■FAKE

 森達也の 15年ぶりの新作ドキュメンタリーが公開中だ。タイトルが『FAKE』だって!やるなあ~。でも、私の中の森監督に対する“満を持して”という気分は、とうに蒸発してしまっているので、今さら嘘をつきに映画に舞い戻ってもらってもなあ…ではあった。劇場関係者に訝りながら聞いたわよ、「本当に面白いの?」と(笑)。よく知らない疑惑の作曲家より、なが~いブランクを経た森監督の方が、私には疑わしかったのだ。

 聴覚障害、現代のベートーヴェン、NHKのガッツリ後押し、ゴーストライター騒動…と、派手な見出しと共に突如出現した佐村河内守氏のことは、一連の騒動時に初めて知った。ちょうど2年前、「1日1枚お習字」という一人遊びをしていて、その日の備忘録を半紙に墨汁で描き綴っていたから、モノとしてもしっかり残っている。2月6日「疑惑の交響曲」、2月17日「ゴッチ&ガッキー」などと、一応ウケで書いたが、あの手の音楽の感性を私はまったく持ち合わせていないので(汗)、「持ち上げられたり落とされたりする類のビジュアルだよなあ」で終わっていた。でも、世間の関心だってその程度だったのではないか。同じ時期の理科研の騒動と比べたら、内輪揉めも小粒で気がラク(苦笑)。マスコミは胡散臭さを暴こうと躍起になっていたようだが、メシのタネにするための仕掛けが露骨すぎて、すぐにゲンナリしたな。何より、本当のことなんていったい誰が知りたいのだろう…と眺めていた記憶がある。

―で今回、謝罪会見以来、音沙汰なしだった佐村河内氏を、森達也がドキュメンタリー映画にして再び世間にお披露目するという。本業から離れ、ご無沙汰な2人の博打とも受け取れる異色コラボ。作品の出来より、これで世間にスルーされたら相当キツイだろうと思っていたら…何と劇場は満席。しかも場内爆笑の連続で、意表を突く展開となった!
 
 線路沿いに建つとあるマンションの一室。佐村河内氏と妻のかおるさんが、世間の目から逃れるように暮らす自宅に、監督自ら出向いて取材するスタイルが、本作の基本制作姿勢だ。カーテンが引かれた居間で、監督は早々に映画の狙いを2人に説く―「怒りは後ろから撮ります。僕が撮りたいのはあなたの哀しみです」と。いやー、笑った!森さん、冒頭から飛ばしてる。おまえは涙の再会司会者・桂小金治か!と突っ込みたいくらい、いつになく演歌モードでデバってくる。そこに神妙な顔で居合わせる佐村河内氏と、手話で伴走するかおる夫人の3人の取り合わせがあまりにてんでバラバラなため、イメージが集約できず、この先一体何が紡ぎ出されるのか、いい意味で見当がつかない。まんまとノセられましたね。

ほら、そもそも私、佐村河内氏の音楽性にも履歴にも興味がないので、本作を通じて私の目に映るもの―つまり映画として面白いかどうかだけを判断基準にしてのぞんだわけ。それに対して監督の配球はサエまくっていた。何といっても、夫婦を前に緊張させるべきところと、タイミングを外して泳がせるところの緩急の使い分けが絶妙で、終始アクロバティックな揺さぶり質問をぶっこんでくれるのだ(笑)。なるほど、監督はフェアな傍観者ではなく、自らを演出家として映画にキャスティングしているわけね。長いブランクなどまったく杞憂だったかも。「僕がタバコを吸いたくなったらどうすればいいですか?」などと、他人の家に上がり込んでどこまでも強気なオレ様振る舞いをするかと思えば、佐村河内家の食事情にフォーカスし、観客の覗き見心をグリグリくすぐる。食事の前に豆乳をガブ飲みする佐村河内氏、…この絵イッパツで疑惑のイメージを脱力させ、さらに土足で踏み込む自分(監督)との対照性で、「ゴッチ、意外とカワイイ奴かも…」と親密度を高める演出設計に抜かりがない。

また、佐村河内自身による涙声の言い訳タイムを一通りは撮り込むものの、真意はあえて問題にせず、「心中だからね」と覚悟を告げて、チームFAKEの結束を固めてみせる。実に恐ろしい!そしてここに、バラエティ番組出演依頼で来訪するフジテレビ取材陣は、まさに、“飛んで火にいる夏の虫”。マスコミ=どこまでもインチキ&低俗のパッケージが、お手本のようにスルスル出来上がっちゃって、それはそれで短絡過ぎる気はしたが、実は彼らさえ前座にすぎなかったというオチまで用意される。

真打は映画の後半に顔を出すアメリカの取材チームだ。観客ウケ用のいじられキャラを求めるわけでも、笑いが欲しいわけでもないこの外国人組は、容赦なく本質をガシガシ攻める―「どうして作り話をしたのか?」「本当に創作に関わったなら音源を見せてくれ!」と。なるほど、疑惑を晴らしたかったら証拠を出せと、ひどくまともな説得をしつこく繰り返したのだ。楽器も持っていない佐村河内氏はさすがに大ピンチ。しかし、身を強張らせ、苦渋の沈黙しか打ち手がないこの緊迫の場面で、なんとこの私が「お前ら一体何様のつもり?日本人はグレーで上等なんだよ!」と、いつしか佐村河内氏に成り代わって抵抗しているではないか!「おだてる」と「バッシング」を、交互に繰返して退屈をしのごうとする社会にはもちろん辟易するが、立証できなきゃ真実じゃないと切っ先を向ける社会も私はノー・サンキューなんだと、改めて気づかされた瞬間だった。どんなに引いて眺めていても、『FAKE』は当事者意識を炊き付けてくる。己のモノサシを試される映画なのだ。

一方、どんなに目を凝らしてもわからないこともあった。かおる夫人の心境である。なぜ彼女はこれほどの犠牲を引き受けているのか、そのモチベーションの源泉がサッパリつかめず、これまたいい意味で映画に陰影を与えていたような気がする。監督は佐村河内氏に、愛情と感謝の言葉を妻に捧げるよう誘導するが、うーん、ここは意見の分かれるところ。陰で支える妻というより、彼女には自分が生んだ子を見届ける「昭和の母」の面影がチラついたからだ。新幹線に乗って長旅に出るツーショットなんて、小学生の息子の手を引いて掛かり付けの病院へ向かう親子図そのものだったもの…。

映画は、佐村河内氏の本当のご両親や、ゴーストライター役だと名乗った新垣氏も撮影し、ある種の“ファミリー・ヒストリー”状態となってゆく。振り返れば守くんは、心優しき大人たちに守られ、それに甘え過ぎたお坊ちゃまくんだったのではないか。だから最後の最後に一発逆転!守くんは、シンセを買ってもらって、頑張ります宣言をするのだ。守くんのか弱そうなふくらはぎと、かおるさんのシンパイ顔は私に授業参観を連想させ…。そう、『FAKE』は尾木ママも腰を抜かす教育映画に着地した。おそらくこれ以上意表を突くFAKE=偽造はないだろう。

見た人全員が世間の視座を再定義する衝動に駆られ、しかも答えはみな微妙に異なるだろう映画『FAKE』。さて、あなたの見解は如何に―。今すぐ劇場へGO!

さらにもう一本! 長年にわたるドーピングにより、自転車競技から永久追放されたロードレース選手ランス・アームストロングの栄光と転落の人生を実話をもとに映画化した『疑惑のチャンピオン』(’15)と併せて見るとより面白い。役者が再現する劇映画(疑惑のチャンピオン)が本当のことのように見え、当人が出演するドキュメンタリー(FAKE)の方がむしろ虚実の境をあいまいにする―。映像とは…真相とは…人間とは…いったい何だろう?と考えずにはいられなくなる。

FAKE
2016年/日本/カラー/109分
監督   森 達也
撮影   森 達也/山崎 裕
編集   鈴尾啓太
キャスト 佐村河内守