■『ROMA/ローマ』

アルフォンソ・キュアロン監督が描く話題の新作『ROMA』は、タイル模様のクローズUPでゆるりと始まる。背後から、控えめに鳴り響いてくるのは、鳥のさえずり…足音…デッキブラシがゴシゴシこすれる家事労働らしき音だ。

やがて、水が撒かれて清められ、その水がタイルの上に徐々に流れ着くと、天窓から刺す光の反射で水鏡と化し、上空を横切る飛行機をアメンボみたいな姿で映し出す―。まず音で誘い、次に光を降り注ぎ、最後に動く物体を、ごく小さくスクリーンに招き入れる仕立てが神々しい。そう、世界はこうして絶え間なく動いているのだ!

ここで映画はカメラを引き、一連の労働音が、小柄な若い女性による清掃スケッチだったことを明かす。傍らでうろつく一匹の犬も含め、平穏な日常の一コマなのか…。きわめてよい風景だ。その後もカメラは、彼女の手慣れた家事労働を遠目に追い駆けながら、家政婦仲間との関係性や、邸内の情報も一筆書きのリズムに乗せてさりげなく捉え、ドラマの舞台をものの見事に立ち上げる。滞空時間の長い滑らかな幕開け…我々の意識はすでに映画の中にある―。

マズイ!こんな調子で映像美にイチイチ感嘆していたら、ひとりウットリつぶやきで終わってしまう(汗)。先を急ごう。
70年代メキシコシティのローマ地区。先住民族の血を引くクリオは、白人中流家庭の邸で働く住み込みの家政婦だ。雇い主一家は、医者のアントニオに妻のソフィアとその母、やんちゃ盛りの4人の子供の7人家族。同僚と2人、朝から晩まで一家の生活周りのすべてを整えているが、主人と奉公人の線引きは、極端に緊張を強いるほどのものでもなさそうだ。逆を言えば、それだけ階級差が固定化されてしまっている証にも受け取れるが―。

しかし無垢な子どもたちは、慈愛に満ちた方へと自然に吸い寄せられる。慎ましく穏やかなクリオの表情や振舞いに陽だまりを感じるのか、気づけば子どもたちは皆、彼女が側にいてくれるのを願っている。時代や国や肌の色が違えども、子どもは魂の感応アンテナを尖らせ、焦がれる対象を見つけ出す生き物なのかもしれない。

映画はこうして早い段階から、クリオ自身がじぶんの介在価値を肌で感じながら奉公している断片を綴り、これが勝因の一つになっている。クリオの背景はわからなくても、彼女にはじぶんで築いた居場所がある。ヒロインと我々との親和性を絶えず意識しながら、『ROMA』は描かれて行くのだ。

もちろん、家政婦にも女子の時間はやってくる!クリオは、同僚と勢いよく休日の街へ繰り出し、出会ったばかりの恋人候補と早々にベッドイン。慎ましく働く黒子の横顔から一転、好奇心に突き動かされて輝くハレな横顔へ鮮やかに転身だ。ここでもカメラは、若さ弾むクリオの姿を、ひとつの情景として遠目で見守り続けるため、時に我々の記憶を呼び覚ます装置にもなる。労働から解放され、細胞の隅々までじぶんだけの時間を生きる彼女ののびやかさは、懐かしく眩しいものとして、しかと脳裏に焼き付くのだった。

ある日、アントニオがケベックへ旅立つ。たかが出張で家を空けるだけなのに、悪い予感がしたのかヨメのソフィアは大揺れ。時を同じくしてクリオの妊娠が発覚するが、こちらも相手の男にあっさり逃げられ途方に暮れる…。社会的ポジションの異なる2人の女が、男に去られてピンチ襲来という1点を共通項に、物語の中心に迫り出して行く…ずいぶん意表を突く展開である。

そもそもソフィアは、子どもたちに圧倒的に慕われるクリオに対して、面白く思っていなかっただろう。家政婦としては重宝しても、母親の面目は保たれないからだ。ただ2人の女は、異なる立場だからこそ無暗に接近せず、互いの状況変化を察知して、手を差し伸べ合うことはできる。ソフィアは、すぐさまクリオを病院へ連れて行き、このまま働きながら子供が産める環境を約束し、クリオもXmasが来ても一向に修復できない主人夫婦を黙って見守る…。同情でも、友情でもなく、今の生活を持続可能にするための合理的な選択で2人の女は結束する。美談を遠ざけたこのリアリティに、わたしは気持ちよくノレた!

さらに映画は、女たちの内面の葛藤も微妙にズラして巧い。地震に雹、ド派手な年越しパーティーに山火事など、非日常なアクションを唐突に差し入れ、日常を相対化して進行するため、彼女たちの心配事は必要以上に悲劇化せず、我々は絶えずまっさら状態でドラマの行方を見届けられるというわけだ。

例えばクリオが逃げた男を訪ねるシーン。彼女は、ぬかるんだ田舎道をたどり、男の居場所をようよう探し当てて声をかけるが、いきなり酷い仕打ちを受ける。フツーなら、不実な男と憐れな女という悲恋の絵にハメるところだが、ここではそんな等身大の後日談では終わらない。男は、都会で真面目に働き信頼を築いた女へ、嫉妬と憎悪をたぎらせ必要以上に逆ギレする。格差への不満が、まず身近な相手を捌け口にしてエスカレートする様に、やり切れなさが募った。

そして終盤、映画はさらに大きくうねる。出産を間近に控えたクリオが、突然、政権への抗議暴動に巻き込まれてしまう。激しく暴徒化する若者の中には、怒りに狂ったあの男の姿も見えるではないか!恐ろしい勢いで生と死がせめぎあい、もはやスクリーンの中は濁流状態。冒頭の平穏な日常がここでイッキに裏返り、クレオは死産を告げられた―。

犬に出迎えられ無事に退院したクリオ。離婚を決意し、夫の愛車を小型車に買い替えたソフィア。2人は子どもたちを連れて、心機一転の小旅行へ出掛ける。目の前に広がる海辺の景色は、2人の再出発を祝福するにふさわしい自然美の結晶だ。が、驚くのはまだ早い。ここでは明かさないが、全てのパーツが出揃った最後の最後に、映画はなお、究極の“光と音”で神話を編み、我々に贈り届ける。そう、この瞬間を目撃させるために『ROMA』は作られたのだ!

旅から戻り、家政婦の毎日がまた始まる。留守番の同僚に「話がたくさんあるの…」と声を掛けながら、慌ただしく家事に勤しむクリオの姿が小さく捉えられ、映画は閉幕。平穏な日常とうっすら漂う無常観…あー、このエンディングがわたしはたまらなく好きだ!ハンパない傑作…早くも今年のナンバー1候補に決定だ。

『ROMA/ローマ』
2018年/135分/メキシコ・アメリカ
監督/脚本/撮影  アルフォンソ・キュアロン
美術      エウヘニオ・カバレロ
衣装      アンナ・テラサス
キャスト    ヤリッツァ・アパリシオ マリーナ・デ・タビラ

■運び屋

薬物使用で逮捕された人気ミュージシャンの映像が、派手に世間に流れていた3月某日。「 “伝説の運び屋”の正体は90歳の老人だった」―と、謳い文句が躍る映画を見に行った。

クリント・イーストウッドが監督・主演する新作『運び屋』(’18)だ。大いに笑い、めいっぱい楽しませてもらった。―が、本作は、実際にあった麻薬密輸事件の映画化だという。考えてみたら日本の騒動と源泉はいっしょなのだ。いや、リアル犯罪として比較したら、そのウン百倍もタチが悪いのは明らか。まったくもって言い逃れできない真っ黒案件である。なのに、気持ちよく手を叩き、快哉まで叫んでしまうのだから、困ったものだ(汗)。

そう、改めて思った―「映画」という装置が、アウトローを物語るとき、いかに最大級の効果を発揮するかを!劇場の暗闇に身を沈め、世の中からはぐれた輩どもの輝きをこっそり拝むと、しょぼい毎日がいきなり活気づく…あれですよ、あの愉悦。じぶんを大きく見せたい…、それも反体制を気取って…、という青臭く後ろめたい欲望に、映画はタイムリミット付きで個別に奉仕してくれる。それゆえ我々は、錯覚の時間内で、日々の規範からより遠いところまで運ばれたいと切に願うのだ。真っ黒だろうが真っ白だろうが、左だろうが右だろうが、なんだってかまわない…トンでもないジャンプを体感させてくれ!と(バンジーだから紐ついてるしね 笑)。

そして文句なくトンでもないジャンプを味わいましたよ~。なにせ、90歳のジジイのわんぱく体験にお付き合いするのだから、全てが未知との遭遇(笑)。映画は、イリノイ州のへんてこな花畑のシーンから始まった。「なにこのヨレヨレの花?もしや薬物栽培でもしてんの?」などと、ぼーっと眺めていたら、名前も知らない花より、さらにヨレヨレシワシワ猫背の御大イーストウッドが、テンガロンハットではなく、麦わら帽子を被ってひょいっと登場★荒野をさすらい続けたカウボーイの終着点は、土と共に生きる園芸家なのか~と苦笑い。一瞬、デレク・ジャーマンみたいな求道者像を思い浮かべるものの、すぐさま撤回(笑)。

ヨレヨレの花は、1日だけ開花する「デイリリー」というユリ科の一種で、イーストウッド扮するアールは、移民たちを使ってこれを手広く栽培し、ひと財産を築いた成功者だった。しかも、枯れても山のにぎわいどころか、軽口をたたきながら正装して品評会に繰り出す様は、まるで花道をねり歩く歌舞伎役者のごとき艶姿。その有頂天ぶりが可笑しいったらありゃしないのだ。ところが洋の東西を問わず、ジジイのええかっこしいを「馬鹿だね~」と笑って許せるのは、他人様ゆえのことらしい。家族をないがしろにしてきたカッコつけ男は、ヨメと娘から見放されて久しい憐れな老人でもあるのだ。

さて、外堀から伺っているだけでも、『運び屋』がどんな展開になるかは、概ね予測できるだろう。デイリリーの生態のようにアールは早々と萎れ、転落街道まっしぐら。艶姿から12年後の2017年、商売は傾き、自宅と農園を差し押さえられ、手元に残ったのは古ぼけたフォード1台だけ。無論、しょげて帰れる場所もない。人生の高低差を味わうのはヒーローの常だが、口の減らない90歳の老人に、一発逆転の打ち手など用意できるはずもなく、はてさてどうしたものか―。

「町から町へと走るだけでカネになる」―。無違反運転で国中を旅してきたのが自慢のアールは、そう持ち掛けられてテキサス州エルパソへ。運転免許返納に怯える日本のシルバードライバーからすれば、ここぞとばかりに自尊心を取り戻せそうなキャリア・パス図だが、案の定とびっきりヤバイ奴らがお出迎えだ。ただし、アールが出没する先は、いつでもどこでも花道に早変わり♪じぶん十分の立ち回りを披露なんかして、退路を断たれたジジイに怖いものはない。

で、中身は見るなと言われた荷物を、鼻歌交じりに指定の場所へ運べば…アラ不思議。ダッシュボードから大金入りの封筒が、手品みたいにでてくるではないか!いやー、やっぱ現ナマのパワーはすさまじい。アールの皺くちゃの手で握りしめると、かえって札束にナマナマしさが割り増しされ、妙に興奮しちゃったわよ。というわけで、取り急ぎこれで孫娘の結婚披露宴代はゲット。汚名返上&家族の信頼回復に一歩前進か。

こうして、超お手軽&高額バイトに身を乗り出したジジイは、運び屋稼業に精を出し、次から次へと失くしたものを買い戻す。そもそも根がええかっこしいだから、これを機に老後を手堅く内向きに生きようなどと改心するわけもなく、稼ぎは周囲に大盤振る舞いし、踊りまくりモテまくり。世間ではよく「金のない年寄りは誰にも見向きもされずに孤独」と、教訓めいたことを言うが、あぶく銭が人気者の座を保持するための運用費に充てられる絵は、大ウケしつつ、どこかウッスラと侘しさが漂うようにも映る。

もちろんイーストウッド映画だから、老人に金をチラつかせ、家族との和解の果てに大団円―には至らない。アールに絡ませるのは、家族は家族でも麻薬元締め一家のボスや、組織に忠誠を誓う手下の若造や、はたまた赴任したてのエリート麻薬捜査官という顔ぶれで、要は背景の白黒に関係なく、男同士のジャレあいこそがヒーローの現役感を司るパワー源だという仕立て。女どもにすまないと詫びるしぐささえ、様式美の内なのだ。

「タタ(じいさん)」の愛称で呼ばれ、運び屋記録を更新するほど振り切った仕事ぶりを披露したアールは、映画ならではの血統書付きアウトロー。カーラジオをBGMに、自由気ままにオレサマの流儀で浮世を疾走する一方で、朝鮮戦争の退役軍人だという経歴が終始通低音として鳴り響く。具体的にはほとんど語られないが、だからこそ、見たくないものを嫌というほど目撃してしまったであろう老人の虚無感が際立って見えた。

そうイーストウッドが作る映画は、ある意味、いつだって形を変えた戦争映画。そして彼が演じるヒーロー像には、常に鎮魂のしぐさが刻印されている。折れ曲がった背中で、ダーティーワードを連発する孤高の狂想老人に、男たちが惚れるのもわからなくもない(笑)。イーストウッドはしぶとい。まだまだ飛べるな。この先も治外法権でジャンプし続けていただきましょう!

『運び屋』

2018年/116分/アメリカ

監督/製作/主演  クリント・イーストウッド

撮影      イブ・ベランジェ

音楽      アルトゥロ・サンドバル

脚本      ニック・シェンク

キャスト    ブラッドリー・クーパー ローレンス・フィッシュバーン

◆『ギプス』について

去年の10月に写真集『ギプス』を出版した。
 作品じたいは四半世紀以上もまえのものである。それらの写真が撮影された1991年頃の、それこそ写真家駆け出しの頃のことは長めの「あとがき」に書いたので、ここではなぜいまの出版なのかなどについて触れておこうと思う。
 撮影―現像、プリント―展示というサイクルをひたすら繰り返していた。振り返る余裕はなく見返したりはしないし、展示したプリントさえ忘れ去っていることも多々あった。寄る年波もあり、そろそろモノクロ印画紙の先行きも不安だし(いまでさえ高騰しているし)展示プリントの整理などを身体が動くうちにやっておかなければとは常に考えてはいたのだけど、なかなか時間が思うように取れずにいた。カラー自動現像機の不調を機にしばらくモノクロを焼いてみようと思い立ったのが2年前、バイテンの粗焼きを作っていなかった時代のものを見直したさい、記憶の中からも埋もれていたこのシリーズを発掘したのだった。
 モノクロの現像はいまもまだ継続しているのだが、1000枚ほど焼いて見直してみると、年代も傾向もバラバラで、いくつか分冊した方がいいように思った。
このシリーズは特に他のプリントと混ぜるよりも単独でまとめた方がいい気がした。出版社の人に見てもらったりしながら、写真集にする話がまとまったのが約1年前のことだった。
 もちろんモノクロの暗室だけに集中していたわけではなく、数年前から通っている琵琶湖だとか、そのほかの撮影も合間合間にやっていて、どちらもやっていかないと日々のバランスがとれない。もっと集中すべきなのかもしれないが、頭でこうした方がいいかもしれないと思うことは、たいてい外れるので従わないことにした。
 もっと早くに作れればよかったのかもと思わないでもない。古い写真の出しどきを考えていたわけでもない。そういう出版がいっぱいあるのは横目で見てはいる。たいていは年齢的に体力の衰えを感じた世代が、不用なネガなどの見極めもかねて、はっきりしているうちに見直そう(誰もやってくれないし頼めないし)という私と同じような動機かと推察する。今さら詮無いことではあるが、生前にきちんと見てもらいたかった方も何人かいた。
 今しかないというわけではないだろう。けれどタイミングとしか言いようのない流れだった。これを逃すと果たしてどうなったかと思うと、作り手としては作れるときに自然と――もちろん多くの人の協力と作為があるのだけど―−あたかも自然と実ったかのようにできるのがうれしく、また作品にとってもいいような気がする。

■世界で一番ゴッホを描いた男

 おらぁ、タマげただぁ~…。中国深圳市の大芬(ダーフェン)に「油画村」と呼ばれるエリアがあるんだってサ!

「油画村」と聞くと、なんだか自意識をトンがらせた若者たちが夜な夜な集い、新しい芸術を模索し合う刺激的な場所…かつてのモンパルナスとかソーホーとか、そんなイメージが安直に浮かぶよね。―が、さすがは肝っ玉のデカイ中国の方々。そんなナイーヴなアプローチなどアッサリ蹴散らし、労働と金が24時間渦巻き続ける、異様にガツガツした活動拠点を築き上げていらっしゃいました!

目下、仕事探しを真剣に考えてる人がこの職場を見たら、間違いなくぶっ飛びますね。“働き方改革”からもっとも極北に位置する劣悪環境に、他人事とは言え、マジに引くかも…(汗)。いや、もしかしたらプロレタリア映画?ここから労使紛争が勃発するとか?…なーんてマジに社会派気分で見ちゃうケースも考えられるけど、ここはひとまず、じっと堪えて静観していただきましょう。

その名の通り、「油画村」で生産されるのは絵画。それも、有名画家の複製画を制作する工房がひしめき合い、1万人以上もの画工たちによって、年に数百万点もの油絵が世界中へ売られているんだとか。映画は、そんな複製画産業の街へ出稼ぎに来て、独学で絵を学び、20年もの間、ひたすらゴッホの複製画を描き続けてきた男、シャオヨンの姿を追い駆けたドキュメンタリーです。

現在のシャオヨンは、自分の工房を持ち、稼ぎ頭の画工も兼務中。自宅を兼ねた狭い一室で、昼夜を問わず描き続け、寝るのも食事もすべて工房の中で済ませる暮らしぶり。そのうえ家族や弟子たちまでも、まるっと同じ生活をしていて、眺めているだけで過呼吸になりそう…凄まじい光景です(汗)。ただし、全員が働きバチだからか、資本家VS労働者構図とは様子が異なり、どこか旅芸人一座風なノリもあって、これはこれで成立している気がしなくもない…。“同じ釜の飯友”効果ですかね(笑)。

シャオヨンのお得意先は、ゴッホの母国、オランダのアムステルダムにある画廊です。『夜のカフェテリア』を40日以内に300枚納品してくれ!と、Webでしれーっとオーダーが入ったりして、シュールすぎて笑うしかありません。生前、ほとんど売れなかったあのゴッホが知ったら、なんて思うだろう…。自作に何十億もの値がつく事実より、「えっ?どうやったら300枚も描けるの?ボクにも教えて!」と、御本人が一番腰を抜かしそうな話よね(笑)。

何せシャオヨンは、これまでに10万点以上のゴッホ作品を描いてきた男。多い月なら1ヵ月で700枚だって!すかさず単純計算してみると、700枚÷30日=一日約23枚(汗)。ついでに、絵を描く以外の時間を1日4時間で見積もり、時間制作数を割り出せば、23枚÷20時間=1時間 1枚強ペースですよ。ひぇ~、無茶振りにも程がある。これじゃあ下書きだってまともに描けないわよね(汗)。

―というわけで、前半のハイライトは、ズバリ複製画の制作シーンです!油画村が編み出したこの必殺技法が、一言で言うとアクロバティックな流れ作業なんですわ。なるほどその手があったのか!と、妙に感心しちゃったりして…(苦笑)。まず複製に際して、お手本となる作品を線で捉えず、鮮やかな色の点に分解し、配列で見ているところがミソですね。おそらく、点描画として脳ミソにインプットしてるんじゃないかな…。

つまり、ゴッホの図版を、あの後期印象派の代表、ジョルジュ・スーラの目をお借りして再構築。これってある意味、印象派の流れそのものじゃね?(爆)しかも、お外へ一歩も出ずに(!)印象派モードになり切り、無意識の“筆触分割”をメンバー全員で共有し、作業マシーンと化すとは…これぞまさしく超絶技法そのものよ~。

完成した絵が欲しいかどうかはさておき(汗)、「名画とはなんぞや…」「美とはなんぞや…」と、思わず深遠な面持ちになったなあ。そしてなんと、馬車馬シャオヨン自身にも、遂に成熟時代がやってくるのです!

そもそも本作は、ブラック仕事の実態に迫ろうとの意図ではなく、「油画村」への関心から長期取材に至ったと想像できるんだよね。そして、夥しい数の画工の中から、なぜシャオヨンがメインターゲットに選ばれたのかも、映画が進行するにつれ、自然とわかり始めるの。そう、シャオヨンには高い理想がある。描けども描けども、未だゴッホの絵には近づけないと苦悩する一方で、それほど大きな存在が自分の仕事の対象なのだという矜持も強く感じられるの。皮肉にも、同情するはずだった我々が逆に羨みたくなるくらいの、粉うことなき働く歓びが本人から立ち上り、ちょっと意表を突かれましたね。

当たり前だけど、ハードルの高いオーダーをこなすには、自分にとっての働く動機付けが最も肝心。金銭との交換だけが目的なら、馬車馬生活を長くは続けられない。ゴッホに憧れ、追いつこうとするシャオヨンのウブでまっすぐなパッションを見つけ出し、時間をかけて拾い上げたところが、映画の一番の勝因だと思ったわ。

やがてシャオヨンは、アムステルダムへ行く決意を固めるの。実は、まだ一度も本物のゴッホの絵を見たことのない彼が、自らの画工人生を賭け、工房の外へ一歩足を踏み出すってわけ。ここから先の展開は、ぜひ映像で見て欲しい。文字にすればするほど、映画の魅力が目減りする恐れがあるから、あえて寸止めにしておくわ。長期密着ならではの予想を超える瞬間がたくさん登場して、ツイ人間の運命に思いを馳せてしまいます…。

とにかくシャオヨンとともに、我々もありったけの感情がほとばしり、複雑にからみあって、幕切れへとなだれ込むの。メンターはシャオヨンに何をもたらせたか…。そして我々は弟子の一喜一憂を目撃して何を思考するか…。作り手が、絶妙のタイミングで映画から手を放して終わる『世界で一番ゴッホを描いた男』。いやはや忘れられない1本となりました。

『世界で一番ゴッホを描いた男』

2016年/84分/中国・オランダ

監督      ユイ・ハイボー キキ・ティンチー・ユイ
撮影    ユイ・ハイボー
製作    キキ・ティンチー・ユイ

キャスト  チャオ・シャオヨン

■悲しみに、こんにちは

「へーっ、 “だるまさんがころんだ”は、世界共通の遊びなんだあ…。」
バルセロナの町の一角。子供たちがはしゃぐ夏祭りの情景を、ぼーっと眺めながらのオープニング。夜空に輝く花火の幻想性も効果的で、幕開け早々からわたしは、映画と対峙する気構えなどスッカリ忘れ、子どもの頃の記憶手帖をゆったりと開いていた気がする。半世紀も前のホコリにまみれた我が記憶を―(笑)。

カルラ・シモン監督作品『悲しみに、こんにちは』は、1993年のスペインを舞台に、両親を亡くしたばかりの少女フリダの“ひと夏”の体験を描く。

のっけから身も蓋もないことを言うけどゆるしてね(汗)。そもそも、この映画を文章で紹介すること自体、一番やっちゃいけない行為だと強く思うわけ(笑)。映画の中で目撃したたくさんの瑞々しい出来事が、言葉に落とした端から、凡庸な幼少期スケッチの集積にしかならないのがミエミエなの(汗)。たとえ多くの人に見てもらいたいと願っても、本作に関しては、他者の解説や見解がもてなしの役目になるどころか、かえって足を引っ張る恐れさえある…。つまり鑑賞者一人一人と作品との、一対一の化学反応だけで純粋に成立する映画なんだよね。遅ればせながら、映画と観客の最も幸福な在り方を思い起こした気がする…。そのうえでなお、書き記しておきたい衝動にも駆られるから困ったものよ(笑)。わたしのゴタクをお聞かせする前に、まずは物語を軽く紹介しておこう―。

だ~るまさんがこ~ろんだ~♪と、ひとしきり遊んで帰宅したフリダが目にするのは、親類たちが引越しの荷造りに追われる光景だった。フリダはお気に入りの人形を抱きながら、大人たちの動向を見守るしか術はないが、あれよあれよという間に、両親との想い出から引き離され、生まれ育った町と人間関係に別れを告げることになるのだ。さよなら、バルセロナ!

そして目が覚めれば、あたり一面が緑に覆われたカタルーニャ地方の一軒家だ。田舎で暮らすママの弟エステバおじさんの元へ引き取られ、奥さんのマルダと、幼い従姉妹アンとの4人の生活が新しく始まる。はい、 「両親を亡くして親戚のウチの子になる」設定ですね(汗)。だから、ツイ我々も身構えてしまいそうだが、映画はフリダを観客の半歩前に立たせ、彼女を物おじしない好奇心と冷静な観察力で動き回らせるため、大人仕立ての余計な推察を挟む余地はない。我々は、シンプルに目の前のフリダの体験を目撃し、共に一喜一憂するだけ。

苦手な牛乳と格闘する朝食でのしぐさ、生まれたての卵を用心深く運ぶ後ろ姿、肉屋でハムをつまみ食いし、雷で電気が消える暮らしに驚き、森の中に祀られたマリア像の前で願いを伝えるフリダ…。この一匹狼少女は、顔に似合わぬダミ声(!)と鋭い眼差しで新天地探検に乗り出すが、日常のすべてが挑戦の連続だ。それをカタルーニャの自然と、おじさん一家の包容力が背後からしかと支える。

一人っ子同士のフリダとアンの距離が縮まり、姉妹と化すプロセスも実に楽しい♫ 嫉妬、羨望、競争心が露わになっても、同じ目線で世界を臨む“今この瞬間の遊び相手”は、かけがえのない宝物なのだ。夜中につるんで家の中をブラついたり、大人たちの目をかすめて笑いを共有したり…2人にしか通じない波動で、子ども帝国が築かれて行く―。

一方でフリダは、独り占めできる愛情のシャワーを絶たれたこと、二度と両親に会えない事実は、ウッスラわかっている。ただ、「死」をどう整理したらいいかの判断がつかず、宙ぶらりんな気持ちを内に抱えながら、周囲に向けて反発するかと思えば急に無防備に甘えたり、ときには孤独の牙城で妄想に耽ったりを繰り返す。映画は、そんな言葉にできないモヤモヤや、落ち着かない気分をすくい上げ、あえて野ざらしのままで進行。そっけない演出ゆえの破壊力には、想像以上の手応えがあった。

幼いフリダの葛藤は、「死」と対峙するときの我々の足取りと何ら変わらない。いやむしろ、子どもならではの理屈や、何としてでも首尾一貫したいと必死になる彼女の本能に、逆に多くの気づきを与えられる。死を自問自答しながら、毎日を生きるという離れ業…。喪の儀式は、遺された者の生が問われる時間なのだ。

また、少女ひとりに求心力を持たせて、場をかっさらうような映画にしなかったのも本作の非凡な点だろう。親代わりとなるエステバとマルダが、迷いながらも逃げずに本気でフリダの喪失をバックアップするスケッチをはじめ、少女を取り囲む人間模様がとても充実している。亡き両親の痕跡も含め、スクリーンには絶えず様々な人物が出入りし、幼い身ながら彼女がすでに世の中の一員として生きている側面を立ち上げる。そう、世の中から照射されることで、フリダの姿はさらに重層化され、我々は彼女の未来をも思い描きながら、映画の時間に浸ることができるのだ―。

本作は監督の幼少期の体験をもとに制作。映画の中では明かされないが、両親の死因はエイズだった。フランコ政権崩壊後の90年代初頭のスペインでは、独裁政治から解放された喜びでドラッグが蔓延し、2万人以上もの人がエイズで亡くなったという。おおっぴらにしにくい問題と同時に、フリダ自身にも感染の恐れがあり、映画の中では「血」のつながりに光明を見出すこともあれば、「血」にまつわる影のエピソードも織り込んで見せて行った。さらに言えば、そうした複雑で特殊な事情も含めて描きながら、なんの予備知識も持たないスペインの少女の“ひと夏”の体験が、我々の記憶を同機させ、改めて生の一回性をも痛感させるのだ。

ラストがまた素晴らしい!“バッタもん家族”をやってるうちにたどり着いた、無防備な一瞬がたまらなく美しい…。ここに記すのを躊躇するほど意表を突かれ、かつ、これ以上フリダの胸の内を物語るにふさわしい表現はない“究極のリアクション”で閉幕する。涙による幸福の寸止めと、背後に流れる不協和音めいた音楽まで…悔しいほどカンペキ★

『悲しみに、こんにちは』

2017年/100分/スペイン

監督/脚本  カルラ・シモン
撮影    サンディアゴ・ラカ
音楽    エルネスト・ピポ
製作    バレリー・デルピエール

キャスト  ライラ・アルティガス パウラ・ロブレス ブルーナ・クッシ

『かぞくへ』

なにコレ? ズルいわ~。『かぞくへ』というタイトルに、若干身構えていたら、見せ方としては正真正銘のラブストーリーじゃない?しかも驚くべきことに、あの使い古しの“友情”が、ロマンティック・ラブ・イデオロギーに勝利しちゃうという革命的映画なのよ。はい、春本雄二郎監督作品『かぞくへ』は、日本中の男子全員が間違いなくむせび泣く1本です(爆)。

ネタバレになるが、すでに開始5分で決着は付いている。都内のワンルームで暮らす旭(アサヒ)と佳織が、仲睦まじく食事の支度をしながら、半年後に迫った結婚式の打ち合わせをするシーンでのこと。両家の人数合わせに関して、旭はじぶん側の招待客は1人だと事もなげに答える…「洋人(ヒロト)がいればいいし」と―。どうやら旭は、身寄りのない施設育ちの生い立ちだとわかるのだが、そんな境遇を差っ引いたとしても、この一言は胸騒ぎを誘う。

「洋人がいればいい」って、どういう意味なんだ?マブダチには違いないだろうが、やけに確信に満ちたオンリーワン宣言で聞き逃せない。洋人っていったい何者? その後「洋人は結婚してるから嫁さんと2人だ!」と、思い出したように付け足すあたりがさらに不可解。世界は旭と洋人の2人だけで回っているのか…(汗)。開始5分で花嫁候補は蚊帳の外。佳織、だいじょうぶ?それにしてもすごいセリフだ―「洋人がいればいい」。

…というわけで、我々はマンマと“洋人よ、早く出てこい!”状態に焚きつけられている。そこで満を持しての逢瀬である。2人が待ち合わせをするのは、長距離バスが行き交うターミナルだ。あたりを見渡す旭の背後から→フイに待ち人の声が響き渡り→目の前にリュックが投げつけられ→タメをきかせてようよう洋人がお出ましになる。さらに映画は、2人をシャドーボクシングでジャレさせ、言葉より前に魂の交換をしているようなアクションで鮮やかにつなぐのである。おいおい、ここは放課後の校庭か!期待以上の再会シークエンスに思わず苦笑い…わたしが照れてどうする?(笑)

2人は、五島列島の同じ施設で育った幼なじみ。旭はプロのボクサーを夢見て上京し、ジムでトレーナーをしながら生計を立て、島に残った洋人は漁師になって今では所帯を持つ身だ。共に31歳。久しぶりに顔を合わせて島の言葉でくつろいだ会話が始まれば、2人の波動は自然に共鳴しあい、都会の雑踏は静かに書割りと化す。一見すると、いつの時代の話でしたっけ?とチャチャを入れたくなりそうな純朴青春パッケージだが、なぜか照れ臭さいのに、古臭くは見えない。
むしろ血筋のいい友情が新鮮だった。すべてを飲み込み尽くす東京では、溺れないようにと、こんな友情の再確認ドラマが無数に営まれている気さえした。

束の間の滞在中、旭は洋人に商売の口を紹介し、洋人はマリッジ・ブルーの旭に励ましのエールを贈り、2人はそれぞれの持ち場へ帰る。思いやりのジャブ合戦にノックダウン寸前。その名残惜し気な空気の繊細なことと言ったら…タマりません(汗)。

いや、主役はもう1人、しっかり者の佳織もいるのだが…。こっちは新しい家族を拵える前に、古い家族に足を引っ張られ、少々お疲れだ。祖母は痴呆が進み、旭の存在を認めない母とは平行線で、妹の将来までも背負う立場でしんどそう。何よりマズイのは、そうした事実を婚約者に打ち明けられない佳織の心の硬さにある。佳織よ、今からそんなにきっちり内と外の線引きをしてしまってこの先どうするつもり?でも、あのちっこい住処を基地にして、都会で人並みな生活を維持するには、息のあう相棒じゃないと難しい反面、逆に言えば相当顔色を窺い合ってもいるはずだ。一番大切な相手だからこその遠慮。彼女にとってのもたれ合わない線引きは、せいいっぱいの愛情表現なのかもしれない。

そこにアクシデントが降りかかる―。金の問題である。なんと洋人に紹介した商売の話が詐欺だと発覚。責任を感じた旭は落ち込み、借金を抱えた洋人の力になるべく深夜バイトを始め、佳織には式の延期を申し出る。じぶんをいっぱいいっぱいまで絞り込み、フォローしようと懸命に動き回る旭。ところがそんなひとり相撲が、友とも恋人とも微妙なすれ違いを生み始めるのだ。

家族のいない旭、家族が重荷の佳織、それぞれが理想の家族像を求めて出会い、かけがえのない絆を感じて結婚に至ろうという、ごく自然な流れだったはずなのに―。焦れば焦るほど思いやりの歯車が狂い出し、やがて書割りだった都会が前面にせり上がってくると、恋人たちはあっけないほどバラバラになる―。

若いのに苦労人の2人…。ピンチもあるのが人生だと身に染みているから、チームになろうと決意したのでは?今がまさに支え合いを発動するタイミングなのになぜ?…などと、ツッコミたい気持ちはやまやまだが(汗)、映画は丁寧に積み上げてきたものが、音を立てて崩れ落ちる過程に狙いを定め、予想以上の切れ味を見せる。

例えば出色なのは、登場するすべての人物の役柄とセリフがカチッとハマっているので、やたらLIVE感が渦巻いて見えるところ。中でも頻繁に映し出される携帯電話のやりとりには、対面コミュニケーション以上の悲喜こもごもが立ち上り、実に見ごたえがあった。そう、電話って見えない相手と手探りで会話している当事者の2人より、感謝もウソも詫びも怒りも、傍聴する我々観客の方が見通せてしまえる道具。映画=のぞき見のスリルに、うってつけのツールだと改めて気づかされたのだ。それと、お地味ながらジムの会長がいいのよ!生真面目で熱い旭の人柄を十二分に理解し、あえて遠巻きに伴走するその振舞い方が、ボクサーに寄り添うトレーナーのリズムになってて、印象深かったな…。

とはいえ、この映画の最大の武器は、ラスト・ランにある。その詳細を書くのはあまりにも野暮なので、バッサリ割愛させていただくが、孤独と感情の高まりを一直線に結んで幕切れへとなだれ込み、付け入るスキがない。映画は “洋人がいればいい”が、“かぞくがいればいい”にささやかにバージョンUPして終わる。慈愛に満ちた究極のラブストーリー、ぜひ劇場で堪能して―。

『かぞくへ』

2016年/117分

監督/脚本/編集 春本雄二郎
撮影     野口健司
音楽     高木 聡
照明     中西克之

キャスト 松浦慎一郎 梅田誠弘 遠藤祐美

■『デヴィッド・リンチ:アートライフ』

デヴィッド・リンチか―。ちょっと困った。実はわたし、『イレイザーヘッド』(’77)を未だに見ていない不届き者。そのうえ『ツイン・ピークス』シリーズもスルーしてて…(汗)。まあ、それ以外は公開時に劇場で一通り目にしてきたが…うーん、いい意味でフツー。フツーに可笑しかったり、フツーに頭がこんがらがったりして、それなりに愉しさも味わってはいるのだが…フツー。もちろんお気に入りもありますよ!『ブルー・ベルベット』(‘86)と『ストレイト・ストーリー』(’99)は好き。良くも悪くも、リンチワールドは、この2本で過不足なくのぞき見できると言ったら、ディープなファンの方々からはお叱りを受けるかな。というのも、リンチにはガッカリさせられた思い出があるからだ。

2012年、ラフォーレミュージアム原宿で『デヴィッド・リンチ展~暴力と静寂に棲むカオス』を見た。映像作品にとどまらず、絵画・ドローイング・写真まで網羅した鳴り物入りの大規模企画展。要は、豆腐作ってるだけじゃないんですよ~、肉も野菜も使って脳内レシピを調理してるんですよ~と、アーティスト=リンチのお披露目会になっていたのだが、これがまったくノレなくて(汗)。もったいぶってる割には、どれもこれも射程距離が短いわ、詰め切れてないわで、かえってお里が知れちゃったわけ。「世界で最も影響力のあるアーティストの1人だとぉー?これじゃあ、美大生の卒展レベルだろ?」と、ひとりボヤきながら帰路についたのでありました、はい。

それ以降、リンチのことはすっかり忘却。現に10年以上、映画制作から遠ざかっていたらしいから、思い出す機会もなかったのだ。そんな中、唐突に舞い込んで来たのが、リンチに密着取材したドキュメンタリー映画『デヴィッド・リンチ:アートライフ』(’16)だ。リンチご本人がナビゲーターになり、物心ついてからデビュー作『イレイザーヘッド』を完成させるまでの道のりが、時系列に沿って語りつくされる仕立て。要は、ジョン・グエンという人に監督を任せ、ご自身は被写体モード全開(!)で御登場だと…。なるほど、その手がまだあったか!

デヴィッド・リンチは1946年1月20日生まれの72歳。そりゃあ人並みに、我が人生を振り返りたいと思うのも無理はない。リンチ曰く「新しいアイデアに過去が色づけする」―。そうでしょう、そうでしょう。リンチみたいな特異なポジションを確立してきた人が、穏やかな口調で過去と未来を紐づけた自己肯定感を口にすると、それだけでよい空気が流れ出るもの。でもって、語られる幼少期の想い出が、リンチ作品にもたびたび登場する1950年代の米国の明朗快活なイメージそのもので、さらに興味を引く。カウボーイハットがトレードマークの父と美しい母。おしどり夫婦による愛情あふれる家庭生活の下、3人兄弟の長男として一点の曇りもなく健全に育つリンチ少年。ところが一転、自宅から数ブロックの小さな世界がすべてだった彼が、転居&進学を繰り返すたび、やがて心の内を制御できなくなり、夢と現実の境界線が崩れ、恐怖を抱えながら生きるようになったという。人生の振り返りといいながら、創作の原点や自作の解説とも受け取れるお話が、様々な素材をコラージュして綴られて行くのである。リンチの口からこぼれだす歪なエピソードの数々は、ダークな深層心理を解き明かすためのくすぐりにピッタリなのだが、わたしは正直言って勝手に割愛(笑)。それより、口癖のように「あの頃はサイテーだった…」とネガワードを連発するところが、ひどく可笑しくて。いや、きっと感受性豊かな青春時代に、世界に触れて、戸惑い&苦悩した記憶は、脳裏に焼き付き離れないのだろうが、何もそこまでネガなじぶんに依存しなくても…ねえ(笑)。何より70年生きてても、青春の彷徨を当時の気分のまま語っている様子に虚を突かれた。1ミリもてらいがない。そっか、リンチは制御不能に陥っていたじぶんが嫌じゃなかったんだなあ…、いつもどこに戻ったらいいかをウッスラ覚えていて、帰れる場所があったんだなあ…とわかり、初めて腑に落ちたのだ。まっとうなご両親から注がれた愛情深き日々という礎があるからこその、ダークサイドへの憧れ―。どちらもリンチにとっては大切な拠り所なのだろう。そうそう、アトリエの片隅にヒエロニムス・ボスの『快楽の園』のポストカードが貼られているのを、わたしは見逃さなかったわよ!これまたいかにもなチョイス。でも美しく、謎めき、寓意に満ちた500年以上前の傑作に、心から憧れている様子が、実に微笑ましかったです。とことんピュアな人なのでしょうね。

映画は、リンチの現在の創作風景も捉えながら進行する。何せタイトルが『アートライフ』だからね。でもごめんなさい、手掛けているものより驚嘆したのは傍らで遊んでいる幼子だ。何と彼のひ孫ではなく実の娘だと!3度の離婚と4度の結婚って…(汗)ピュアな男は死ぬまで現役モテ期なのね(笑)。ロマンチックLOVEを未だに夢見る男、これぞ真のアートライフ。デヴィッド・リンチは稀に見る幸福な人だった。拝みに行く価値ありです。

2016年/ 米・デンマーク/カラー/88分

監督   ジョン・グエン リック・バーンズ O・N=ホルム

主演    デヴィッド・リンチ

撮影    ジェイソン・S

音楽    ジョナサン・ベンタ

■『あさがくるまえに』

臓器移植をめぐる1日の人間ドラマ―。

仏映画『あさがくるまえに』は、新鋭の女性監督、カテル・キレベレの日本初公開作品。予備知識ゼロで遭遇したが、なかなか大胆なことを、終始なめらかな手つきで差し示してくれて、その余韻が今も後を引く。コートジボワール出身37歳。自ら切望してベストセラー小説を映画化できるなんて!…早くもその才能は、高く評価されているようだ。

映画は、立場の異なる3つの人間模様をシャッフルさせながら、早朝から翌朝までの1日のできごとを描く。1つは交通事故で脳死状態になった青年シモンにまつわる物語。喪失の痛みとドナー問題に揺れながら、ル・アーブルを舞台に進んで行く。2つめは、移植コーディネーターのトマを中心に、シモンを担当する医療スタッフたちのスケッチ。そして3つめは、移植を必要とする側に焦点を当て、パリに住み、2人の息子の母であり、重い心臓病に苦しむ音楽家クレアの周辺が綴られる。

シリアスなテーマ、かつ1日限定。…なのに群像劇で押してくるとは見上げたものである。そのうえ3つの人間模様には、時間を過去にもさかのぼり、登場人物一人一人の生の痕跡を刻むエピソードが散りばめられていて、情報量はハンパなく多い。でもこれが、けっこう重要ポイントになっている。わたしの偏見かもしれないが、ちょっとレベルの高い映像表現を志している作品は、登場人物の背景や内面描写を極力割愛し、シーンとシーンのつなぎに冒険の限りを尽くし、観客の想像力に勝負を挑むものだが、そうした作り手の跳躍がかえってアダになるケースも多い。一方ここでは、臓器移植という取り扱いに慎重さを要するテーマが横たわっているため、まずは実験精神より観客からの信頼獲得が肝心だ。そのうえで、何を起爆剤にして観客を映画の時間に止まらせるかが腕の見せ所となる。倫理観と親密さへの配慮は不可欠だが、扱い方には新味がないと、スクリーン内生命鮮度が急速に下がるのは避けられない。では、定石通り「喪失」から「再生」までをFIXしたうえで、予定調和を差っ引き、映像で語る必然性を、本作は何処に宿したか―。

まず、目を惹くのが移動撮影である。冒頭、友人たちと早朝の海へ繰り出し、サーフィンを楽しむ生前のシモンの姿が、乗り物つなぎで捉えられる。自転車→車→サーフボードという流れは、一瞬たりとも止まることのない10代の躍動感を増幅させると同時に、この後の悲劇との対比を際立たせるための残酷な仕掛けにもなっている。しかし、幕開けから数分で、横たわったまま動かなくなる17歳が、この先も映画を通してずっと“動き続ける”からさらに驚く。恋人との想い出の中では、心臓破りの坂を鮮やかに駆け抜け、泣き濡れる両親の背後には、絶えず気配となって立ち現れるのだ。もし、帰らぬ人となったシモンを括弧で閉じたり、奇跡に転じていたら、映画自体が死んでしまっただろう。そうならないギリギリのところで、生命を浮遊させ続け、我々の想像力をつなぎとめているのである。

反対に、臓器を受ける側からは、忍び寄る死の影を通して、ゆっくりと生命の輪郭が浮かび上がる。脳死状態の青年の心臓はイキイキと動き続け、生きているはずの彼女の心臓は停止寸前という皮肉な構図…。そしてクレアが、他人の生命を引き換えにしてまで生きる意味があるのかと自問自答するとき、我々も共に思いをめぐらす―延命がすべてなのか、何をもってじぶんの生死を定義づけるのかと―。生命至上主義に対する一歩引いた視線と、合理性だけでは処理できない人間の複雑さが、映画のリアリティを高めていた。

さらにここに、日々仕事として生命を扱う医療現場のスタッフたちの振る舞いが加算されて行く。しかも、彼らを社会的役割の範疇に留め置かず、多様な日常の一コマを頻繁に差し挟み、映画のトーンをちょっと乱すほどだったりする。大袈裟に言えば、「そのシーン、要るか?」の連続なのだ。でも、この広がりが生命の意味を異なる角度から照射し、我々を映画の時間に滞在させる要因にもなっている。コーディネーターの通勤風景や、看護士の喫煙タイムは、テーマを際立たせるための余話ではない。生死を分けるアクションだけに時間が流れ、情緒の起伏があるわけではなく、私の目には、誰もが期間限定で借り受けた肉体を使用し、与えられた生を全うしようとしている光景に映ったのだ。

臓器移植の猶予は24時間。2つの家族によって決断が下され、最後はル・アーブルとパリを、「臓器」だけが移動する。その一部始終は、まったく別の記録映画が始まったのでは?と見間違えるくらいのリアル映像に転じ、予想を見事に裏切る。もちろん、「喪失」から「再生」へは定石通りに着地するのだが、桃色の心臓が放つ強烈なオーラを目撃した瞬間、わたしは鳥肌が立った。まるで今にもオギャーと声を上げそうな、生まれたての赤ん坊のように見えるではないか!人々がめぐらす思いや祈りは吹っ飛び、臓器そのものが湛えるエネルギーに圧倒され、頭の芯がいつまでもクラクラした。監督は危険を顧みず、映像に潜む暴力性を最大限に利用してみせているのだ。

本作では、臓器移植をめぐって様々な言動や情感が行き交うが、どのエピソードも根底に流れているのは他者への想像力。これによって、生死がじぶんの身に起こる一回性のできごとに集約し切れない感触を残したのも印象深い。
カテル・キレベレ、次作が楽しみな映像作家の一人となった。

『あさがくるまえに』

2016年/仏・ベルギー/カラー/104分

監督/脚本 カテル・キレベレ
撮影   トム・アラリ
音楽   アレクサンドル・デプラ
編集   トマ・マルシャン

キャスト タハール・ラヒム アンヌ・ドルバル
     エマニュエル・セニエ ドミニック・ブラン

■『ロスト・イン・パリ』

わーい、わーい、心底うれしい!夫婦道化師、ドミニク・アベルとフィオナ・ゴードンの新作を紹介できる日がついにやって来た!何かと一言多いこのわたしが、もろ手を挙げて「ブラボー!」と喝采を贈る数少ない作り手、それがアベル&ゴードンだ。

本当は余計なことなど、グダグダ書きたくないんだよなあ…。何せ2人はパントマイムを芸道の神髄にしているから、言葉で説明するほどに野暮になってしまう。見事な身体フル稼働おしゃべりを、黙って眺めているだけで、じわじわと彼らの波動に感染し、「これ以上、なにか要りましたっけ?」なーんていう境地に至るわけだ。でも、監督・脚本・主演もこなす名コンビとはいえ、もともと舞台出身の道化師だから、強力な前フリがないと、多くの人にとっては「誰それ?」「何それ?」で終わってしまいかねない。幸運なことに、わたしは2010年に公開された『アイスバーグ』(‘05)と『ルンバ!』(‘08)を、立て続けに目撃してノックダウンしちゃった口なんで(どちらも傑作!)、ここはあえてデバって、鑑賞の動機づけにしてもらおうと筆を取った次第です、はい。

新作『ロスト・イン・パリ』のあらすじはこうだ―。雪深いカナダの田舎町で暮らす図書館司書のフィオナ(フィオナ・ゴードン)の元に、パリで自由な独居老人生活を謳歌しているはずのマーサおばさんから、助けを求める手紙が届く。心配になったフィオナは、“はじめてのおつかい”さながらに、憧れの地パリへ旅立つが、アパートを訪ねてもマーサの姿はないわ、セーヌ川に落ちて所持品を丸ごと失くすわ、怪しげなホームレスの男ドム(ドミニク・アベル)にまとわりつかれるわで、踏んだり蹴ったり。果たして、フィオナとマーサとドムの3人の関係をグルグル巡る人生すごろくが、“あがり”に着地する日はくるのか―。どう?なんとなくお気楽な喜劇を想像したのでは?そうそう、のんきに構えて頂いて大いにけっこう。ひとたび幕が上がれば、そんなに単純な映画じゃないってことが一瞬でわかるから。むしろギャップを味わえて、ちょうどいい塩梅よ。さてここから先は注目ポイントをご紹介。

まずは身体性。セリフを抑え、パントマイムを語りにして物語を紡ぐ彼らの作法は、これぞまさに身体を張った純度100%のアクション映画である。例えば、フツーに歩く、フツーに走る、そしてフツーに立つ姿までも、けしてフツーじゃない。いや、この説明じゃわかんないか(汗)。つまり、無意識で行う動作のすべてに、想像力をかきたてる芽がぎっしり生えているので、一つの動作を機転にして何が巻き起こるか、予測不可能な愉しみがあるのだ。物語に奉仕するアクションではなく、アクションによって物語が自然発生し続ける…そんなニュアンス。しかも、フツーの動きから逸脱しているのに、意図的に映らないから驚く。2人の足は、シャガールの絵のようにファンタジーの絨毯に乗って浮世を離れることはなく、軽やかではあるが、絶えず我々の足元と同じ大地をステップしている。彼らの作品に流れる親密さの源泉は、こんなところにある気がした。

次に色彩設計。赤、黄、青の3原色を惜し気もなく使い切る彼らの作法は、パントマイム同様、色を語りに用い、物語の展開に花を咲かせる。雪の「白」から始まり、カナダ国旗の「赤」が小物となって飛び跳ね、ウブな心を持つフィオナには「緑」、ヒロインを照らすドムには光の「黄」をまとわせて、2人を引き合わせたマーサが「青」いマフラーで聖母の象徴となる―。色彩とアクションの掛け合わせで、映画のマジックがさらに際立つ設計。そのうえ、これだけ色彩を前面に押し出しながらも大袈裟な印象は皆無で、ノンシャランな香りが損なわれないのも、特筆すべき点だろう。

最後は世界の捉え方である。映画は、おばさんを救出しに行ったヒロインが脱線を繰返し、「ミイラ取りがミイラになる」スケッチをしつこく盛り込む。ステップは軽妙、絵はカラフル、情感は控えめ…なのに、行く先々で遭遇するハプニングは、かなり酷くてギョッとする。緩急交えながらのノンストップ波乱中継。そう、ギャグと匂わせる一方で、リアルな世界の不条理さもつかまえて逃さないから、やけに骨身に染みるのだ。火葬場に閉じ込められるコント、コインランドリー野宿にゴミ箱あさり、そして自由すぎるおばさんの下半身事情までぶちまけて、我々を煙に巻いてくれちゃう♫えぐいエピソードの数々が、ここでもアクションの浄化作用で、愛らしく様変わりするからタマらない。

やがて3者3様に世界を彷徨い、多様なメロディーに乗って身体一つでたどり着いた先には、エッフェル塔と自由の女神がしっとりと浮び上がる。原題は裸足のパリ。自由を我がものにした“あがり”の絵に、もっともふさわしい地、パリのきらめきの中で、無常観まで漂わせて映画は幕。散骨に降る雨までも自由で心憎いアベル&ゴードンの世界…無論、締め括りの一言は「ブラボー!」でキマリだ。

『ロスト・イン・パリ』
2016年/ 仏・ベルギー/カラー/83分
監督・脚本・製作・主演  ドミニク・アベル フィオナ・ゴードン
撮影      クレール・シルデリク ジャン=クリストフ・ルフォレスティエ
美術      ニコラ・ジロー
キャスト   エマニュエル・リバ ピエール・リシャール フィリップ・マルツ

■『ありがとう、トニ・エルドマン』

『ありがとう、トニ・エルドマン』は、見ようか止めようか迷った作品。割と早くからチラシは目にしていたが、タイトルがビミョーだわ、毛むくじゃらの妖怪イラストの意味がわかんないわ、キャッチもつかみどころがないわで、判断に困っていた。

監督でも役者でも観客を呼び込めない…それもドイツ映画(汗)。配給会社も悩んだのか、世界各国の映画賞を総なめにした戦歴を、チラシ面積の半分に書き並べ、ありがたみデコレーションで間をもたせている。違う、違う!この華やかな戦歴が、むしろドン引きさせる要因なんだから~。一体この映画は何モノなんだ?と敷居が高くなる一方だろう~。

そのうえ予告がいただけない(汗)。噛み合わない父と娘の“やさしさごっこ”が前面に押し出され、いかにもハートフルな人情喜劇にパッケージ。「…で?それがどうした?」と、思わず突っ込んでやりたくなったのは、私だけではないはずよ。ただ1点、2時間半以上(162分)もある、クソ(失礼!)長い映画だという点がやけに引っ掛かり、【女の監督】が【長編で勝負】して、【世界中を熱狂】させたという、それまでほとんど聞いたことがない事例を目撃しようと、重い腰を上げたのである―やれやれ。

「へーっ、そうきたか!」映画は冒頭から、予告のトーンとはまるで異なり、音なし、オチなし、笑いなし(爆)。ケッタイな行動をとるオヤジの出現に、「このリズムで2時間半、最後まで耐えられるか…」と気を揉むほど奇怪だ。最初に暴露しておくと、これは噛み合わない父娘の物語というよりは、それ以前に、映画の振る舞いと我々観客の呼吸が終始噛み合わない2時間半なのだ。「まどろっこしいのダメ。わたしのリズムに合わせてくれなきゃイヤ~!」…と、性急に決着を付けたい方は、どうぞスルーしてお昼寝でもしてください。問題ないです(笑)。でも、「親子ってめんどくさいなあ…、できればまともに向き合わず、ずっと保留にしていたいなあ…」と、厄介ごとを引き伸ばしにする性分の方には、強力にお薦めしたい。笑えない、突飛すぎる…とぼんやり眺めるうち、いつしか “いずこも同じ秋の夕暮れ”心境にたどり着き、やんわり慰められるというファニーな映画なんですよ!

ヒロイン・イネスの両親は、離婚してすでに長い月日が経ち、父は音楽の先生をしながら、老いた母親と犬一匹と暮らす毎日。ところがこのオヤジ、道化の役回りをしないことには、他者とまともに会話ができない変わり者。誰に頼まれるでもなく、自ら進んで世の中をユーモアと温かみで満たすべく孤軍奮闘している様子だが、その横顔はまるでゴルゴタの丘を登るイエスのように痛ましい。一方、里帰りした娘イネスは、大手コンサル会社で働く30代後半の独身社畜。顧客の信頼を勝ち取るため、こちらもある意味父同様に、自ら進んで孤軍奮闘しているが、思うようなキャリアパスを描けず、内心焦っているのはミエミエ。

そんな親子が、久しぶりに一緒の時間を過ごすことになる。イネスの誕生日を祝おうと、父が赴任先のブカレスクへひょっこり訪ねて来たからだ。怖いよね~、父親が連絡もなしに職場のロビーでウロウロしていたら(汗)。だってサラリーマンって、職場で疑似家族めいた関係を演じているでしょ。そこに本当の家族が舞い込んだら、どっちの顔つきで舞台に上がったらいいのかドキマギしないか?多国籍企業相手に澄まし顔でバリキャリやってるイネスが、思わず素無視してしまうのも無理はない。しかもコイツは、空気「読めない」というより、「読まない」爆弾オヤジ。一ヵ月も休みとって来られたら、マジに困惑するよな…。愛犬に死なれて落ち込んでる父を邪険には扱えないが、スケジュールはパツパツ。そこでイネスは無謀にも、自分のアポに父を同行させてお茶を濁そうと画策する―。

父親同伴の接待って…マジですか?我々の心拍数はイッキに上昇、気が気でない。そもそもこの映画、面白おかしく軽妙に進めるのを定石とするスケッチで、あえて句読点をつけたりなんかして、どうでもいい箇所をイチイチ間延びさせて語り、常にムズ痒い。変化球の連投が、ギャグにもシリアスにも受け取れてしまえる仕立てなのよ。つまり、それでなくても照れ臭い親子の関係が、さらにバツの悪い絵にデフォルメされ、悲劇と喜劇が紙一重状態に映し出される。まさかブカレスクのショッピングモールを眺めながら、小津安二郎の『東京物語』(’53)を思い浮かべるなんて、予想だにしなかったわ、ふーっ。

結局、大切な商談に失敗したイネスは、ブチ切れて父を追い返してしまう。親子の遠慮と甘えが極端な形で露呈するこのくだりは、前半戦のハイライトといえるだろう。では、再会→接近→戸惑い→怒り→決別までまとめ切り、このあと映画は何をお披露目するのかというと…はい、後半戦では帰国したはずの父がトニ・エルドマンと名乗り、ご丁寧に変装までして、娘の行く先々に出没するというトンデモ話へ展開。そしてここからのしつこさが本作のキモだ!

四六時中社内評価に過敏なイネス、汚れ役も厭わずに顧客の下僕と化すイネス、SEXも飲み会もパワーゲームに見立てて処理するイネス、ビジネス以外の文脈に対応できずツイ熱唱してしまうイネス…。現代を闊歩する娘の様々な側面が、滑稽ななりをしたトニ・エルドマンの出現によって、お約束の虚無と享楽の構図で炙り出されるというダンドリ。しかし従来の映画と大きく異なり、ここには特効薬も出てこなけりゃ、内なる声も描かれない。そうイネスは、常にドタバタして疲れてはいるが、タスク管理をしているだけで考えて生きていないから、疑問は持たないし、じぶん以外の世界を想像すらしていない。父に指摘された通り「おまえは人間か?」状態なのだ。そして、ヒロインを宙ぶらりんなまましつこく走らせ続け、お手軽に覚醒させないところが、この映画の良心にもなっているのだ。

やがて、愚直なマシンの彼女が、あの手この手を使って揺さぶられながら、ようよう少しだけじぶんの中の他者性に気づき始める。メンバー・フォローのために開いたホームパーティーで、“あれ?もしかして、わたしのガンバリってスンゲーくだらない?…”と、突如タガが外れ出すのだ。それも、タイトでゴージャスなワンピースのファスナーが閉まらなくて七転八倒するその瞬間にだ!女の監督でなければ絶対に描けないリアリティの横溢。女芸人たちも嫉妬しそうなほど突き抜けたこの全裸もてなしシーンは、切なく意表をつき、我が映画史にしかと刻印されましたよ~。美人が身に染みない女優サンドラ・フラー★、御見それいたしました(ぺこり)。

 父と娘は似たもの同士、親子揃って含羞の人だった。めんどくさい作業を経ないことには、「ありがとう」の一言さえ、まともに伝えられない距離感なんだよね。よって、裸と毛むくじゃらだからこそできたハグ。なーんだ、ドイツ人も親子を語ることがこっぱずかしかったりするんだあ…、そして世界中の人たちも照れくささに共鳴したんだあ…ちょっと意外だったわ(笑)。それでも、父を亡くしてすでに9年経つわたしが、もうじぶんには「守ってくれる父」はいないんだという事実を、今さらながら思い起こした映画でもあった。自転車の乗り方も、跳び箱も、逆上がりも、何度も父にダメ出しされ(汗)、しつこく伴走してもらい、できるようになったっけ…。そんな記憶がフト蘇ったのも、162分という長丁場だったからだ―。宝物を紐解くには時間がかかる…贅沢な体感だったと思わずにいられない。

この映画こそ、仕事サボって行くべき1本(爆)、ぜひ★
 

『ありがとう、トニ・エルドマン』
2016年/ ドイツ=オーストリア/カラー/162分
監督・脚本   マーレン・アデ
撮影      パトリック・オルト
編集      ハイケ・パープリース
キャスト    ペーター・ジモニシェック サンドラ・フラー