冬から春へ―。ちょうど年度末のセレモニーが重なる頃にざわつき始めた感染症の猛威も、気づけばすでに半年以上が経過している。未だ収束の気配が見えないせいで、コロナ時間なるものが起動し、その中をずっと堂々巡りし続けているように思いがちだが…違うよ、違う!当たり前だけど、人間都合で時間が止まるはずはない。確実に月日は過ぎ去り、季節はめぐっている―。
1995年1月17日の早朝に発生した阪神・淡路大震災から25年。いまおかしんじ監督は、神戸を舞台にした新作『れいこいるか』で、罹災した街や人の記憶を手繰り寄せ、震災後の23年間を“無常という名の物語”に描いてみせた。
制作は、日本を代表するピンク映画の老舗プロダクション国映株式会社。それにしても何でもありは国映のお家芸だが、このタイミングで、浮世をはかなみつつしかも笑える作品を世に送り届け、間延びしたコロナ時間に風穴を開けてくれるとは!長く映画に携わっている会社には、こういう臭覚が自然と働くものなのかもしれない。
物語は震災の前日から始まる。須磨海岸を眺めながらのんびり寛いでいるのは、小説家を夢見る太助と稼ぎ頭の妻の伊智子。傍らには一粒種の娘のれいこが戯れ、さながらささやかな幸福に浸る家族スケッチというヤツだ。そこに、不意に伊智子のポケベル(!)が鳴る。どうやら、不倫相手からのお誘いらしい(汗)。さすがは国映。開口一番、濡れ場でのおもてなしである。
昼間に、親子水入らずで楽しんだイルカショーの真似なんかしながらベッドインとは…やるな~伊智子♪ ママも女房も愛人も、カジュアルにこなしてサラサラさらりか。とはいえ我々は、どうにも落ち着かない心境で成り行きを見守る。もちろん不貞のシンパイではない。そう、我々観客だけが、この後の未曾有の大惨事を予知しているからだ―。
ところが映画は、固唾を飲んで見守るハシゴをあっさり外し、震災から5年後へイッキにジャンプ。まるで何事もなかったかのように、伊智子と太助が暮らす街を、再びクローズUPする。伊智子は実家の立ち飲み屋を手伝い、太助の生活圏も近所のようだが、震災でひとり娘を亡くした夫婦は、すでに離婚していた。
この間、ふたりに泣き暮れた日々があったかもしれないし、なかったかもしれない。ふたりが罪悪感で苦しんだかもしれないし、そうでなかったかもしれない…。どんな経緯があったのかは語られないまでも、この空白によって、ふたりが取り返しのつかない体験を経て今に至っていることだけは、十二分に察せられる仕立てだ。
しかも厄介なことに、この街は優しい。
立ち飲み屋を中心にした地元の人間関係と日常は、ユル暖かくのんきな調子で、ふたりの過去にツッコミを入れつつ、程よい距離から傍観してくれている。「これ、かえってしんどくないか?」とシンパイになるのは門外漢のわたしだけか…?そんな中、伊智子は再婚に踏み切る。
彼女は、新しいお相手を太助にも紹介したりして、どこまでも軽い。なんだか、過去をうっちゃるフリに興じようとの思惑にも見て取れる。それほどこの地で起きた悲劇は、あまりにも多くの犠牲者を出したため、個別の哀しみに浸る時間をずっと棚上げにさせてしまったのかもしれない。振り返るタイミングを失い、日々の流れに身を任せるという対処法が、精一杯だったのではないか―。
そんな想像をする端から、映画はさらにあっけなく時間を送る。再婚を機に、顔を合わせてもいなかったふたりが数年ぶりに偶然出くわすと、またもや伊智子のお相手が変わっている(汗)。生活自体は、顔ぶれの変わらぬ地元で落ち着きながらも、心の在り様は未だ漂泊者のままみたいだ。その一方で、取り立てて何か起こるわけでもないリズムに慣れた頃、映画はフイに揺さぶりをかけてくる。
ある日、温厚な太助が強い正義感に突き動かされ、傷害事件を起こして収監される。いやー、驚いた。仕事にも、妻の不貞にも、じぶんの未来にも、およそ前のめるというしぐさを見せず、子煩悩という札しか持たなかった男から、初めて生々しい感情が噴出する。邪魔にならない男をやり通してきた太助には、そうさせるべく重い過去があったのだ。
じゃあ、伊智子はどうなんだ。彼女も、身体の中心にある何をしても埋められない空洞を、放置したままなのではないか。だから、徐々に目の見えなくなる病に侵されつつあるのではないのか。…なんてことを、我々はツラツラ想像する。
100分尺の低予算作品であっても、「日々のちょっとした絵」に様々な映画的振る舞い(ロケーションと撮影が素晴らしい!)が盛り込まれているので、太助と伊智子のそれぞれの歩みが、想定以上に我々の内臓に沁みてくる。それは同時に、観客各々の四半世紀を自然に呼び起こす契機にもなり、映画内時間がスクリーンの外にまで拡張するのだった。
ラスト、2018年に再会したふたりのエピソードはあえてここに記さない。「夫婦だったからこそ」と、「夫婦といえども」の間で漂いながら娘の死を受け入れてゆく23年間に、オチなど不要だ。さらには、すべての登場人物の語られぬドラマも慈しみながら映画は幕を閉じる。責めたり、詫びたり、正したりするアクションがなくても、祈りは届く。ノンシャランな語りを貫くことで、むしろ厳しくも無常な生のドラマに到達している。
『れいこいるか』は、大阪出身のいまおか監督が、監督デビュー当時からずっとあたためていた企画だという。ちなみにこの奇妙なタイトルは、亡き娘への呼び掛け「れいこ、居るか?」だったり、立ち切れない思いを込めた「れいこが要るか(必要か)?」だったり、はたまた娘のれいこが抱いていたイルカのぬいぐるみとも解釈できる。
『れいこいるか』
2019年/100分/日本
監督 いまおかしんじ
脚本 佐藤稔
撮影 鈴木一博
音楽 下社敦郎
出演 武田暁 河屋秀俊