前作から6年を経て、ようよう公開となった英国人監督マイク・リーの新作『ハード・トゥルース 母の日に願うこと』。ご贔屓監督作品との久々の対面が心底うれしい。何せ彼の巨匠も80歳を超えたご高齢の身だ。新作をリアルタイムで追っ駆けられること自体、貴重だからね。はやる気持ちをなだめつつ、公開2日目に劇場へ直行した。
映画は、ロンドンの閑静な住宅街の角地に立つ、真っ白な壁が目を引く二階建ての家屋を捉えて、幕を開ける。住人らしき作業着姿の黒人男性が、玄関から出てきて助手と合流し、バン車に乗り込み、仕事現場へ出発。平和な朝の出勤の一コマ…今日も穏やかな一日が始まろうとしている。ところがすぐさま映画のトーンは暗転。中流な暮らしぶりが伺われるその家の中では、黒人女性が夢にうなされ、ホラー映画のごとく奇声をあげて、飛び起きるではないか。彼女が忌々し気に家事を始めれば、物音や屋外に向ける警戒心が異様で、度を越したキレイ好きも明らかに病的レベル。いったい何が始まるのか…。予測のつかない滑り出しに、早くも前のめった。
50代の主婦パンジーは、配管工の夫カートリーと22歳でニートの息子モーゼスとの3人暮らし。どうやら目覚めが悪くて不機嫌なのは、この日に限った話ではないようだ。何せ起床した息子の気配を察知しただけで、一方的に攻撃的な小言を投げつけ、口をはさむ余地さえ与えない。頭から湯気が出るほどのガミガミ戦闘モード。図体のデカいモーゼスが、表情を変えずに黙ってやりすごすから、余計にパンジーのキレキャラが際立つという演出の妙も見どころだ。家族揃って食事するときでも、独りエンエンと悪態をつきまくるパンジーの前で、黙食を続ける男2人の仕草がやたら可笑しい。おそらくパンジーとはまともに向き合わないという対処法が、夫と息子が長年かけて導き出した結論なのだろう。
ちなみに、髪の毛が逆立つほどすごい剣幕で怒る様子を、「怒髪天を衝く(どはつてんをつく)」と言うが、パンジーの顔を見たとき、これぞまさしく怒髪天だ!と興奮した。眉間の皺の深さといい、鼻孔の迫力といい、新薬師寺の伐折羅(バサラ)大将像そっくりなのだ💦それならば、本尊を守るために仏敵を寄せ付けまいとにらみをきかせるバサラに対し、パンジーの怒りは一体何に起因するのか?何を守るために、どこに向かって、怒りちらしているのだろうか?
次に映画は、黒人女性たちのおしゃべりで華やぐ美容室へ場面転換。客のボヤキから噂話まで、すべてを軽やかに受け止め、ユーモアたっぷりにリアクションする女主人のシャンテルは、何を隠そうパンジーの妹である。シングルマザーの彼女は、成人したふたりの娘ケイラとアレイシャと暮らしているが、こっちは姉一家と真逆で、何でも語り合う三姉妹のような関係性だ。笑い声が絶えないオープンマインドな妹一家と、閉鎖的で緊張感が支配する姉一家…あまりに対照的過ぎる構図ゆえ、先が思いやられたのは私だけではないだろう。もちろんその狙い通り、映画は両家族の日常風景を交互に映し出しながら、我々の目線を黒人社会へ接近させる。さながら彼らの親類縁者の一人になるように―。
にしても、パンジーの悪態のつきっぷりは想像以上に凄まじかった。身内以外でも、行く先々で誰彼かまわず標的にして罵詈雑言を吐きまくり、迷惑千万な振る舞いを炸裂。理由があるならまだしも、憎まれ口をたたくことが目的化してしまっているようで始末が悪い。スーパーのレジ店員に「なに幽霊みたいな顔してんだよ!」と言い放ったときには、さすがに私も白旗を挙げた…口が悪いレベルをはるかに超えたホンキの罵りだから。世間が嫌ならシャットアウトする道もあるのに、そうはしない。むしろ突っ掛かる相手を探し求めて生きているように映る。そりゃあこれだけ自分の刃で自分を常に痛め続けていたら、心身ともに不調になるのも当然だろう。いやはや、彼女を理解するためのハードルは、とてつもなく高い。
そこを何かとフォローしてきたのが包容力満点のシャンテルである。ある日、次の日曜の母の日に、一緒に墓参りに行って、その後みんなで食事をしようとパンジーに持ち掛ける。案の定、誘う端から即座にNO!と突っぱねられるが、それでも妹は粘り強く姉を導き、何とかふたりで肩を並べて墓地を訪問。すると5年前に孤独死した母の墓前で、パンジーの複雑な感情が涙とともにどっと溢れ出るではないか…これはひょっとして信田さよ子氏案件?ただし映画は、彼女の不可解な言動の要因を、あえて観客の望むわかりやすい形で展開しない。亡き母との確執を匂わせはしても、分析も和解も開放も遠ざけ、ひたすら疲れ切った一人の人間の断片を描写するだけ…これがやけにリアルで染みた。
パンジーの陰に隠れがちだが、周辺の登場人物たちのさりげないスケッチを、要所要所で差し挟むのも、作品の厚みにつながった。カ―トリーと無駄口ばかりの助手との間延びした関係をはじめ、モーゼスが日課の散歩を通じて味わう世間との関係や、実はキャリア面では弱みを見せあえないケイラとアレイシャ姉妹の関係など、誰の横顔にも言葉にしづらい孤独の断片が浮かび上がり、見過ごせなかった。
そして本日のメインイベント―シャンテル家へ移動して手作りの料理を囲み、娘二人が陽気にもてなす、2家族揃っての食事会が始まる。
ところがこの頃になると、国も人種も異なる人々の遠いドラマだったはずが、親類の法事の集まりにでも居合わせた気分で眺めるようになっていて、あらまあ不思議。知らぬ間に、親しみと同時にいたたまれなさを感じる距離にまで近づいていたみたい。我ながらびっくりだ。しかも頭の中では、小津の『東京物語』から類推し、家族の在り様はいずこも同じか…などと思い巡らせているではないか。そう、一堂に会した誰もが、“家族だからこそ”と“家族といえども”の間で揺れ動く。そこに幻想はあっても正解はない。大団円と見せかけて梯子を外し、最後の最後までカタルシスをうっちゃる見事な設計、なんて大きな映画だ!巨匠は健在だった。
そうそう、パンジーを、映画史に残る傍迷惑なキレキャラだと認定してしまっていたが、見終わって時間が経つほどに印象は変わった。色物として扱うことに違和感をおぼえ、あれが彼女の噓偽りのない振る舞いであり、パンジーは自分を全うして生きているのではないかと―。そしてシャンテルの献身も自己犠牲からではなく、同じようにひたすら自分を全うして生きているだけだと思うようになった。私がスクリーンで目撃していたのは、私が安堵できるものとは異なるにせよ、宿命を受け入れて生きる姉妹の姿だったのだ。
2024年/97分/イギリス
監督・脚本/マイク・リー
撮影/ディック・ポープ
美術/スージー・デイビス
音楽/ゲイリー・ヤーション
出演 マリアンヌ・ジャン=バプティスト