぽう面白い!イスラム世界を前に身構える必要はなく、むしろ鑑賞後はイスラム世界との距離が縮まったようにすら感じた。というのも、本作の基本フォーマットが、リアルタイムのイランという国家を照射したホームドラマだからだ。

主役一家は、裁判所に勤める国家公務員のイマンを大黒柱にして、専業主婦の妻ナジメと十代の娘たち―長女レズワンと次女サナ―の4人家族。一見平凡に映るかもしれないが、イラン映画を長年愛好してきたじぶんの印象からすると、今までで一番〝政府寄り〟かつ〝安定した暮らしぶり〟の家庭像だ。

映画は、この一家を捉えるときに、3つの関係を通じて接近する。1つはイマンと職場の関係。2つ目はイマンとナジメの夫婦の関係。3つ目はナジメと娘たちの関係だ。ちなみに1は男性だけ、2は男女一対、3は女性だけという見方もできる。そのうえで、最後にメンバー4人が総出で、家族関係の決着を図るという仕立てである。

映画は1から順にスタート。20年以上も誠実に勤めてきたイマンが、念願の昇進を果たす。だが表情は浮かない。何せ、出世と同時に支給されるのが護身用の銃なのだ!いったいどんな組織で働いてきたのか?裁判所の調査官に任命されたはずだが、本当はヤクザ?一方で、仕事帰りにわざわざ山奥のモスクへ立寄り、神へ感謝の祈りを捧げたりして、やっぱりまんざらでもなさそう…。組織型体質と宗教心を見る限り、どうやらイマンには、ドン・コルレオーネもどきな側面がありそうだ。

次に、夜遅く帰宅したイマンに、お茶と夜食を出し、甲斐甲斐しく世話をするナジメが登場。ここからは2の夫婦のパートだ。赤いランプシェードが目を引く寝室で、昇進の喜びを噛みしめ合うふたり。夫が妻に銃に触れさせるエロさや、妻が憧れの官舎への引越しに胸をときめかせる様子に、ふと高度成長期を舞台にした日本のドラマのエッセンスが蘇ってきた。そう、あのジェンダーに応じて規範や役割が固定化され、それが共通認識になっていた時代の匂いが―。

ただし、ここでイランの夫婦像を時代錯誤の一言で片付けたいわけではない。今の日本だって大枠ではさほど変わらない。いや逆に、最近のドラマ設定では多様性への配慮が先行し過ぎ、夫婦としての存在感が希薄になりがち。このふたりが放つような濃厚な絵には昇華できない。映画表現にとって、強い関係性を切り口に物語へ誘えるのは、大きな武器と言えるだろう。

そして一転。翌日の3のパートは、母と娘のかしましい会話で始まる。

今夜はお父さんの祝いだからと舞い上がる母に対し、ずっと父親の職業を秘密にされてきた娘たちの関心度は低い。夫の出世に前のめってる母親が、ヒシャブを必ずつけろ、SNSは注意して使え、立場を考えた振る舞いをしろと口うるさく釘を刺しても、テキトーにあしらっていて温度差は歴然だ。今どき少女たちと母との距離感は、我々の日常光景と変わらない。特に女同士のシーンには、食事や身づくろいや学校への送り迎えなどの生活スケッチを通し、一家の中流家庭像が具体的に肉付けされると同時に、母と娘の価値観の違いが浮き彫りになり、興味が尽きなかった。

さてイマンに話を戻すと、昇進を喜んだのもつかの間、新たなミッションは、政府に歯向かう輩たちに対し、ロクな調査もせず、右から左へ死刑求刑を下す役目だった。つまり銃の支給は、反政府側から狙われる可能性を踏まえての対策。出世コースにしがみつくなら、上司の命令に絶対服従の忖度マシーンになるしか道はない。イマンはこれも神の導きだと固く信じ、見て見ぬふりに徹する覚悟のようだ。

ただしイマンには、家へ戻れば大黒柱を守るための魔法が用意されている。外でどんなに良心が咎められても、世話焼き妻が家長の椅子へ押し上げてくれて、裸の王様状態。いやマジでイマンは、やたら上半身裸になる(爆)。その度にぶ厚い胸筋をお披露目するのだが、このシーンって要る?(笑)もしかしたら、これはナジメ側からの成果発表なのかもしれない。鍋を磨くように、夫もピカピカに磨き上げて自尊心を取り戻させようとの意図なら、ある意味最強タッグだ。

日本になぞらえるなら、「昭和」な父イマンは国家と信仰心に生き、「平成」な母ナジメは家庭に生きる。じゃあ、「令和」の娘2人が何に生きているかというと、それは革命とSNS。内向きな両親に反し、家の外でリアルタイムに起きている変化が最大の関心事である彼女たちは、日ごとに増す市民による政府への反抗議デモに、圧制からの開放の予感を感じずにはいられなくなる。そんな家族4人、それぞれが抱える日常的なストレスがMAXに至った或る夜、家の中で父の拳銃が消えた…。誰もがじぶんは知らないと主張し続け、誰もが容疑者の汚名を着せられたまま暮らすことに―。

ここからがさらに見ものだ。社会からの信用喪失を恐れた父が、何と同僚の手を借りて家族を尋問するではないか!もちろん娘たちが黙っているわけはない。常に父を正統化してきた母も責め立て、家の外で拡大する反抗議デモと呼応するかのように、家族内で戦いの狼煙が上がる…もしや分断か!この先映画は舞台を郊外へ移し、疑惑と逃亡のアクションムービーへイッキに加速するのだ。

そうだった…イラン映画は政府による厳しい検閲を通るため、子供を主人公に作品作りをしてきた歴史がある。本作では、権力の横暴があからさまな実際のSNSの動画も使われるが、それよりむしろ映画ならではのホレボレするような作劇のテクこそが作品を骨太なものにしていた。監督の身の上で起ったことを振り返れば、まさに命がけのメタファーだろう。またじぶんが、ツイ日本になぞらえて見てしまったように、ホームドラマのフォーマットが国も宗教観も超えた当事者意識を生み、じぶんたちの足元に根付いた価値観を改めて考えさせられる機会にもなるのだった。

167分という長尺ながら、一瞬もダレることのない「聖なるイチジクの種」。鑑賞後、タイトルの意味がジワジワと腹落ちする傑作だった。

2024年/167分/独・仏

監督・脚本/ モハマド・ラスロフ

撮影/ プーヤン・アガババイ

出演 ミシャク・ザラ ソヘイラ・ゴレスターニ マフサ・ロスタミ

セターレ・マシキ

▪️おんどりの鳴く前に

2022年制作のルーマニア映画、『おんどりの鳴く前に』のチラシには、ピンボケの鶏と、死体を連想させる血糊のシーツがクローズUP。インパクトは大だが、煽り方は泥臭く、ネタがこれだけじゃあ、正直言ってかなりの賭けだ。ルーマニア・アカデミー賞6冠という惹句も、一般的な評価基準に値するものなのか、はなはだ疑問。でも、予告動画にはうっすらとのんき色が漂い、ヒッチコックの『ハリーの災難』風コメディに見えなくもない。はてさて何処へたどり着くのやら…この目で確かめようと、封切直後の劇場へ駆け付けた。

すると、冒頭から本当に鶏が登場するではないかー。夕暮れの田舎道を走るトラックの荷台から、一匹だけ振り落とされ、見事に着地し、スタスタ歩いて行く鶏が!これは一体何の隠喩なのだろう…。コメディの幕開け?それとも単なる掴み?背後に不協和音が鳴り響くし、そうそう落ち着いてばかりもいられない。

ところがすぐに鶏のことは忘れた。唐突に場面が変わると、不動産と金の問題で話合う元夫婦の気まずいやり取りが繰り広げられ、妙に引き付けられたからだ。くたびれた中年男女の一向に交わらない会話➡そこに男の兄が立ち合いに入り➡不動産屋も合流するという短いシークエンスは、テーマはおろかドラマの糸口さえみつけられないほど、ダルすぎてヨメない。なのに、観客の先ヨミをあえて萎えさせるようなこの茫漠とした空気の醸成こそが、本作への導入に素晴らしい効果を上げている。

同時に、不動産を売って果樹園を手に入れたいと願う男―イリエのしけたビジュアルが、瘦身の猫背で、時折お爺ちゃんに見える瞬間さえあり、従来の主役とは真逆の意味で奇妙な絵になり、目が離せなくなる。彼の、濃いのか薄いのかハッキリしない存在感が、映画のトーンを決定づけているのだ。日本人役者で例えるなら寺田農といったところか―。

そんな、何かやらかしてくれる気配が漂うイリエは、ルーマニア北部の田舎町モルドヴァに独り駐在する警官だ。ただ、人生を再起させるための果樹園夢物語を語るときはヤケに力が入るものの、職務に関しちゃからっきしヤル気がない様子。村長や神父など、村の顔役たちの子飼いに甘んじながら、余計なことはしない、言わない、そもそも見ない…が常態化している。

雄大な山並みと、豊かな牧草地に恵まれたこの村は、つい最近洪水に襲われて大きな被害を受け、村長の尽力でようよう復旧したばかりらしい。ここでも小さな村の絵葉書みたいなキラキラな横顔と、生々しい災害の傷跡の両面をあえてのぞかせ、揺さぶりをかけてくる。速度はスローだが、周辺情報は執拗に我々の小耳に挟ませるのだ。

そして、この一見〝何も起こらない村〟に、理想に燃えた新人警官ヴァリが赴任した途端、〝犯罪が起こりまくる村〟に豹変する。干しておいたシーツが盗まれたという苦情から始まり、頭を斧でぶち割られた村人の男性死体が唐突に転がって、おっかないやら可笑しいやら…💦一瞬ギャグかと思ったら本当で、検察の捜査やメディア取材が入ったりして、のどかな村がいっぱしの犯罪都市めいてくるではないか。忘れかけていた鶏の姿が再び意味深に捉えられ、映画はギアを一つあげてきた。

さて多くの場合は、ギアをあげてBGMの不協和音も激しさを増せば、事件究明へと舵を切る流れのはずだが、なぜかそうはならない。むしろイリエは、熱心に聞き込みを続けるヴァリを叱りつけ、家へ帰れと命令。じぶんも事件に背を向けるかのように昼寝を決め込む。やる気の問題ではなく、厄介事が消え去る迄、冬眠するのが務めだと心得ているのだ。映画は、闇を匂わせてもおとぼけでかわし、やすやすと加速させないつもりらしい。しかも我々をさらに混乱させる。

なんと犯人が早々に見つかった。神父に付き添われてイリエに会いに来た村長が、あっさり自白するではないか!そのうえ「この件は、キミに任せる。情けをかけてくれ」と。あまりの開き直りに、へっ?人を殺してますよね?と、ツッコミを入れたいところだが、イリエの長い物には巻かれろ的な振る舞いや、信念の欠片もない仕事ぶりを承知済みの我々には、彼が闘う姿を1ミリも想像できない。そう、あの猫背は、権力者にひよって生きてきた証。案の定、村長と神父と3人で、十字を切って秘密厳守を誓い合う。その馬鹿馬鹿しさには苦笑するしかない。なるほど、情けをかけあうことから腐敗が始まるとは、やけにリアルじゃないか。そして手打ちは果樹園の権利書だと!

別れた妻と所有していた不動産は高値で売れない➡でも果樹園は欲しい➡夢はあきらめたくない➡そんな鼻先に権利書がぶら下げられたら、誰だって渡りに船だ。だが、映画は意地悪。イリエが子飼いに徹し、果樹園オーナーになる道が現実化するにつれ、闇へのスピードは加速し、新たな犠牲者が続出する。水面下で捜査を継続していたヴァリが半殺しのめにあい、殺された男の未亡人が脅迫と暴行を受けて村から逃げ出す。もはやこの村は神に見捨てられたのか―。

主人公のはずなのに、オーラがゼロでシンパイするほどだったイリエ。最後の最後、ギリギリのところで、ようようギアをTOPに入れた。”もう、黙っちゃいられねぇ!”とばかりに、まずはロッカーに入れままだった銃を着装し、制帽をかぶり、身だしなみを整え、私腹を肥やし続ける村の顔役たちを征伐しに立ち上がる。その後ろ姿は少しだけ背筋が伸び、まるで独り「ワイルドバンチ」。だが、川べりの密輸現場を奇襲し、悪党どもを現行犯逮捕するはずが、映画史上最も締まらないドンパチへとなだれ込み、戦慄しながらも笑いが止まらずタイヘン💦これほど当たると思って当たらない、当たらないと思って当たるグダグダの銃撃戦がかつてあっただろうか。この場に及んでなおカタルシスに至らせてくれないネゴエスク監督の徹底ぶりに心底惚れた。

独りで悪を一掃し、背中に斧が刺さったまま(!)水たまりに映ったじぶんの顔をしばし眺めるイリエ。「思ったより悪くない」とつぶやき、前のめりにぶっ倒れて幕。最期だけはストレートに、「勝手にしやがれ」ばりのやつしの美学で決めてくれた。あー、たまらなく可笑しい。脅しと忖度が常態化する世の中…今や現実世界に近すぎて笑ってばかりもいられないのだが―。ちなみに不思議なタイトルは、イエスの一番弟子のペテロが保身の為に師を裏切るという新約聖書からの引用。鶏は最後にもう一度クローズUPされる。

余談だが、権力の腐敗に悩み、独りで闘う警官ドラマは数あれど、本作のように目覚めるのにやたら遅くかつ野暮っちい設定は早々お目にかかれない。近しい過去の傑作をあげるなら、トニー・リチャードソン監督作品「ボーダー」(81)、アレックス・コックス監督作品「エル・パトレイト」が思い浮かぶ。これを機に見直したくなってきた。

2022年/106分/ルーマニア・ブルガリア合作

監督/ パウル・ネゴエスク

撮影/ アナ・ドラギチ

脚本/ ラドゥ・ロマニュク オアナ・トゥドル

出演 ユリアン・ポステルニク

アンゲル・ダミアン

◾️墓泥棒と失われた女神

イタリア、トスカーナ出身のアリーチェ・ロルヴァケル監督の作品は、素朴なフリしていつも大胆。鼻歌とハラハラを共存させながら、時空を超えた物語と田舎町の日常を何喰わぬ顔で交信させる。間口はゆったりと広いが、イメージの跳躍に心拍数があがることもしばしば。この手ごたえは何かに似てる…。そう、現実とは異なるもうひとつの世界を、最小限の「ビジュアル」と「ことば」の共鳴で編む〝絵本〟をながめるときの感じ方に近い。

例えば、イケてる絵本とめぐり会うと、何が飛び出すかヨメないままひたすらページをめくり続けてしまわないか?「はい、おしまい。」と唐突に幕が降ろされても、「へっ?今のは何?もう一度はじめから!」と、速攻でリスタートしてしまう。絵本のツボがどこにあるのかを探り当て、もう一度じぶんの身体で体感するために、すぐさま反復したくなるのだ。きっと絵本から受けた好奇心が、自己発電力を高めているのだろう。彼女の映画からも同じようなスイッチが入る。

時代性が希薄なところも、絵本とロルヴァケルの映画に共通する点だ。正直言って、彼女の作品で起る事柄がいつもスンナリ呑み込めない。ただ、よく呑み込めないけど好奇心のフラグは立ち続け、信じられる。おそらく彼女が映画の中で描く社会の根底にはまだ筋力が残されていて、様々な人々が包摂されているからだ。新作『墓泥棒と失われた女神』では、なんと墓泥棒のコミュニティが登場する。

主人公は考古学の沼にハマる英国人男性アーサー。彼がトスカーナの田舎町へ向かう列車の中で、うたた寝しながら見る夢のシーンから映画は始まる。穴の向こうに現れ出るのは、失くした女神(恋人?)の顔らしい。そして、冒頭に掲げられた3つのアイテム―「穴」と「光」と「白いスーツ」が本作の鍵を握る。

甘美な夢から起こされたアーサー。なぜだか車中で地元民たちから散々嘲笑されて踏んだり蹴ったり。画面では、白い麻のスーツに白いシャツ姿でフォーマル風に映るのだが、みすぼらしいだのクサいだのと罵られ、よそ者排斥がけっこうエグい。どこまでをくすぐりと受け取るかのサジ加減がイマイチ判断しづらいところは、ロルヴァケルらしい演出ともいえる。開始早々、甘辛なのだ。

さて、白いスーツ姿の男が独り片田舎の駅に降りたら、映画の定石では殺し屋か世捨て人かのどちらかだが、アーサーは出迎えの仲間の誘いを拒み、まっすぐ自宅へ帰宅。どうやら旅人ではなくムショ帰りの身で、元々この町の住人らしい。しかも、城壁に張り付くように立てられた、いかにも不法占拠然としたボロ小屋の佇まいが素敵すぎて、目が釘付けに!トタンの錆び具合といい、犬の遠吠えが聴こえるロケーションといい、カンペキな侘び住まいじゃないか。

我が家で一服し、野花をつんだアーサーが次に向かった先は、大きくて古いお屋敷。ここで、冒頭の夢の中の女神についての謎が徐々に明される。女神は、姿を消したアーサーの婚約者ベニアミーナで、その行方を案じる母親と会うため、実家へやって来たってわけだ。ふたりは必ず戻って来るような口ぶりだが、そもそも蜜月期に姿をくらます恋人って問題ありありだろ?他にも、屋敷にはやたらと女たちが出入りし、ピント外れの母性が渦巻いて収拾がつかないし、事件にしてはシリアスさに欠け、ラブコメにしてはヒネリが多すぎて、まるで先がヨメない。

で、ようよう、一本気で無口なアーサーの本業のスケッチが始まる。地中のことなら何でもお任せのこの考古学オタクは、ダウジングを利用して古代の墓を掘り当てる能力があり、墓泥棒一味とタッグを組んで小銭稼ぎをしている。この辺りはエトルリア文明ゆかりの地。すでに大部分の墓は盗掘されてはいるものの、掘り残しの副葬品を秘密裏に買い取る業者もいて、探して➡掘って➡奪って➡逃げて➡まとめて売って…の小商いが成立しているのだ。

先にも書いたが、アーサーと墓泥棒たちの関係性や行動は、いつの時代の出来事なのか見えづらく、終始頭がクラクラ。おいおい、これはおとぎ話なのか?それとも冒険譚か?…と。その反対に、奴らがせしめた希少品が、資本主義市場で取引される現場も露骨に登場するため、むしろ墓をめぐることで、時間の流れが大昔から今につながり続けている事実に気づかされる。死者と生者を隔てるものなど何もないかのように―だ。

ある夜アーサーは、工場の廃液が流れ出る海べりの空き地の地下に、キメラの匂いを嗅ぎつける。恐る恐る近づき仲間と堀り起こせば、長年探し求めていた手つかずのままの遺跡が暗闇の中から現れ出るではないか。その時カメラが一瞬切り替わり、地上で掘り進めている墓泥棒たちの様子を、一筋の光と共に墓側からの目線で捉え返すショットの素晴らしいこと!まるで「ここでずっと再生されるのを待っていたわ」と言わんばかりに、葬られた魂の存在が生々しく立ち上り、思わず震えた。

想像以上のお宝と遭遇した墓泥棒一味は大興奮。中でも、丸っと完品の女神像を発見し、その顔にベニアミーナの面影を重ねてしまったアーサーは、胸の鼓動が抑えられない。さらには、やっと再会できたと妄想の極限に達した瞬間、仲間たちがいとも簡単に像の頭部をぶった切っちゃったりして、オーマイガー!泥棒たちにとって盗みやすい切断が、アーサーには妄想からの強制撤退となり、息も絶え絶えだ。

意表をつくアップダウンの連続。なるほど、アーサーは大切な人がこの世にいなくなってしまった現実を認められず、ぽっかり空いてしまった心の穴を埋めるように、古代に通じようとしていたのか…。一方でそんな男に映画は、イタリアという名の伸びやかな子連れ女をチラつかせ、浮き世で新たなお宝とめぐり会うプランも用意するが、向かう先はさらに陽気な混迷へ―。

幕切れに唸った。現実の街の足元深くに、死者たちの街が並行して存在し、穴を通して物語を行き交わせたロルヴァケルは、最後まで我々の幸福の定義を揺さぶってくる。穴からスルスルと降りてくる赤い糸は死者の手招きなのか、それとも現世からの逃避の象徴なのか…どちらに軸足があるのか判断がつかなくなる。だが、のぞく&のぞかれるが反転し、ふたりが同じ地平にたどり着いたラストシーンで、アーサーから放浪の痕跡は消え去り、彼のスーツは白く蘇っていた。やるなー、ロルヴァケル。光に満ちた祝祭的な幕切れに拍手喝采。

『墓泥棒と失われた女神』

2023年/131分/伊・仏・スイス

監督・脚本  アリーチェ・ロルバケル

撮影      エレーヌ・ルバール

美術      エミータ・フリガート

出演  ジョシュ・オコナー アルバ・ロルバケル イザベラ・ロッセリーニ