▪️『ケナは韓国が嫌いで』

2015年に刊行され、韓国でベストセラーになった小説の映画化「ケナは韓国が嫌いで」(24)は、28歳のヒロイン・ケナが、家族と恋人のジミョンに見送られ、大きなスーツケースを引っ提げ、飛行場から旅立つシーンで幕を開ける。本人は、家族、恋人、そして韓国に、キッパリおさらばして海外へ渡るつもりらしいが、見送りの一行は金魚のフンのように付き添い、未練タラタラ。当のケナだって、いかにも旅慣れていない様子で何とも心許ない。そんな彼女が、なぜ祖国から抜け出す決意をしたのか―。映画は、ケナのモノローグを基調音に、過去と現在、韓国と留学先のニュージーランドを往復しながら、彼女の決意の中味を探る。

ソウル郊外で両親と妹と暮らすケナは、まだ夜が明けきらないうちからバスと電車を乗り継ぎ、片道2時間かけて金融会社に通勤している。大学は出たものの、不正や忖度がはびこる仕事環境には何の興味も持てず、心身共に疲弊させられるだけの毎日。そもそも競争力のない自分には、韓国社会の荒波の中で生き抜ける気がしないのだ。

恋人のジミョンとは学生時代から7年も付き合ってきた仲。穏やかで誠実そうな人柄だが、「就職したら自分が支える」と慰められると、上から目線のズレた同情心にケナの憤りは収まらない。結婚を持ちかけられるのは素直に嬉しいが、結婚すれば自分の人生は万事快調!などと、安易にすり替えられない性分だから、ついイラついてしまうのだ。

もともと裕福な家庭で育ったジミョンとは、明らかに格差がある。ケナは、隙間風が寒くてコートも脱げないような古ぼけた団地に暮らしながら、予定されている新居購入資金に、自分の稼ぎがあてにされているような境遇だ。さかのぼれば大学進学時も、本当は名門校を目指して頑張りたかったのに、家には塾に通える余裕はなく断念した。そう、彼女が「競争力がない」とボヤくのは、本人の努力の問題ではなく、生い立ちで将来が決まってしまう自国の社会構造に理不尽さを感じるからだ。ケナは自分の人生を自分で描いて生きて行きたいだけなのだが、この国にいる限り、現在も未来も息苦しさしか想像できない。

じゃあ、海を渡ればすべてHAPPYになるのか―。もちろんそんな単純な話ではない。オークランドに到着はしたが、永住権を得るためのハードルは想像以上に高い。まずは語学、そして資格取得に学費稼ぎのアルバイトもマストだ。それでもヨチヨチ歩きからベテラン留学生へ、ケナの顔つきや身のこなしが少しずつ変わり始める。年下ボーイたちにモテたり、ワイルドな女ともだちと出会ったり、政治問題をディスカッションできるほど英語も上達した。留学同期の同胞ジェインとは、男女の垣根を超え、何でも打ち明けられる親友になった。そして何よりニュージーランドは暖かい!凍てつく母国でのうつむきがちな生活とは正反対。ケナは寒い韓国が心底嫌いだったのだ。

その一方で、ケナを送り出した韓国側の人々を捉えるスケッチがさりげなく豊かで、本作を一層侮れないものにしている。結婚をせっつく母には母なりの人生哲学があるとわかるし、家長ヅラできない父は「ウチの子は美人だ!好きに生きろ」と、ケナのすべてを受け止めてくれる存在だ。ヤンチャだった妹が、バンドマンの恋人ができたら、姉とまともに話せるようになるエピソードもエエ逸話。

つまりケナは、家族を呪って新天地へ向かったわけじゃない。家族仲が良くても、恋人が優しくても、大手企業に就職できても、そこで得られる日常に、生の歓びが見出せないから去るしかなかったのだ。自分の中に棚上げにできない不満分子を見つけてしまった以上、博打を打つのが我らがヒロイン。他責にせず、進む先を自ら決め、自らを変えるために留学を決意したってわけだ。

そして本作は、自己実現に目覚めたヒロインの冒険譚だけに終わらせなかった。ケナ以上に、苦しんでいる大学時代の友人ギョンユンを登場させた。公務員試験に落ち続け、崖っぷちに立たされているこの青年とケナはコインの裏表。貧困から抜け出し、自分の人生を生きたいと願う点においては同士だが、国を離れて博打を打ったケナとは反対に、ギョンユンは自国の構造にとどまり一発逆転を夢みている。ところが、ある日ふたりに悲痛極まりない別れが訪れる―。

ドン詰まりな状況下でも、いつもおどけてみせてたギョンユンが、道化の仮面を脱ぎ、自ら死を選択してしまったのだ。留学後の初めての帰国が、まさか葬儀になるとは…。深夜のハンバーガーショップでケナはギョンユンの夢を見る。ハンバーガーを食べながら、いつものようにざっくばらんに心境を吐露しあう2人の姿が、店内の鏡に幾重にも反射する。「不安な人ばかり見ているから旅に出るよ」と話すギョンユンの横顔に、もう悲壮感はない。突如現れたこの幻影に、ケナ同様、我々もまた奇妙な安らぎを覚えるのだった。

国へ帰り、家族とも元恋人とも、久しぶりに顔を合わせたケナは、一旦、振り出しに戻った形。そのうえで今一度我が身を振り返り、寒さよ、さらば!と、出国を決意する。そこには、大きなスーツケースでアタフタしていたかつての姿とは異なり、すっかり旅慣れたバックパッカーのケナが屹立していた。どこへ向かおうが、幸福が約束されているわけではない。ただ、今の彼女に自分探しはもう不要。30歳を目前に、再び機上の人となる幕切れが、実に爽快だった。

監督は、韓国出身で1977年生まれのチャン・ゴンジェ。本作は、リアルな社会問題と真正面から向き合い、しかもかなり入り組んだ構成で仕上げられているのに、まったく気負いがない。編集のリズムは絶えずなめらかで心地良く、夢と現実の境界線が不意に消える瞬間でさえ、やけに落ち着いてながめていられるほどだ。映画の虚構性が、こんなに慎ましい姿で表出する作り手が存在するとは…。アクがないのにいつまでも記憶に残る不思議な魅力の作家。レトロスペクティブ企画で過去の4作品すべてを鑑賞し、その実力に確信を持った。次作が今から待ち遠しい。

2024年/107分/韓国

監督・脚本/ チャン・ゴンジェ

原作/ チャン・ガンミョン

撮影/ ナ・ヒソク

出演 コ・アソン チュ・ジョンヒョク キム・ウギョム